アキは差し出されたギターを見て右往左往してしまい目が泳ぐ。オサムは意味深か気にうなずいている。グイグイとユウリに押し付けられて、アキは仕方なく手に取るしかなかった。どうやら捕食されたようだ。
「せっかくだからさ、これでさオサムにギター教えてもらいなよ。中古品だから安心して弾けるでしょ。もし気に入ったら買い取って貰ってもいいし。その時の値段は要相談で」
屈託のない笑顔でそう言われてしまった。アキはこういうオシに滅法弱い。ここまでされてしまえば、気に入ろうが入ろまいが買ってしまいそうだ。
「あっ、いいねえ。これも巡り合わせかもよ。簡単な曲でも弾けるようになれば、家でも練習できるしよ。オレは全然かまわないよ」
すでに買う流れになっている。オサムは講師を行うことも意を介していない。そして一度手にすると、脳内で所有願望が高まってくるようで、古びたギターもこうしてみると、自分を待っていたかのような錯覚になり愛着も湧いてくる。
「チューニングできる?」ペグを指さしてオサムが訊いてきた。
直ぐにクビを振るアキ。そう思えば高校の時に弾いたギターはチューニングなどしなかった。音程があっているつもりで弾いていた。
もしかして、それが原因でうまく弾けなかったのではないかと疑念がアタマに浮かんでくる。たしかに譜面通りに弾いても弦が変わると、なんだかしっくりこなかった。
そうであっても自分がヘタだからだと、音程の合わないまま何度も練習を繰り返していた。誰の手ほどきも受けず、チューニングの概念がなかった若い頃の自分が恨めしい。
「そう、じゃあ開放弦で上から1弦づつ鳴らしてみて、、」
これはもう個人レッスンのはじまりだ。自分基準ではあるが、これほどのギタリストにマンツーマンで手ほどきを受ければ、普通ならいいお値段になるだろう。
ここまでしてもらって、じゃあ失礼しますでは済まなさそうで、ますます外堀を埋められつつあるアキだ。これまで何かをはじめようとしたとき、誰かに教えを請うことはなく、どちらかと言えばそういう機会を避け続けていた。
自分のペースで行わないと極度に緊張してしまい、一歩も進めないと知っている。だからあえてその場に身を置こうとは思わない。
このような流れでなければ、ギターレッスンを受けることなどアキの人生ではなかったはずだ。今は丁寧に教えてくれるオサムを無下にすることもできず、素直に手ほどきを受けられる。
そうではあっても心臓が高鳴っていく中で一弦目の音を鳴らす。オサムに言われるがまま、ペグを一度緩めてからゆっくりと締めていく。そしてストップと言われたところで止める。手が震えてうまくペグを扱えない。
もう一度、弦を弾く。よければ次の弦に行くし、もう少し微調整が必要なら繰り返す。それを一番下の弦まで行っていった。オサムは根気よくつき合ってくれた。
ギターのチューニングが進むにつれ、アキはこれまでにない境地に誘なわれいく。音を鳴らし、息を止めて弦を張っていく。それと同調するように緩んだ心が少しづつ張りつめて、いい緊張感が生まれてくる。
自分がうまく制御できなく気持ちと身体がバラバラになってしまうことがあると、アキはそれを元に戻す方法がわからなかった。環境と内面と身体が一致して、自然と平静を取り戻せるようになるのを待つしかなかった。
うまく言語化ができないアキだったが、ギターのチューニングしていくと、なんだか自分の心うちまでも、調和と均衡がはかれるように調節されていった。
「ホントなら、ハーモニクスしたり、音叉使ってやるんだけどな。初心者ならこれぐらいで十分だよ。どうしてもちゃんとしたチューニングしたかったら、チェッカー売ってるから、それ使えば素人でもできるよ」
自分は撒き餌だと言いながら、しっかりと捕食者にもなっている。この調子でギターは安くとも色々な備品を勧められ、最終的にはソコソコの金額になっていく作戦なのではないか。そもそもこの中古のギターがいくらなのかもわからない。
これまでのアキであれば、この状態にパニックになっていただろう。次から次へと噴出する不安事項があっても、今のアキは受け止められていた。
オサムの丁寧で優しい手ほどきや、もしかしてギターが弾けるようになるのではないかといった期待も後押しして、抗うことができないほど追従している。
「じゃあ次はコードね。おさえかた知ってる?」
そう訊かれてアキは自信なさげにこたえた「主要コードと、マイナーと、セブンスぐらいは何とかですけど、、」。
思い出しながら押さえられるぐらいで、スムーズに移り変えられる自信はない。
「上等、上等。そんだけ押さえられれば十分だ。今から教えるのは、オレが知る中では世界で一番簡単なコード進行で、世界で一番叙情的な曲だ。いい? ゆっくりでいいから、オレの言う通りコード押さえってって。まずはC」
オサムはCコードを抑えて、右手で弦を撫でるように鳴らす。キレイなハーモニーが奏でられる。
アキもオサムの指を見てから、Cのコードを思い出しながら指をおさえる。指先で弦を鳴らしても、オサムのような張りのある音は出ない。途切れ途切れでこもった音がするだけだ。
「オーケー、次はG」
一番下の細い弦をオサムは小指で押さえたが、アキには小指の握力に自信がないので薬指でおさえる。そうすると、その指を目一杯に畳まなければならず手を攣りそうになる。それでは弦が浮いてしまい、Cよりさらに音がこもった。
「いいよ。次はAm」
Amは比較的楽だ。ネックを親指と人差指で固定でき、残りの指も無理なく弦を押さえられる。はじめていい音色が出た。それでもオサムの音はもっと深みと重みがある。それがギターの価格の差であり、腕の差なのだ。
これだけ明確にわかれば仕方がないところで、うまくなればなるほど、その差は微小になっていくのだろう。それを聴き分けられることが、果たして幸せなのかは微妙なところだ。
どんなプレイヤーの音でも、それが素敵に聴こえれば良いはずで、だったらアキにはそれを聴き分けられる能力は要らなかった。眉間にシワを寄せながら、この音はちょっと違うねなどと、御託を並べても誰も幸せにならない。
「はい、それで、直ぐにF」アキはこれまでにない声を発してしまう「エフ、エッ、エフー」。オサムはそのリアクションを想定していたらしく気にも留めない。
Amからの流れで親指で1弦目、人差し指で6弦目を押さえるか、音が明確に出やすい人差し指で1フレットをすべて押さえる方法にするか。瞬時に悩んだ挙句に前者を選び、ミュートかというぐらいの酷い音を鳴らしてしまった。
「も一度C」オサムは気にせず先を進める。
Cに戻ってアキはホッとする。最初よりいい音が出た。ここまで弾いて気付いたのは、この曲は世界で一番有名な4人組のあの名曲だった。
「誰もが思いつきそうな、簡単なコード進行だけど、誰も思いつかず。それを繰り返しているだけなんだけど、飽きることなく聴きたくなる。そしてなによりあのヴォーカルを引き立てる旋律なんだよなあ」
そうオサムは絶賛した。アキにはそれほど思い入れはなくても、この曲をマスターできれば何度も弾いてみたくなる気がする。
復習するようにもう一度繰り返してみる。BメロではラクなAmは抜きでFだけになる。それでもサビの部分を口ずさむとそれっぽく聴こえて、もう一度チャレンジしたくなってしまう。
「うん、うん 、いいよ、一回目より断然いい」
オサムの言葉はリップサービスだとしても嬉しくなってくる。
「スゴイじゃん。もうそんなに弾けるようになったの?」
またうまいタイミングでユウリが合いの手を入れてくる。背中がこそばゆくなってしまう。
「買っちゃいなよ。そのギター。千円でいいよ」そこでユウリがすかさず金額提示をしてきた。
「千円!」思わず訊き返してしまった。「高かった?」アキは無言でクビを振った。安すぎる。
「ホカしちまう予定だったヤツだけどなあ。かと言ってタダてえのはよくないからね。妥当なとこだね」
オサムがそう言うと、アキは何度もうなずいた。レッスンまでしてもらって、タダでギターをいただくわけにはいかない。千円が妥当となるかどうかは、これからの自分の行動次第になる。
「値段なんてもんはさ、あくまでも指標でしかないにしてもさ、いくらかでも金は払った方がいいんだよ。自己投資への判断基準となるし、そうでないと自分の意識がないがしろになっちまうからね。満足する演奏ができるようになって、このギターの価値より自分の腕が良くなれば、次はそれに見合ったギターを買えばいいよ。言わばこのギターも撒き餌だね」
確かに物に金額という価値が付くだけで、その金額に見合った行動を取るようになるものだ。いつしか高額のギターを手に入れられる自分でありたい。それがギターでなくてもいいかもしれない。
「あのう、、」アキはオサムが言っていたチューニングチェッカーなるものがいくらするのか尋ねた。3千500円で、あとギターを持ち運ぶためのソフトケースも、ユウリが再びバックヤードから探してきてくれた。全部で締めて5千円となった。
「チューニングやってから演奏した方がイイよ。絶対に。手の動きと音が一致しないと、どうしても気持ち悪さが出るから、弾いてても楽しくないし、長続きしないんだよねえ」
オサムがそう教えてくれた。高校時代の嫌なイメージを払拭するためにも必要なアイテムだ。
「なんだかスイマセン。いろいろとしていただいて」
「いいのよ。こうして、ひとりでも楽器に興味持ってくれるひとが増えれば嬉しいし、これがきっかけで、あなたの人生に彩りを添えられるとイイわね。あとは次に高いギター買ってくれれば最高だわ」
そう言ってユウリは笑った。オサムもそれがホンネだろっと言って笑った。アキはその言葉で逆に安心できた。変に善意だけに凝り固まっていなくて、商売っ気がイヤらしわけでもなく、そう言ってもらった方が信頼感が高まる。
オサムが次の曲を引き出した。60年代頃から流行った男性デュオが創った、エンディングでライラライのハーモニーが印象的なあの曲だった。チャンピオンだったか、ボクサーだったか。そんな曲名とは余り一致しない、透明感のあるメロディだ。
タイミングよく店先をシャドウボクシングしながらランニングしていく人影があった。小柄で中学生ぐらいに見えた。もしかしたら女性かもしれない。
オサムと顔を見合わせて笑った。きっと同じことを考えていたはずだ。お約束で最後のパートはオサムと一緒に合唱した。ライラライ、ライラライラ、ライラライ、、
誰もがチャンピオンにはなれない。だが対戦相手がいて初めてチャンピオンが成り立つ。その他大勢もきっと大切な役割なのだ。それがオサムの回答なのだ。アキはそう理解した。
「不思議ですよね、、 」
アキが言いたかったのはこういうことだ。プロの演奏だって聴くのは自分のような素人であり、その人たちが良いと思って聴いているプロの演奏と、同じように良いと思っているのに、プロにはなれなかったひとの演奏と、どこにどれをだけの差があるのか。
自分だけがオサムのギターを上手いとは思っていないはずだ。メディアで名が売れているアコギ一本で歌う女性ミュージシャンがいるが、同じようにギター1本で演奏している、とある名もなき女性ミュージシャンは、地元のイベントでタダで観れたりする。
自分には、どちらも同じよう上手に聴こえるし、魅力的にみえる。テレビでしか観れないミュージシャンより、間近で聴く名もなきミュージシャン達の方が、強い熱量や、客に訴えかける力量が強く感じられるぐらいだ。
テレビに出るようなミュージシャンを、間近で観たことがないからと言われればそれまでではある。
大勢の観客が集まるようなコンサートの熱狂を観ていると、自分はそれだけで興ざめしてしまうところもある。なにかに囚われるように熱狂する人たちは、ミュージシャンに対してというより、その行為に意味付けをする必要性に追い立てられているようにもみえた。
それは勝手な自分の憶測で、実際がどうなのかはわかるはずもなく、自分がそういった大勢の仲間内に含まれるのが嫌なだけで、多分に斜めから物事をみているからだろう。
「 、、いったい何が違うんでしょうかね?」
オサムは次の曲を弾きながら、そんなアキの問いかけを聞き、しばらく考えていた。
「なんだろうね。その差って。オレにもわからねえな。想像だけど、きっと、誰もが誰かに支配されたいんじゃないの? じゃあ誰についていくか。だったら、なるべく大勢が注目しているヤツがいい。だからオレはここにいるんだろうな」
オサムがそう言った。そう言われて、自分の浅はかな問いかけが恥ずかしくなった。その理屈で行けばアキもまた、大した人物になれない。
