ショウタはボールを自分のモノにしたと確信した。アヤのスキを出し抜いて、あっという間にボールを奪取できたと脳内興奮が全開になった。
それなのにショウタの足先がボールに触れようとしたその時、ボールは消えて無くなっていた。まぼろしを見ているのかと目をパチクリとさせる。
ショウタの足先より、一瞬早くアヤの足がボールに触れていた。
ショウタの目線では見えない部分を足先で引っ掛けるとボールはアヤの元へ転がり、トゥで持ち上げられショウタの背丈の分だけループして背後にポトリと落ちていた。
勢いがついているショウタは前のめりになり、無様に地面に這いつくばってしまう。その上を飛び越えたアヤはボールを足下に保持し、腰に手を当てて振り返る。
「ズルいぞ!」ズルくはないが、大人げはなかった。ショウタが転ぶように仕向けたプレーだ。
「ほら、どうした? そんなんじゃ、いつまでたっても補欠だゾ」アヤがそう言って煽ってくる。
ショウタは言われたくないことを面前で公にされて、アタマに血が昇ってしまう。そんな調子では普段できていることさえできやしない。いいようにアヤのトラップに引っかかり続ける。
アヤは決して手を抜かなかった。子どもだろうが、能力の有る無しに関わらず、勝負事には常に真剣に向き合うつもりだ。
ショウタにサッカーを教えたくないわけではない。相手に勝ちを譲って手にしたモノに何の価値はないと、自分のこれまでの経験がそうさせていた。
やれ年下だから、女のコだからと勝負の土俵にもあげてもらえず、お手盛りの勝ちを与えられてきた。そんなものは屈辱でしかなかった。
アヤもまた小さい頃からクラブチームに入り、おとこの子と一緒にボールを蹴っていた。誰よりも練習してクラブの中では上位のテクニックを持つまでになっていった。
男女の力量に差が出る年齢になり、他の女の子が辞めていったり、他の女子スポーツに移って行っても、アヤは男子と一緒にプレーした。
同年代の男子では相手にならず、年上とマッチアップするようになっても、アヤは相手を出し抜いて競り勝つことができた。それなのにアヤが上手くなればなるほど、自分の居所はなくなっていった。
「ほら、行けっ! もう少しだ」
何を争っているのか知らない人だかりも、子どもがからかわれているようで、判官びいきもありショウタにヤンヤと声援を送りはじめた。
そうなると恥ずかしさもあって気持ちが空回りしてしまう。慌てて立ち上がりアヤに向かうが足がもつれてもう一度転ぶ。脛が擦傷し血が滲む。
そんなショウタをさらに小バカにするように、アヤはボクシングで言う所のスウェーで身を引きながらボールを保持する。
ショウタは追いかけても、追いかけても、すんでのところでボールが逃げていく。アヤがそのタイミングを見計らって、取れそうなところでボールを引いていた。
あと少しで取れないことが続き、それがショウタのやる気を継続させている。同時にムダな動きが多くなり直ぐに息が上がってくる。
誰もがアヤと対峙するのを嫌がっていた。そして誰もが真剣にアヤと戦うのを止めてしまった。
戦いの最中でそうされる分には、まだ仕方ないと割り切ることができた。誰の目にもそれが明らかであり、コーチからも叱責が飛んだ。
そうすると今度は勝負が終わってから、コーチやアヤがいないところで手を抜いてやったとか、勝たしてやったとか言われることになった。
全力で戦って手にしたはずの成果は、その言葉で何の価値もなくなって行った。コーチが注意していないのだから本気でないはずもなく、アヤにも自分の能力が優った手応えがあった。それなのに、それは多分にオンナに負けた恥ずかしさをごまかすために言っていることだった。
オトコ仲間はみんな、そもそもオンナ相手に真剣になるなんてありえないなどと言い捨てていた。アヤには真剣勝負を証明する手立てなどなく、実力で優った手応えがあっても、誰もそれを信じることはなかった。
孤立していくアヤの居場所は心理的にも、物理的にもなくなっていき、アヤは誰とも戦うことができなくなっていた。
まわりの大人たちはみんなアヤを慰めた。オンナの子なのによく頑張った。それが枕詞についた。そしてそのあとには、もう十分やったじゃないかと、終わりを示唆する言葉が続けられた。
どのみち小学校を卒業すれば、女子はクラブに残ることはできない。報われない戦いを続けるだけの動機が溶解されていった。
「ガンバレ、ボウズ!」「それ、そこだ!」など、思い思いの声援が飛ぶ。
人だかりからのそんな声援に、何かのイベントかと足を止めて、通りがかりの人々がさらに増え、身を乗り出して様子をうかがう。
今のショウタは、昔のアヤだ。人々は小さなショウタを無責任に応援する。そうあることで自分の寛容性であったり、公平性を再確認している。自分は弱い者の側であることに安心感を持つことができる。ショウタにもいつかそれが逆転する日がやってくる。
アヤは背後に人だかりを感知したところでスウェーすると見せかけ、右側3メートルほど先に立っていた男性の足下を抜くようにアウトサイドからパスを出し、自分も人だかりから外に出た。
股抜きをされた男性は驚いて後ろを振り返る。ボールの位置はショウタとアヤとの丁度真ん中で止まった。ショウタは小さいカラダを利用して、自らその男性の股をショートカットして潜り抜ける。
