■世界には
2つの側面があり
2つの側面が円融したもう1つがあり、合計3つの世界がある
★2つの側面とその円融
表裏→1つの物事
男女→生物
善悪→1つの物事への1つの認識
生死→命
空仮→中道
意味・無意味→目的
物質界・空→命の循環
私の認識だけでは、刹那で固定した見方しかできない。いつもいつも、その時、その場で生きている。命は生きるためのエネルギー
■視点を
私の認識(自我)【仮】
私の命【空】
命全体【中】
からそれぞれ視てみよう
1
この世に【私】が生まれた意味を見ると【無意味】なの。いつかは死ぬこの肉体を持つ私には意味がない。だから人生は死ぬまでの暇潰し
私は生まれ、生き、いつか死ぬ
2
この世に【私の命】が生まれた意味は、私という肉体を生かすという意味を持つ。そして私の命は永遠に存在し続ける。私の命が生まれたというより、私という仮の身体に命が流入したの
3
この世に生まれた私の無意味さも
この世に生まれた私に流入した意味ある命も、すべては命全体の目的のため
■無意味+有意味=1つの目的
この3つは融合している
ということは、私は目的なんだ
生まれ、生き、死ぬ無意味な私に
永遠に存在する意味ある命が
私に流入し、私を生かす
命はただひたすら完全に、ありのまま働いて私を生かしている
それは完全な事実だと思う
それはなぜか?
命全体の
本源的な目的があるから
■私も、私の命も、本体は丸い命全体
その本体にも、また本体があり、そのまた本体にもその本体があり、永遠に広がりつづける
広がり続ける本体の一番新しい部分が本体の核心であり、今の私たちの刹那の思念による行い(思念の表現、体感、体験、経験、実感)
■命全体の本源的な目的のための私は
不完全
無常
生老病死
四苦八苦
多少の楽
がわきおこるが
人生は無意味でいつかは終わるからその意味のなさを+にうけることで、四苦八苦があれど、自由、楽、軽く、今生を全うできる
そう決めるのは、私の意思の領分なんだけど、、、なぜそう決めたのかの根本を観ると、そう決めざるを得ないよう、何かに心が動かされている一面もなきにしもあらず
命全体の本源的目的は
自由、楽、軽いを人に味会わせること。そこに【この世の無意味という意味】がある
只楽しめ
区切りがあるから楽しめるだろ?
っていわれている
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