想:創:SO

映画と音楽と美術と珈琲とその他

伊藤若冲の「果蔬涅槃図」

2024-09-28 22:08:28 | 日記
 前回の「象鯨図屏風」に続いて、今回も伊藤若冲の作品を取り上げたい。あの「象鯨図屏風」に登場した象と鯨が、仏教美術における涅槃図の世界から、伊藤若冲が影響を受けたのではないかという話を書いたが、今回紹介する「果蔬涅槃図」はタイトルの通り、そのものずばり涅槃図の世界である。そしてこの涅槃図が素晴らしいのは、伊藤若冲にしか思いつかない優れたアイディアに満ちていることだ。

 見ての通りこの絵に描かれたのは、人間や動物ではなく果物と野菜の植物のみである。つまり釈迦の入滅というテーマの表現を、若冲は植物だけで構成するという離れ業でやってのけている。これは奇抜なことこの上ない独創だが、ある種のユーモアも交えつつ、涅槃図を異次元の高みへと解放しながら、仏教の本質を問いかけているのかもしれない。

 涅槃に入る釈迦は画面中央の大根であり、沙羅双樹は玉蜀黍だ。また釈迦の死を悲しむ弟子や信者、それに動物たちは大根を円になって囲む、その他バラエティに富んだ野菜や果物と化している。正直、この絵画世界はパロディと捉えることも可能であろうが、笑いを誘うからこそ教条的ではなく、全ての生命は平等だという、仏教本来の真摯なメッセージが自然に伝わってくるのだ。

 仏教に限らず地球上の宗教美術の多くには、宗教的権威や権力を補強するような匂いが濃厚に感じられたりもするが、元来、涅槃図は仏教美術において、そのような匂いとはほぼ無縁に近い。しかしそれでも、絵の中心に人間の釈迦が配されている以上、釈迦の威光は発せられている。恐らく伊藤若冲はこの威光を取り去り、宗教的権威や権力を微塵も感じさせない絵の完成を目指したかったのだ。またじっくり鑑賞すると、モノクロの水墨の世界ではあっても、若冲の植物への慈愛を込めた眼差し、そこから生まれた絶妙な筆さばきや明暗の表現により、植物固有の鮮やかな色彩を想像することは可能である。そしてその想像の過程において、鑑賞者は崇高な祈りや悟りさえ認識できるはずだ。つまり自らの心に仏性が在ることに気付く。

 伊藤若冲が生きた江戸時代、仏教組織は幕府の法整備によって、武装の牙を完膚なきまでに抜かれた状態になっていた。これはある意味で画期的なことである。なぜならそもそも仏教の始祖の釈迦は武力を否定しているのだから、この状態が間違っているはずがない。ところが戸籍管理まで寺社が全国的に担うことになった為、寺社はすっかりお役所の機能も備えて僧侶は役人よろしく官僚に成り果てた。室町時代や鎌倉時代に幕府に保護されていた禅宗の組織も、そこまで官僚化してはおらず、この統治形態によって地域社会の庶民の日常生活には、身分制の上位に置かれた僧侶からの圧力が生じはじめていたのではないか。 

 この「果蔬涅槃図」は現在、京都国立博物館に所蔵されているが、生前の伊藤若冲はこの絵を伊藤家一族の菩提を弔う京都の宝蔵寺を通じて誓願寺に寄贈した。誓願寺も宝蔵寺も浄土宗の寺院だが、若冲その人は晩年に伊藤家の宗派である浄土宗から黄檗宗に帰依し出家している。この行動を鑑みるに、やはり彼自身の仏教に対する見識は相当に深かったようだ。

 浄土宗の開祖の法然は平安時代末期を生きた敬虔な僧侶であり、比叡山で修行した後、無辜の民の救済を誠実に探究し、称名念仏による浄土への救済を唱えた日本史においても稀有な宗教家である。そして法然の直弟子の親鸞が開いた浄土真宗は、室町時代に親鸞の嫡流の8世である蓮如の代に爆発的に信者数が増える。しかも戦国乱世においては一向一揆で有名な、最大規模の武装蜂起をした宗教勢力にまでなった。