男性はショウタのジャマをしないよう、地団駄を踏むように足をバタつかせると、ドッと笑いがあふれた。
ショウタが抜け出した先には、アヤがすでに待ち構えている。悔しがるショウタを嘲笑うかのようにボールをけり上げると、重力を感じさせないようなふわりとした軌道を描き、対向する側の人だかりの前にポトリと落下しようとする。
そのまま弾んで外に出ると読んだショウタは、人垣の周りを走って反対側に向かう。人々はそんなショウタを目で追いかけ「いそげ」「まにあうぞ」と声をかける。
みんながショウタに声をかける。そうするとなんだか自分が有名選手にでもなった気分になってきた。全力で動き回ってキツイはずなのに、練習なら足を止めてしまうはずなのに、カラダは軽くボールへの執着心は消えることはない。
ボールの軌道を考慮すれば、ワンバウンドして人垣を越え、ショウタが先回りしたその場所に来ると想定された。誰もがショウタの読みを肯定して、これで勝負ありだと確信する。
かくしてボールはバウンドすると人垣の外ではなく、方向とは逆に中心に向かって弾んだ。強烈な逆回転がかかけられており、反対側へ弾むように仕向けられていた。そしてその先にはアヤが悠々と待ち構えていた。
「そんなんで、アタシに教えてもらおうなんて、甘いねエ」
「オーッ」という歓声とともに、拍手がわき起こった。想定外の出来事に、アヤのテクニックに誰もが感心していた。
時間にして3分も経っていないのに、ムダな動きばかりしているショウタは、さすがに子どもと言えど肩で息をして、次の一歩が出なくなっている。
アヤはボールとショウタを走らせているだけなので、汗もかいていない。足でボールを押さえつけているアヤに、ショウタは動きを止めてボールを睨めつける。
動きがなくなり群衆から野次が飛ぶ「どうした、もう降参か?」。そんな声を耳にしてショウタは焦るばっかりで、何の手だても思い浮かばない。
これだけ良いようにかわされては、やみくもにボールを追っかけてもムダだとは、こども心にもわかっている。勢いで戦える時間も終った。相手を疲れさせるどころか、自分だけが疲労困憊だ。
自分を応援してくれていた人たちも、ショウタの不甲斐なさや、ボールを取れそうもない手詰まりに、今やアンチに変わってきている。アヤの次の技に期待しはじめている。そうすると増々力が削がれていくようだ。
一体自分は何と戦っているのか。それはアヤも同じであった。戦う自信があるのに戦わせてもらえない。対等で有りたいのに拒否され続けた。オンナだからという理由で。弾き出されれば弾き出されるほどに、意地になっていった。戦うべき相手はソレではないはずなのに。
当時は女子がサッカーを行う環境はまだ整のっておらず、あったとしても主要都市の一部に限られていた。それも誰もが進めるような開かれた場所ではなく、登竜門を駆け登ってきた一部のエリートしか門戸を叩けない。
さらに言えば、入ったからといってサッカーに専念して生活ができるわけでなく、食い扶持は自分でなんとかしなければならない過酷な現実が待っている。
こんなところで燻ぶっていては埋もれてしまうと、クラブのコーチや関係者アヤのことを思って、遠方の県にある女子クラブのある小学校への転入を勧めてくれた。
それしかサッカーを続ける選択肢はなく、仕方がないこと誰もがしたり顔でそう言った。そんな慰め言葉を聞く度に何か敗北を受け入れるようで相容れなかった。それが体のいい厄介払いだともわかっていた。
アヤの実力を知り、いくつかのクラブが勧誘に来ていた。家から離れた場所に頼る先もなく、そのために引っ越しが出来るような家庭環境ではないため、アヤの耳に入る前に両親から断りを入れていた。ハナからサッカーでメシを食べて行くコに育てるつもりはなかった。
もとよりアヤもそんなことを望んでいなかった。自分はオトコより上手いこと証明したいわけでも、他の女子と違うところを見せたいわけでもない。ましてや女子フットボーラーの立場を改善するためのアイコンになりたいわけでもない。
ただ最高の舞台があるならば、そこで戦いたいだけだった。
クラブチームへはいかず中学校の時は男子のサッカー部に入った。練習はできても、試合に出れないことは承知のうえだった。
練習をしていて自分でも十分対等にできると確信できただけで、それで十分だった。アヤは小学校の時のように自我を出すことなく、自分のほうができるとアピールすることもなく、男子をプレーでやり込めることもしなかった。
練習が終われば、マネージャーの仕事もした。道具の片付けから汚れ落とし、部室の掃除にグラウンドのトンボかけ。練習スケジュールの作成から、対外試合の予定組など、キャプテンや顧問の先生と一緒になって準備した。
そんなアヤの姿を見て、男子は安心したような雰囲気になり、アヤがそのままでいてくれることを望んでいたように、言葉も態度も柔らかくなっていった。
遠くから自分の個性が塗り固められていくようだった。高校に進んだアヤは、もうサッカーを止めてしまった。
「ショウタ! アンタなにやってんの!」マサヨがこの騒ぎに気付き店先で叫んだ。
母親に知られることなど考えもせず、戦いに集中していたショウタはビックっと身体を硬直させた。