るるの日記

なんでも書きます

皇祖神天照大神も天皇に祟る

2021-10-31 22:49:34 | 日記
■三種の神器は祟る
しかしなぜ祟るのか?

剣と勾玉は、滅ぼした敵の宝器だったからだ。ヤマタノオロチとは出雲族のこと。勾玉は出雲の首領が献上したと記録にある

しかし鏡は、皇祖神・天照大神の御霊代(分身)である。皇祖神が皇統に祟るのか?

崇神天皇は、直面した国家存亡の危機を、皇祖神の祟りであると考えた。だから宮殿の外に遷して手厚く祀った

皇祖神が天皇に祟りを為した、もしくは崇神天皇が皇祖神に祟られたと受けとめたのはなぜか?

それは
宮中においての祀られかた、祭祀が不十分であったからだ

■現在、宮中三殿においての日々の祭祀は、内掌典によって行われている。祭主は天皇であるが、天皇は神事以外にも多くの公務があって、神殿への奉仕は限られている。天皇みずからの祭祀は大祭のみである

伊勢神宮と熱田神宮で神器が正当に祀られているから、それが許容されるのだ

日本の神は、手厚く祀れば守護神となり、祀りをおろそかにすれば祟り神となる。この性格をわきまえて`ぬかりなく祭祀を行うのが神社神道の思想であり、その道を外れれば、たとえ皇祖神であっても祟る

■敵の宝器を取り込むということは、その霊力をも取り込むということ。怖れて避けるだけならば、完全に封じ込めるだけでよいはず。何も自らの宝器としたり、それを代々受け継ぐ必要はないのだから

三種の神器は祟る

2021-10-31 22:19:03 | 日記
■10月、出雲に神々が集う理由は無いし、出雲の祭神は怨霊神・祟り神であって福の神ではない

だが七福神信仰に便乗して、出雲でも多くの商品がうみだされ、オオクニヌシノミコト信仰は変質する。そして新たな路線を邁進し、現在の縁結び信仰まで至った

■第10代崇神天皇の時、宮中にあった神器の神威を畏れて、宮中の外に遷された。日本書紀はその理由を祟りとしている。その時、疫病により民の過半数が死亡し、百姓は流浪し、謀反が起きた。国家存亡の危機である

★鏡
トヨスキイリヒメによって大和の笠縫邑に遷し、後に伊勢の五十鈴川の畔に達して内宮となる

★勾玉
ヌナキイリヒメに祀らせるが、やせ衰えて祀ることができなくなり、ナガオチという者に祀らせ、天理の大和神社となる

★剣
伊勢に遷された
後年、ヤマトタケルに伊勢斎宮のヤマトヒメから授けられるので。剣はヤマトタケルによって活用され東征の武力の象徴となった。そしてヤマトタケルの手を経て熱田に祀られる。ただヤマトタケルはこの直後、若くして没する。剣は伊勢の封印を解かれて強力なパワーを発したが、その呪力はヤマトタケルをも巻き込んだ。ゆえに形見の草薙剣はその地に手厚く祀られることになった。それが熱田神宮である

しかし剣は盗難にあう。犯人は捕らえられたが剣は行方不明になったまま。朝廷は全国に情報をつのったところ、675年に土佐大神から剣が献上された。剣はそのまま宮中にとどめおかれた

686年に天武天皇の病を占ったところ、「草薙剣に祟れり。即日に尾張国の熱田社に送り置く」(日本書紀)。天武天皇はこの直後に崩御する

ちなみに草薙剣をヤマタノオロチの体内から斬り出した剣は、スサノオノミコトの十握剣(とつかのつるぎ)であるが、これは石上神宮(いそのかみじんぐう)の神宝とされる。これを平安京へ移したため、桓武天皇は祟りによって病を発し崩御した

祟られて当然という背景が、この剣にはあったのだが、祟り神や怨霊神は、祀ることによってかえって守護となる(御霊信仰)。そもそも神社祭祀は、祟り神の霊力を受け継ぐための儀式であったように思う。天皇の三種の神器も御霊信仰そのものだ。滅ぼした敵、ヤマタノオロチの剣をとりこんで草薙剣としたのだから、、ゆえに「三種の神器は天皇に祟る」のである

しかし、、なぜ祟るのか?

つづく



出雲大社・縁結びの福神に化けて現在に至るオオクニヌシノミコト

2021-10-31 15:48:32 | 日記
■出雲族は三輪の地を追われ、数ヶ所に分けて収容された
655年~661年それら収容地は出雲郷と設定された。「あだかえ」と訓読する

♦️山城国愛宕郡出雲郷に居住した人々は300人余であり、今なお出雲郷関連で現存するのは
★出雲路幸神社
★出雲高野神社
★出雲井於神社
の3つの神社である

■出雲路幸神社(いずもじさいのかみやしろ)
※御所の鬼門(北東)にある
桓武天皇が平安京の鬼門守護として営まれた
平安京においては、二重三重に鬼門守護の呪術が実施されている。賀茂社や比叡山などもその装置である

※元々、賀茂川畔(青竜町)に鎮座していた

※さい→境
京都に入るときは祓いの神事をした
境には道祖神を祀り【塞の神】と称した(石神信仰)→大和文化ではない

■出雲井於神社(いずもいのへのじんじゃ)
出雲郷総社
※通称・比良木神社
社の周辺に植える木は、ことごとく柊(ひいらぎ)となり、【なんでも柊】と呼ばれている

※神武天皇二年
かどのとのもり(出雲族)という氏族が、祖神として奉斎した
鴨氏と同じ祖先で、山城国愛宕郡出雲郷里計帳で記載される氏族

※いのへ→川のほとりに坐す社

♦️出雲郷は、(現)出雲、松江にも設けられた
山城(京都)の出雲族の歴史は消え去ったが、出雲に流された出雲族は現在に至るまで、オオクニヌシノミコトの神霊と共に連面と続いている。縁結びの福神に化けて、、、



天変地異で出雲大社は水没の可能性も

2021-10-31 14:53:33 | 日記
♦️出雲大社の建つ場所は二本の河川に挟まれた底地、中洲、湿地である
2000年に境内遺跡から巨大な宇豆柱の根元が発掘されたが、豊富な地下水による保存力のおかげである。しかし地殻変動次第では、地盤崩壊による社殿の損傷や、浸水の可能性も否定できない

♦️出雲平野のほとんどは、縄文時代は海であった。その後の平野部の土壌は、二本の河川から流れ出してきた泥砂の堆積であり、地盤は軟弱だ

♦️出雲大社のある西部地域は
神戸川の流出泥砂と、三瓶山の噴火による堆積物によって形成されている。しかも三瓶山は活火山であり、今後の活動次第ではまた新たな影響の可能性もある

♦️出雲大社の境内地は海抜10メートル。島根、鳥取地方の古社は、おおむね海抜20メートルを越えるあたりに鎮座しているが、それら古社を結ぶ海抜20メートルラインが、古代の人々が定めた津波からの避難線になる

♦️東北大震災の時に、スサノオノミコトを祭神とする古社が、津波の届かない限界線上に建っていると評判になった

これはスサノオノミコト一族が何らかの知識を持っていて、神社を建設する際にその知識に基づいて行った結果であろう

♦️出雲大社が海抜10メートルに建設されているということは、古い時代の知恵が反映されていないということで、同地域の古社よりも新しい時代に建設されたということだ

近年の放水路整備によって、洪水の危険はほぼ回避されているようであるが、それ以上の天変地異に対しては今なお無力である

♦️国譲り神話は、出雲平野ができて地つながりとなった現象を説明しているのだか、また再び離れることになるのだろうか、、