private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

A day in the life 5

2017-01-08 10:12:22 | 連続小説

 かずみはショーウィンドの中でマネキンの服を整え、首の角度を調節し、ほこりを掃う作業をしていた。近頃では人間に似せたマネキンはあまり見かけなくなり、人型をデフォルメしたタイプが主流で、この店で使っているマネキンも、デッサン用の人形を大きくした具合にのっぺりとした顔をしている。昔ながらの人間の顔をしたマネキンの方が、お客も商品を使用しているイメージがつかめやすくアピールしやすいはずだが、外国人の映画俳優の顔立ちと体型では、目にする日本人にはかえってコンプレックスとなり、自分が付けても絵にならないと商品を遠ざける要因になっているとも聞く。
 整えたマネキンの出来栄えを確認するために、一歩引いた場所に立ち、もうすこし足を開いた方が商品が良く見えるだろうかと、あごに手を添えて動きを止めたまま思案を巡らしていると、ショーウィンドの中にやけにリアルなマネキンがいると、まわりからは異様に見えるたらしく、何人かの通行人が歩みを止めて指をさしてくる。かずみは照れ隠しの意味も含め、あわててマネキンのズボンの裾をいじりはじめる。
 店内に客がいない時は、頃あいを見てショーウィンドに立ち、商品の入れ替えをしたり、配置替えをするように言われている。最初はどうしてそんなことを頻繁におこなうのか理由がわからなかったが、マネキンで商品を展示するように、この店では、この店員が接客しますというアピールをさせている。
 紳士用品を扱う店ならば男性客がその大半を占めるので、若くて小ぎれいな女性店員の接客を望んでいてもおかしくはない。多分にそういったわかりやすい事実だけが真の理由ではなくとも、へんに意識するよりは、悠々としたしていたほうが心も落ち着き、周囲を見渡す余裕も出てくる。他者からの目線というものは、人になんらかの変化を与える力を持っているのだと、テレビでも売れっ子のタレントがみるみるまにアカぬけていく様子からもよく言われることを、かずみは身を持って実感できた。
 かずみが通りの歩道を歩く人の流れを見ていると、風体の上がらない年配の男に、少年がぶつかったかのように見えた。ぶつかったと確認が持てなかったのは、それからふたりは振り向きあい、ふたりだけがわかり合う呼吸を持って、なにかしら確信しあっていたように見えたからだ。年配の男はますます両肩を落として紙袋を小脇に歩いて行く。少年はぶつかったせいではないだろうが歩き方が不自由だった。それを見てかずみは、ふたりの相容れない関係性よりも、小学生の時の嫌な思い出のほうに思考が移っていった。
 かずみの同級生には足の不自由な男の子がいた。その男の子は運動会の徒競争で、ほかの同級生で一緒に走ることを望んだ。当然のようにスタートから一気に離され、コースの三分の二をひとりで走ることになる。そうすると観覧している父兄や、生徒たちから期せずして手拍子が起こり、そのなかを感動のゴールをする。それがいつしか運動会の定番となり、その光景は数年間繰り返された。かずみもそれを見ると感動して、ハンディや不利な条件があっても一生懸命やることで、まわりの理解を得て、賞賛されるのだと人間の寛容さを子供心に感じたものだった。
 それが実は、そんな簡単なことではないと知ったのは中学生に入ってからだった。友達とおしゃべりをしているときに話しの流れの中でいつしかその話題となり、自分はこれほど感動したと得意げに話したところ、小学生の時に母親がPTAの会長をしていたひとりが実はそんな美談ではないと、かずみ以上の得意げな顔でウラ話を披露してきた。
 当時はかけっこで順位をつけるのは教育上よくないとかで、子どもの個性を消して横並びを良しとする風潮があり、それを支持するPTA側と、それはいくらなんでもやりすぎだと、従来のやりかたを維持したい学校側が今後の運営をめぐり協議をおこなっており、その子は学校側の有効な広告塔にされただけだったのだ。
