2008年12月4日から10日 午前10時~午後6時(最終日、5時終了)
上尾駅東口前1分の上尾市民ギャラリーにて、上尾現代作家協会展
(上尾風景10選 )が開催されます。
上尾現代作家協会展で展示される作品を紹介します。
氷川鍬神社 F30号 油彩画 町田譽曽彦
(2008年10月30日 早朝より写生)
後ろは、沢山の絵馬が掛けられていました。疫病除け、招福。
上尾の寺社 氷川鍬神社(上尾市宮本町)
江戸の知識人も招かれた「聚正義塾」
氷川鍬神社(ひかわくわじんじゃ)は、かつては上尾駅東口に降り立つと
境内の木立が望見できたが、現在では丸広の陰になってしまっている。
上尾駅から200メートルも歩いて行くと、喧騒の中の静寂空間に木立が見
えてくる。
氷川鍬神社は、明治末期の神社の合祀(ごうし)以後の社名であり、古く
は御鍬太神宮(おくわだいじんぐう)と称されていた。
一般には「お鍬さま」と呼ばれ親しまれているが、江戸初期の万治のころ
(1658~61年)創建されたともいわれる。
伝承によると、3人の童子が鍬2挺と稲束を持ち、白幣(はくへい)をかざし
踊り歩いて上尾宿に来て、童子たちはいずこにか消え失せたが、残された
鍬を本陣の林宮内(くない)が祭ったという。
まことに楽しい心温まる話であるが、宮内は幕末の人で、本陣の当主は林
八郎右衛門であろう。
童子の残した白幣を神幣(みてぐら)として納め、「群参(ぐんさん)日を追て
おびただし」と伝承は伝えている
(『新編武蔵風土記稿』・『御鍬太神宮略由来』)。
氷川鍬神社 F30号 油彩画 町田譽曽彦
(2008年10月30日 早朝より写生)
御鍬太神宮は上尾宿の鎮守でもあるが、境内には天満宮も祭られている。
鳥居をくぐって参拝すると、右手に市指定文化財の上尾郷二賢堂(にけんどう)
碑記と雲室上人生祠碑頌(うんしつしょうにんせいしひしょう)が建立されている
のが目に付く。
これが、江戸時代の小さな宿場町にしては極めてハイレベルな学びの場を
提供した、かつての郷学の跡地であったことを証している
『上尾の指定文化財』。
この地に創設された「聚正義塾(しゅうせいぎじゅく)」は、天明8(1788)年
に江戸で名の知られた学僧雲室上人を招いて開かれている。
聚正義塾の堂舎は、宿内や近村の人々が資材を持ち寄り、労力を提供して
建てられ、朱文公(しゅぶんこう=朱子)と菅公(かんこう=菅原道真)を祭っ
たところから「二賢堂(にけんどう)」と称されている(地元では「じけんどう」
とも言う)。
当時江戸の昌平黌(しょうへこう)の主宰者である林大学頭信敬(はやしだい
がくのかみのぶたか)が、「二賢堂」という扁額(へんがく)を記しているが、
開講日には、昌平黌の都講(とこう)(塾頭)で文人として高名な市河寛斎
(いちかわかんさい)も招かれている。
寛斎は門人の小島梅外(こじまばいがい)を連れて上尾に向かうが、このとき
「雨夜上尾道中(あめのよのあげおどうちゅう)」という漢詩を記している。
詩には「蕎花爛?野田秋(きょうからんまんたりやでんのあき)」と、美しい道中
の風景を詠んでいる(『上尾市史』第3巻収録の『雲室随筆』、『江戸詩人選集
』第5巻)。
多くの著名な知識人の援助のあった聚正義塾であるが、雲室は3年ほどで
江戸に去り、後は地元の文人でもあった山崎碩茂(せきも)が引き継ぐことに
なる。それにしても、郷学ともいえる公立的な学校が運営されたことは、地元
の人々が教育熱心であったからであろう。 氷川鍬神社
(アルベルと譽)
2008年12月4日から10日 午前10時~午後6時
(最終日、5時終了)
上尾駅東口前1分の上尾市民ギャラリーにて、
上尾現代作家協会展(上尾風景10選 )が開催されます。
<水彩 油絵作品30余点を一堂に展覧>
<出品者>
青木胖之 伊藤英治 小島 勇
佐野源次 高橋政信 根岸君夫
前原善好 町田譽曽彦
出品作家は、日展 二科展 白日展 東光展 新構造展
日本アンデパンダン展並びに埼玉県展で活躍中の作家です。
水彩 油絵作品30余点を一堂に展覧いたします。
どうぞご覧頂きたくご案内申し上げます。
<主催>
上尾現代作家協会
<後援>
上尾市 上尾市教育委員会 上尾商工会議所
上尾市美術家協会 上尾市観光協会 埼玉新聞社
<代表>
〒362-0075 埼玉県上尾市柏座1-4-22
町田譽曽彦方 上尾現代作家協会
電話 :048-771-3911
eメール :yosohiko@jade.plala.or.jp
