ここのところ、
自分の中に取り入れる様々なもの
について、微妙な違和感を感じ、
その反動で純粋な自分の要素に気付く
ということがありました。
たとえば、最近は様々な方が
この激動の時代の地球のために
祈り合わせを呼びかける
発信をされていて、
私もそのこと自体には賛成だし、
呼びかけをしている方にも
好感を持っているのだけれど、
なぜかその祈り合わせには
乗り気になれないということが
複数ありました。
こんなにも真剣に、
地球のために活動されている方々の
呼びかけに応えられないのは、
やっぱり自分はヘタレかな。。。
なんて思ったりもしたのですが、
私は自分が決めれば、ちゃんと
行動できる人間だと思っているので、
きっとそのグループのお役目と
自分は違うのだろう、と
考えました。
それから、
何となく他人の形式に合わせなければ
いけないことに違和感があって、
自分が祈りたいのはそういう
バイブレーションではないのだと
気付きました。
複数人が祈り合わせをする場合、
意識の方向性をそろえるために
形式を合わせるということ自体は
理解できるし、むしろそれは
必要なことだと思います。
ただ、今の私はそういう祈りは
したくないのでした。
では、どんな祈りをしたいのか。
私の中では、明確に
そのバイブレーションのイメージが
ありました。
それは、
私がずっと昔からこの地上に下ろすことを
望んでいたバイブレーションでした。
これは、誰かと合わせていたのでは
できないのです。
だから、祈り合わせはしたくなかったのだ
と理解しました。
それ以来、私は一人で
自分が捉えているあのバイブレーションで
自分の中に取り入れる様々なもの
について、微妙な違和感を感じ、
その反動で純粋な自分の要素に気付く
ということがありました。
たとえば、最近は様々な方が
この激動の時代の地球のために
祈り合わせを呼びかける
発信をされていて、
私もそのこと自体には賛成だし、
呼びかけをしている方にも
好感を持っているのだけれど、
なぜかその祈り合わせには
乗り気になれないということが
複数ありました。
こんなにも真剣に、
地球のために活動されている方々の
呼びかけに応えられないのは、
やっぱり自分はヘタレかな。。。
なんて思ったりもしたのですが、
私は自分が決めれば、ちゃんと
行動できる人間だと思っているので、
きっとそのグループのお役目と
自分は違うのだろう、と
考えました。
それから、
何となく他人の形式に合わせなければ
いけないことに違和感があって、
自分が祈りたいのはそういう
バイブレーションではないのだと
気付きました。
複数人が祈り合わせをする場合、
意識の方向性をそろえるために
形式を合わせるということ自体は
理解できるし、むしろそれは
必要なことだと思います。
ただ、今の私はそういう祈りは
したくないのでした。
では、どんな祈りをしたいのか。
私の中では、明確に
そのバイブレーションのイメージが
ありました。
それは、
私がずっと昔からこの地上に下ろすことを
望んでいたバイブレーションでした。
これは、誰かと合わせていたのでは
できないのです。
だから、祈り合わせはしたくなかったのだ
と理解しました。
それ以来、私は一人で
自分が捉えているあのバイブレーションで
祈っています。
そうしたとき、
私は誰にも遠慮することなく、
純粋に自分を表現できる喜びを
味わうことができます。
人間社会で生きていると、
このように純粋に自分を表現する
機会はなかなかないように思います。
ちょっとずつ、自分でも気づかない内に
誰かに忖度(そんたく)したり、
影響を受けて変化してしまうでしょう。
もちろん、それ自体が悪いわけではなく、
そういう表現の存在意義もあると思います。
でも、今私が純粋にやりたいと思えるのは、
そういうものではなかったんですね。
そんなことがあって以来、
私は自分が好きなように生きている
ようでいて、結構他者に忖度しながら、
本当に表現したい自分は表現できていなかった
ということに気付くようになりました。
頭の中には、誰かの善悪の基準とか、
正しさ、○○として在るべき姿などの
テンプレートがわんさかあって、
それにはまらない自分を無意識にジャッジし、
責めていたり、はまるように無理やり
寄せてみたりしていました。
けれど、それらのテンプレートに
気付くたびに、そんな基準にはまらなくても
何も悪くないのだとしたら、
私はどう生きたいのだろう?
と問い直すようにしています。
私たちは、少しでも良く在りたい
という健気な思いによって、
本当の自分から少しずつズレてしまう
ものなのかもしれません。
宇宙の大調和の中で、
純粋に自分自身を生きるなら、
それがそのまま、宇宙の調和と
矛盾なく循環しているということが
本当に腑に落ちていれば、
自分自身を生きることを
これほどまでに躊躇しないで済むのですが、
私たちは長く生きてきて、あまりにも
多くのノイズを取り込みすぎている
のかもしれません。
微妙なレベルで妥協している自分に気付き、
出来る限りこれを排除していく、または
排除しなかったとしても、
では自分が望むのはどんなものなのか
と問うことで、純粋な自身の望みを
思い出せるのではないでしょうか。
そして、純粋な自分を生きる
ということが、これからの時代は
ものすごく大事になってくるだろう
と思うのです。
頭ごなしに、そんなことできるわけがない
と否定するのではなく、少しでも
どうやったらそれに近づけるのかと
日々アンテナを立て、思い続けることで
チャンスは案外やってくるものです。
自分自身を生きる喜びを
諦めぬように。
あなたの人生に、祝福を。
そうしたとき、
私は誰にも遠慮することなく、
純粋に自分を表現できる喜びを
味わうことができます。
人間社会で生きていると、
このように純粋に自分を表現する
機会はなかなかないように思います。
ちょっとずつ、自分でも気づかない内に
誰かに忖度(そんたく)したり、
影響を受けて変化してしまうでしょう。
もちろん、それ自体が悪いわけではなく、
そういう表現の存在意義もあると思います。
でも、今私が純粋にやりたいと思えるのは、
そういうものではなかったんですね。
そんなことがあって以来、
私は自分が好きなように生きている
ようでいて、結構他者に忖度しながら、
本当に表現したい自分は表現できていなかった
ということに気付くようになりました。
頭の中には、誰かの善悪の基準とか、
正しさ、○○として在るべき姿などの
テンプレートがわんさかあって、
それにはまらない自分を無意識にジャッジし、
責めていたり、はまるように無理やり
寄せてみたりしていました。
けれど、それらのテンプレートに
気付くたびに、そんな基準にはまらなくても
何も悪くないのだとしたら、
私はどう生きたいのだろう?
と問い直すようにしています。
私たちは、少しでも良く在りたい
という健気な思いによって、
本当の自分から少しずつズレてしまう
ものなのかもしれません。
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それがそのまま、宇宙の調和と
矛盾なく循環しているということが
本当に腑に落ちていれば、
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諦めぬように。
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2024年
9月18日(水)19:00~22:00
10月17日(木)19:00~22:00
11月16日(土)17:00~20:00
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