 あの感動的なシーンは真剣勝負で走ることによって成り立つために、順位をつけないでゴールするという考えは支持されなくなっていった。そんな話にかずみがショックを受けていると、さらに追い打ちをかけるように、学校側が従来方式を支持していたのは、なにも自分たちの在籍中にやりかたを変えて、あとあと非難されることを嫌っただけでなく、学区の地域で影響力がある父親の息子が運動神経抜群で足が速く、徒競争で一位をとるのを楽しみにしているという、よくあるはなしもくっついてきた。弱者に舞台を与えることを大義名分として、自分の子どもの晴れ舞台を守ろうとしたのだ。たしかにその子は毎回ぶっちぎりで一位になり、女子からの歓声も一番大きく、運動会のもうひとつの花形だったのを思い出した。
 フェアプレイが信条であるスポーツの世界であっても、勝つべき人が勝ち、勝つべきチームが勝つにはそれなりの理由がある。その後に見込まれるお金の流れが大きい方に勝つ権利がおのずと与えられていく。小学生の徒競争でお金は動かなくとも、それとは別に権力を持つ者が、その影響力を行使することで得るものは多くある。その主役を演じる者が、一年に一度の自分の晴れの舞台を手放せと言うのは、小学生とその子をもつ親に取っては簡単ではないのだ。
 世の中はすべて、論理的に動いていて、必然の上で起こりうる事態だけが目の前に繰り広げられていくと知って、それからというもの穿ったものの見方をしなければ、なんだか自分が置き去りにされるような気分になり、それが勝手な自分の思いであっても、物事に感動してもストレートに他言できなくなった。ある意味、自分史の分岐点となった出来事で、久しぶりに思い起こしても苦い口触りがよみがえってきた。
 いい加減にショーウィンドの中でもすることがなくなったので、入口の前に立ちお客を迎えるポーズをとる。所在もなく、お客の来店を待っているだけの時間がかずみは好きではない。自分としては、からだがあいているなら、それこそ店内のかたづけをしたり、在庫の確認をしたり、掃除をしたりと、こまごまとした作業を言いつけられてもやぶさかではないのに、こういった高級店では常に悠然としていた方がいいのだと注意された。
 それも実はそれだけの理由ではなく、どんな雑多な作業でも必要な時におこなわなければ、無駄な動きだけでしかなく、利益に結び付かなければ意味がないのだと知らされ、あいかわらず自分は、甘い世界の中で、甘い考えでしかできない人間なのだと思い知った。
 レジの前で昨日の売り上げを確認しながら、この店の店長であるアリヤマキョウコが何度もかずみの方を横目で見てくる。子供の時に見たアニメの再放送に出ていた、自然の中で育った女の子の教育係をする、黒縁めがねのロッテンなんとかという名前の女性執事にそっくりな顔立ちをしている。
 ディティールはあとからいくらでも詰めることができる。いちいち立ち止まって時間をかけても誰も喜ばない。特に効率を重んじる経営者からよく見られるわけはなく、無駄なことに時間をかけるなとか、つねに経営者目線で作業は効率的におこなえと言い聞かされていた。
 なんにせよ自分は人材会社から一定の契約のもとに託された身であり、必要以上のことをしても、意にそぐわなければ煙たがられるし、なにもしなければ使えないと報告される。その基準が明確にあるわけではなく、最後は雇用主に気に入られるかどうかにかかってくることで、長く楽しく働けるかどうかが決まってしまう。かずみは今回もまた、その望みは薄いだろうと感じていた。
 それもこれも自分の性格ないのだと、最後にはそこに行きついてしまう。別にひとに嫌われるように生きているつもりはないはずなのに、いろいろと間が悪かったりして、いつしかその流れにはまっている。一度そこにはまってしまうと、なかなかリカバリーすることは難しく、なにをどうしたってそのまま良くない方へ傾いていき、負のスパイラルにはまっていく。そんな経験が多ければ、おのずと最悪のケースを想定してしまう。抗いはしていても、どうしてもいつか来た道、目にした風景を見るはめになっていた。
 最初はこの店の制服のことが受け入れがたかった。ヒザ上の短めのスカートと、ボタン付きのシャツの上に黒いベストを着ている。シャツのボタンは二つ目まで外すようにいわれ、ネックレスはしてもいいが、大きい目のペンダントはNGだ。