上尾駅東口前1分の上尾市民ギャラリーにて、上尾現代作家協会展
(上尾風景10選 )が開催されます。
上尾現代作家協会展で展示される作品を紹介します。
氷川鍬神社 F30号 油彩画 町田譽曽彦
(2008年10月30日 早朝より写生)
後ろは、沢山の絵馬が掛けられていました。疫病除け、招福。
上尾の寺社 氷川鍬神社(上尾市宮本町)
江戸の知識人も招かれた「聚正義塾」
氷川鍬神社(ひかわくわじんじゃ)は、かつては上尾駅東口に降り立つと
境内の木立が望見できたが、現在では丸広の陰になってしまっている。
上尾駅から200メートルも歩いて行くと、喧騒の中の静寂空間に木立が見
えてくる。
氷川鍬神社は、明治末期の神社の合祀(ごうし)以後の社名であり、古く
は御鍬太神宮(おくわだいじんぐう)と称されていた。
一般には「お鍬さま」と呼ばれ親しまれているが、江戸初期の万治のころ
(1658~61年)創建されたともいわれる。
伝承によると、3人の童子が鍬2挺と稲束を持ち、白幣(はくへい)をかざし
踊り歩いて上尾宿に来て、童子たちはいずこにか消え失せたが、残された
鍬を本陣の林宮内(くない)が祭ったという。
まことに楽しい心温まる話であるが、宮内は幕末の人で、本陣の当主は林
八郎右衛門であろう。
童子の残した白幣を神幣(みてぐら)として納め、「群参(ぐんさん)日を追て
おびただし」と伝承は伝えている
(『新編武蔵風土記稿』・『御鍬太神宮略由来』)。
氷川鍬神社 F30号 油彩画 町田譽曽彦
(2008年10月30日 早朝より写生)
御鍬太神宮は上尾宿の鎮守でもあるが、境内には天満宮も祭られている。
鳥居をくぐって参拝すると、右手に市指定文化財の上尾郷二賢堂(にけんどう)
碑記と雲室上人生祠碑頌(うんしつしょうにんせいしひしょう)が建立されている
のが目に付く。
これが、江戸時代の小さな宿場町にしては極めてハイレベルな学びの場を
提供した、かつての郷学の跡地であったことを証している
『上尾の指定文化財』。
この地に創設された「聚正義塾(しゅうせいぎじゅく)」は、天明8(1788)年
に江戸で名の知られた学僧雲室上人を招いて開かれている。
聚正義塾の堂舎は、宿内や近村の人々が資材を持ち寄り、労力を提供して
建てられ、朱文公(しゅぶんこう=朱子)と菅公(かんこう=菅原道真)を祭っ
たところから「二賢堂(にけんどう)」と称されている(地元では「じけんどう」
とも言う)。
当時江戸の昌平黌(しょうへこう)の主宰者である林大学頭信敬(はやしだい
がくのかみのぶたか)が、「二賢堂」という扁額(へんがく)を記しているが、
開講日には、昌平黌の都講(とこう)(塾頭)で文人として高名な市河寛斎
(いちかわかんさい)も招かれている。
寛斎は門人の小島梅外(こじまばいがい)を連れて上尾に向かうが、このとき
「雨夜上尾道中(あめのよのあげおどうちゅう)」という漢詩を記している。
詩には「蕎花爛?野田秋(きょうからんまんたりやでんのあき)」と、美しい道中
の風景を詠んでいる(『上尾市史』第3巻収録の『雲室随筆』、『江戸詩人選集
』第5巻)。
多くの著名な知識人の援助のあった聚正義塾であるが、雲室は3年ほどで
江戸に去り、後は地元の文人でもあった山崎碩茂(せきも)が引き継ぐことに
なる。それにしても、郷学ともいえる公立的な学校が運営されたことは、地元
の人々が教育熱心であったからであろう。 氷川鍬神社
(アルベルと譽)
2008年12月4日から10日 午前10時~午後6時
(最終日、5時終了)
上尾駅東口前1分の上尾市民ギャラリーにて、
上尾現代作家協会展(上尾風景10選 )が開催されます。
<水彩 油絵作品30余点を一堂に展覧>
<出品者>
青木胖之 伊藤英治 小島 勇
佐野源次 高橋政信 根岸君夫
前原善好 町田譽曽彦
出品作家は、日展 二科展 白日展 東光展 新構造展
日本アンデパンダン展並びに埼玉県展で活躍中の作家です。
水彩 油絵作品30余点を一堂に展覧いたします。
どうぞご覧頂きたくご案内申し上げます。
<主催>
上尾現代作家協会
<後援>
上尾市 上尾市教育委員会 上尾商工会議所
上尾市美術家協会 上尾市観光協会 埼玉新聞社
<代表>
〒362-0075 埼玉県上尾市柏座1-4-22
町田譽曽彦方 上尾現代作家協会
電話 :048-771-3911
eメール :yosohiko@jade.plala.or.jp
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