棚からぼた餅--岩淵龍王丸

信州の山郷での暮らしと、絵本と無縁になってしまった大人に向けた創作絵本や、芸術活動をお話します。

仏教と霊魂について-47愛欲曼荼羅

2008-12-21 09:02:42 | 大人の童話
々衆生が、なんとなく在る様で無さそうで、どちらも完全否定しきれず、不安にかられるコトがある。
「魂だの霊」というやつで、宗教家や霊能者・占い師などと称する者が、たくみに利用する分野だ。
「貴方の苦しみは、悪霊がとりついているからです。だの、先祖霊がさ迷っているからお払いをしなくてわ」などと、取り入る方法はいくらでもある。
ハイハイとそのままいうことを信じるのも、幸せな人かもしれないが、多少なりとも疑問を持って、佛教関係を紐解いてもわからない。
入り口程度ではだめなのだと、さらに恩奥に進めば進むほど霊だの魂のことなど説かれてはいない。
しからば、霊だの魂に関する書籍となると、仏教教理からワンランク下のオカルトや霊媒世界になってしまい、釈迦仏教の崇高世界とはいいがたい。
結局は、本来の佛教世界は「魂だの霊」について触れていないことに気づくであろう。それは当然なことで、佛教の開祖ブッタは、霊魂の問題をはじめから論じていないのだ。それらの妄信からの解放を説いているのだが、密教と日本古来の霊魂観がミックスし、日本化した仏教になってしまった。
ある意味では、咀嚼し、焼き直し、作り直してしまうのは日本人の特筆かもしれぬ。

画像-連続する生命体 シリーズ作品より

散歩道の分校跡

2008-12-20 16:05:08 | 山郷の暮し


私が瞑想の道または迷走・夢想の道と呼んでいる山裾の散歩コースの一部は、一昔は生活道であり、分校への通学道でもありました。
散歩の折り変えし地点はその分校跡で、今は水源地になっている。
  看板には 三稲学校跡 とある。
明治22年(1889)本郷村が発足。児童は1年交代で三才山(みさやま)学校と稲倉(しなぐら)学校へ通学した。
同25年小学校令改正により両校は統合。独立して三稲尋常小学校となる。
同42年三稲文教場と改称した。
大正13年(1924)から4学生4学級。
昭和5年以降児童数百数十人と数え、校歌もあった。
同32年本郷小学校に統合された。(平成12年12月記
と言うところですが、三稲 をどお読むのか正直私は長い間わからなかった。
私の国語力は其の程度なのです。
解ったのはジッちゃま連の話からだった。 つづく

写真-1フェンスに囲まれた分校跡 2-子供たちが飛び回った校庭はフキノトウがいっぱいになる

天地創造・伝説 46愛欲曼荼羅

2008-12-20 08:36:16 | 大人の童話
ンドの神話では、神が色々と創造した末に、自分たちの話し相手、遊び相手として人間を創造した。
というのは代表的な創造説だが、尊師様がヒマラヤの奥地で筆舌を超える修業地の少数民族の創造説も面白い。

「この世は人間に良く似た形をした巨大な女神おった。
人間は女神のお腹の上に住んでおった。
ある時女神さんが突然起きだしたから大変。人間どもは振り落とされて死んでしまった。女神も自分の重みに耐えかねやがて死んでしまった。
女神の屍は現在のインド大地へとなったのだが、なかでも豊かなオシリは、アッサム地方の肥沃なだいちになったという。
両目からは月と太陽がうまれた」
大雑把な筋だが、人間はその後に大地に再び生まれたのであろう。
注目したいのは、肥大になりすぎて死んでしまった 暗示的ではないか。

古代中国の民族宗教や古代伝説を明らかにするのは容易ではないが、有名なのに
盤古の伝説がある。
「宇宙の始まりは混沌として、全体の形は鶏の卵のようであった。
天も地も無かったが卵が壊れると盤古がうまれた。
盤古は小人だったが次第に大きくなり、体が自然界の要素になった。
・・・人間は体についていた蚤から生まれ変わった」
人間は宇宙のノミみたいなものなのかーーー
映像 「絶対生命-2」 F100油彩

