るるの日記

なんでも書きます

悪を断ち切ったら人は死にます

2022-03-31 15:07:03 | 日記
■念仏して生きれば
悪業を赦すだけの善を行い悪を避ける
悪業を赦す以上の善は行わないし悪も避けられない

避けられない悪でも
悪を恐るべからず、弥陀の本願を妨げるほどの悪は無いのだから

■これは恐ろしい表現
日蓮が念仏無間地獄と言ったのも
彼の立場からは無理もない
「念仏無間地獄と悪口を言う悪の日蓮をも救うぞ」という意味だからね
弥陀はどんな悪も救いとる
仏の位とはそういうものだ

【弥陀の誓いをたのむから、いかなる悪も恐くない】

■悪とは何か?
自分の悪業が一番の悪で、それは例えば怨憎会苦(嫌な人と会わねばならぬ苦しみ)などとして顕れてきます

■悪の恐しさとは
悪に会った時の、その苦悩感です

■なぜ悪を恐るべからずか?
念仏すると、嫌な人に会っても苦悩感は無くなるからです
それは念仏することで、私が「嫌な人」と見てしまう悪業が赦されるからです
だからいつも落ち着いていられます
「どうしよう、嫌だなあ」というフラフラした気持ちがわかないから落ち着きます

■悪を断ち切ったら人は死にます
本質的に言うと、排除するべき悪はこの世界には存在しない
善悪には根がある
善悪の根は静脈と動脈のように続いていて、立ち切ったら人間は死ぬ
悪を斥け善を行うというのなら
善悪を超えるしかない
念仏するしかなくなる

■善悪の構成要素
今も、昔もと時間を区切りがちだが
正しくはず~っと今
本当は今という観念も無く
私は常住した、する、していく

善悪は宇宙根本として1つで無

+(善)-(悪)=0(無)

同時に

宇宙の根本の善悪は二業に顕れる
それが人に顕れている
それが今の私に顕れている
だから今の私は宇宙根本の顕れ
私の生きる動機は善悪を越えた自然

これ時系列ではなく
すべて同時

なんのために無から善悪が分かれたか?というのは無いんです
始まりは無いんですから








賜った善以上の善を行うことを「薄情けをかける」という。これは人を苦しませる善です

2022-03-31 13:40:01 | 日記
【他力本願を信じれば、
他の善も要あらず、
念仏にまさるべき善なきゆえに。
悪をも恐れるべからず、
弥陀の本願を妨げるほどの、
悪なきがゆえに。】
親鸞は率直に言い切っている
親鸞は自分の悪業深重による自分のあさましさを深く苦しんだだけに、弥陀の誓願は、親鸞の心奥深く深くに薫習されて、悪人救済の恩に包まれていた

過去を反省してみたところで
現在の生々しい現実にまた
悪業の報いの思いが湧いてしまう
湧いてしまうのだけれど
それに即して弥陀の恩に喜ぶ

【本願を信じれば
他の善も要あらず
念仏に勝る善なきゆえに】

念仏者にとって善とは
念仏すること
念仏のような生活すること
そこに善はこもっている
念仏申す者の悪業の報いを
赦すだけの善はついてくる
それ以上の善は出来ないし、やる気も湧かないものだ

念仏=南無阿弥陀仏=「私を頼め!すがれ!救いたい!の弥陀の願いに、「頼みます!救ってください」とこたえること
自分の悪業によって湧く思いを観察すると、四六時中念仏して生きるようになりますよ

念仏すれば
念仏によってついてくる善は行える。何も躊躇なくスラスラと無意識に。それ以上の善はできない。
なのに
それ以上の善を行おうということは
逆に自分を甘くし、他人を欺くこと。偽善。思わせ振りな薄情けです

「かけてくれるな薄情け」とは
憐れな遊女の切々たる訴えである
同じ遊ぶなら最初からサッパリして割り切ってくれればいいものを、余計な情愛を見せるものだから、こちらも心がつながるようになり、結局最後は別れ話になる
しかし一旦つながった心の絆は
痛み無しに切れるものではない

本当に実行する気もないことは
言わぬこと

例えば、、被災地にボランティアへ行っても、被災者に必要以上の深情けは禁物。別れる時に余計に辛くさせるようなものです


仏にいろんな仏があるように、他力にもいろんな他力がある

2022-03-31 11:59:37 | 日記
■本当はこの世はすべて
他力の計らいで動いています
仏にいろいろあるように
他力にもいろいろあります
いろいろ他力ある中で
「弥陀の誓願」という「衆生救い」の他力があります