もっともアキの場合は、はじめから自分の器を認識している。誰かから注目されたいどころか、誰からも触れられずに生きていこうとしていた。うまくならなかったのは何もギターだけではなかった。
「あの、最初にこのお店に入って来たときに思ったんですけど、置いてあるギターって、色んな値段が付けられてますよね。でもわたしにはその価値が伝わってこない。50万のギターと、100万のギター。見てもその差が分からないです。だからなんでしょうか? それも同じことなのかと、、」
こんなことを訊いていいのかと、気に止みながらもギターに絡ませながら、もう少し踏込んでみたかった。オサムはそれを理解してかどうなのか、スッと言葉を吐き出した。
「モノの見方は人それぞれでしょ。キミが今、その売れてないコに、売れっ子と同じような価値を見出すのも、10万のギターに100万の価値を見出すのも、誰かと一緒でなきゃいけないことなんか、何一つないんだから。オレはいいと思うよ。みんながみんな同じ人に価値を見出すより、自分がこれと思ったひとを好きになったら。オレがそのひとりだとすれば、それはそれで嬉しいし」
オサムの言葉が嬉しかった。それと同時に自分がそれほど深く考えて、誰かを好きになっているわけでないことに申し訳なくなる。
自分はまわりが価値がないと言っているモノに、価値を見出すことで、自分の存在価値を見出そうとしているだけなのかもしれない。
「オレはね。バイトっていうか、この店の呼び込みみたいなもんなんだよ」
「呼び込み、、ですか?」
「そう、サンドイッチマン。いや、音出してるからちんどん屋さんかな?」
それなら店内ではなくて、外で行なうのではと、アキはオサムの意図してるところを読み取っていない。
「こうやってギター弾いてると、キミのような子がフラフラ~とやってくる。そうすると、さっきのユウリちゃんが、捕まったエサを食べにやって来る。といった具合だな。こりゃ呼び込みというより生け捕りに近いか。ハッハッハ」
オサムはそう言って一人でウケていた。生け捕られた立場のアキには、余り嬉しい例えではない。アキは自分が捕食される側になったようで不安が先立つ。
確かに先ほどのユウリの言動をみていれば、自分など一口で飲み込まれるだろうと容易に想像がつく。こんなに素敵な音色に誘われてやって来たのだ。できればもう少し別な例えが良かった。
「誰が、エサ食べてるってー?」ユウリが店先から声をあげる。
どこまで地獄耳なのか。アキが慄いていると、オサムはニカっと笑ってどこ吹く風と気にしていない。きっといい関係性なのだろう。
「手ぇ見てみ」そう言ってオサムは、手のひらを差し出した。
指先が硬そうなのがわかる。ギターの弦と相まみ合ってきた軌跡だ。
「毎日弾いてたら、こんなんになっちまった。別にそれが嫌なわけじゃないよ。ただ、どんなに努力したって報われないことはあるんだよ。オレだってよく思ったさ。どうしてこんなヤツが売れて、オレはダメなんだってね。キミが疑問に思っているのとなんら変わらない、、 」
オサムはアキに話しかけながらも、アルペジオで美しいメロディを奏でている。聴いたことのない曲だった。オリジナルの楽曲かもしれない。少し哀愁を感じさせる曲調で、心が絞られる。
「 、、売れたヤツに訊いてみたことがある。そいつも言っていた。どうして売れたのかわからないってね。全員がそうじゃないかもしれないけどよ。もちろん誰だって、大勢に聴いてもらいたくって演奏してるわけだ。だけどそうなるかどうかは、誰にもわかんねえのかな」
アキは物悲しくなってきて瞳が潤んできた。オサムの心境に同調したのかもしれないし、ギターのメロディにやられたのかもしれない。もしくは自分に引っかかっていたトゲが抜けたからなのかもしれない。
自分でもわからないのだから、誰にもわからないのだろう。
思い起こせば今朝の出来事もそうだ。良かれと思ってしたことが迷惑にもなれば、しなかったことで後悔することもある。何もしなくても巻き込まれることもあり、ともすれば主導したことで矢面に立たされることもある。
どれも自分の意思とは別のところで物事は進んでいき。誰か彼かの意図する状況のために、この身を削られていくこともある。
「ごめんなさい、、」アキは指先で潤んだ目先をおさえた。
「オレの演奏で涙してくれるなんてうれしいねえ」
オサムは気を遣っているのか、そんなふうにはぐらかしてくれた。アキも何か気の利いた言葉でも言えれば良かったのだけれども、あいにくそういった語彙を持ち合わせてはいない。
「もちろん、演奏も素晴らしいです。色んなことが自分の思い通りにならないのはわかってるんですが、だからって誰かの思惑のままにされるのでは、やりきれなくてやるせない気持ちになってしまって」
アキには自分の真っ直ぐな感情しか口に出てこない。
オサムはゆっくりと、1弦づつ指先で弾いて曲を締めた。硬質化した指先が、この柔らかなメロディを生み出しているならば、この世は多くのことで、実態とその根源には、相反する事象が多いのではないだろうか。
「コラー! オサムー! なにお客さん泣かせてるのよーっ」
ユウリだった。確かに立場的にはオサムに分が悪い。
「いえ、違うんです。わたしが、その、オサムさんのギターとか、曲に感動して、その、つい、ホロリと」
珍しく気の利いたセリフが出た。オサムは肯定しづらいのかクビをヒネったり、うなずいたりと挙動が定まらない。ユウリは半信半疑といったところか。
そんな疑われるような前歴があるのかと、さっきまで関係性を肯定していたのに、人と人との間柄は目に見えることだけでは収まらないこともある。
「あっ、ごめんなさい。いつまでも長居して。そろそろ失礼します」
そう言って、アキは席を立ちアタマを下げた。今がそのタイミングだと考えた。ユウリはその肩を抑えて、アキを再びイスに座らせる。座面のビニールカバーに穴が空いているのか、クッションの空気が抜ける音がした。
「いいのよ、気にしなくも。アナタさえよければいつまでいても良いから。どうせオサムは1日中こんなんだし。あっ、そうだ。ちょっと待ってて」
そう言ってユリエはバックヤードに入って行った。オサムは笑顔でうなずいてアキを見ている。
今日の目的は達成されてしまった。あとは特に何か用事があるわけでもない。好きなだけ居て良いと言われるのは嬉しいが、ただこのまま対面していても、間が持ちそうにない。そこへユウリが戻ってきた。
「あった、あった。これこれ」そう言って差し出されたのは一本のギターだった。
多くのギターがその店内に展示されていた。金額は10万から50万までの品揃えが幅広く、高いものだと100万を超えるものまであり、アキは度肝を抜かれてしまう。
何がその金額の差になっているのか、見ているだけでは判断基準に見当がつかない。店の奥でギターの弦をチューニングしながらメロディを奏でている人がいる。
一度、喉を鳴らしてからその人に近づいていく。この人が自分のお目当てのヒトか。そうだとすれば自分の存在を気づかせてはならない。
今日は会社が休みの日で、通勤途中にあるモールに近い駅で降りた。朝早くから開いているような店ではないと知ってはいても、気持ちを抑えきれずにいつもの通勤時間に合わせて家を出ていた。
電車を降りる時にちょとした出来事があった。最初は自分の勘違いで、相手に迷惑をかけてしまったのかと肝を冷やした。
最後は丸く収まって安堵したが、やはりこんな日ぐらいゆっくり家を出ればよかったと、またしても自分の判断が面倒に巻き込まれる要因になっており、せっかくの日なのにと気持ちが落ち込んだ。
気を取り直して午前はブラブラとモールを見てまわり、お目当てのこの店の開店時間も確認した。そのあとはコーヒーショップに入り時間までゆっくりしていた。
ドリッパーのヒトが入れてくれたコーヒーは、普段飲むモノより酸味が弱く、優しい舌ざわりだった。気持ちを落ち着かせたいアキにはピッタリで、飲み干すころには心身ともにスッキリとしていた。
また寄ろうと帰り際にレジに置いてあったカードを手にしていた。ひとりで店をキリモミしているその人は、嬉しそうに微笑んでいた。
気持ちも入れ直したところで、満を持して店に向かっていく。店に近づいたところであの音色が聴こえてきた時は、良い意味で総毛が立った。
店内に入って行くにつれ、音響設備が整っているかと思うほど、音が奥深くなっていく。その人は作業に集中していて、幸いにもアキが近づいているのに気づいていないようだ。
接客の観点からすれば誉められた状況ではないにしても、アキにすればこのまま気づかないでいてほしかった。
空気を伝わってアキに届くその音は、カラダに当たり、耳から侵入してくるとアタマの中で残音となる。アキが全然知らない曲でも、聴き心地が良く、次に弾かれる音に常に期待していた。
「何か気になるギターあったら、弾いてみていいよ」
ななめ後方から、気づかれないようにその姿を見ていたのに、その人はアキに声がけしてきた。アキの心臓が跳ね返った。このままギターの音色を聴いていたかったのに、これでおしまいかと観念した。
それなのに、その人はそれだけを言って、引き続きギターの音合わせを続けた。
もしかして自分に話しかけたわけではないのかとまわりを見た。ここにはアキ以外には誰もおらず、やはりこの状況ではアキに言っているとみるのが正しいだろう。
そう言われても何て答えればいいのか、すぐに反応できない。それに気になると言われても、なにが自分の気に入るギターかわかるはずもない。
そもそもが、アキはその目的で店内に入ったわけではない。おいそれと数十万するギターを手にするなど恐れ多すぎる。万が一にキズでも付けて、買い上げることになったら、今の手持ちでは間に合うはずもなく、少ない貯金を切り崩さなければならないだろう。
言うだけ言って、躊躇しているアキを気にかけるわけでもなく、その人は美しいメロディを奏でていく。
チューニングが終わったようで、これまでは途切れ途切れだったメロディは、曲のアタマから通しで演奏されていった。
それは何処かで聴いたことのある、懐かしいメロディだった。思わず口ずさみたくなりそうでも歌詞が出てこない。歌えたとしてもギターの音色のジャマになるだけなのでその気はない。
サウンドはさらに厚みを増していき、左右の五本の指が休むことなくうごめき、アキが知っているメロディの合間を縫って副音も複雑に絡んでおり、ボーカルのメロディに対して、音を深めるサブメロディ重ね合わせていき、ベース音が織り交ざっていた。
高校の時にうまい奴が演っていた奏法で、自分もやってみようと何度も練習したものの、どうしてもできなかった演奏だった。それを見ている分にはいとも簡単に、それも高校の時に見た以上の正確さ、音のハリ、流れるメロディを奏でていく。
この人はアキに自分の腕前を披露しているわけでもなく、弾いている内に熱中しだして、自然とそうなっているようだった。
アキは前に回り、食い入る様に指の動きを凝視した。もしかして名のある演奏者なのだろうかと、そんな期待もしたくなるほどのテクニックだ。
以前モールをブラついていた時に耳に届いたギターの音色。音源から流れてきたものではなく、生の音のダイナミックさと、ヒリヒリとする危うさに耳を奪われた。
どこから流れているのかと、あたりを見渡す。楽器屋の看板が目に入った。ギターのイラストの下に、カタカナでカノウと書かれているだけのシンプルなモノだ。
およそモールにある他の店とはかけ離れた、前世の遺物といった佇まいだった。アキにはそれが却って好印象となった。
その日は約束の時間があり、店の前を素通りするしかなった。店の前に立った時には、すでに音は止んでおり、店内も薄暗く中の様子は伺いしれない。
本当にここでいいのか確信が持てないまま、後ろ髪を引かれる思いでその場を離れた経緯があった。
次に弾き出した曲は、アキにとって苦い思い出の曲だった。仲間内のひとりの彼女が良い曲だと勧めてくれた輸入盤で、今では世代を超えて大ヒットした曲だ。
アキも直ぐにレコードを買って何度も聴いた。そして友だちに無理を言ってギターを借りて、前奏だけでも弾けるようにと、指先がボロボロになるまで練習した。
それでも演奏するというより、何とか音が出るというレベルから抜け出せず、彼女と友だち以上になることを諦めると同時に止めてしまった。そしてギターに触ったのはその時だけだ。
そんなこともありしばらく避けていた曲だった。もはやラジオでも滅多に聴かなくなった今、このタイミングで耳にするとは何の偶然か。
