private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

第17章 2

2022-11-06 16:24:13 | 連続小説



R.R
 人込みを掻きわけたナイジは、その開口に沿ってさながらスターティンググリッドに誘導されていく。通常であればピットアウトしてコースを一周してからスタートラインに戻ってくるルーティンも、今回は緊急用に使われているピットフェンスの開口部を開き、そこから直接スタートラインに着くこととなっていた。

 グリッドにはオースチンに先立って入場し、多くの歓声をあびていたロータスがいた。まるで草むらで獲物を待ち構えている猟犬のごとく低く喉を鳴らして静止している。
 後に続いたオースチンは猟犬の標的となり、狩猟者の餌食となるラビットになってしまうのか。それとも、たちどころに姿を眩ませ、大空から急転直下の攻撃をする荒鷲となり、狩猟者の喉笛をかき切ることができるのか。
 観衆にそんな図式を連想させるオープニングシーンとなったようで、大きな拍手喝さいがスタンドに広がっていった。それは広まったウワサから期待されたレースへの流れを現実化した成果であった。
「いい演出になったな、玲那さん、お見事だ。一台づつ、ゆっくりとスターティンググリッドにつく姿は、見る者の期待を大いに引き出してくれる。先にロータスを出したのも効果的だ。落ち着き払った風格のあるツワモノが、若くて勢いのある挑戦者を待ち受ける。ふたりの関係を誰もがそんな絵面で捉えただろう。それを現実として目にすれば、わかりやすくレースへ期待を増幅することができる」
 ふたりは確認するようにサロンの展望窓からグリッドに付く2台のクルマを見つめていた。横並びになったクルマのあいだからはヒリヒリとした緊迫感が溢れており、関係者の立場であってもこのレースへの好奇心がかき立てられるほどだ。
 レイナは内心、どれほどの効果をもたらしてくれるのか、不安をたずさえたままでオープニングシーンを迎えていた。実際に目にした光景が想像以上の演出効果をもたらしており、安堵するもつかのま身体に快感が走り、体毛が総毛立っていった。
「ありがとうございます。ラップタイムを争うレギュレーションであれば、クルマが順番に出走していき、計測がはじまるのが順当ですが、今回は1対1のレースなので、戦う両者を並びたてた方が見た目もよく、観衆への訴求度も強くなると考えました。お客様はきっと、それぞれのストーリーを自分の中で創り出して、グリッド上で並ぶ二台から、戦いの前哨戦をより楽しんでいただけることと思います」
 馬庭は双眼鏡を外すとレイナの顔を見た。裸眼で眼下を凝視するその表情には、ついこの間までの何かの庇護を頼っていたものではなく、自分の仕事に対して責任と結果を受け止める覚悟ができていた。
 馬庭からこうあって欲しいレイナ像を突き付けられたことにより、ひとつ殻を破ることができ、新しい自分と創造力を見出し成長できていることが馬庭には何より嬉しかった。
 そのふたりの傍らに國分が寄って来る。どうしてもひと言伝えたい気持ちを止められない様子だ。
「いやあ、素晴らしい仕掛けですなあ馬庭さん。ひねりを加えてきましたね。言うなればボクシングのタイトルマッチを見ているようだ。花道からリングに上がる両選手というところでしょうか。待ち構えるチャンピオンに挑戦者の若きチャレンジャー、いい緊張感につつまれている。既にふたりの間には駆け引きがはじまっているようで、こちらに向かって心理戦を投げつけられている気にもなる。姿は見えなくても並んだクルマのあいだからそんな神経戦を読み取れと言わんばかりだ。と、そこまで言っては賛美しすぎですかな。ハッハッハッ」
 ふたりは顔を見合わせ、そして國分に向けて微笑み合った。見る目が厳しく常に辛口の意見を述べる國分が、レイナの狙いに見事にはまっている。彼から上々の評価を得たことで、このオープニングの成功を確信できた。
「さすがと言っては失礼でしょうが、この構図からそこまで読み取ることができるのは、國分さんの知見の深さがあってこそでしょう。感服します。実を申しますと、このアイデアは國分さんもよくご存じのこちらの女性。私の右腕として、その手腕を振るっている春原からの提案なのです。私はただ彼女の提案を許可したにすぎません」
 あらためて國分に紹介されたレイナが会釈をする。少々驚きの様子の國分に、馬庭はさらに畳み掛けるように続ける。
「もうひとつ、見ていただきたいものがございます。ご覧下さい、あのオースチンが履いているタイヤを。ふつうタイヤにはメーカーと、商品名のロゴマークがエンボスに抜かれています。そう、ロータスのタイヤのように」