 ふだん着ている服もたいして変わらないので、それになんの問題も感じていなかった。ところがこの仕事を始めてわかったことは、高いところの物を取る時に背を伸ばせば、スカートは随分と上にあがり、太ももがあらわになるのはしかたないとしても、背伸びをすれば下着まで出そうになり気を使う必要があった。座った客の前でひざまずけば、これまたスカートはたくし上がり、太ももを折り重ねるようにして密着させスカートに空間ができるのを防がなければならない。また、立った客にひざまずく時には、その目線から胸元が三合目まで見渡せることとなり、それでも不自然に胸元を抑えては、お客さまを疑うことになるのでしてはいけないと言われ、せめてブラジャーが目につかないように小ぶりの物を着用すると、余計に生身をさらすことになる。
 これが店の責任者が男性でもあれば、セクハラまがいのブラック企業とでもいえるのだろうが、女性店長の店で、そもそも求人条件にも盛り込まれており、高額報酬の理由がそれゆえであると、よく考えもせずに飛びついた身であれば、文句を言える筋合いではなかった。
 いまの世の中は、モノが売れない時代になり、商品を購入するにも別の付加価値があれば他との差別化になるっているのも時代の流れだ。契約会社の担当者からは、見えそうで見えない制服を、女性を売り物にしていると悪い方で考えるのではなく、そうであるからこそ、ひとつひとつの動作に気をつかえて、身のこなしや立ち振る舞いの優雅さにつなげ、美的センスを養い、自分磨きにもつながるのだと、もっともらしく説明された。それに見えそうで、見えないところがポイントで、見えてしまえば興ざめになると、ありがたい忠告もいただき、それは自分の趣味かと思わずツッコみそうになった。
 女性を利用したビジネスといえば大げさすぎるのかもしれない。かずみの契約している人材会社はそういった会社の要望に応えるための人材を募り、その分野に特化することで重宝され、この業界では先駆けとなり売り上げを伸ばしているらしい。また、風俗はだめだけとこれぐらいならと興味を持つ主婦層や、あわよくばモデルや、タレントとしてスカウトされることをもくろむ高卒、大卒の応募も多いと聞いており、売り手と買い手の両方のニーズをうまく埋め合わせている。他人の眼が集まるということは、自分を変化させる大きな要因になると誰もがわかっているのだ。
 買い物に来る理由はなにも必要な商品を手にするだけではない。客の思いがどこにあり、店側の意図がどこにあろうと、一致さえすればどちらの利益にもつながるのだ。どのような店であれリピーターを増やすことが重要視しており、その中からどれだけ多くのロイヤルカスタマーを増やせるかが店員の能力とされる。ショーウィンドの中に立つのも、製品の整理や取り出し、かたづけをする動作も、客の目につけば、それはすべて無駄な作業にはならないのだ。担当になんと説明されようとも、女をつかった商売のやりかたから疑問をぬぐいされず、女性をそういう目で見たければ、そういったたぐいのお店に行った方が健全だとも思っていた。それが何度かお客とのやりとりを経験していく中で、かずみの気持ちに変化があらわれてきた。
 お客は商品を買いにくるときに、女性店員とのやりとりを楽しむのもその範疇で、満足できればまた次も来てみようと考えるのは当然のなりゆきだ。それを女性に積極的になれない若者や、中年層とか、年配になり若い女性と接することの少なくなった人たちの、不健全な嗜好だと色眼鏡で見てしまうのは、女性側の偏見なのかもしれない。 きっかけがなんであれ、かずみに接客して欲しいと思い、わざわざ来店してもらえたのなら嬉しくもあり、そこで前回来店した時のお礼を述べられれば、次はもっと頑張ろうとやりがいにもつながったのは間違いない。それと同時に、あまりにも素直にお客の言葉を信じてもいけないと自分を諌めることも忘れない。主役を演じていながら、他の誰かにいいように遣われたくはない。ルールや現象を受け入れるかどうかは、そこからなにを読み取り、導き出せるかという自分の能力に依存していると考えられるようになった。
「いらっしゃいませ」
 扉を開いて客が入店して来た。かずみはすぐ、その男に身覚えがあるのを思い出していた。先月に来店して購入してもらえたお客だった。気の弱そうな顔立ちで、女性店員に積極的に話しかけるようなタイプではなさそうだった。かずみのことが気に入ってまた来店したのであれば、かずみにとってはじめてのリピーターになり、今後の常連になってもらえる可能性もあるため、ここでの接客には力が入る。
