「母の死」肉親の母!
私の母が、2012年9月1日、午後2時半に群馬の自宅にて98歳で亡くなりました。
第一次世界大戦1914年 翌年の大正4年に生まれ、父(故、町田六郎99歳)と戦中、戦後の厳しい経済状況の中、
男6人を育て乍ら生き抜いてきた、「上州のかかあ天下の女性かも、、、」
両親は、価値観が違い気性も異なるが、結局のところ仲がよく、貧乏家族のなか「よくぞ子供を育てあげた」と思って
います。(尊敬の念は、生涯忘れません。)
9月4日の伊勢崎市「さかい聖苑」での告別式は、“人生を改めてみつめ、又あらたな一歩を確り踏んで生きて
いこうと決心しました。
母の性格は、決断力・行動力があり負けず嫌い。生前の母は、「子供の頃から走るのが早く学校の代表選手で他校へ
行って走っても負けたことがない」とか聞いていました。
また、町内のゲートボール大会で90歳になってからも優勝したとか笑顔で話し手いた時のことが今になると印象的です。
私が小学時代には、「洋裁」の仕事から「酪農」となっていました。
乳牛のホルスタイン種を北海道から買い一時は、10頭ほど飼い牛乳を出荷しての生計でした。
酪農経営は、母が先頭たっての仕事でした。私の小学生時代の朝は、牛に餌を与えて利根川の河原に牛を繋ぎ、
そして牛舎を掃除してからの通学でした。(その為、いつも遅刻して小学校の先生からチョッピリ注意をうけて、、、)
当時、私の家族10人でした。みな元気で生きて来られたのは、ホルスタインの牛乳を小学、中学時代に毎日一杯
飲めたからだと感謝をしております。
一年前より、実家(群馬)に行き母と話をしてきましたが確りした会話は出来ませんでしたが、母の笑顔と体に触れる
ことが出来たのが、私にとっては大きな生き甲斐でした。
しかし、いざ肉親の母が亡くなってしまうと、とても淋しい気持ちです。
これからも「今日と言う日を大切にして、生きて行きたいです。」
人間の一生涯は、本当に短い時間だと思います。
これからも、「一日いちにちを大切にして、好きな絵を描いていきたい」と思います。
(アルベルト譽)
私の母が、2012年9月1日、午後2時半に群馬の自宅にて98歳で亡くなりました。
第一次世界大戦1914年 翌年の大正4年に生まれ、父(故、町田六郎99歳)と戦中、戦後の厳しい経済状況の中、
男6人を育て乍ら生き抜いてきた、「上州のかかあ天下の女性かも、、、」
両親は、価値観が違い気性も異なるが、結局のところ仲がよく、貧乏家族のなか「よくぞ子供を育てあげた」と思って
います。(尊敬の念は、生涯忘れません。)
9月4日の伊勢崎市「さかい聖苑」での告別式は、“人生を改めてみつめ、又あらたな一歩を確り踏んで生きて
いこうと決心しました。
母の性格は、決断力・行動力があり負けず嫌い。生前の母は、「子供の頃から走るのが早く学校の代表選手で他校へ
行って走っても負けたことがない」とか聞いていました。
また、町内のゲートボール大会で90歳になってからも優勝したとか笑顔で話し手いた時のことが今になると印象的です。
私が小学時代には、「洋裁」の仕事から「酪農」となっていました。
乳牛のホルスタイン種を北海道から買い一時は、10頭ほど飼い牛乳を出荷しての生計でした。
酪農経営は、母が先頭たっての仕事でした。私の小学生時代の朝は、牛に餌を与えて利根川の河原に牛を繋ぎ、
そして牛舎を掃除してからの通学でした。(その為、いつも遅刻して小学校の先生からチョッピリ注意をうけて、、、)
当時、私の家族10人でした。みな元気で生きて来られたのは、ホルスタインの牛乳を小学、中学時代に毎日一杯
飲めたからだと感謝をしております。
一年前より、実家(群馬)に行き母と話をしてきましたが確りした会話は出来ませんでしたが、母の笑顔と体に触れる
ことが出来たのが、私にとっては大きな生き甲斐でした。
しかし、いざ肉親の母が亡くなってしまうと、とても淋しい気持ちです。
これからも「今日と言う日を大切にして、生きて行きたいです。」
人間の一生涯は、本当に短い時間だと思います。
これからも、「一日いちにちを大切にして、好きな絵を描いていきたい」と思います。
(アルベルト譽)