 馬庭はそこまで言うと、双眼鏡を國分に手渡した。手にした双眼鏡でオースチンを覗き込むと、ロゴマークの部分が白くペイントされ鮮やかに浮かび上がっている。言われてから見直せば双眼鏡を外しても、くっきりとしたロゴマークが遠目でも確認できた。
「なるほど! これで、合点がいった。どうしてこれほど、後から出てきたオースチンに洗練された雰囲気を感じたのか、自分でも不思議に思っておったのです。締まった足回りからは俊敏さと、力強さが伝わってきますな。なによりもマークが綺麗に目に映えて見栄えがいい。これはスタンドで見ている観衆に、大いにアピールできる。このタイヤでストレートを駆け抜ければ、白い輪が残像となり実際以上にスピード感を演出し観衆を釘付けにするでしょう。うむう、2台を見比べてしまうと、ロータスの方は、いささか野暮ったくも見えてくる。おっと、口がすぎましたかな。しかしこれはタイヤメーカーが放っておかないでしょう。商談のいい材料になる。素晴らしいところに目をつけましたな」
 馬庭は大きく頷いて肯定する。
「ありがとうございます。これも、春原のアイデアです。費用はサロンの皆さまからの出資によって賄わせていただいております。最終的に費用対効果を算出してご報告いたしますが、その前にこれまでの経緯を春原から簡単にご説明させてください」
「ふふっ、あいかわらずツボを突いてきますな。これほどまで効果的な場面を目の当たりにした後で、そんな言い方されるとこそばゆいですわ。まだまだ私たちの財布から引き出そうとしとりますな。ハッハッハッ」
 馬庭は笑みを含み、軽く会釈をしてレイナを前面に促がした。当のレイナは馬庭からの振りに臆することなく、國分らに対面して説明をはじめようとした。
 グリッドについてからスタートまで、5分の時間を取るようにレースディレクターに伝えたてある。少し長引くことを考慮して八起に合図を送る。音もなく馬庭の影に回りこむと耳打ちされたことに小さく肯き、周囲に気付かれることなくエレベーターへ向かった。
 馬庭は何事もなかったかのようにサロンにいる他の数人の客達にも、レイナが説明をしているところに注意を引かせるように、展望窓から目線を誘導するようにレイナの立ち位置を調節し。さらには、しばらく顧客の目をコースから離すように、ホスピスの女性たちに合図を送った。
 それを見た渚沙らのホスピス達が、レイナが馬庭に提案したときのイメージボードを用意して、展望窓とは反対側に掲げて並びだす。そこにはクルマのイラストにロゴが白く抜かれたタイヤが描かれ、引き出された線の先には流麗な文字で解説文が書かれていた。
 客の目は嫌がおうにも大きなボードに向けられ、さながらレース前に最新情報をリリースする事前発表会場と化していた。
 日頃からレイナを中心に危機管理を徹底されているサロンは、そのレイナが当事者として指示を出せない場面でも、馬庭からの指示を汲み取り実践できる応用力を発揮する。
 サロンの顧客たち全員に最高のサービスを提供するために、仕事に取り組む高い意識が備わっていることが、この場に落ち着きと風格を与え、顧客にとって特別な場所としての価値を作り出している。
「単純に見栄えだけのことなんですが、以前より私の目線で見ていると気になっていたところでした。車体は色鮮やかに配色され、サポートパーツ会社の社名などが貼り込まれているのに、どうしてタイヤやホイールなどを含む車体の下部は、黒くすすけているようで華々しさがないのだろうと。いみじくも國分様がおっしゃられた“野暮ったい”といった印象がどうしても拭い去れませんでした」
 レースにおいてタイヤは重要なパーツの一部であり、タイヤメーカー各社も技術競走には余念がない。ところがどこの何というタイヤなのか、というのはガレージで作業している一部の者しか知らないのが現状だった。
 そこに目をつけたレイナは、社名・商品名を目立つように、それ自体が広告塔になるように白くペイントして、周囲に一目でタイヤの持つブランドイメージを浸透させようとした。
 今回は、一文字、一文字マスキングテープで覆い、耐水性・耐候性があり、薄塗りを重ねて白がハッキリと見栄えるように仕上げてある。
 タイヤメーカーより効果のご賛同が得られれば、多ロット生産に対応するべく、マークの形に打ち抜かれたマスキングシートを用意して、量産化にも対応できるように考えている。
 ただ、ペイントがタイヤにどれほど影響を及ぼすかは、長期に渡りデータを取っていかなければならず、インク会社と協力関係を持ちながら開発する必要があった。