間近で聴くと、さらに空気の振動がビンビンと肌に響いて、心の奥まで振動してくる。アキがこんなふうに弾けたらいいなと望んでいた弾き方をしている。
最後のAメロが終わり、前奏と共に世界で一番有名と言っても過言でない、ギターソロに入ろうとした。アキはそのリフを想像するだけで肌が粟立った。
「オサムーっ!」元気のいい声が店内と、アキと彼に響き渡り、ふたりは同時にビクリと背筋を正した。
黒のTシャツに、緩めのデニムパンツ。紺地のエプロンをした店員が胸を張った。Tシャツの背中とエプロンの腹の部分に、店の名前がプリントされている。
倉庫から弦や、ストラップなどの在庫を取り出してきたあとで、手に幾つもの商品を抱えていた。商品の隙間から胸のネームプレートが見え、そこにはユウリと書かれていた。
ダメでしょう。お客サン来てるのに。ギター弾くのに集中してちゃと、オサムをたしなめ、アキに振り向き、ゴメンナサイ、いつもこんな調子でと、アタマを下げた。
店の客と言われ恐縮してしまう。オサムのギターが聴きたかっただけで、ギターが欲しい訳ではないアキは返答に困り、ただアタマを下げるしかない。
買う予定で来ていないので、資金も持ち合わせていない。押しに弱いアキなので、こういったタイプの店員にグイグイと言い寄られると、ローンとかカード払いでとか勧められて買ってしまいそうだ。
何か言ってこの場を取り繕わねばと焦っていると、余計に言葉が出なくなる。素直にギターの音色に釣られて入店しただけで、買う予定はないんですと伝えたかった。
「なんだよ~、ちゃんと接客したぜ。気になるギターがあったら手にとって弾いてみてって。なあ?」
そう、オサムに同意を求められ、首をコクコクと振るアキ。
「そう言うのは接客って言わないの。手に取ってって言われても困るよねえ?」
今度はアキは、引きつった笑顔で応える。肯定も否定もできない。それにしても一応客であるアキに、何故かふたりは一切の敬語はなく、以前からの友達のように話しかけてくる。
それが別に馴れ馴れしいという感じではなく、初めての店なのにアキを優しく懐柔していく。それで随分と気持ち楽になって言い訳の言葉も出てきた。
「あの、店長さんのギターがすごく上手で、聴き惚れてしまったというか、、」
店のふたりは、アキの言葉が終わらないうちに、声をあげて笑いはじめた。何がおかしいのか戸惑うアキ。ユウリに笑われるのはまだしも、上手だと誉めたはずのオサムにまで笑われてしまい、自分ごときが上手などと言うのも憚れるのかと焦ってしまった。
「ゴメン、ゴメン。オサムのこと店長だって言うから。そんな勘違いしたのアナタがはじめてよ。このヒトたんなるバイトよ」
「バイト?」オサムはウンウンとタテに二度クビを振って肯定した。
「そう、バイト。なんだったらわたしは店員だから、格付けとしてはオサムより上だし」
ユウリは満面の笑みでそう言った。オサムは若い子に呼び捨てされて、そんなことを言われているのに一緒になって笑っているだけだった。
アキは焦って、ユウリにアタマを下げた。それは気づかず、失礼しましたと平謝りする。店員だからといえ、そこまで卑屈になることもない。案の定、また大声で笑われることになる。
「やっだ、何それ。アナタ面白いわねえ」
全く言われる通りで、自分でも迷走しているのがわかる。ただ、そういった流れを作り出したのはユウリであって、どちらかと言えば、乗せられただけだと言いたいところだ。
とは言え反論できるはずもないアキは、引きつった笑顔をするだけだ。オサムはひと通り笑ったあとで、アキに近くのイスに座るように勧めてくれた。
ユウリは、アブラばっかり売ってないでちゃんと商売してね、と言って商品の陳列をはじめた。オサムはクビをすくめて聞き流す。
「キミは、この曲好きなの?」
アキにそう聞きながら、先ほどの曲のイントロを弾き出す。五本の指から弾き出されるメロディは、やはり複雑に絡み合って奥深いサウンドを創り出していた。
「どうしてわかるんですか?」アキは素直に疑問を問う。
オサムはニヤリとするだけで、理由は言わず演奏を続ける。とても一本のギターから紡ぎ出される音源とは思えない。自分が弾いていたメロディとは全く別物だった。
「凄いテクニックですね。もしかしてプロの方ですか?」おだてるつもりもなく、そんな聞き方をしていた。
オサムは目を見開く。これはまた笑われる流れだ。そう心配するアキをよそに、オサムは表情を緩めるに留めていた。アキの天然っぽい言動を可笑しがるよりも、自分の過去を思い起こす思考が勝った。
「プロになろうとしてた。でもよ、オレぐらいの腕のヤツはいくらでもいるんだよ」
この人のウデを持ってしてもそうなのかとアキは愕然とする。そういう話はいろんなところで耳にしていた。そしてその言葉を聞くたびに、彼らをほめたたえている自分の存在がより小さくなっていく。
これほどの演奏ができても、かの世界では平凡であり、下界に降りてきてはじめて、自分のような耳の肥えていない者から、唯一崇められるに留まっている。
それが現実であるとわかっていても、すぐには受け入れがたいアキは、以前より引っかかっていた疑問を、勢いでオサムにぶつけてしまう
アオイはショウとは目を合わさないままに、小さな消えゆるような声でそう言った。走行音や、社内アナウンスの中で何とか聞き取れるほどの声だ。アオイの耳元に口先を近付けて、これまた小声で返答をする。
「いえ、せっかく譲って下さったのに、こんなことになってしまい、こちらこそ申し訳ないです」
見知らぬ人とこんな会話をすることになるとは思いもしてなかった。特異な状況下で何か言わなければと口を突いた言葉だ。ショウは周りには会話を聞かれたくはなかった。
電車の中で会話をしている人をたまに見かけ、内輪話しで盛り上がったり、どうでもいい話しが耳に届くと辟易する。聞かなければいいのだが、一度気にしてしまうとそこから離れなれなくなってしまう。
たまに込み入った話しをする人もいて、知らない人が聞いているかもしれないのに、そんな話しがよくできるものだと感心してしまう。
まだ合って間もないと思われる人達の、ぎこちのない会話を聞くのは、その中でも苦になった。様々な理由の中で、行動を共にすることになった人たちの、お互いに気を使ったやり取りがもどかしい。
どんなことに興味があるのか、ないのか。何が好きで、何が嫌いなのか。当たり障りない質問を繰り返しては共通点を探し当てようとする。
どちらかが話しはじめると、無難な相づちを打ったり、必要以上に共感することもあり、一瞬盛り上がったりもする。それなのに胸の内では次に何を話そうか、多分そのことばかりを気にしているような、会話自体には何の中身もないやりとりが続いて行く。
とにかく一緒にいるあいだに、妙な間ができないようにするためだけの会話だ。奇跡的に共通の趣味や、関心事があれば幸運だ。一気に楽しいひとときに変わり、降りる駅があっという間に来たりする。聞いてる方もそんな人達からの呪縛から解き放たれる。
シュウがそういった気持ちでその人達をみているのは、自分も同じ状況に陥るからであり、そのような状況にならないようになるべく配慮してきた。突然降りかかった久しぶりの状況に気持ちが焦っていた。
実は出かけに躓いて、足を怪我してしまいましてね。と言おうかとして思い留まった。距離を詰めるために自分の失敗談を話すのは常套手段ではあっても、そこまでする必要はないし、なにより何の関係もないまわりの人たちに聞かれてしまう。
そういったことを考慮せずに口が軽くなってしまうのは、まさに不穏な関係性に耐えきれず、自己開示をしてしまう失敗例となる。自分の弱みをさらけ出し、チキンレースに負けてしまった結果だ。
「わたしは、どうも間が悪いというか、思い込みが激しいらしくて、、」そうアオイが口にする。
自分のことなのに他人事のように言う。確固たる自分形成がなされていない人が口にする言葉だ。これで主導権を握れたショウは気が楽になった。自分から話す必要がなくなり、相手に話させればいいだけだ。
「よくあるんですか?」と、肘を突く。肯くアオイは、それにつられてスルスルと話しはじめる。
道を聞かれた時に、勘違いしてしまい、一本違う道を教えてしまったこと。落とし物を拾って必死に追いかけたら、その人の物ではなかったこと。そんなエピソードをいくつか話した。
「いつも、あとから間違いに気づくんです」
見事なまでの失敗談だった。まわりにいる人も耳に入っているだろう。その中の何人かは自分にも経験があると同感し、何人かがトロいヤツだと静かに嘲笑しているはずだ。
満員の車内はカラダをまわりに預けられ、想像した以上に楽だった。この人には申し訳ないが座らなくてよかったと、あらためて自分の判断に確証を持つ。あと二駅ぐらい何とかもちそうだ。
シュウは不憫そうな顔を作ってアオイに相づちを打つ。こちらもこれでもちそうだ。
「一番最悪だったのは、、」もちろんアオイはシュウだけに話しているつもりだ。
話すことで贖罪した気にでもなるのか、まわりにも聞かれている感覚はなく、自分の失敗談を懺悔でもしているように話している。シュウは神の代理人でもないし、聞いているのは慈悲深い使徒達でもない。
「、、痴漢をしたひとを間違えてしまったんです」
シュウは目をつむった。まさかの内容だった。確かにそれは、ついうっかりでは済まされない思い込みで、ひとつ間違えば犯罪になってしまう。
どう反応していいかわからず、その人の横顔を見るともなしに覗きこむ。平穏な顔をして、車窓から見える風景を眺めていた。
平穏になれないのはショウの方だった。このタイミングでの突然の巻き込まれ事故だ。
まわりからは自分は知り合いと認識されているはずで、ショウはいたたまれなくなってくる。心なしか冷たい視線がこちらに向けられいる気がする。
せめてもの救いは、痴漢で捕まった側でないことか。そうであれば、すぐさまこの場を離れるたい心境になるだろう。満員の中で、脚を痛めている身でそがれできるのか、はなはだ疑問でしかない。
ここまで話しをして、今さら他人のフリもできず、とは言えこの場から立ち去ることもできず、願わくばこれ以上話しが膨らまないか、別の話題にすり替えたい。
ショウは先手を打つべく、当たり障りのない合いの手を入れる。
「そんなことがあったんですね。まあ、その話は、、」
「学生が困った顔をして、わたしに視線を投げかけてきたんです」
ショウが話しの途中でも、アオイは自分のペースで話し続ける。ショウは万事休すと目を伏せた。
「最初は何か分かりませんでしたが、直ぐに痴漢の被害を訴えているのだと感ずきました。でもどうしていいかわからないんです。学生は今度は視線を後方に向けて、目配せをはじめました。そこには背の高い人が後ろ向きに立っていました。その人に何かされていると、伝えようとしているのだと理解しました」
アオイはここまでハッキリとした口調で明確に話した。これまでの自信なさげな口ぶりではない。誰かに訴えかけるようにも聞こえる。
ショウは少し安堵した。この話の流れからすると、間違ったのはこの人ではなく、その学生ということになる。
緊張感があった周囲の人たちも、心なしかホッと落ち着いた雰囲気となる。何にしろ早く話しを切り上げたいショウは言葉を押し込んでいく。
「成る程、その学生が勘違いしたのですね。仕方ありませんよ、パニック状態だったでしょうし、後ろ向きなら正確にはわからないでしょうからね。最も間違えられた人にとっては、人権問題になるでしょうが、、」
これで幕引きとするつもりだった。これ以上の深掘りは不要だと、そんなシュウの思いが込められている。
それに今度はアオイはシュウの言葉に被せこなかった。それでシュウも締めてよいと、先ほどの言葉で結ぼうとした。アオイはシュウに話す機会を与えたというよりも、何かを待っているようだった。
「間違っていればですけどね、、」
その言葉は、誰かに突きつけるような言い方だった。自分から間違えたと言っておいて、そんな言い草はないとシュウは呆れてしまう。
もうすぐ駅だ。人が降りたら挨拶して間を取ればいい。いまさら言い合っても仕方がない。聞こえないふりをして時を稼ごうと両腕でつり革に捕まり、視線をアオイから切った。
「、、でも、間違いじゃなければどうなりますか?」
それでもアオイはまだ話し続ける。シュウもいい加減うんざりしてきた。もういいじゃないですかと、言おうとしたとき、シュウの後ろの方で人が動いた。
身動きが取れないほどの車内で、もう次の駅で降りる準備だろうか。次は大勢が降りる駅なので、それほど焦る必要はない。
電車に乗り慣れていない人が、やりがちな行動だと、シュウはその人が近づくと、少し通り道を作ってあげる。