 ディスプレイされている商品を見渡すお客を目で追いながら、それとなく足元を見て、手元にあるタブレットで一ヶ月前の購入顧客を検索する。外観から大体の年齢を予想して絞り込むと『ノガミ コウスケ』という人物であることがわかった。35歳で、独身という情報も見逃さない。けして高給取りではないはずで、この店に来るために無理をして高価なスーツを着ていると思えるのは、その着こなしを見ればおおよその推測はつく。メンバーズカードを提示してもらってから顧客情報を引き出すのは最後の手段とし、こちらがお客を覚えていて、声をかけるというシチュエーションが大切で、特別な客としてかずみが認識していることを印象付けなければならない。
「ノガミさま。ご来店ありがとうございます。本日はどのようなお品をお探しですか? ご希望のメーカー、デザインや、ご使用の場面などをお話しいただければ、数種類のお薦めを見つくろいます」
 緊張感からか、のどの奥に渇きを感じ、硬めの声になっていた。かずみは男の横にまわりこみ、少し腰をおとした態勢で話しかける。男は明らかに自分の名前を覚えていてくれたことに感動している。かずみはたたみかけるように、男に対し目線を上にあげぎみにして首をかしげる。一番従順に見えるしぐさを、姿見の前でなんども試した末に身につけた角度だ。それにボタンをふたつ開けた効果も加わる。男がどんなに女性を意識していないと見せかけようとも、気持ちがどうなっていて、その目線がどこに向いているのか女性にはすべてわかっている。
 かずみはそのまま両の足を折ってひざまづき、男に着座をうながす。ビロード貼りのソファに腰掛けた男の足元に、ソファとセットになっている足掛けを添える。男に対し従順な召使のようになって、かいがいしく奉仕を続ける。前回もそうやって応対をしていたので、それを気にいってもらえているなら、最低でも同じサービスはしなければならない。これに今回はどれだけのプラスアルファが加えられるかが重要なポイントになってくる。
 そうやって一生懸命になればなるほど、自分がどんな体勢や姿勢をしているのか捉えきれなくなっていく。屈んだ姿勢で両手をおなかの前で重ねれば、シャツからうかがえる胸のふくらみはおのずと強調され、折り重ねられた両足は裾がたくしあがり、ベージュ色をしたタイツは薄手のデニールのために、むき出しになった太ももを発色よく見せている。
 男がリクエストを口にし始めると、かずみはうなずきながらメモ帳に書き込んでいく。脇をしめてメモを書くとペンを走らせるたびに、シャツからこぼれる胸の谷間は上下する。男は満足げにそれらを視姦しており、その状況を長く続けていたいので、いろいろと余分な注文をつけくわえていた。このように店員に手間を取らせれば、客の方としても手ぶらで帰るわけにもいかなくなり、期せずしてその効果を証明することとなる。
 
ひととおりの話しを聞くと、失礼しますと声をかけ、かずみは反対側にあるマガジンホルダーに向けて、男越しに手を伸ばし雑誌を取ろうとする。そうすると男の太ももに自分の胸が触れそうになり、ギリギリのところでベストが触れたところでとどめた。わざとやっていると思われても困るが、立ちあがってやりなおすのも不自然だ。もう一度手を伸ばし、二の腕を男の太ももに押し付けるカタチになりながらも雑誌を取ることができた。もう一度、失礼しましたとあたまをさげ雑誌を渡した。気づかなかったというシチュエーションを男性は好んでくれる。男はなにもなかったかのように笑顔で、むしろ余裕をみせつつ本を受け取り、ペラペラとページをめくり出していた。
「しばらくおまちください」
 そうかずみは伝えて、その場を離れた。数々の失態を思い出すと、顔が紅潮してくるのがわかった。店長がなにげに近づいてきて、アタナいろいろとおろそかになってたわよ。と言ってきたが、それはイヤミというよりは、やればやれるじゃないといった感じに思えた。そういうつもりではないと反論するわけにもいかず、ごまかし笑いであたまをさげた。
 いつまでも失敗を引きずっているわけにはいかない。それらも男にとっては失態には映ってはいないはずだ。メモ紙を見ながら陳列の中から要望に合った商品をみつくろい、なおかつノガミに薦められる逸品をさらにそこから絞り込んでいき5品を厳選した。
