るるの日記

なんでも書きます

なぜ九州と山口などが発展するのか?

2022-01-31 20:54:17 | 日記
■桜田門外の変後、幕政の中心に据わったのは【安藤信正】

彼の使命は
★朝廷との関係改善
★幕府批判勢力を押さえる
★幕府の権利回復
である

そのための作戦は

公武合体政策1つである

■朝廷(公)と幕府(武)が協調して、政局を安定させようとする
公武合体政策として
孝明天皇の妹・和宮を、将軍・家茂の妻に迎えた

和宮は有栖川宮親王との結婚が決まっていたにもかかわらず降嫁させた強引な政略結婚は、尊王攘夷論者から激しく非難され、1862年、安藤信正は江戸城坂下門外で、水戸藩を脱藩した浪士らに襲われ傷つき、まもなく失脚した

薩摩藩が独自に動いた
1862年、薩摩藩主の父・島津久光は江戸に赴き、幕政改革を要求
幕府は薩摩藩の要求を受け入れた

★越前藩主・松平慶永を政事総裁職にする
★徳川慶喜を将軍後見職にする
★京都守護職を新設し、会津藩主・松平容保を任命する
など

■尊王攘夷運動の中心は長州藩
1862年、中下級藩士の主張する【尊王論を藩論とし】、朝廷内部の攘夷派の公家とも結んで、京都で活発に動き政局の主導権を握った

攘夷派が優位に立った朝廷は、しきりに「攘夷の決行と鎖国への復帰」を幕府に迫った
幕府は攘夷決行の意思を持たなかったが、やむなく1863年5月10日に攘夷を行うことを諸藩に通達した
長州藩はその日、下関海峡を通過した外国船に砲撃を加えた

■長州藩追放
長州藩を中心とする尊王攘夷派の動きに対して、薩摩藩・会津藩は朝廷内部の公武合体派の公家と連携し
1863年8月18日
薩摩藩・会津藩兵が御所を固める中、長州藩勢力と公家三条実美らを京都から追放
朝廷内の主導権を奪い返した

■長州藩士池田屋事件に憤慨
長州藩は、京都守護職の指導で警備にあたっていた近藤勇ら新撰組によって、京都の旅館池田屋で20数名の尊王攘夷派志士が殺傷された池田屋事件に憤慨し、藩兵を京都に攻めのぼらせた。幕府側の薩摩・会津・桑名の藩兵と京都御所付近で戦い敗走した【禁門の変】

■幕府・朝廷・列国が長州を攻める
幕府は尊王攘夷派にさらに打撃を加えるため「禁門の変の罪を問う」という理由で、朝廷から長州征討の勅書を出させ、長州藩を攻撃

列国も前年の長州藩外国船砲撃事件の報復として、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国連合が下関を砲撃し、下関砲台などを占領した

長州藩は中下級藩士の尊王攘夷派にかわり、上層部が藩の実権を握り、禁門の変の責任者として、家老3人を切腹させ、幕府に恭順・謝罪の態度を示した

薩摩藩では、、イギリスが鹿児島湾に来航した。理由は「薩摩藩士がイギリス人を斬った事件」の報復のためだった。薩摩藩はイギリス艦船と交戦して大きな損害を受けた。そして攘夷が不可能なことを思い知らされた

■イギリスの公使パークスは、幕府の国内統治する力の弱体化を見抜き、貿易の自由発展のためにも、幕府にかわる政権の実現に期待するようになった
薩摩藩でも攘夷が不可能であることを知ってイギリスに近づき、西郷隆盛、大久保利通ら下級武士が藩政を指導し、武器の輸入・留学生の派遣・洋式工場の建設など改革を進めていった





井伊直弼の厳しい弾圧は、譜代大名全体の雄藩に対する妬み嫉妬→譜代大名の独裁は桜田門外の変に終わる

2022-01-31 19:03:18 | 日記
幕府では
13代将軍徳川家定に子がいなかったため、「将軍継嗣問題」が争点となっていた

■雄藩〈雄藩の幕政への関与を強め、幕府と雄藩が協力して
この難局にあたるぞ❗️〉
越前藩主・松平慶永
薩摩藩主・島津斉彬
土佐藩主・山内豊信
徳川斉昭の子・一橋家【徳川慶喜】推し

■譜代大名
〈幕府の専制政治を維持したい〉
血統の近い紀伊藩主【徳川家茂】推し

■徳川家茂派の井伊直弼が、大老に就任したから、徳川家茂が将軍に

井伊直弼は徳川慶喜派を厳しく取り締まり、多数を処罰し弾圧した
処罰受けた人は100名を越えた

★徳川斉昭・徳川慶喜・松平慶永ら
蟄居・謹慎

★越前藩士・橋本左内
長州藩士・吉田松陰
小浜藩士・梅田雲浜
頼山陽の子・三樹三郎
処刑

1860年、この厳しい弾圧に憤激した、水戸藩を脱藩した浪士たちは
井伊直弼を桜田門外に襲って暗殺
桜田門外の変の結果、幕府の専制的な政治によって事態に対処しようとする路線は行き詰まり、幕府の独裁は崩れた





