■桜田門外の変後、幕政の中心に据わったのは【安藤信正】
彼の使命は
★朝廷との関係改善
★幕府批判勢力を押さえる
★幕府の権利回復
である
そのための作戦は
公武合体政策1つである
■朝廷(公)と幕府(武)が協調して、政局を安定させようとする
公武合体政策として
孝明天皇の妹・和宮を、将軍・家茂の妻に迎えた
和宮は有栖川宮親王との結婚が決まっていたにもかかわらず降嫁させた強引な政略結婚は、尊王攘夷論者から激しく非難され、1862年、安藤信正は江戸城坂下門外で、水戸藩を脱藩した浪士らに襲われ傷つき、まもなく失脚した
■薩摩藩が独自に動いた
1862年、薩摩藩主の父・島津久光は江戸に赴き、幕政改革を要求
幕府は薩摩藩の要求を受け入れた
★越前藩主・松平慶永を政事総裁職にする
★徳川慶喜を将軍後見職にする
★京都守護職を新設し、会津藩主・松平容保を任命する
など
■尊王攘夷運動の中心は長州藩
1862年、中下級藩士の主張する【尊王論を藩論とし】、朝廷内部の攘夷派の公家とも結んで、京都で活発に動き政局の主導権を握った
攘夷派が優位に立った朝廷は、しきりに「攘夷の決行と鎖国への復帰」を幕府に迫った
幕府は攘夷決行の意思を持たなかったが、やむなく1863年5月10日に攘夷を行うことを諸藩に通達した
↓
長州藩はその日、下関海峡を通過した外国船に砲撃を加えた
■長州藩追放
長州藩を中心とする尊王攘夷派の動きに対して、薩摩藩・会津藩は朝廷内部の公武合体派の公家と連携し
1863年8月18日
薩摩藩・会津藩兵が御所を固める中、長州藩勢力と公家三条実美らを京都から追放
朝廷内の主導権を奪い返した
■長州藩士池田屋事件に憤慨
長州藩は、京都守護職の指導で警備にあたっていた近藤勇ら新撰組によって、京都の旅館池田屋で20数名の尊王攘夷派志士が殺傷された池田屋事件に憤慨し、藩兵を京都に攻めのぼらせた。幕府側の薩摩・会津・桑名の藩兵と京都御所付近で戦い敗走した【禁門の変】
■幕府・朝廷・列国が長州を攻める
幕府は尊王攘夷派にさらに打撃を加えるため「禁門の変の罪を問う」という理由で、朝廷から長州征討の勅書を出させ、長州藩を攻撃
列国も前年の長州藩外国船砲撃事件の報復として、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国連合が下関を砲撃し、下関砲台などを占領した
長州藩は中下級藩士の尊王攘夷派にかわり、上層部が藩の実権を握り、禁門の変の責任者として、家老3人を切腹させ、幕府に恭順・謝罪の態度を示した
薩摩藩では、、イギリスが鹿児島湾に来航した。理由は「薩摩藩士がイギリス人を斬った事件」の報復のためだった。薩摩藩はイギリス艦船と交戦して大きな損害を受けた。そして攘夷が不可能なことを思い知らされた
■イギリスの公使パークスは、幕府の国内統治する力の弱体化を見抜き、貿易の自由発展のためにも、幕府にかわる政権の実現に期待するようになった
薩摩藩でも攘夷が不可能であることを知ってイギリスに近づき、西郷隆盛、大久保利通ら下級武士が藩政を指導し、武器の輸入・留学生の派遣・洋式工場の建設など改革を進めていった