その人はチャンスとばかりに、大柄なカラダをグイグイとねじ込んでくる。ヤレヤレといった面持ちで、シュウはやり過ごそうとする。アオイはまた車窓を眺めている。
電車は駅に止まり大勢の人が降りていった。先ほどのフライング気味の人も、無事降りられたようだ。
ふと見ると、アオイのとなりに学生服の子が立っていた。アオイに何か用でもあるのか、モジモジと何か言いたげに見える。まもなくドアが締まりますとアナウンスがされた時、その子はアオイにアタマを下げて急いで電車を降りていった。その姿を目で追うシュウ。
「知り合いですか?」
何か訳ありなのだろうか。聞いておいて、変にクビを突っ込んだことに後悔した。車内の人は減りはじめたとはいえ、これでまた変なエピソードでも話しはじめられたら目も当てられない。
アオイはクビを振った。なにか緊張感から解き放たれたように、フーッと息をついた。
「間違いでなくて良かった」そうボソリとつぶやいた。
「エッ!?」シュウのアタマの中で何かがつながっていった。
「もしかしてあのコ、痴漢に遭っていたんですか?」アオイは否定も肯定もしなかった。
「窓にあのコの表情が映ってました。なにか辛そうな表情でした」
それで痴漢の話しを切り出したのかと、シュウは悟った。あの時から、この人は自分の失敗談ではなく、その話題をすることでまわりに聞き耳を立たせ、痴漢に対して抑止力を働かせたのだ。
「何の確証もなく、誰かを咎めるほどの度胸はありません。かと言ってあのコを放って置くわけにもいかず、咄嗟に口に出ました。いつもは、それで失敗するんですが、、」
そう言って沈んだ表情でシュウの足を見た。
「いえいえ、これは、わたしの都合で、あなたの所為じゃありませんよ」
なんとも立場がなかった。もし自分があの人の立場だったら、そんな立ち回りができただろうか。できているイメージがわかないし、できるはずがない。
この人は何度も失敗しても、自分が目にしたことに対して正義を貫こうとしている。それがすべていい結果にならなくとも。いやエピソードを聞く限り明らかに失敗が多いのかもしれない。それでも弱気にはならなかった。
誰もが自分さえよければいいといった風潮がはびこる中で、誰かを助けたいという気概を常に持ち続けている優しさがあった。
散々この人のことを小バカにして、空気を読まない言動を迷惑がり、そもそも行為を無にしたからこんなことになっている。自分の小ささだけが浮き彫りになっている。
アオイは何度も首を振り、そして最後にアタマを下げてその場を去っていた。残されたのはシュウの方だった。電車が揺れてアオイは少しよろけていた。シュウはその姿にアタマを下げた。
アキは自分が何をしているのか、よくわからなくなっていた。その人と対面したとたん、言葉が出なくなってしまった。
この人は反対側のドアまで押されて、カサを取れずに次の駅で仕方なく降りてしまったのだと思い、アキも降りる駅ではなかったのに、席を立ちカサを取って後を追いかけてきた。
突発的にそうしなければならないと身体が動いた。カサを取り出すのは大変だった。すいませんと連呼して人をかき分けカサを掴み取り、再び反対側のドアまで進む。
ちょっとっ!と迷惑そうに口に出す人。口に出さなくても険しい顔をする人。そんな人たちに降りますと、アタマを下げてかき分けていく。最後は吐き出されるようにしてホームに降り立った。
電車を降りることが、こんなに大変なのかと身を持って知った。中には不憫そうな顔をして、道を譲ってくれた人もいた。どちらにせよ自分は異端であり、迷惑な存在であるのは間違いない。
多勢に無勢で、常に多数派が正である空間がそこに創られていた。留まる人側が多ければ、降りる方が反抗分子であり、降りる側が多ければ留まっていては悪になる。
大勢の側に付くことで権力を持ったような意識に支配され、弱者を下位に扱う。誰もがそんな認識を持たないままに、多数派に対して群集心理に飲み込まれていく。狭い車両の中で、そんな強権を発動している人達を見て、アキはどちらにも着きたくないと思うばかりだ。
「あのう、カサを取れずに、降りる羽目になったのかと、、 」
ようやくアキは、恐る恐ではあるがそう口にできた。シンはそれまでの間、ずっとあっけにとられていた。
「あなた、あのカサを取って、わざわざ電車から降りて追いかけてきたのですか?」
それ以外の選択肢はないはずなのに、シンは当たり前のことと思いながらも訊いてしまった。それは確認するというより、この人に自分のしたことを振り返って貰おうとするための言葉だった。
忘れ物をわざわざ持ってきたといった尊大な態度でもなく、困っているひとを助けてあげようといった慈悲の態度でもなく、どちらかと言えば、何かの使命感に突き動かされているようにみえるのもしっくりこない。
それだけシンにとっては考えられない行動であり、何か他の意図があるのではないかとの穿った勘ぐりも混じっていく。
「ええと、わたしが声かけたから、前の駅で降りられず、次の駅でカサも取れずに、仕方なく降りることになったと思い、それで、、」
シンは目を閉じて首を振った。本心でここまでやれば称賛に値する。自分の所為にするにも程があり、これでは相手によっては逆手に取られかねない。
「あのう、ここまでしていただいて大変恐縮なんですが、コレはわたしのカサじゃないんです。最初に声を掛けられた時に、そのように伝えたつもりですが、分かりづらかったら申しわけありません」
シンは苛立ってしまいそうな気持を抑えながら極力丁寧にそう言った。もしかしたら判断能力が低いとか、対話を潤滑にこなせない人なのかもしれない。
この人の言葉を聞いて、またやってしまったとアキは肩をおとした。何時も良かれと思ってしたことが裏目に出てしまう。すぐに思い出されるのが、見知らぬ人を介抱しようとした時だ。
通りを歩いていたら気分を悪そうにしている人が、ビルの壁に寄りかかっていた。まわりには人がおらず自分が何とかしないとと、思い切って声をかけた。
その人はアキを見もせずに、ただ口元を抑えて、今にも崩れ落ちそうだった。近くで見ればやはり顔色も悪く、それなのにアキが声がけしても、その人は何の反応もしてくれず無言であった。
言葉も発せず、反応もできないほど気分が悪いのか、ひとに自分の弱っている所を説明したくなく強がっているのか、アキの存在を消しているように見える。
アキからしてみれば、自分が空気にでもなったような気になった。もしかしたら自分はまわりから見えておらず、この声は相手に届いていないのかもしれない。それならそのほうがアキにとっては気が楽だった。
そう感じることはこれまでも何度もあった。そのくせ厄介事にはよく巻き込まれる。何か都合のいい時だけ、自分は他人に認識されるのだろうかとさえ思えてくる。
だからといって、このまま置き去りにするわけにもいかない。自分から声をかけた手前では、人の道に反する。懲りずに何度も声をかけ続けても、相変わらず無視を決め込んだかのように、何の反応もなかった。
その時、このビルの警備員と見られる人が寄ってきてくれた。ビルの中から自分たちの動向を目にして気になったのだろう。
アキはこれまでの状況を説明した。警備員は何度かうなずいて、ビルの中に医務室が在るから、こちらへどうぞと、その人の肩に手をやった。その人は自ら歩き出し、警備員が寄り添って進んで行った。
残されたアキは安心したとともに、釈然としない思いが残った。確かに自分は大丈夫かと訊くだけで、具体的な対応策を提示できなかった。しかし状況を言ってもらえれば、それに対処する手段を提案できたはずだ。
まったく何も言ってもらえなければ、どうすることもできない。そう憤りながらも、果たしてそんな上手くこなせただろうかと懐疑的になる。
結果だけみれば、自分など相手にせずに、このビルの警備員の助けを待ったことにより、間違いなくスムーズに事が運んだはずだ。
自分ができたことなど、せいぜい救急車か、タクシーを呼ぶぐらいだ。あのひとはそういった大事になるのが嫌だったのかもしれない。
自分なんかが首を突っ込んだところで、事態は何も好転しない。そんなことを見透かされているようだった。相手のためと思ってしていることも、実際には人を助けられない自分が嫌でしているだけなのかもしれない。
折り返しの電車が到着するアナウンスが流れた。シンは良いタイミングと、では、失礼しますと話しを終わらせようとした。
今回は会話になっただけマシだった。アキはそう思うことにして、念のために最後に確認を取ることにした。カサを少し上にして、露先の先端を包むプラスチックに引っ掛かったUSBメモリーを、シンの目の高さに運んだ。
「てっきり、コレはアナタが引っ掛けておいたと思ったものですから、、 」
アキはカサを持ったまま、自分の想い違いを反省している。
青ざめるのは今度はシンの番だった。見覚えのあるUSBが目の前にぶら下がっている。ポケットに手を突っ込むと、ハンカチしか入っておらず、今朝出かけに慌ててポケットに入れたはずのUSBがない。
電車に乗った時には、すでにUSBの存在は忘れており、何度かハンカチを取り出した時に、一緒に引っかかって、外に出てしまったのだろう。
これまでもそんな失敗は何度かしていた。無造作に後のポケットに入れた一万円札を、知らずに落としたときは、何度も通り道を往復して探したが見つからなかった。
今回はたまたまカサの露先に、USBのリングがうまいこと引っかかってくれたようだ。もしこのUSBを紛失していたら、半年間の実習の成果が水の泡となるところだった。
大学と自宅のPCに、バックアップは取ってあるものの、最終データになっているか自信がない。それをイチから確認すれば相当な時間を要するだろう。
大学と自宅でデータを行き来させているので、どちらが最新か分からなくなっている。どちらも一部が最新で、両方をつなぎ合わせて補修をしなければならない最悪の可能性もあった。
いずれにせよ、このUSBだけが最新のデータで、それ以外はそうである担保は取れていない。資料と付け合わせて確認して、データを再構築していくには相当な時間と手間がかかり、想像するだけで背中に冷たい汗が流れる。
先程まで邪険にしていたこの人が、救いの神にまで見えてくる。シンはカサの露先からUSBのみを取り去ろうとする。手が震えて一度ではうまくいかなかった。
「このカサはボクのではありませんが、このUSBはボクの物です。持ってきていいただき、ありがとうございました」
そう言うのが精一杯だった。自分の自尊心を保つための、ギリギリの言いかただった。もっとオーバーに喜んでもいいい場面だったのに、相手の表情と経緯を考えると、とてもそんな気分にはなれなかった。
「ああ、そうなんですね。どうしましょう。コレ」
シンにとってのUSBの価値を幾ばくかも感じられないアキにしてみれば、ポケットに収まってしまうUSBより、手持ち無沙汰になるカサの処遇のほうが心配だった。
電車がホームに入ってくるのが見えた。シンはさすがに、このままこの人を放置して乗り込めなかった。カサを自分のではないと否定してことで、電車を降りられなかったのは自分のせいだ。
さらに次の駅で引き返そうと降りた自分を追いかけて、あの状況でカサを、それもUSBを落とさずに持ってきてくれたことに、それなにり誠意を示したい。
この人は、シンの冷ややかな対応に憮然とすることもなく、かといって恩着せがましくもなく、それどころか何か自信なさげにしている。
それがここまでシンの対応を鈍らせていたのも事実で、もっと積極的に、明確に指摘してくれればこちらも適切な対応ができたのにと思うところはある。
電車は乗降客の動きが途絶えドアを閉じた。シンはホームに立ったままだ。アキがぼんやりと首をかしげる。乗らなくて良いのかとばかりに。
強気に出た時に失敗するパターンに陥ったシンは、謝罪の糸口が掴めない。せっかく大切な物を持ってきたのに、その態度はなんだと窘められたほうがまだ良かった。本心から謝罪して平謝りをすればスッキリするだろう。
それなのに相変わらず、自分が悪いのではないかぐらいの態度を保ち続けられ、どうにもやりにくい。シンはカサを受け取った。
「このUSB、本当に大切な物だったんです。無くしたら取り返しがつかなくなるぐらいに」
そこまで相手に付け込まれるような、自分の弱みを伝えて良かったのか、迷うところではあった。それなのに自分の今の立場を考えると、どうしてもへりくだってしまう。