 客先に運ぶための専用のキャリーに、それらを箱の上に置いた状態で並べて引いて行く。何箱も抱えて運ぶのは大変だし、その姿をさらすのは見栄えのいいものではない。こういった細かい演出が店の格をつくるという店長の意向で、かずみもその意見には賛同できた。なにより多くの箱を抱えて客の前に現れるのは、それだけでも大変な労力だ。
 かずみが戻って来ると、男は雑誌に目を落としている。かずみが商品を選んでいる最中は、こちらに目線を向けて行動の一部始終を追っていたのは知っていた。店にとっては、それをもくろんだ上の制服であり、落ち着きを取り戻したかずみも、今回は美しく振る舞う動作を完璧にこなせたと自負している。
「おまたせいたしました。こちらをご用意いたしましたので、ぜひお試しください」
 そうかずみが言うと、男は感心した顔つきをして商品を吟味しはじめる。かずみはまずは無難なひとつを取り上げて特徴を説明しはじめる。
「こちらは、いまノガミ様が着ていらっしゃるスーツによくお似合いのデザインだと思います。カラーもご指定の色に近いものをご用意しました」
 男の正面にまわったかずみは、男の足首に手を添えて足置きの上に両足を乗せ、ひとつづつ丁寧に脱がせていく。汚いものをあつかうようなしぐさや顔をしてはいけない。大切な宝物をあつかうように両手でやさしくつつみこみ、筋の下から硬化した皮脂にかけて、もみほぐすように手をすべらせ、軟質の肌を強くこすらないように注意して取りはずす。
 その解放感をそこなわないように、最初のひとつ目をさきほどとは逆の順序で装着していく。かずみの流れるような手の動きで、男は王様にでもなったような恍惚感を得ると同時に、なんともいえぬ快感が足元から巡ってきた。こればかりは家で、自分でやってもけして得ることができないプロの技だ。これはこの店に勤めはじめてから店長におそわったもので、それを自らなんども試行錯誤をして改良を加え、ようやくここまでできるようになった。かずみにしてもらいたいために来店してくる客が増えれば、この店との契約が解除され別の店で移ったとしても、かずみを求めて一緒に移って来てくれる可能性だってある。こういった努力はなにも今のためだけではなく、将来設計のためでもあり、自分の生活を守ることにもなる。この身が経営者の手の内にあるなら、忠誠心もその範疇にとどめなければ使い捨てにされるだけだ。
「こちらは個性的なデザインになっておりますが、ノガミ様の雰囲気にとっても合うと思います」
 かずみは次の商品を手にした。お客に依頼を受けた品物を選ぶのは、あくまでもお客の利益を第一に考えている。かずみ目当てであろうがなかろうが、お客が求めているものを提案できなくてはなんの意味もない。高い商品を似合うといって押しつければ店は儲かるかもしれないが、そこを勘づかれれば次はなくなる。本当に自信を持って薦められるものを見てもらい、時には新しい自分を発見してもらえるような商品も選んでもらえることが自分の存在価値になる。
 そうやって五つの商品をつぎつぎと試していき、ノガミがどれにしようか思案をはじめたとき、新しい客が入店してきた。いまの時間帯のシフトはかずみひとりなので、こちらも応対しなければならない。めったにはないのだが、時には三人を同時に相手したこともあった。いくら忙しくてもないがしろにした応対だけはしてはならない。あくまでゆったりと、くつろいだ雰囲気のなかで商品を選んでもらえることを優先する。
「ノガミさま。どうぞ、ゆっくりとお選びください。お気に召したものがございましたら、またお声掛けください」
 そう伝え一礼をして、新しい客へ向かった。その客は高齢で、かずみは初めて目にする顔だった。「いらっしゃいませ」とあたまをさげて、店長の方へ向かった。やはり昔からのなじみの客だということで、店長に顧客リストから探してもらい、そこにかかれている情報をあたまにインプットする。
『エゾエ』という名前の老人は、連れ合いに先立たれ、おとこ所帯でひとり暮しをしている。会社の役員に名を連ね、総会がある前に新調するためにこの店を訪れるとのことだ。
 かずみは変に馴れ馴れしくならないように、はじめましてと素直に初対面であることをしめし、長年贔屓にしてもらっていることに礼をのべ、これからも宜しくお願いしますと付け加えた。温厚そうな顔立ちの男は、うれしそうに相好を崩し、あなたのような素敵な店員さんがいるなら、もっと足しげく通わなければいけないと、口先も軽やかだ。