「ただいまご覧いただきました、両車がピットガレージからそのままスターティンググリッドに向かう手順も、実を申しますと、あのタイヤをスタンドのお客様に効果的に見ていただくために捻り出したものなのです。残念ながら今回は濱南ツアーズのGMには承諾を得られませんでしたので、甲洲ツアーズのオースチンのみに施行してあります。しかしながら、ただいま、皆さんもご覧いただきましたたように、待ち構えるロータスの従来通りの足元に対し、颯爽とホワイトマークを携えたタイヤを履き登場したオースチンは、足元も引き締まり、チャレンジャーとして若々しさを醸し出しており、2台を比較対照できたことで一層の効果が得られたと感謝しております」
 レイナの説明を聞き終えたサロンの顧客達は、お互い口々に感想を述べ、強い納得と満足感を得て、次第に賞賛の拍手が湧き起こっていった。
 レイナは自分の中で膨らんでいく達成感のようなものがひしひしとつたわってきた。普段から気になってきた細かな疑問や問題点を、どのようにして具体的な事案として展開していけばよいのかわからず、それ以上に、はたしてそこまで口出ししていいものか二の足を踏んでいた自分が、馬庭の後押しにより提案にこぎつけ、そして今ここで、多くの賛同を得る結果を手にすることができた。
 馬庭からの指示を待っている受動的な態度から、ひとつのアイデアを元に、多くの問題点を解決し、さらにメーカーを含めた顧客へ還元するところまで昇華できたことが何よりも嬉しかった。
 嬉しそうに何度も肯きながら聞いていた國分は、渚沙に促がされるようにして自分の席に戻り、今の説明に付いての感想と気になったところをいつもの口調で話しはじめていた。
 渚沙は聞き役に徹しながらも國分の生の声をレポートとして報告するために、聞き漏らすことのないようにさりげなくテーブルの下でメモをする。席についてからポロリと漏らす本音。それこそが、レイナが一番望んでいる貴重な情報となる。
 説明では自分が提案した部分のみの発言に留めたレイナは、実際にタイヤにペイントするなどの実務も行っていた。普段の仕事を終えるのが夜遅くなっても、それから作業用のツナギに着替えて、ワーキングキャップをかぶりガレージに向かい、廃タイヤをテスト用になれない手作業を額に汗して、試行錯誤を繰り返しながらペイントの練習を行った。
 そうなれば当然のように、その姿は渚沙も、馬庭にも知るところとなり、一緒になって手伝うようになった渚沙と、レイナをサポートするように八起に指示をして見守る馬庭がいた。
 それに応えるようにしてレイナは3人3様の方法で、ペイントのやり方を代えることにより作業効率のアップを図り、短期間で最善の方法にたどり着くことができた。
 一番綺麗に仕上がったタイヤを見本として、例のボードと共に馬庭に提案を行うと、すでに八起を通じて詳細を把握していた馬庭は、事前に改良点や問題点をそれとなくレイナに伝えるように指示をしておいたので、当日は簡単な疑問点や改善点を手短に伝えただけでゴーサインを出した。
 一週間の限られた時間の中で提案を実現させるのは、馬庭にも大きな不安とリスクがともなっていた。ただ、時間をかけたからといって良いものができる保証もなく、高い集中力を持った今のレイナに、まずひとつ成果を上げさせなければ次につながっていかないと判断した結果であった。
 そのためレイナからの説明を受けてから、問題点に手を打っていては遅きに帰すると思い、先手先手を打ったことで上手くまわったのは、レイナの持つ強運もあったのだろうと馬庭はほくそえんだ。
 頬に白いペンキを付けたままの、レイナの安心しきった喜びの表情は眩しく、影から支えていた渚沙も八起も自分のことにように嬉しがった。
 特にレイナに対し、雲の上の存在としか思っていなかった八起にとっては、一緒に作業をする中で、レイナの仕事に対しての一途な思いが中途半端なものでなく、馬庭に対する感情うんぬんより、自分への挑戦ともいえる戦かう姿勢が見て取れ、強く心に感銘を受けていた。
 八起自身、はたして自分は、これほどまでに仕事に対して真剣に取り組んでいただろうかと反省させられるとともに、こんな自分にも真摯な態度で接してもらえたことで、知らぬ間に感情移入をしたところを馬庭に見透かされるといった思わぬオチもつけてしまった。
 何にしろ、この一週間に凝縮された自分たちの努力が報われたことで、さまざまな思いがレイナの頭をよぎり、本当なら爆発させたいほどの喜びと、気を許せば溢れ出しそうな涙を、小さく小さく何度も拳を握り締めることに代え、少しずつ開放していた。