そして相手の表情を見ると、だからといって何かを要求してくるタイプには見えなかった。どちらかと言えば親身になって話しを聞いていてくれている。シンは自分の目利きに自信はないくせに、今回は変に確信をしている。
「このカサは、ボクがこれから忘れ物として、駅室に届けてきます。どうぞご心配なく」
アキは申し訳ない思いでいっぱいだった。自分の伝え方が悪かったために、電車から降りられず、こうして忘れ物を渡すにも、段取り良くできていれば、折り返しの電車にも間に合っただろう。
それなのに言葉はもどかしく、要領を得ないためにこの人を引き止めてしまった。あまつさえ、この忘れ物のカサの処遇までも任せよとしている。
「あっ、いえ、これはわたしが、、」
後先を考えずに、つい口に出してしまった。これ以上この人の時間を奪ってはいけない思いが前面に出ていた。ムリなことではない。カサを届けるぐらいなら多分できるはずだ。
ふたりでカサを握り、食事のあとの支払いを主張し合う人たちのようになっていた。そしてふたりは譲りあうようにして同時にカサを手放した。カサはふたりのあいだに落ちて慌てて拾おうと手を伸ばす。
同調した動きを続けたふたりは、なんだか照れくさくなってしまい。無言でアタマを下げ合った。そのあとはシンの動きの方が機敏で、カサを持ってそれではと、スタスタと行ってしまった。アキがその後ろ姿を見送っていた。
何となく嫌な予感はしていた。
その人は足を痛めているように見えた。つり革を持つ手に必要以上の力が入っているのが目に見てわかる。電車が左右に揺れるたびに、カーブの前でスピードを落とすとき、そして曲がり終えてスピードが上がるときも、カラダに自重以外の負荷がかかると、バランスを崩さないように腕に力がこもっていた。
本当ならつり革ではなく、手すりに寄りかかった方がカラダを支えやすいはずだ。あいにく別の人がその場を占拠し、反対側の奥のドアの手摺には傘がかかっていた。隣に立っている人の持ち物だろう。
朝の車内は見かけた顔が多い。そこここに座っている人も日々同じ顔ぶれで、それぞれが自分の指定席を持っている。
電車に乗り、自分達がいつも座る席に見かけぬ人が座っていると、玉突きのように座る場所が変わっていく。整然とした車内の秩序は乱れ風景は一変する。
アオイは自分がそうなった場合は、まずはプランBとして座る場所を変える。座るところがなければプランCとして、立つ場所をドア横の手摺りにするか、連結の入り口にある手摺にするかを選択するといった具合だ。
今日は秩序ではなく、アオイの心が乱れた。アオイは今日も同じ席を確保していた。いつもと違っていたのは目の前に、足を痛めてそうな人が立ったことだ。
アオイが座っているのは横に長い10人掛けの一番端、ドア横の手摺りの隣りだ。降りる側のドアに近いので、そこをメインポジションにしている。足を痛めている人も多分同じ理由なのだろう。
見かけない顔なので常客ではない。何らかの理由でこの電車に乗り合わせた初見さんだ。もしくは今後は同じ時間と空間を共有し、秩序を守る同志となるかもしれない。
アオイの心が乱れているのは、席を譲るべきか、そうしないでおくか決めかねているからだ。この人が前に立った時からそれははじまっていた。
それは結局のところ、自分がどうしたいかだけなのに、決断に至る理由が見つからず、自分の中で堂々巡りをし続けて、脳の動きが衰えていく。
この人は席を譲って欲しいのか、そこから考えはじめてしまうアオイであった。もしそうでない場合、譲った立場がなくなり、再び座り直す訳にもいかず、その場で立ちすくんでしまうだろう。その後の展開がイメージできない。
快く座ってもらえた場合、近くで立っていても、話が弾むわけでもなく、何か見返りを求めているようで居づらくなるだろう。そんな状況になれば自分の居場所がなくなってしまう。
そうなってしまった時の収まりどころのない自分をまわりに晒したくない。小さな自分を守るのに必死になっている。自分がそうしないことの理由を探して、同時にこの状況下で何もできない自分を赦したかった。
まわりは皆な、多分寝た振りをして目を閉じている。普段なら新聞を広げている人も、新聞をヒザに置き目を閉じていた。アオイも普段なら降りる駅までは、目を閉じているので気づかなかったはずだ。
見えていない世界で何が起きても自分には何の影響も与えない。目にしたとたんにそれについて何かを考えなければならなくなってしまう。
アオイは見るでもなしに前に立った人の足元に目をやったところ、右足を少し宙に浮かせ、左足だけで支えているように見え、その人の顔を見たときに目が合ってしまった。
次は複数の路線が集合しているターミナル駅で、大勢の乗降客がある。せっかくの席を譲れば、しばらく満員の中で立ち続けることになる。
それはこの人にとっても同じで、アオイが席を譲らなければ立ち続けることになるだろう。席を譲るなら今しかない。駅が近づいて来るにしたがって、気持ちばかりが追い立てられていった。
考え出したら動けなる。瞬発的に動かなければ何もできない。脊髄反射だった。咄嗟に立ち上がって声をかけてしまった。声は裏返っていた。
その人は困った顔をして首を振った。続いてつり革を持つ反対の手で制止してきた。その瞬間で顔がカーッと赤くなった。恥ずかしかった。まわりの人が全員が、自分を見ているようだった。そして想像通り、断られたとはいえ、また座り直すわけにもいかず、その人の横に棒立ちしている自分がいた。
善意であれば、相手は必ず喜んで受け入れるわけではない。この人にも事情があり、100人が求めたものを、この人が求めているとは限らない。
そして最大の問題点は、アオイが自分の本心ではなく、善行をすることを自分に強要したことであり、そうすることで身を軽くしようとして、中途半端なまま自我を貫き遂行してしまったことだ。
それが一転、困ったように拒まれて、善行は悪行までは行かなくても、十分にはた迷惑になってしまった。アオイはその急激な落差についていけず、体内でも一気に体温が上昇し、そして見る見ると急降下していった。
駅に着いて大勢の人がなだれ込んで来た。席が空いているのを目ざとく見つけた人が、ふたりを押しのけて座席を確保した。その人は顔を上げようともせずにすぐに寝たフリをした。
すぐにふたりのまわりは人で固められ身動きがとれなくなる。さっきまで赤の他人で、近くにいても何の気遣いをする必要のなかったふたりは、今では気まずい雰囲気の中で、お互いを意識しなければならない存在になっていった。
何となく嫌な予感はしていた。
いつもより家を出るのが遅れたショウは焦っていた。出掛けハナに母親に用事を言いつけられた。預けてある保険の証書を準備しておいて欲しいと言われた。
急がなくてもいいと言われたが、それをどこにしまっておいたか、すぐに思い出せない。そういう頼み事は休みの日にとお願いしていても、気づいた時に言わないと忘れちゃうからとか、今日じゃなくて休みの日でいいからと、だいたい朝の出かける間際に言ってくる。
せめて前日に言って欲しいと伝えるも、そもそも帰りの遅いショウとは時間が合わない。メモに書いて置いておけばと提案しても、それぐらいのことも面倒なのか、どうしても口頭で伝えてくる。
それはふたりのあいだにコミュニケーションが減ったことへの、本能的な行動なのかもしれない。どのみち仕事から疲れて帰ってきて、テーブルにそんなメモが置いてあったら、それはそれでげんなりするだろう。そんな夜の遅くに探し物をしはじめる気にもならないはずだ。
どちらにせよ在処がわかっていれば、それほど時間もかからないことも、仕舞ってから数ヶ月後ぐらいに、ポツンと思い出したように言って来られると、どこに仕舞っておいたのか、思い出せないことはよくある。
金融関係なので今回は目星はついている。ところが以前にそう思って探した時に、どうしても見つからず、他の案件の場所もひっくり返して、見直ししても無かったことがある。念のため母親の片付け場所を探してみたら、そこにちゃんと仕舞ってあった。
その時の損失時間やら、徒労感は思いだしただけでも腹立たしい。母親はあっけらかんと、ああここに仕舞っておいたのね。と笑った。そんな経緯もあり、なるべく早く解決したかった。このまま仕事に行っても、気になってしまい集中力が削がれそうだ。
思い当たるファイルブックを取り出し、ペラペラとめくっていく。なんの書類か分からないものが、幾つもファイリングされていた。
開ける度に整理しなければと、その時は思っても事が片付けば、またいつか時間を作ってからとファイルを戻して、そのまま放置されたままだ。
今日もそうであり、そういった日々の積み重ねが、最終的には急いでるところで大切な時間を奪っていく。ようやくお目当ての証書が見つかりホッとする。
時計を見るといつも家を出る時間より2分過ぎていた。慌ててクリアファイルに入れてテーブルに置いたあと、イヤイヤと首を振る。
母親に声をかけずに置いておけば、見ていないなどと言われて紛失の元だ。部屋まで行って声をかければ、ますます家を出るのが遅れてしまう。取り出したファイルブックにクリアファイルごと戻して、元ある場所に戻し急いで家を出た。
遅れを取り戻すべく、少し早歩きで駅に進む。駅までの所要時間は歩いて8分なので、少し急げば間に合うはずだ。ショウは駆け足をはじめる。
普段なら走って駅に向かう人を見ると、時間管理がなっていないズボラな人に見えるため、自分が急いでいる姿を人目に晒したくはなかったが、今日はそんなことを言ってられない。
急いで家を出ると、そのあとで色々な心配事がアタマをよぎる。冷蔵庫の扉を締め忘れていないか、水を出しっぱなしにしていないか、灯りは全部消したか、コンロの火を消してガスの元栓を閉じたか。
こういう時に限って何ひとつ記憶に残っておらず、思い出すことができない。心配は募っても早まる足は止まらない。きっと大丈夫と、なんの確証もない安心感を植え付けようとする。
家には母親がいる。何か忘れていても対処してくれるはずだ、、 火の消し忘れ以外はと、新たな心配事を作ってしまう。
時計を見る。なんとか電車に間に合いそうだ。それでも歩みは緩めない。少し汗ばむ。朝から下着を汗でぬらしたくはないと少しスピードを落とした。そして目の前が真っ暗になった。
ショウは、あっと声をあげて地面に伏せていた。右ヒザに激痛がはしった。すぐにまわりを見る。幸い誰もいない。側溝のミゾのわずかな段差で躓いていた。
早く立ち上がらなければと急いだ。こんな醜態は急いで駅まで走る以上に、絶対に人に見られたくはない。ましてや誰かに手助けされるなど絶対に嫌だった。
右足では踏ん張れなかった。左足を曲げて両手をヒザにつき何とか立ち上がる。スラックスは破れてはいなかったが血が薄っすら滲んでいた。
恐る恐る右脚を前に出す。やはり力が入らない。仕方なく左足を軸に、右脚を引きずるように前に出す。自分では目立たぬようにしていても、周りから見ればぎこちなく歩いているのが一目瞭然だろう。
あのとき間に合うとスピードを緩めたばかりにと、後悔しても時は戻って来ない。せっかく挽回した時間も吐き出してしまった。もう間に合わない。駅に着いて、いつもは使うことのないエレベーターを待った。
自分のような若者がエレベーターなど使えば、周りに楽をしていると見られるだけで、使うことはこれまではなかった。幸いショウ以外に待っている人はいなかった。
エレベーターに乗り込みホームへのボタンを押した。いつも乗る電車は行ってしまった時間だ。歩くスピードも考慮して、会社に着く時間が10分から15分は遅くなってしまう。会社に着いてからの、しなければならない優先順位を変えなければとアタマを動かす。
ホームに着くと、すぐに次の電車が進入してくるところだった。ツイている。これなら5分ぐらいで何とかなりそうだった。まだ天に見放されたわけではないようだとショウは電車に乗り込む。
座席は全て埋まっていた。いつも乗る電車ならば、座ることができたのに、一本違えば顔ぶれも変わり、座席はすべて埋まっていた。
座りたい気持ちもあるが、ヒザの曲げ伸ばしで痛みが出る。座ったり立ったりに時間がかかりるし、座ってもヒザを曲げられそうになく、足を投げ出していては、満員になったときにまわりの客に迷惑だ。
そう思うと席に座るより、このまま立っていたほうが負担がない。立っていても右脚に力を入れなければ痛みも少ないので支障はなかった。
方向性が決まり、気持ちも落ち着いたところで、視線を感じ思わず目をやってしまった。目の前に座っている人と目が合ってしまった。
