『90で!」時速90kmをキープすれば間に合うと言ってきた。
その言葉を聞きマリイは90kmに乗せる。急いでいれば、もっと踏み込んでもよさそうなところでも、必要以上にスピードを出さないのは、必要な距離で止めるためにハードなブレーキを強いる羽目になってしまうからだ。
決めたクリッピングポイントを取るためにブレーキをドカンと踏み込んでしまえば、タイヤがロックして逆に制動距離も長くなる。タイヤも傷むし、ブレーキにも負荷がかかる。
ブレーキパッドが過熱してしまえば、このあとでどうしても酷使しなければならない時に、思ったように止まれなくては意味がない。それがエイキチの考え方だ。
このクルマで、最短の時間で目的地につく手段をトータルで考えて、クルマに極度の負担をかけ続けることは避けなければならない。
これまで自分の思う通り、好きなように走ってきたマリイには、最初はそれがよくわからなかった。速く走り、短い距離で止まり、すかさず加速する。それ以外に何が必要なのかわかっていなかった。
マリイの視界は前方を広角に捉えている。大通りのクルマの流れ、人の行き交い、バイクや自転車の有無をチェックする。エイキチからの情報と掛け合わせて、リスクを最小限に抑える走りができるよう準備は怠らない。
いくら速く走れても事故を起こせば元も子もない。必ず止めれるタイミングをポケットに入れておく。そのためにも、クルマに負担をかけない走りが必要になる。それがエイキチの教えだった。
確かにこれまでは最初のうちは速くても、後半にダレていくことが多かった。クルマが言うことを利かなくなっていくのがもどかしかった。それが自分の所為だとは知らなずにいた。
歩行者信号の青色が点滅しはじめるのが目に入った。もうすぐ信号が黄色に変わる。左折するにはまだ余裕があった。
そのときエイキチが叫んだ。
「マルイチだっ!」マリイは頰を引きつらせる。
ひとりの歩行者が、左折先の横断歩道を渡ろうとしている。マリイの進入と重なる。このままだと歩道の前で一旦停止してやり過ごすことになり、ストップアンドゴーは時間の大幅なロスになる。
「マルイチも渡ろうと急いでいる。前に出るな。先に行かせるんだ」あえてエイキチは冷静に話しかける。
了解のシグナルをピッと鳴らす。オウとか、わかったとか、それだけでも口にしたくない時は無線で音を送るようにしている。交差点まで100mしかない。
エイキチの指示を踏まえて走りを変えていった。それで以前より早く現地につき、人を拾って送り届けることができるようになった。ひとりで走っていたら決して気付かなかったことだ。
マリイの位置からも歩行者が見えた。歩行者信号の青が点滅しはじめて小走りになった。ジワリとブレーキをみ込む。コチラの存在を気づかせてはならない。
クルマが左折してくると感づけば歩行者の足が止まる。そうなってはマリイも安全を期してクルマを止めなければならなくなる。アレをやるしかないと決断する。
今が良ければ、その先がどうなるか出たとこ勝負だったのは、なにも走りだけではなかった。マリイは以前よりも上手に生きていけるようになった。それが自分にとって正しいかどうかは別問題だった。
前輪に荷重が適度にかかったところでステアをあてて、リアを少しだけ横に滑らせる。横荷重を保ちながら、その動きを殺さぬようにカウンターを切る。派手なスキール音は立てない。
すかさずクラッチを切ってスロットルを戻す。エンジン音が無となり、惰性で左折して行く。先程のコーナーリングとは違うアプローチだ。
実際のスピードより、その残像はゆっくりに見える。だが速い。歩行者は信号の点滅に気がいっており歩みを早めた。その後ろをアルファは音もなく通り抜けて行く。
それは清風が通り過ぎて行ったかのように、歩行者の背後をかすめて行った。トルクがかかっていないクルマを制御するために、超絶のステアリング捌きでアルファを進行方向に向ける。
前を向いたところでスロットルを踏み込みながらシフトを2速に入れる。すぐさま回転数を合わせ、加速に必要なトルクを生み出すと、ケツを叩かれた跳ね馬のように、アルファは一気に前に押し出される。
信号を渡り終えた歩行者は、突然耳に届くその音に何事かと振り向く。その時はすでにマリイのアルファは視界から遠のいていった。通行人をやり過ごすための神業的な走行をアドリブで行っていた。
交通量の多い場所で目立つ走りは控えていた。それは代理人からの忠告があったからだ。完璧なミッションをやり遂げても、アタマにそんな呪縛が浮かんでいた。舌打ちをするマリイ。
いくら自由に走っているつもりでも、飼い犬のように首輪をつけられて、その範囲でしか走り回れない自分が無性に腹立たしかった。アルファは再び加速して車列に合流していく。
「すげえな。いつそんな走りを身に着けたんだ?」エイキチが言う。マリイは何も返さない。
どう対処するか、アタマの中で咄嗟に考えた。イメージだけが先行して、それを具現化するようにカラダが反応していった。誰にでも、直ぐにできるような簡単な走りではない。それなのに単純に喜べなかった。