 かずみは社交辞令としてはとらえずに、心からお礼をのべ、先の客と同じようにソファを案内する。一年ぶりの来店となるので採寸を勧めると、これまたうれしそうに笑い同意してくれた。
 かずみはクーラーで肌が冷えぬようにと、足置きの上に上質なタオルケットを準備した。年のせいだろうか、若い頃に比べるとずいぶん縮んでしまったと、冗談交じりで言う男に、しかたありませんわ。年齢にあわせていけばいいのですよと、返した。年老いて皺も増え乾燥気味になっている皮質に、かずみの両手がなめらかにクリームを塗り込んでいく。まんべんなくいきわたるようになんども手を上下させて、硬くなった部分はさらに念入りに揉みこみ、ほぐしていく。そうしておいてタオルケットで包んで、このまましばらくおまちくださいと声をかけた。クリームがなじむまではノガミの応対をするためで、客の元を離れるにもタイミングと理由づくりが必要だ。
 ノガミの場所に戻ると、照れくさそうにこれをと差し出してきた。それを見てかずみはとびきりの笑顔で両手を添えて受け取った。
「こちらをお選びいただけたのですね。ありがとうございます」
 それはデザインが特徴的だがノガミに似合うと薦めたひと品だった。
「こちらは、夏場の軽装にもあわせやすく普段使いもできるので、ぜひ明日からでもお試しください。それではお会計をしてまいります」
 かずみの言葉は無理をして高価なスーツを着てこなくてもいいから、夏の普段着で来店してもらってもかまわないと暗に伝えたつもりで、それに合うように見立てた一品だった。商品を店長に渡して、そのまま会計を引き継ぎ、かずみはそのままエゾエの元へ向かった。
 覆ってあったタオルケットを取り去ると、いい具合にクリームが浸透しており、ほんのりと温かみも増してきていた。もういちどマッサージを兼ねて優しく揉み解していく。エゾエはその気持ちよさから口が半開きとなり、目を閉じたままだ。その間にかずみは手早く採寸をして、メモ紙に記入していく。いままで使用してきたものと比べると、たしかにこれではすこし大きいため、長時間使えば擦れたりして不快な思いをするだろう。
 かずみの手の内で転がされるような扱いに、エゾエは薄れそうになる意識を維持するのに大変だ。目を開き、あたまを掻いた。
「いやあ、こんなに気持ちがいいのは久しぶりだよ。あたなは、なかなか勉強しているようだね」
「おそれいります。エゾエさま。やはりサイズダウンしているようですね。フィットするものに変えられたほうがよろしいかと思います」
 かずみはさきほどと同じように、エゾエがどのような商品を求めているかリサーチし、さらに服装や、バッグなどの小物を見て好みや方向性を推察した。商品を選んでくると断わりをいれ場を離れると、こんどはレジに寄って、梱包されているノガミの商品を受け取り店先まで誘導する。
「本日はありがとうございました。ご使用具合を教えていただければ、あらためてフィッティングいたしますので、遠慮なくご来店ください。」
 かずみは店先でも丁寧にあたまをさげ、最後のスキンシップを欠かさない。両手を添えて商品をわたす。かずみは内心では、今日のノガミへの応対は、最初の失態も結果オーライととらえれば満足できるものだった。エゾエも同じようにここまでは好感触だ。気に入ってもらえるように頑張ろうと気持を入れ直していた。
 騙しのテクニックだとか、虚像の積み重ねだとか、ネガティブな意見は正論となっても、なにが正しくて、なにが間違っているといった証明にはならない。お客がこの時間を満喫して、他では得られない経験ができ、楽しんでもらえたという結果は残ったのだ。すべては工程のひとつでしかなく、ディティールはあとからいくらでも詰めていけるはずだ。自分が正しいと信じたことをおこなう。それが自分にとっての正義でなければならない。
 あたまを下げるかずみを通り越し、ノガミの眼はエゾエに向いていた。店員の忠誠心も雇用の範疇のならば、客の忠誠心も独占権の範疇のうちだ。冷たい視線を切って、今度はかずみを見直す。その眼は優しげでなんの疑いも抱かせない瞳であったが、その奥には憎悪と嫉妬の炎を含んでいるのをかずみは知らない。
 これも単なる人生の一日。
 今日もまた人生の一日。
 明日もまた人生の一日。