■念仏して生きれば
悪業を赦すだけの善を行い悪を避ける
悪業を赦す以上の善は行わないし悪も避けられない
避けられない悪でも
悪を恐るべからず、弥陀の本願を妨げるほどの悪は無いのだから
■これは恐ろしい表現
日蓮が念仏無間地獄と言ったのも
彼の立場からは無理もない
「念仏無間地獄と悪口を言う悪の日蓮をも救うぞ」という意味だからね
弥陀はどんな悪も救いとる
仏の位とはそういうものだ
【弥陀の誓いをたのむから、いかなる悪も恐くない】
■悪とは何か?
自分の悪業が一番の悪で、それは例えば怨憎会苦(嫌な人と会わねばならぬ苦しみ)などとして顕れてきます
■悪の恐しさとは
悪に会った時の、その苦悩感です
■なぜ悪を恐るべからずか?
念仏すると、嫌な人に会っても苦悩感は無くなるからです
それは念仏することで、私が「嫌な人」と見てしまう悪業が赦されるからです
だからいつも落ち着いていられます
「どうしよう、嫌だなあ」というフラフラした気持ちがわかないから落ち着きます
■悪を断ち切ったら人は死にます
本質的に言うと、排除するべき悪はこの世界には存在しない
善悪には根がある
善悪の根は静脈と動脈のように続いていて、立ち切ったら人間は死ぬ
悪を斥け善を行うというのなら
善悪を超えるしかない
念仏するしかなくなる
■善悪の構成要素
今も、昔もと時間を区切りがちだが
正しくはず~っと今
本当は今という観念も無く
私は常住した、する、していく
善悪は宇宙根本として1つで無
+(善)-(悪)=0(無)
同時に
宇宙の根本の善悪は二業に顕れる
それが人に顕れている
それが今の私に顕れている
だから今の私は宇宙根本の顕れ
私の生きる動機は善悪を越えた自然
これ時系列ではなく
すべて同時
なんのために無から善悪が分かれたか?というのは無いんです
始まりは無いんですから