クマのプーさんの哲学

2008-12-19 20:25:49 | 山郷の暮し
「くまのプーさん」の童話、一度は読んだことがおありだと思いますが、正直わたしはあまり面白いとは思わなかった。
「星の王子様」や「ムーミン」そして「宮沢賢治」の作品のように、何度も読むことはなかった。
先日、図書館で「くまののプーさんの哲学」 ジョン・T・ウィリアム をなにげなく開いた。
クマのプーさんといえば、おひとよしでどこか間抜けな、愛すべき愚か者、視点を変えれば道徳的であったりして、暗示に富みすぎ決して童話ではないと思ってはいたが・・・・。
 この著者はプーさんこそ「偉大な哲学者」だと言うのだ。
プーと其の仲間の会話は、あまりにも当たり前すぎて、かえって真意がなんとも解りにくく、記憶に残っていなかっただけに、この本によってビックラコイタ
なんとなく感じていた暗示を、真昼の日の中にさらけだしてくれた そんな感じなのですが、とはいっても、この本の内容はもっとムズカシイ。
さらにこの本の解説書が必要になり、哲学の迷宮に迷い込んでしまうが、「難しく考えることはない。プーさんのようにアタリマエでいいのだ」と、自らを慰めているのですが。
こじつけにしろナンにしろ、古代ギリシャ哲学から、現代哲学までの西洋哲学をプーさんたちの会話に当てはめた(?)のはすごいことだ。しかも1995年にイギリスで出版されるやベストセラーになり、世界各国でも出版されたとは。
「クマのプーさん」の作者AA・ミルンさんの経歴に哲学を専攻したかわかりませんが、イギリスの思想史の背景が血肉としてあるのでしょう。
プーさんの魅力は、写実力のある挿絵 E.Hシェパードによることはいうまでもありませんね。ところで、今日のニースに挿絵が予想以上の価格で落札されたとありました。
http://www.47news.jp/CN/200812/CN2008121801000913.html
この本は、ぜひ蔵書に加えたいと思います、http://www.47news.jp/CN/200812/CN2008121801000913.html

神話・伝説 45-愛欲曼荼羅

2008-12-19 08:46:34 | 大人の童話
代から現代にかけて、様々な宗教の背景などを研究することは大切なことだ。
と、吾らの尊師様は常々おしゃっておられる。
なぜかというと、人は生まれ育った地域の宗教・文化の影響を受け育っていくから、いきなり異質なものには信じないからである。
他の宗教を知ることは決して背信的行為ではなく、他者がいかにに栄えてきたか、実体の研究をすることによって、自分自身の信仰をより確かにできる。
とおっしゃっておられ、なんとも、偉大で寛容なおこころであろうか・・そお思わないか。

特に、民族の心の根っ子ともいえる、民族固有の神話・天地創造譚に注目をされている。
大いなる力が天地を創造した末に己の民族がいかにして生まれたか、ということが、潜在的に各民族のアインデテーになっているからだ。。
つまり、神話の内容の成熟度とは関係なく、自分たちの存在意識が、大地と宇宙とのかかわりに芽生えたともいえる。哲学的にいえば古代ギリシャがら論じられてきた「自然哲学」と通じることだ。
もっとつめれば、我々はこの大地から、逃れることが出来ない絶対的意識ともいえよう。
今日の精神の荒廃は、吾らの地球から逃れることができないと言う、絶対意識の希薄さもあるのだ。
写真-宿生の瞬間-F100 油彩

神について--44-愛欲曼荼羅

2008-12-18 08:37:08 | 大人の童話
々いっておるが、見えたり触ったりできるもの、または科学的に証明できたものだけが、この世に存在しているとは限らない。
人間の五感・想像なんてたかが知れたものだが、自分の精神世界が広大無辺な世界だと感じられるか、そうでないか、これは言葉で説明できる範囲を超えたもので、ただただ感じ・そお思える者にしかワカラナイ。
唯一絶対神であろうが、万物に神が宿るとする多神教であろうが、どちらが真実・真理があるのか、それはどうでもいいのだ。
それゆえにワシ等は「神の存在」について語らない。
その必要が無いからだ。
馬の耳に念仏ではないが、感じ得ない愚者にいくら語ったところで、時間のムダというものだ。
イラスト--岩淵大殿著「世紀姿勢曼荼羅」より

冬の色

2008-12-17 18:30:36 | 山郷の暮し
秋冬の空の記事で、ヒマラヤ・チベットそしてモンゴルの空を思い出すと書きましたが、かの地では見たことがない、日本の空があります。
つるべ落としの夕刻が迫ると、ほんのりと赤味を帯びた雲や、墨色の雪雲の合間に、なんとも澄み切った色があります。
言葉で言ったら澄んだ水色なのですが、空間なのです・・。
それも広い範囲ではなく、どちらかというと北空に見ることが出来る、雲間の狭い範囲の空です。それも突き抜けていくような空(空間)でもないのです。
寒々と、実に寒々としているのですが、これ以上、清冽で凛とした空間があるのでしょうか。
 私の絵画表現で現わしたい空間なのです。
絵画となれば基本的には色彩なのですが、たとえその色を調合しえたとしても、その空間にはならない。当然です。
絵画の難しさは、周囲のハーモニーから、目的の表現に近ずくことができるのです。ですから、澄んだ水色を作り出せたとして塗っても、壁紙の色にすぎません。
難しくいいますと、補色関係の組み立てなのです。

