皇室との特別なゆかりを今に伝える美しい意匠
東寺は、数多くある京都の大寺院の中で、現在でも特別な存在であり続けている。
東寺は、平安遷都直後に創建された国営寺院(=官寺)で、天皇の影響力のもとに創られた仏教美術の傑作がとてもたくさん残されている。また現在の東寺の礎を築いたスーパースター空海も、ゆかりの国宝や宗教行事を数多く残している。現代も月命日に開かれる「弘法市」に広い境内を埋め尽くす人々を集めるように、1200年にわたって絶大な人気を集め続けていることはまさに驚愕だ。
平安遷都から29年目、時の嵯峨天皇は空海に東寺を託したことで、真言密教による国家鎮護のための宗教活動が始まる。現代の東寺の伽藍は、建物は幾度も再建されているが、伽藍配置や建物の規模は空海がイメージしたものとほとんど変わっていない。これだけ平安時代の面影をとどめる寺は、京都で他にはない。
本堂である「金堂」には本尊に「薬師如来」を配置し、現生の苦しみからの救いを求める当時の人々からのニーズに応えた。また説法や講義をする「講堂」には大日如来を中心に「立体曼陀羅」を配置、密教の世界を絵ではなくリアルな仏像で人々にプレゼンテーションしようとした。時のスーパースターの思想を具現化したものがこれほどの量と質で残されているのは、高野山にもなく、ここ東寺にしかない。
この金堂・講堂は、東寺史上最悪の被害となった戦国時代1486(文明18)年の土一揆で焼失するが、講堂の立体曼陀羅の多くの仏像は救出されている。再建も講堂の方が100年ほど早かった。戦国時代で有力な支援者を得るのが困難と考えられるにもかかわらず、土一揆のわずか5年後には再建されている。仏教美術の最高傑作の一つである立体曼陀羅の見事さは、戦国時代においても人々の心をとらえて離さなかったのだろう。
再建された講堂にはもう一つエピソードがある。講堂は重要文化財だが、金堂は国宝なのだ。金堂が再建されたのは1603(慶長8)年で、豊臣秀頼の寄進による。秀吉の死後、秀頼や淀君は莫大な財産を糧として全国の寺社の再建に積極的だった。東寺の金堂もこの流れにあやかったことになるが、講堂との違いは資金力の差と私は思っている。美術品は一般的に制作にお金をかけると出来が素晴らしくなる。作り手である芸術家や大工のやる気ががぜん大きくなるからだ。戦国時代に豊富な資金があったとは思えない。そんな差が国宝と重文の差につながっているのかもしれない。
京都のランドマーク「五重塔」は、唐から持ち帰った仏舎利を収めるために、空海が講堂の次に建立しようとした建物だ。都合4回焼失しているが、都度再建されおり、現代の塔は徳川三代将軍・家光の寄進によるものだ。東寺の五重塔は背が高いことから、どこから見ても青い空を借景にしているように見える。とてもスマートで美しい。そんな空間美も平安時代から変わっていないだろう。
青空に映える五重塔、南の九条通りから
現代は金堂と講堂の内陣は常時公開で、世界に誇る仏教美術の傑作にいつでもお会いすることができる。仏像の常時公開は現代では普通になったが、それもおおむね戦後からだ。それまで寺院の仏像は秘仏が普通であり、観光用に一般公開されることはなかった。
東寺の金堂・講堂も一般公開されたのは1965(昭和40)年と、寺の長い歴史の中ではごく最近のことだ。一般公開するとその美術品の素材によっては保存が難しくなる。一方かけがえのない美しさをお披露目し、かつ祈りの場を提供することになる。寺も入館料収入を得ることで、美術品や境内の維持費に充てることができる。
お金が回ることによって美術品が維持される意義はとても大きい。運営管理や税務処理が大変になるという声もあるが、人々が集まる場を作るのも、寺としての役割を果たすことになるように思える。定期的な公開を考える寺社が増えることを願ってやまない。
日本にも世界にも、唯一無二の「美」はたくさんある。ぜひ会いに行こう。
仏像の教科書、東京書籍のアート・ビギナーズ・コレクション
東寺
原則休館日:なし
※他の仏像や建物は、公開期間が限られている場合があります。