何かと比較するわけでもなく。今できるベストなパフォーマンスを成し遂げたとき、マリイは何にも代えがたい喜びを感じられていた。エイキチの言葉から、自分の走りが磨かれていくことが心地よかった。
それなのに、やはり慣れていくのか、現状に満足できていないのか、飼い犬になりつつある自分が許せないのか、以前のように無のままに、自然と湧き上がる高揚感はなかった。
速く走りつつも、抑制している。自分の欲望よりも体裁を先行している。エイキチと培ってきた能力を、上から咎められないために使っている。
目的地には1分前に着くことができた。これ以降もエイキチの、ラリーでのコ・ドライバーがおこなうコーチングさながらの、適切な状況描写とマリイの鋭い状況判断でキレのある走りを繰り返し、通常では到達できない時間で約束の地に着いていた。
公園の入り口で男性をピックアップし、駅までの道のりは、法定速度で間に合うほどの時間を作ってしまった。
初老の男性は礼儀正しい人で、何度もマリイにお礼を言い、マリイもこれには閉口してしまう。相席になった女性にも、寄り道をさせてしまったことを丁寧にお詫びしていた。
客が相席になること自体はじめての状況で、慣れないマリイもどう対処していいかわからず、紳士然とした男性の取り扱いに苦慮してしまう。
金一封に気がいって、この状況まで想定できなかった。あまり早く着きすぎるのも良くないので、黙らせるためにスピードを出す訳にもいかない。
こんな時のエイキチは、客の取り扱いまでは業務外とばかりに無言だ。男性はどちらに話しかけるでもなく自分のことを話した。
どうしても乗らなければ間に合わない電車の時刻があると、その理由を切々と語っていた。返事をしなくても済むのは幸いだった。車内は三人のそれぞれの思惑の中で、混沌とした雰囲気となっていた。
男性を駅に届ける時には、よりスローダウンして、警官の目につかないように配慮する。男性が希望する電車の発車時刻には、余裕で間に合う時間に横付けする。
降りる間際に男性は、酷くスピードが出るから気をつけるよう言われたが、普段のタクシーより乗り心地が良かったと、笑顔で言った。
男性は満足だったかもしれないが、マリイには誉め言葉ではなかった。唯一の報いは、これで金一封を手にすることができただけだった。
なにか自分の気持ちを見透かされているようで、あとに残った女性客の存在がやけに疎ましかった。それはマリイが自分の本心を偽って、この仕事をし続けていることが紛れもない事実だからだろう。
クルマはモールの裏手に着けられた。ここが女性を降ろす場所だった。行き先はモールの中にあっても、クルマは進入することができない。そのため自分たちのガレージの出入り口になっている裏側に着けられた。
商店街からモールに仕様替えして、風景がどんどんと変わっていった。それはマリイが乗り付ける裏手側からも見て取れた。
寂れて落ちぶれていただけの商店街は、複合ショッピングセンターのようなショップも増えてきている。それがなにかノスタルジックな中に、真新しい最新の店もありといった、複雑な景色を作り出している。
近未来SFのロケーションだとか、異国の地にいるようだとかで好評らしい。変わりゆくモールがこの先どうなるか、変わった先が誰の望んだカタチになっているのか。表通りを歩かないマリイにはどうでもいいことであった。
女性客は、どうもとだけ言ってクルマを降りた。男性客を迎えに行く途中の高速運転の中でも、声をあげることももなく、ましてや気絶することもなかった。
それどころか、何か一部始終を監視されているように、マリイには感じられた。別れ際に何か言われるのではないかと、ここまでの道中は気になって仕方がなかった。
いまクルマを降りても、平衡感覚を失うことなく平然と歩いていく姿を見て、マリイは感心する一方で、彼女がいったい、このモールのどこに向かっているのか気になり、その後ろ姿を追っていた。
女性はそれに気づいたのかクルリと振り向き、マリイはバツが悪く視線を切る。
「ボクシングジムってどっち?」それを問うために振り返った様だ。
歩きはじめて思い出したのか、やはりクルマにヤラれて意識が朦朧としているのか。その言葉で気づいたかの体で目を合わた。
はじめてしっかりと見たその顔つきは、思ったより若かった。よく見れば高校生ぐらいにみえる。
自分と同じぐらいと踏んでいたのに、これでは気に掛けていた自分が、常に圧倒されていたようで、何とも格好がつかなかった。
マリイはすかさず西の方に親指を立て、正面から入って左に沿って歩けば見えてくると伝えた。女は軽く手を上げて再び歩き出していった。
「どうした?もう着いたんだろ」インカムからエイキチの声がした。
マリイは、ああとだけこたえる。ボクシングジムと言っても、今じゃダンス教室みたいになってしまったと聞いていた。
あの娘がそれを目的で行くとは考えにくかった。それもオーナーからの輸送依頼だ。しばらく彼女が歩く先を見ていた。本当にジムに向かうつもりなのか。そして途中で止めた。それを確認してどうなるわけでもない。
「気になるのか?」再びエイキチだ。
「別に、、」マリイはそそくさと事務所に向った。
もうこれ以上、自分の感情を推し量られるのは嫌だった。