金と銀の交換比率「外国1対15」「日本1対5」→外国人は日本で金を安く手に入れた

2022-01-31 18:30:58 | 日記
■1859年、横浜、長崎、函館の居留地にて、銀貨を用いて貿易が始まる

★外国商人
★日本人の売込商
(輸出品を外国商人に売り込む)
★日本人の引取商
(輸入品を外国商人から買い取る)

■日本からの輸出品
生糸→80%
蚕卵紙(蚕の卵→生糸になる)
海産物
食料品

■日本への輸入品
毛織物
綿織物
などの繊維製品→70%

★貿易額は急速に増大し、物価は上昇

★機械で生産された安価な綿織物の大量輸入により、農村で発達していた綿作、綿織物業を圧迫

★輸出商品の生産地と直接結び付いた商人が、問屋を通さず港へ送ったので、問屋中心の流通は崩れた

★増大する輸出に生産が追いつかないため、物価高騰

■金と銀の交換比率が、外国と日本では著しい差がある

外国→1対15
日本→1対5

外国人は銀を日本に持ち込んで
日本の金を安く手に入れた
その差額で大きな利益を得た
10万両以上の金が海外に流出
幕府は金貨の品質を大幅に引き下げた小判を鋳造して、この事態を防ごうとした
貨幣の実質価値が下がったため
物価上昇に拍車をかけた
庶民生活は圧迫、貿易に対する反感が高まり、反幕府的機運とともに
攘夷運動が起こる一因となる
1860年、ハリスの通訳オランダ人・ヒュースケンが江戸の三田で、薩摩藩の浪士に斬り殺され

1861年、高輪東禅寺の(仮)イギリス公使館が、水戸脱藩士の襲撃を受ける

1862年、生麦村で島津久光の行列を横切ったイギリス人を薩摩藩士が斬った

1862年、建設中のイギリス公使館を高杉晋作・久坂玄瑞らが襲って焼いた



開国・神風吹かず、元寇のときの北条時宗のような決断はできなかった

2022-01-31 17:44:02 | 日記
♦️イギリスが産業革命により、工業生産力は飛躍的に高まる
ヨーロッパ各国、アメリカに広まる
★欧米列強は生産品の販売市場
★原料確保
をめざしアジアへ進出
多くの国が植民地や従属的地位に
日本にきた


♦️噂、、イギリスが通商要求のため、軍艦を派遣するという噂がもたらされる

1842年、オランダ人が【イギリスが通商要求のため軍艦を派遣する】という情報を幕府にもたらす
幕府は外国との戦争を避けるため「異国船打払令」を緩和して「薪水給与令」を出し、漂着した外国船には、薪・水・食糧を与えることにした

1844年、オランダ国王の親書が幕府に送られた。オランダ国王は「アヘン戦争を教訓として、清国の二の舞を演じることを回避するために、開国してはどうか?」と勧告した

【アヘン戦争で清国はイギリスに負けて香港を割譲し、開国をさせられたのだ】


♦️アメリカ
中国との貿易に力を入れていたアメリカは、寄港地として日本の開国を求めていた
1846年、浦賀に来航し国交と通商を要求した
日本はお断りする
1848年アメリカはカリフォルニアで金が発見されたので太平洋を横断し中国と貿易をさかんにするために、絶対、寄港地が必要となり
日本への開国要求は強まる
1853年、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが軍艦4隻を率いて浦賀に来航。大統領の国書を提出し開国を求めた

⭐️老中・阿部正弘は困り果てる
★朝廷に報告

★先例を破って、諸大名や幕臣に、国書についての意見を提出させた

★開拓的藩主と協力した
越前藩主・松平慶永
薩摩藩主・島津斉彬
宇和島藩主・伊達宗城
前水戸藩主・徳川斉昭

【この措置は朝廷を政治の場に引き出して権威を高め、諸大名は幕政への発言の機会を得て、幕府の専制的な政治運営を転換させる契機となった】

幕府は有効な対策を立てれず
朝鮮・琉球以外の国からの国書を受領しないという方針を、ペリーの強い態度に押されて破り、国書を正式に受け取り、翌年回答することを約束し、とりあえず日本を去らせた
直後、ロシア使節プチャーチンも長崎に来航し、開国と北方の国境の確定を要求した
1854年、ペリーが軍艦7隻を率いて浦賀に来航。江戸湾の測量を行うなど軍事的圧力をかけ、条約の締結を強硬に迫った
幕府は圧力に屈して
【日米和親条約】を結んだ。神奈川宿の近くで交渉と調印が行われた