すぐに目を切ったが、その人は何か収まりが悪いように見え、ショウはすぐに悟った。席を譲ろうかとしているのだ。声をかけられるのは避けたいが、場所を移動するわけにもいかない。もうすぐ電車は駅へ着こうとしている。
突然その人は立ち上がった。どうぞ。アシ、イタイんですよね? 上ずる声でそう言った。
足を痛めている人に、席を譲らなければならないという道義心だけが、この人を突き動かしているようだった。そのために想像力とか、思考は停止し、このまま受け入れられること以外が発生した時に、対応できなくなっていた。
ショウは空いている右手で目を覆った。そのまま首を振った。言葉で拒否することができなかった。拒否のゼスチャーだと理解されないといけないので、席に戻ることを促すために手を振った。
その人は完全に浮足立っていた。顔が赤らみ、この先の身の振りどころを見失っている。それはショウも同じだった。何も起きて欲しくなく、そっとしておいて欲しい時に限って、思わぬところから横槍が入る。
それが善意から来ていれば、文句は言えない。それを呼び込む弱い自分を晒した代償だ。ふたりは次の駅まで身動きが取れないまま、やり過ごさなければならなくなった。
「スイマセンこんなことになっちゃって」なにか話さなければならないと、ついそんな言葉が出てしまった。
車窓からは線路と垂直に伸びた商店街が見えた。それもいつもなら目にすることのない風景だった。秩序が乱れていた。
何となく嫌な予感はしていた。
傘を手摺に引っ掛けたまま電車を降りようとした人がいる。
急いでいるのか傘のことを忘れているのかと思い、勇気を出して声をかけた。声は上ずっていた。
知らない人が周りにいる中で、知らない人に声をかけるのは初めてだった。カーッとアタマが熱くなっていくのがわかる。慣れないことをするものではない。
その人は降り際に驚いたように振り返った。そして首を振った。それは自分の傘ではないと言っているはずだ。
そして悲しそうな顔をた。それでまたアタマが熱くなった。どうすればいいのかと、少しパニックになりかける。親切心がアダになったようだ。
そんな経験はなんどかあった。それなのに、止めておけばいいのに、言わなかった時の負荷を考えると、つい口に出てしまう。
気づいたことを言わなかったために、相手のその後の不幸を考えると、自分の所為でと考えてしまう性格だった。
でもこれではその人のためではなく、自分のためにお節介をやいているにすぎない。
その人も自分の傘でないならば、無視して降りてしまえばよかったのに、親切心を放って置くことができなかったのか、もしくは傘を置き忘れた間抜けだと、まわりに思われるのが嫌だったのか。
いずれにせよ降りる手前で止まったため、乗り込んでくる大勢の乗車客の波にのまれ、反対側のドアまで押し戻されていった。
何かしてはいけないことをしてしまった申し訳なさだけが残った。自分の間の悪さに情けなさが募る。自分が楽になるために誰かを苦しませてしまった。
何となく嫌な予感はしていた。
シンがこの電車に乗る前からカサがそこに残されていた。シンよりあとに乗ってきた人から見れば、シンがカサを手に持っているのが億劫で、手すりに引っ掛けていると思うだろう。
乗車客の多い駅で降りなければならないシンは、いつもドアの近くの隅、座席の真横に陣取って立っている。
電車での移動をはじめたときに、ご乗車の方から奥に進んでくださいというアナウンスにしたがって素直に奥まで行ってしまった。
電車に乗ろうとすると、やたらと指示を受ける。
やれ、黄色い線の内側を歩け。ホームに入る電車に気をつけろ。駆け込み乗車はするな。必要とする人に座席を譲れ。電車の中は静かにしろ。モノを食べるな。聖人君主になれ、、
そこまでは言われないが、ありとあらゆる人の行動を制限しようとしているようだったる。
どれも社会生活をするうえで当たり前のことで、人に迷惑をかけないようにと、親から厳しく言い聞かされているシンにとっては守って当然の行為だった。
ただ、それを駅から駅のあいだ、際限なく繰り返し聞かされると気持ちが滅入ってくる。
それはそんなにも常識を守らない人がいる裏返しであり、刷り込みのように言い続けられると、却って反発したくなるなるのではないかと心配になる。
それに注意が多いと言うことは、それだけ守らない人が多くいる証であり、そうであれば自分ひとりぐらい守らなくてもいいのではないか、そこに大義名分があればなおさらで、そんな人間心理を増長させると聞いて事がある。
小心者であるシンはそんなことは出来はしない。その時もいいつけ通り、車両の奥で降りる駅を迎えた。そして当然のように降りない人の壁に阻まれて身動きが取れない。これでは声をあげて道を開けてもらうしか降りられない。
アナウンスは乗るときは奥へ行けと言っても、降りる時に奥の降りる方のために道を空けて下さいとは言わない。黄色い線の内側を歩いても、駆け込み乗車をしなくても、、 エトセトラ、エトセトラ、そこは自己責任に転嫁されるようだ。
狭い隙間にカラダをねじ込んで、スイマセン降りますと、アタマを下げながら通ろうとしてみた。
降りるんならこんな奥に居るなよとばかりの冷ややかな視線や、時にはあからさまに今から降りるのかと強い口調で言われた。放送の指示通りにしたのに、、
道半ばでドアは閉じられた。乗車の群集でドア周りは固められていた。強靭なラグビーチームのスクラムを一人で押しのけることはできない。
かくして車両の奥にいたために降りられなかった世間知らずでマヌケ面を大勢のひとに見られた。気まずい空気の中でひと駅やり過ごすことになった。
自分が迷惑をかけた認識もないのに、ことごとく周りからは存在自体を否定されているようで、そのたびに自分の不甲斐なさで気が滅入る。
ここでもまた、人に迷惑をかけないようしていたのに、露骨に邪魔者扱いされ、知らなかった無知と、公共の呼びかけに馬鹿正直に従ったゆえの失態を受け入れることになる。
何か自分は元々そういった負を背負って生きなければならないのか、どれだけ自分としては、まともな行動をとったとしても、まわりからはそのように見られないことが何度もあった。
同じようなことは過去にもあった。このあいだなど、駐輪場を出るときに、取り出した自転車を通路に一旦止めて、サイフの在処を探していた時、どこに入れたのかと、ポケットやらカバンやら、いろんな場所に手を突っ込んでいたら、見知らぬ人にこんなとこに止めるのかと嫌な顔でたしなめられた。
最初は何を文句言われているのか分からなかった。どうやらそれは、奥の空いている場所でなく、出口に近い通路に自転車を止めようとしていると思われたようだ。通路に置かれている自転車は他にも数台あった。
シンは駐輪場から出るところで、探し物をしているだけだと言いたかったが、言葉が出てこなかった。なによりコチラの言い分も聞かず、見た目だけで通路に自転車を止める人間だと思われたことがショックだった。
結局それを即座に否定しきれず、スイマセンとアタマを下げて駐輪場の外に移動した。その人は未だ憤懣やる方ないといった感じで、フンッと鼻息荒く自転車を止めに行った。
我は物言えぬ庶民の代表であり、悪人を退治した英雄気取りだろうか。うがった見方をすれば、あの人は今日こんなことがあったと、家族や知り合いにのたまうのだろう。自分がそこにいなくても、自分が貶められている想像が繰り返される。
次の駅ではさすがに気の毒に思ったのか、まわりが気づかいしてくれて道を作ってくれたおかげで降りることができた。そんな経験を経て、それ以降はドアに近い場所を確保するようになった。
今日は朝方に一時激しく雨が降っていた。今はもう止んでおり、朝日も零れている。早朝の雨の中に出かけたひとが降りる時には止んでいたため、引っ掛けておいた傘の存在を忘れて降りてしまったのだろう。
自分がその立場なら、あっという間に忘れ去るだろうと思われることへの共感で、この状況下では逆に気になって仕方なく、カサのことばかり考えている。
普段からそうであれば、忘れ物などしなくなるはずで、そうであれば、いまのシンのように忘れ物以外の思考がストップしてしまい、それはそれで様々な支障を及ぼすだろう。
そう思えば忘却は理にかなっているのか。手から放たれたモノは、その時点で自分の所有物では無くなってしまうと仮定すれば、そうした忘却が新しい叡智を生み出してきたのかもしれない。
そんな思いにふけっていると、次の駅に到着するアナウンスが流れ出した。
シンはカサを見ないように、さりげなくドア脇から横にズレて行き、降りようと並んでいる人の後ろに付いた。そんな行動は余計に怪しまれそうであっても、カサを凝視しながら場所を移動するよりはマシだろう。
車窓からホームが見えてきた。今日も大勢の乗車客が、エサを待つ野獣のようにして待ち構えている。少なくともシンにはそう見えた。ドアが開いてモタモタしていれば乗車客に丸呑みされてしまう。
最初の頃に、降りたあと立ち並ぶ群集を前に、どこを進もうかとオロオロしていたら、乗る人達のジャマになり舌打ちを食らった。ドアの隅から横手に降りていくお作法を知らなかった。
電車がホームに侵入し、スピードを落とし停車の準備にはいる。カサとの距離も自分の持ち物と思われないぐらい十分とれた。電車が止まりドアが開こうとするとき声をかけられた。
心臓が跳ね上がる「傘、忘れてますよ」。震えた声が届いた。
シンは無視すればいいのに振り向いてしまった。向こう側で座っていた人が心配そうな顔をしてカサを指差していた。同時に大勢がシンの方に目を向ける。見なければ良かったとすぐに後悔する。
その人の身になれば、傘を忘れて電車を降りようとする自分を気遣い、勇気を持って声をかけたのだ。それを無視することはシンには出来なかった。
その一瞬の躊躇が命取りになった。
怒涛の如く乗車客がなだれ込んできて、シンはあっという間に反対のドアまで押し込められた。降りますと声を出すことができない。これまでと同じだった。
今さらそんなことを言い出しても多勢に無勢、どうすることもできない密集の状態の中で、通り道を空けてもらえるとは思えない。シンは約束の時間に間に合わなくなるかもしれないと心が痛んだ。
次の駅は押し込まれた側のドアが開いたので、そのまますんなりと降りられた。カサのことはもう忘れていた。それを指摘してきた人のことも。
急いで反対側のホームに行くために階段を駆け上がった。普段の運動不足も響いて半分ぐらいで息が切れてくる。登り上がった通路の窓から、新旧混在した建物が立ち並ぶ商店街が目に入った。
上から見るその風景は、カラフルな屋根と、古い甍の波が散りばめられたちょっとしたテーマパークのようにも見えた。ひと駅すぎるとこんな場所があったのかと、一瞬だけ気に留めて今度は階段を駆け下りる。
反対方面に向かう電車はまさに出発するところで、大きな警告音と共に、駆け込み乗車はおやめくださいとがなり立てている。
シンは心が怯んだ。自分の利益を優先するために、公序に逆らおうとしている。それでも待っている人のために急がなければならない。
降りた客が階段を上って来る。数人だがその人たちをかき分けて進む。スイマセン、通りますと声を出す。そんなことこれまでしたことがなかった。
ホームに着く。ドアが閉まりかけていた。シンは駆け寄った。ドアの前には駅員がいてシンを止めようとする。シンは制止する駅員をすり抜けて、閉まろうとするドアに手を突っ込んで無理やりこじ開ける、、、
シンは止まっていた。そんなことはどうしたってできなかった。駅員がそれでいいとでも言うように微笑んでいた。シンは愛想笑いして息を整える。目の前を電車が走り出していった。
「あの、、 」そんなシンに声をかける人がいた。振り返るシン。それは自分にカサを忘れていると声をかけた人だった。
続きをどうぞと、ワカスギが小首を下げて促す。マキはワインをひと口含んでから話しはじめた。
「あそこにはね。アップライトのピアノが置いてあったの」。ワカスギの疑問を解消するようにそう言った。
「そうなんですね」。相づちをうつ。
「この商店街、、 今はモールって呼ぶらしいんだけど、ここの中央広場に移設したの」
何度もうなずくワカスギは、自分なりにその言葉を咀嚼していく。そして、当然のようにこの疑問にたどり着く。
「なぜ手放したのですか? あっ、ムリならば答えなくてもいいですよ。ちょっとした好奇心です」
片方の頬を膨らませるマキ。異物が入っているような険しい表情で長考に入る。
その表情は意図せず、ワカスギを甘美な世界に誘っていく。そしてその時間が長いほど、最後に至る言葉を待つこの時間は有効になっていく。