見入ってしまった空を思い出し、描き表わしてもナカナカうまくいきません。
あの空のように、わずかに赤く色ずいた雲にしますと、水色は濁って見えてしまうことが大方です。しかし、反対色との組み合わせは難しいのですが、成功したらそれは美しくなるものです。
自然こそ美学の頂点ですが、そのまま写し取ったとしてもダメという難しさがあります。抽象化するとは、すごい創造力だと言えます。

神について-43愛欲曼荼羅

2008-12-17 08:51:21 | 大人の童話
教の話となれば神様のことに触れなくてはならないが、ワシは汎神論-神学のうんちくをいうつもりはない。
マーそれ以前の問題というか、素朴な思いから思考してみよう。
君が神の存在を否定したとしても、ワシ等は特に何も言うつもりは無い。
その存在を認めたとしても、然りだ。
ということは、否定しょうが肯定しょうが、君自身の問題で「神様はイルンダ!」と叫んだところで、本人が感じ得なかったらなにもならない。
科学について語ったおりに、宇宙物理学者のカール・セーガン氏のことをとりあげたが、彼のように完全に神を否定できれば、それは立派なもので、彼にとってそうなのであろう。
神にたいする信仰をしない無神論者や、神の存在はわからないとする不可知論者は何百何千万人といるであろう。
だからといって、彼らが道徳観も節操も無い人々だということではない。
逆にだ、神への信奉者だからなにごとも道徳的で良心的だとはかぎらない。
しかし、大多数の衆生は否定も肯定もできず「神はいるかも?いないかも?」の狭間にうろうろしているわけだ。
衆生にとって何らかの形で、宗教心は宿っていると観た方がいい。
そして、困ったときの「神頼み」となり、次元は身近になるほど低下してゆく。
マーーそれでいいのだが・・・

時空を超えて

2008-12-16 15:27:21 | 山郷の暮し
しゅうとう(秋冬) 今頃を言う季節用語なのでしょうか。知りませんでした。
今朝は薄氷が張るピリッとする冷気が心地よく、久しぶりに朝の散歩。
脊椎狭窄症が悪化し、思うようにならない日々でしたが、最近ようやく散歩に行きたくなってきました。
谷からアルプスが望めるポイントまでトボトボと。
ウェストンさんが「アルプスだ!」と感動したと言う常念岳がくっきりとみえます。
写真は10時半ころの下弦の月。
「蕎麦受けザルみたいだ」と、吾ながら貧しき発想に苦笑する。

すごい空が広がっている。
午後には窓を開け放ち、谷の光と空気を全部入れ込む。
宮沢賢治が「桔梗色の空」といった空よりももっと濃く、黒に近い濃紺の空。
こんな空を見ていると、ヒマラヤ・チベット・モンゴルの空へとひとっ飛びしてしまう。
シェルパたちのヨーデルが聞こえ、ラマ僧の地鳴りのような読経、魂が引き抜かれてしまうモンゴルのホーミー。
空はつながっているんだ。
今オレが観ている空は、かの地の一郭がここにあるのだ・・・。

宗教について-42愛欲曼荼羅

2008-12-16 10:37:18 | 大人の童話
君も飽きずによくマー聴いてくれた。
判ったような判らないような、矛盾した思いであろうが当然じゃ
科学・人間社会・芸術などなどの尊師様のお考えを伝えたのは、ひとえに我が尊師様が著した、国民的精神の書とも言うべき「堪忍抄 全10巻」を紐解くための予備知識だ。
今すぐにわからなくていいのだ。肝心なことは御身で感じることだ。
御身に感じるまでの道のりは厳しく、衆生からの誤解やさげすみ・罵詈雑などに直面するかもしれぬ。
ひたすら堪忍せよ。あるとき堪忍の本質がひらける。
つまり、堪忍とは単に「かんにんして」と許しをこうことではない。
または、コンチクショーと切れてしまうことでもない。
それらから耐へ、人々を許すことによって、己が平和な心になっていけることなのだ。
なにも小難しくするつもりはないが、哲学で言う生得観念を信じることだ。
つまり、誰でもがもって生まれた観念を理性によって思い巡らすことだ。
勉学・教育は大切なことだが、おのれに宿している哲学性に気ずく事だ。
仏教的な言い方をすれば発菩提心ということなのだ。
これから、おさらいもかねて、神とか仏、そして信心について語ろう。

ryusun

つぶやき

絵本と無縁になった大人に

子供たちに向けたというより、内なるものを呼び覚ます大人への絵本