♦️日米和親条約
12条
★アメリカ船が必要とする燃料や食糧などを供給する

★遭難船や乗組員を救助する

★下田・函館を開き直り、領事の駐在を認める

★アメリカに一方的な最恵国待遇を与える
(日本がアメリカ以外と結んだ条約で、日本がアメリカに与えたよりも有利な条件を認めたときは、アメリカもその条件を適用する。日本が一方的に与える不平等条約だった)

♦️次は貿易のための通商条約
1857年、アメリカ駐日総領事ハリスは、通商条約の締結を強硬に迫った

⭐️老中・堀田正睦は、国内の激しい反対意見を押さえるため、天皇から勅許を得るため京都へ向かう

堀田は朝廷に「列強と戦争になることを避けるため、条約を結ばざるを得ない」ことを力説したが、朝廷では孝明天皇を先頭に【条約締結反対❗️鎖国❗️攘夷❗️】の空気が濃く勅許を得れず
1858年、ハリスはイギリス・フランスの脅威を説き、早く通商条約を調印するよう迫った
大老に就任した井伊直弼は勅許を得ぬまま6月、日米修好通商条約に調印
この調印は反対派から、幕府への激しい非難と攻撃を生んだ

【日米修好通商条約】
★神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港と、江戸・大阪の開市
★開港場に外国人が居住する居留地を設ける
★日本に滞在する外国人の裁判は、本国の法に基づき、本国の領事が行う
★関税は相互に相談して決める

♦️オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも、同様の条約を結んだ
日本は資本主義世界市場の中に組み込まれた

1860年、幕府は外国奉行・新見正興をアメリカに派遣。このとき勝海舟らが幕府軍艦・咸臨丸(かんりんまる)を操縦して、太平洋横断した






教育→思想→尊王運動へ「昔は良かった思想」

2022-01-31 15:34:15 | 日記
■教育

8代将軍吉宗は儒学により武士、庶民を教化しようとしたこともあり、民間にも儒学は普及していった

1797年、官立の昌平坂学問所を設けて朱子学による幕臣教育機関とした。多くの藩でも藩校が設立されたり、充実されるようになった

民間でも武士・学者・町人によって私塾が開かれ、儒学を中心に国学や洋学などが講義された

★大阪→懐徳堂(町人設立、のち幕府援助の準官立)

★豊後日田→咸宜園(かんぎえん)(広瀬淡窓設立

★荻→松下村塾(吉田松陰が受け継いだ)幕末思想家や志士を多く育てた

★寺小屋
浪人、村役人、神職、僧侶、町人などによってつくられ、6~13歳の子どもを集め、読み書きそろばんなどの日常生活に必要な教育を行い、儒教的な日常道徳も教えた

★心学→石田梅岩
商業や商人を低く見る社会風潮に対して、商業の正統性と、商人の存在意義を主張し、倹約・正直などの徳目を平易に記した
儒教道徳に仏教や神道を加味した道徳を説く梅岩の心学は弟子によって全国に普及した

■思想
朱子学を批判する学派が登場
国学・洋学など新たな学問登場
★幕藩体制を批判する思想

★改良を説く経世論
都市や農村の実情に通じている人々が、幕藩領主に現状問題を警告し、体制の改良のための具体策を論じる

★対外的危機への対応の海防論

※安藤昌益
「自然真営道」
万人が自ら耕作して生活する自然世を理想とし、武士が支配して百姓から年貢を収奪する社会や身分社会(法世)を否定し、封建制を根底から批判した

※海保青陵
「稽古談」
藩財政の立て直しには消極的な倹約政策ではなく、発展してきた商品経済に対応した藩営専売などを積極的に行うべきであると主張

■尊王論
水戸藩の水戸学は朱子学を軸に国学や神道を統合し、天皇崇拝と封建的秩序を説いた
「徳をもって治める王としての天皇を尊ぶべきだ」という朱子学的な名分論(名は階級を表す)から尊王論を主張した
後期水戸学では、藤田幽谷は、尊王が幕府の権威を維持するために重要であると説く
★藤田幽谷に学んだ会沢安
「新論」
天皇を中心とする政治・宗教体制を構想

★藤田幽谷の子・藤田東湖
★徳川斉昭
尊王攘夷運動に強い影響を与えた

★竹内式部
垂加神道を学んだ
若い公家たちに「日本書紀」などを講義し尊王論を説いて追放刑となる
【宝暦事件】

★山県大弐
朝廷が政権を担当すべきであるという尊王論を説き、幕府の腐敗を批判し死罪に
【明和事件】

★高山彦九郎
尊王思想を説いて全国をまわり、筑後久留米で悲憤のあまり自殺

★蒲生君平
天皇陵の荒廃を嘆いて各地を調査

★本居宣長
将軍は天皇の委任により政権を担当しているのだから、将軍にしたがうことが天皇を尊ぶことになると説き、幕府政治を否定しなかった

★平田篤胤
復古神道は各地の豪農、神職たちに受け入れられ、幕末の尊王攘夷運動に影響を与えた