■弥陀の誓願というのは
仏になる前の法蔵比丘の

「罪悪深重、煩悩燃盛の衆生を助けたい」
というやるせない願いが根本にある

この願いを成就するために法蔵比丘は苦行を積んで阿弥陀仏と成られた

■阿弥陀仏とは
衆生を助ける力の本願他力

■願いは成就し、力と成った

「衆生を助けたい思い」が
衆生を助ける力」と成った

衆生を助ける本願他力は、常に発動している。感受しようとも、しなくとも発動しているが、ルルは本願他力を感受していきたい

その本願他力を感受するには信が必要。信じることで「他力に救われている自覚」が賜わり、気分が軽く楽で楽しく生きれます
この楽で楽しい気分になるというのがご利益です

自分を罪悪深重・煩悩燃盛と感じない人は、仏は多くいるので別の法門に行ってみてもいいと思います。何も阿弥陀仏にすがる必要はないと思います


安心立命【ルルが絶対他力を信じたのは、今後すべて如来計らい人生にしたいから】生死超え

2022-03-31 09:03:31 | 日記
「念仏」が口にから出る前に
「念仏申そう」と思い立った時の
その一念を【発起決心】といいます
この発起決心は私から生れた思のようだけれど、その根本は如来のはからいです。だから発起決心と同時にすでに如来に助けられてるのです

まず、念仏を知らなければ「念仏申そう」という思いは涌きません。仏教と縁がなければ、浄土真宗と縁がなければ、念仏とも縁が無い

遡ってみると、ルルは浄土真宗寺の檀家の家に生まれた
これが業の報い。無意識な仏縁

ルルの気質はいろいろあるが、その一つに好奇心旺盛があり、「仏教とは何ぞや?」と信のない仏縁を持つ。だが、だからこそいろんな宗派を学べた

今ここにきて、原点の浄土真宗に信を置いた。その原因はそれまで気づかなかったルルの「悪業」に気づいたからだ。「私の思いの根本の悪」に勘づいてしまったのだ

ルルがたとえ人の役立つことをしても、人への慈悲を思ったとしても、全ての思いの根本は悪から発生していました。「傲慢な上から目線、自分を良く見せたい心、、」
たとえ自分が悲しんだりしても、悲しみの根本は悪。傲慢な卑下慢
悲しむ根本の「悲しいのは自分以外のせい」という悪心が見えてきた

いたたまれない
あさましい
はずかしい
穴があったら入りたい
【もう何も思うことも、行うこともしたくない。だけど、思うこと、行うことをやめられない】
そうやって暮らしてきた
思いの根本悪は自分ではどうしようもないんだと猛実感しながら
開き直りながら

そして
他力を信じる安心感を身にしみて猛実感したのです。それに教えの理論も全てがつじつまがあう道理だった
「なんだ~すべて仏のはからいだったのね。ありがたい南無阿弥陀仏」

今までのように強いて南無阿弥陀仏を申している感じはしない。おのずと称えずにはいられないような自然な感じ

歎異抄を知る「なぜ信じるのか?→疑ってはつまらないから、疑う必要はない」

2022-03-30 14:30:03 | 日記
【弥陀の誓願不思議に助けられて往生を遂げると信じて、念仏申すと思う心が起こるとき、すなわち摂取不捨の利益をあずかりたまう
弥陀の本願は人を選ばず
ただ信心を要とする
そのゆえは罪悪感深重、煩悩燃盛の衆生を助けるための願にてまします
しかれば本願を信ぜれば、他の善も要にあらず。念仏に勝る善なきゆえに。悪をも恐れるべからず。弥陀の本願を妨げる程の悪なきゆえに】

■弥陀の誓願不思議
浄土真宗信者にとっては
弥陀の誓願は我々の心の産物ではなく弥陀の誓願は我々より先にあった
これを疑うことは可能であるが、我々は自発的に疑うことを欲しない
疑ってはつまらないから疑う必要はない。突発的、無条件的臨在なのだ
だからこそ弥陀の誓願不思議という

この突発的、無条件的、第一原理の臨在を肯定するのが信仰の意識だ
信仰心はそういう要求だ

弥陀の誓願は、浄土真宗のすべての法悦が流れ出てくる大源泉である
弥陀の誓願は、直視することの出来ない光明である
だから不思議なのだ
弥陀の別名は不可思議光

■摂取不捨
「光明あまねく十法界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てず」
観無量寿経の摂取不捨

■思い立つ心の起こるとき、すなわち摂取不捨

【発起決心する我らの心と、間髪を入れず摂取される
であるから、回数や集中力や継続力などは不要
一念にある

信仰の発起決心も、助けとする力も誓願の方にある。仏から賜った信心なのである
「思い立つとき、すなわち」の機は多念より、思い立った一念にある
純に真の信の心は一念にある

浄土宗には一念、多念の諍論が起きた。法然は行としての称名が混じり、称名の数を積む功徳や、三昧の功徳によって仏を見たり、といった風だった。これはどうしても法然の不徹底であって、浄土宗に一念、多念の諍論の起こる原因であった

また機は一念だが、一念かぎりの念仏というのもあまりない
救われたいといった乾きがあって申すのであるから、その乾きがある以上は自ずと乾きが無くなるまで、時間の許す限り称えずにはおられない。ただ「多念で称えなければ救われない」という意味の多念は間違いです

誓願を頼んで念仏申すその一念に
間髪入れず摂取されることを宣言します