「わたしが弾けなくなったから、、」。そう言って左手をプラプラとさせた。
その原因が左手に不具合があると示しているのか、見た感じでだけでは結論づけるに至らない。
「簡単に言えばそうなるんでしょうけど、そうなった要因は、けして一つ二つではないと、先ほどのアナタの話しを聞けば想像はつきます。イヤなことを思い出させてしまったならスミマセン」
「まあねえ、話しだしたら3部作になっちゃうぐらいだけど、アナタの理論でいくと、こうなると決まっていたってなるのなら、それもすべてムダ話でしかないわね」
「いえ、その工程を否定するつもりはありませんよ」。ワカスギは申し訳無さそうに急いで否定した。
「ばかねえ、冗談よ。でもね、自分でも笑っちゃうけど、こうなることを望んでいた部分もあるし、さっきのタマオみたいに自分から仕向けた部分もある。だから、自業自得なのかもしれない。弾けなくなったのは物理的要因もあるけど、精神的要因の方が大きいかもしれない。それでもわたしに弾かせようとする利権者が、こうしていつまでも追いかけて来る。誰の差し金なの? 、、無理なら、答えなくてもいいけどね」
マキはそう言って微笑んだ。今度はマキが頂点を向かえる番になった。
未来を予知するような言い方をしても、所詮は物理的な原則に当てはめた、因果応報的なことを言っているだけだ。事故とか災害とか大きな話を絡めて、いかにも真理と思わせるレトリックも含めて、それを透かされた恥ずかしさもある。
「申し訳けないですが、それは、、 」
「でしょうね。お酒飲んで、宿探しまでは仕込み通りだろうけど、タクシーがあんなんなのは想定外だったわね」
「いえ、タクシーも仕込みで、ココに来るように段取られていたようです。無理やり飲みに付き合わされて、駅から遠いところに放り出されて、上手いこと宿を紹介するだなんて。挙げ句に財布まですり替えられてて」
「だから動揺してなかったのね。たとえ財布が空でも、あたしがいることがわかったから、成功報酬のアテができたし。ああ、そういう意味なら、わたしがどうにかしてくれるって言うのは間違いじゃないわね。えっ、そうしたらアナタの報酬を使い込んじゃったことになるのかしら?」
「いえ、ぼくはただの会社員ですから給料しか出ませんよ。さしずめアレは必要経費ですかね」
「だったらパーっと使っちゃっても問題ないわね」
マキはそうおどける。ワカスギはどうぞの意味で手を表にする。
「別にぼくがなにか働きをしたわけじゃありません。誰かの敷いたレールに乗っかってココにいるだけです。それにしても驚きです。久しぶりですよね。ココに顔を出すの?」
誰かがゴーサインを出して、ワカスギをここに導いた。ホギかタマキが通じていると考えるのがセオリーだが、それならワカスギが出張る必要がない。
「どうしてそう思うの?」。そう訊いた時点で、それが正解と言っている。
「まあ、いろいろと、、」。こめかみ辺りを指先で掻き、言葉をぼやかすワカスギ。
「良いから言ってみて。それも守秘義務があるの?」。そこまで言われれば気になってしかたない。
「そうですね、最初にぼくのビールを取ってくれたとき、こんなのあるんだって顔で、奥から取り出してました。彼のビールとは違う銘柄でした、、 」
マキはハナをふくらそませた。そんなところまで見ているワカスギの目利きと、迂闊に自分の履歴を披露する不甲斐ない自分の両方が腹立たしかった。
「それだけ? それじゃあ、状況証拠でしかないわね」。精一杯の切り返しだ。
「、、 店主のひとのアナタを見る目がそんな目をしてました。久しぶりに見るアナタの動作、言葉、ロビーの雰囲気。それらを懐かしんでいるようで、嬉しそうでもあり、悲しそうでもありました。それはあるべきものがそこにないからでしょう」
マキは、その一角に目をやった。もうおどおどとする必要はない。今は正視することができた。
「それは結果論でしかないんじゃない? まあ、いいけど。 、、あのピアノが運び出されて、初めて来たの。ホントに無くなっていた。ホギさんには悪いことしたわ。誰かが弾くと思ってたんだけど。心が痛かった。来るんじゃなかったって今は思ってる。えっ、タマオも仕込みじゃないわよね?」
首を振るワカスギ。否定ではなくわからないという意味だ。
「でも、そうするとアイツと出会った時点で、わたしの未来は決まっていたってわけね。アナタ云々じゃなくてね、そうでも考えないと、自分が酷くツイてない人間って気になる。でっ、どうするの。報告しなくて良いの?」
「報告は明日、会社ですることになっています。直ぐにアナタを連れ戻そうというつもりは、ないんじゃないですか。もちろんこれは、ぼくがそう感じただけですけど、、 」
少し乱れかけた髪をかき上げるマキ。これからの面倒事への対処が煩わしくアタマにのしかかる。
「遅かれ、早かれなんだから。そのうえでアナタに訊くけどね、どうしてわたしが、ここで身を隠すようにピアノを続けていたか推察してみて?」
そう言って、マキはワインをついだ。今はそれをツマミに愉しもうという腹だ。
「そうですね、、 さしずめ、あらかじめ用意された舞台で、予定調和を演じることに嫌気が差し、こういった場末の、、 」
言葉にトゲがあるかと心配してマキをうかがうが、ワインを口内で転がし愉しそうにしているのを見て先を続ける。
「 、、自分が目当てでもない不特定多数の客の前で演奏することで、自分の本当の価値を見いだしたかった。偶然性の混沌の中で一体感や、強い熱量を目の当たりにして恍惚を知り、アーティストとしての渇望を満たされるようになった、、 」
マキは、音の立たない安っぽい拍手をした。グラスは空になっている。
「あたらずとも、遠からず、、 んー、でも、カスったぐらいか」と笑った。
「そんな中で、、 」。そう言われたからなのか、ワカスギは続きを語り出した。その際にワインを注ぐのも忘れない。
「 、、物理的なものか、精神的なものか、思うように弾けなくなっている自分と、それでも称賛してくれる周りとのギャップが相容れなくなり、いつしかピアノをお拒絶するように遠ざかっていった。それでもこれまでの経緯を知る者が、挫折からの再起を売りに、もう一度表舞台に立たせようとしている。なにより、その美貌に陶酔しているスポンサーが多く、金の成る木を前に、会社としてはこのまま引退させるわけにはいかない」
頬杖をついてブスッとした表情のマキがボヤく。
「なによ、最後くだりは。自分の所の会社事情のまんまじゃないの。いいの? そんなこと本人に暴露しちゃって」
「ぼくのような下っ端には、そこまでの込み入った話は降りてきませんから。アナタの見解を聞いたうえで、あくまでもぼくの推察です。持ち得た資源の多さゆえに、苦労が多かったと心中ご察しします」
マキは満更でない表情をしていた。遠回りな策略が、マキの気持を和らげていたのは間違いない。
「アナタを送り込んできた理由がわかった気がする。うまいこと懐柔されたのかもしれない」
「なんだいマキちゃん。こんなオトコに懐柔されたって。ボクを差し置いて。ひどいなあ」
いつの間にか裏戸が開いていた。タマキが大袋を下げて帰っていた。決まった未来では無くなりそうだ。マキは声をあげて笑い、ワカスギは声を殺して笑った。
部屋のひとつのドアが開いた。眠たげな女性が目を擦りながら言った。ショートの髪が無造作にはね上がっていた。
「静かにしてくんない? 明日も早いんだから」
「そりゃ、どう言うことだいマキちゃん」首を傾げるタマキ。
マキがアーモンドを一粒、口に放り込む「ココで酒を飲んでいたから、、 」。カリッと音を立てて咀嚼する。
「 、、厄介事に巻き込まれた。そうですね。あなた達の未来も決まっていたんです」
ワカスギが言葉を引き継いだ。蚊帳の外のタマキは面白くなく顔を歪めた。
もう一度マキはサイフを改める。10万はありそうだった。全員分の宿代から、酒代からを払っても半分以上は余裕で手元に残る。
「それで、アナタのね、未来がどうなってるか知らないけど。どうせ決まってる未来なら、楽しく過ごすという選択肢もあるわよね? だってアナタ、想定外の展開にして、既定路線から外そうとしてるんでしょ。ちがうの?」
そう言ってマキはサイフをワカスギの方へ投げた。そして指には3枚の万札が挟まっていた。
「タマオさあ。近くのコンビニでテキトーにツマミとか買ってきてよ。酒はここのを飲めばいいから」
「コンビニの酒のが安くないかい?」。そう言いながらもマキの指から万札を抜き取る。
「セコいこと言わないの。だからアナタはタマオなのよ。まだ結構、在庫が残てるからさ。店の関係者として売上に貢献しなきゃならないでしょ」
どっちがセコいんだと言いたいタマキは言葉を飲み込む。文句あるとばかりにマキがワカスギに目をやる。
コンビニで3万円のツマミとは、どれぐらいになるのかと、けしてセコい話でないく、ワカスギは額に手をやり目を瞑る。タマキはブツクサ言いながら裏口から出ていった。
「アナタ、狙ってたんでしょ。この展開」
タマキが締め損ねた扉が、風の力で閉じられた。ギィーという音を立てて退室を知らせる。無表情のままに答えるワカスギ。
「そうであればアナタは、ぼくが決めた通りの未来にいるわけですね」
ハナから息を抜くマキ「以外とそうやって煽ることもできるんだ」。
「それでもあなたは、ぼくがそうした意図をもって行動していると知っていて、ぼくの仕掛けにノッてきた」
ワカスギの目線はロビーの奥に留まっていた。その一角だけが壁も、床も、まわりより少し小ぎれいに見えた。何か大きな物が、例えば戸棚のような物が置かれていて、それが取り去られた跡のようだった。
「どうだろ? だってアナタ、こんなに現金が入ってるなんて知らずに誘い込んだんでしょ? アナタのサイフと同様に、空っぽだったらどうするつもりだったの?」
目立つ一角ではあり、そこに目がいってしまうのも仕方がないことだ。マキにはそれが気にかかる。
「どうもこうも、その運命のままに従うだけです。どちらかが見かねて、ぼくに援助してくれるとか、、」
マキはワカスギの視線を遮って、カラダをテーブルに預ける。胸のふくらみの揺り返しでドレスが波を打った。
「ないわね。店主に言いつけて、とっとと追い出してもらうから。結果オーライで考えてるなら、少し甘いんじゃないの」
チーズやナッツを摘みはじめるマキ。新しいツマミのアテができて安心したわけではなく、逆に落ち着かなくなっている。ワカスギはそれをさらに突いてマキを刺激する。
「もう、アナタもわかってるんでしょ、、 」
マキはピクっと隆起し、こめかみが引きつった。苛立ちを感じさせる言葉だ。そこになんの信憑性もないはずなのに、それが各処に血を巡らせて行く。
「ぼくには何の力もありません。ただ運命にしたがって、生きているだけです。こうすれば、未来がこうなる。ああしたから、歴史が動いたなんてものは、都合よくそう思いたい人の。そう、まさに独り善がりでしかありません」
マキがタマキをなじった言葉を引用された。血のめぐりが肢体をシビレさせて、粘質部分から粟出してくる。
「誰もが自分が変えたと思い込んでいる世界を信じているだけで、周りからすれば、平常な一日が整然と執り行われているに過ぎません。もちろん、それについて、ぼくはその人たちを否定するつもりはありませんよ。これはぼくの見解で、ぼくの目の前で動き続けている世界について話しているだけですから」
マキは言葉が出なくなっていた。ワカスギにカラダを固められ、弛められ、徐々に力が入らなくなっていく。
すべてが決まっていると断言されれば、虚しさが先に立つ中で、どこか気が楽になる自分がいることも否めなかった。
ワカスギとは住む世界や、見ているモノが違っているだけと思いたかった。そう自分に言い聞かせようとするほど、その術中にハマっていく気がする。
目の前の男が、それを当然とばかりに受け止めて、悠然としていればなおのこと、溢れるほど強く勃興する力を感じてしまう。
マキに目の前を塞がれたワカスギは、今度はカラダを捻り、裏戸を気にしはじめた。マキはそこも気にかけて欲しくない。覆い隠すすべがなく。何度も視感に晒される。
少し前からマキもタマキの戻りが気になっいた。あれから随分と時間が経っていた。
ワカスギはビールを飲み干したようで、手持ち無沙汰に空のカンを回している。おかわりを待っているのかもしれない。
ワカスギは、マキがタマキの戻りが遅いことを切り出すのを待っているようだ。それを言いだせばワカスギの思うつぼだ。そうなると決まっていたのだから。
むしろマキがパシりをさせて、タマキが自由になれる状況を作り出していた。3万円はタマキがそうするのに十分な金額だ。それは同時に自分の価値が3万円であることを認めることになる。
ワカスギはマキの動向を待っているようだ。この状況を変えようとマキは立ち上がり、タマキが残していった空きカンと、ワカスギのそれを引き取り、カウンターへ向かった。
途中でゴミ箱へカンを投げ入れる。フリーザーを開け手を奥に突っ込んでビールを取り出し、ワカスギのもとに戻った。
「あのさ、わたしからもひとつ言わせて貰うけど。持論てヤツを、、 」。そうマキは切り出した。
「何かを成し遂げようとすると、いつだってその前に先ず乗り越えなければならない壁があった。それが何なの知りたかった、、」
マキの本意を見極めようと、ワカスギは上目遣いでマキの目を凝視した。マキも視線を外さない。
「誰にでも起こる事象だと言えばそうだし、誰かに特定された事なのかもしれない。ただ、わたしはこれまで、何度も、本来ならば必要のない壁を、まず越えることからはじめなければならなかったの。それがムダな労力だったのか、それとも、その障壁を乗り越えた者だけが、高みへたどり着けるのか、もしその障壁がなければ、何も手にすることができなかったのか。その答えは明白だと思わない?」
そう言いながらもマキは、どちらに転んだのか明白な表情ではなかった。アタマを持ち上げて空を仰ぐワカスギ。耳たぶを少し引っ張る仕草をする。
「少なからず、アナタの言葉に感化されて、決まっていた未来に巻き込まれるのに付き合ってるんだから、それについて何か腹落ちする言葉があっても良いと思うんだけど」
小首を傾げると幾束かの髪がマキの目を覆った。あたかもそうなることが自然であるように、指先で髪を耳にかけ直した。
「ボクには、アナタが何を手にできて、何をできなかったのか、窺い知ることはできません。ただ、今のアナタを見る限り、、 」
首をひねるマキ。耳をワカスギに向け言葉を逃さないようにする。
「 、、それがアナタに悪い作用を及ぼしているとは見えません」
「そう、、 必然なのね、、 」
ビールの礼というわけではないだろうが、ワカスギは空になったグラスへワインを注いだ。いなくなったタマキの代わりに。そうしてマキに着座を勧める。
「ただ、そうして先人たちが勝ち取ってきた権利なり、行使できる場を、生まれたときから、当たり前のように履行している者たちは、あって当たり前のものとして、なんのありがたみもなく、さらに自分の都合のいいように解釈して、本質から外れて歪んだモノにしてしまうことは残念でなりません」
マキはワイングラスを持ち上げ、乾杯のポーズで賛同を示す。
「ホント。そうやって、無意味な行為をこなしていかなきゃならなかった。本来なら経済的な働きであることも、これまでもこうだったという慣習と、金のことは口にしないという美徳に収められてしまう」
ワカスギも缶ビールを持ち上げマキに応える。
そして目線はあの一角に向けられる。意識的なのか、無意識なのか、どちらにせよその行為はマキを誘っていく。
「アナタがサイフの心配をしないのも、詐欺や犯罪の仮説にノッてこないのも、タマオが戻って来ないことも、それらすべてに関心がない理由がようやくわかったわ」
ワカスギはそう切り出した。唐突なのは承知のうえだ。それでもなぜか、いま言うべきだと決め込んだ。
「ほとんどの事象は、すでに決まっているのに、人は何も知らぬままに明日に希望を持って生きています、、」
身近な人には言いにくいことも、明日会うはずもない行きずりだから言えることがある。
「オイオイ、ニイちゃん。何をおっぱじめるつもりなんだい。ココは哲学を語るような場所じゃないでしょう」
何を言い出しはじめたのかと、タマキが言葉を突っ込んでくる。その表情はマキに同意を得ようとしているのがアリアリだ。
「人生観は語ってもいいんじゃない。酔ったうえでグダグダ言うのと変わんないんだから」
タマキの言葉にはつれないマキが、ワカスギに目配せして先を促した。この若者が絡んでくれば選択肢に広がりができる。それを考慮して誘い込んでいる。
「アナタ。タマキさん。アナタはもう明日の朝どうなっているのか決まっているのに、それがあたかも自分で選択したかのような錯覚を得ている。そしてそれが思い描いた結果でなければ、運のなさを悲観したり、自分以外のせいにして精算しようとする」
タマキはマキを見た。マキは愉快気に笑みを漏らしている。もうマキの未来は、タマキの希望通りでないと示唆している顔に見えた。薄ら笑いを浮かべるタマキ。
「わかったよ。確かにね、ニイちゃんの言うことも一理あるねえ。だが一般論としてはどうだろかな。悲観的観測ばかりじゃく、予想以上の幸運が待ってることだってあるんじゃないかい?」
もう一度、マキを見る。考えごとでもしている表情で、目線は壁面を見渡している。まだだ、ゼロではない。この若造を言い負かすことで事態に変化があるはずだ。そんな望みを捨てきれないタマキであった。
「ムリだと思っていたことが、奇跡的に成功したとか、ダメ元でやってみたら上手くいった、なんてこともあるでしょうに。だから人は明日への希望を持って生きていけるから。そうじゃないかい?」
マキがニヤリと笑った。よし行けるとタマキは続けざまに滑らかに語りだす。
「だいたい人類の進歩なんてものは、偶然の積み重ねで成り立っているんだからさあ。思い通りに行かない事も、後から正解だったなんてこともあるよね。望まなかった前戯も、最後にはあってよかった思えることだってさあ」
なんの例えだと、目線で天を仰ぐマキは、否定の意味でナイナイとクビを振る。そしてタマキはつられるようにクビを傾げる。例えばという意図を含んでワカスギは人差し指を天に差す。タマキはついその先を見てしまう。シミの付いた天井があるだけだ。
「ぼくが言っているのは、悲観とか楽観ではなく、ただ事象だけが面々と続く未来があるだけということです。アナタが言う偶然の積み重ねも、誰の視点からの偶然であるか。それを仕組んだ者にとっては必然でしかないのに。それと同じように、アナタにとって素晴らしく奇跡のような出来事も、誰かにとってはただの日常にしか過ぎず、場合によっては悲観すべき出来事かもしれません。すべては個々人に捉え方に依存するだけです」
声を漏らしそうになったマキは、すんでのところでタマキの一言でとどまれた
「えっ、なんで?」
喜ばしいことが悲しむべきことになる意味がわからない。喜びは万人共通のはずだ。ましてや自分の前戯を喜ばない女性がいると思えない。
「そういう男のひとりよがりが、生産性を阻害してると理解できてない時点でダメね」
独り善がりとは自分だけが良い気持ちになっていることか。それが生産性が落ちる原因と言われた気がするタマキは心外である。若者どころか、これではマキにまでもやり込められてしまう。
こうなればと最初にワカスギの行動を見たときに、気になっていたことをカマをかけて言うしかない。これがハズレればジ・エンドだ。
「だったらさあ、ニイちゃんの明日ももう決まってる訳だねえ。その財布の中身がそれを物語ってるでしょ」
片目を細め、いかにも知っている風に指摘をした。これでワカスギがどう出るかタマキは待つ。マキも無関心であった視線をワカスギに向けた。
ワカスギに動揺はなかった。むしろ遅い指摘と言えた。なぜあのとき店主のホギも言ってこなかったのか、それほどワカスギの行動は余りに不自然だった。
そして思ったほどタマキはニブいわけではなく、このふたりも気づいていたのだ。サイフに金が入っていないのではないかと。ワカスギは後ポケットから財布を取り出してテーブルに置いた。
「このサイフはぼくの物でありません」
眉間にシワが寄る。思惑との違いにタマキが確認をしようと手を伸ばそうとする。しかし、その前にマキが取り去った「じゃあ、誰のなの?」。
首をふるワカスギ。それを見て、マキは勝手にサイフを広げた。数枚の札が入っているのを確認して怪訝な顔をする。横目で見たタマキがヒューと口を鳴らす。
「誰かの物と入れ違ったのでしょう。たとえば、一緒に飲んだ得意先の上役の人の物とか、、」
「直ぐにどうにかしないところをみるとワケ有りね。その財布はいいとして、アナタ。自分の財布が心配じゃないの?」
ワカスギは首をすくめる「どうせ大して入ってませんから。タクシーはポケットにあった千円札で払いましたし、そのヒトの言う通り、実は家に帰るお金も、ココのホテル代もなかったんです。前金と言われ、とにかく時間を作ろうと、、」。
「朝方に逃げ出すつもりだったのかい? なんだいニイチャンの未来が一番悲観的じゃないの」
ワカスギは薄っすらと笑みをこぼす「、、悲観するかどうかは、ぼくの判断次第ですよ」先程も言いましたけどとはあえて言わない。それがタマキには二重に堪え言葉を詰まらせる。
「何時の時点でサイフがすり替わってしまったのか。その時点でもうぼくの未来は決定づけられたんです」
「取り違えたのではなく、すり替えられたと考えるの?」
「ぼくは自分が間違いをしない人間とは思っていません。取り違えた可能性もあるでしょう。もしくは先方が間違えたかもしれません。それと同時に、第三者によって仕組まれたことも否定できません」
「誰かにとっての必然、、」マキの言葉にワカスギは知らぬ顔をして言葉をかぶせる。
「 、、なのかもしれませんね」
ふーんといった表情でマキは面白がっている。ナッツもチーズも必要なく、ワインが進んでいる。これではまたワインが足りなくなりそうだ。
「諦めてるの? なんだかそれじゃあ流され過ぎじゃない?」。マキは方向性を変えてきた。
「そうだねえ。今からだって、どうにでもなるじゃない。どんなことだって取り返すことはできるでしょうに」
ココぞとばかりにマキの否定的な意見に乗っかってくる。タマキはふたりの駆け引きを気づいていない。
誰かにとっての誰かには、当然ワカスギも含んでいるはずだ。まだそこに行くには早い。ワカスギは一度目を閉じてから意を決したように話し出す
「非難を承知で言いますが、ニュースで報道される痛ましい事件。どうしてその場所で起きたのか。何故その人が選ばれたのか。たまたま巻き込まれたというのでは、余りにも悲劇ではないでしょうか? 例えば、楽しみして出かけた家族旅行の先で、暴走したクルマに追突された。親戚一同で集まって楽しい夕べを過ごしていたら災害に巻き込まれた。もちろんその人達のせいではなく、そこで起きることが決まっていて、たまたまそこに居たに過ぎないとしたら。運が悪かったで片付けってしまうのは、ひとがそう思わなければやりきれない、心の自己防衛をするためにバイアスをかけているにすぎません」
ワカスギの言葉に、納得がいかないタマキが尋ねた。
「じゃあ、ニイちゃんのサイフがすげ替えられたのも、その場にニイちゃんがいただけって理屈かい? そりゃ運が悪い以外のなんだってんだか」
「すげ替えられたかどうかはわかりません。ここに別の人のサイフがあり、ぼくのサイフが無くなっているという事実しか、ぼくにはわからないんですから」
意外な顔をしてマキが問いかけた「アナタ、サイフの中、見てないの?」。
一度首を縦に振り「開いてもいません」。とワカスギは言った。
「フーン、そういうこと、、じゃあカードが一枚も入っていないのも知らないんだ」
そこにタマキが食いつく「そんだけ金持ってて、カードなしは解せないねえ。現金主義にも程があるんじゃないの」。
そこでマキはワインを飲み干した。空になったグラスにタマキがワインを注ぐ。口のなかでワインをころがすマキは、何やら思案してから言葉を発した。
「現金には手を付けず、カードを頂いて最大限利用する。で、その財布は知らぬ誰かに押し付ける。そうね、できれば気の弱そうな、お金に不自由している人が好ましいわね」
「で、ニイチャンの出番ってわけかい」。タマキが追随する。
「自分の手持ちより多くリターンがあれば、損したとは思わないし、カードなんかより現金の方が遣いやすいから」
「ああ、その日のうちに遣っちゃうねえ」
「お金を遣ってアシがつけば、その人の犯行にミスリードさせることもできる」
「知能犯の思うツボだねえ」
とたんにふたりの会話が活発化してきた。それはマキがリードを取っている。そういう言葉のやりとりを待っていたのか、ワインの進みもスピードが増し、タマキが健気に給仕する。
「アナタがその場所にいなければ、こんな厄介には巻き込まれなかった。それは同情するけど、それはわたしたちも同様よね?」
自分達も被害者の仲間入りを宣言しても、マキは楽し気であった。