 一方、黄檗宗は江戸時代前期に、中国大陸の明王朝から伝来した臨済宗の新興の一派であり、そこに若冲が魅かれたのは、既存の仏教が彼の目には旧態依然として組織的に世俗化し、教義も形骸化している印象があり、芸術活動において精神面でプラス作用を及ぼす方向性をあまり見出せなかったのではないか。これは宗教に限らず、どんな組織にもいえることだが、組織化の過程で権威や権力が発生すると、それに付随して利権や汚職も生まれてしまう傾向があり、真面目に仏教を信仰していた若冲は、どうやらそこに辟易していたようだ。

 黄檗宗で特徴的なのは、釈迦が説いた唯心の概念である。それはこの世に存在するのは心のみで、目で見える全ての物事や現象も、心の働きがもたらしたものだという教えになる。つまりありとあらゆる偏見は心の働き次第で打破できる。伊藤若冲が想像し創造した涅槃図において、入滅する釈迦も、その死を悲しむ人や動物たち全てが、植物に集約されているそのイメージは、実のところこの真理を理解してもらうには至って自然な姿なのだ。先に述べたように、涅槃図は釈迦を英雄礼賛する情景ではない。しかしながら、それでも解釈によっては、宗教的権威や権力に悪用される可能性は考えられる。ところがこの若冲の手になる涅槃図では、まずそれはあり得ないはずだ。

 そしてこの絵に登場しているトータルで80種類を超える野菜や果物が有名で美味なものだけで構成されていないことも特筆に値する。これは青物問屋が生家であった、描く対象物を知り尽くしていた若冲の制作意図でもあろう。実際、現代では正体不明の野菜さえもが描かれており、ここからも「果蔬涅槃図」には、全ての生命は分け隔てなく平等に尊重されるべきだという仏の教えが、一見すると絵の雰囲気はユーモラスであっても真摯に伝わってくるのだ。またこのユーモアこそが、私たち現代人にとっても社会の理不尽さに気づき、人間が人間以外の生命の尊厳や権利を現状よりも大切にする、またその為の環境をつくるよう、気負わずに私たちの背を押してくれる。

 伊藤若冲は生前に「千年待つ」という言葉を残した。大変深い意味が込められているのは間違いないが、これは彼の制作した作品が彼本人の納得できる形で理解され受容されるには、そのくらいの膨大な時間がかかるという謙虚な姿勢であろう。しかし同時に、彼が生きた近世の18世紀から千年の時が経過した時代、つまり今の21世紀から概算すると28世紀辺りになってしまうが、その気が遠くなるほど先の未来には、きっと現世に浄土のような理想社会が必ず到来していると楽観していたようにも思える。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊藤若冲の「象鯨図屏風」

2024-08-28 20:47:10 | 日記
 前回の雪舟伝説の話で、長谷川等伯や雲谷等顔と共に伊藤若冲についても書いた。今回はその伊藤若冲の「象鯨図屏風」がテーマである。この絵は1795年頃に完成しており、若冲の没年が1800年だったことを考慮すると、彼の創造における技巧や感性はその円熟の極みに達している。謂わばこの偉大な絵師の仕事が集大成の域に入り、気宇壮大な画面に結実した魅力に溢れているのだ。大海原を背景にして、鯨と象という巨大な動物を左右に配した空間構成も実に見事だが、描かれた海の鯨と陸の象の姿は共に存在感が抜群である。しかも好対照の妙も冴えており、その独特な構図は何かを象徴している趣きさえ感じられる。

 特に「象鯨図屏風」の制作期間が、京の石峯寺の庵に若冲が隠棲して以降であったことを踏まえると、やはり仏教の信仰心が創造の礎にあるように思えるのだ。また彼自身も58歳の時に黄檗宗に帰依し出家しており、雪舟のように幼少期から僧の身ではなかったが、かなり信心深い仏教観を持っていたはずである。それはこの屏風絵の大作で、象と鯨を描く対象に選んでいることからも理解できる。実は象と鯨が同じ空間に描かれた絵は、若冲の「象鯨図屏風」が美術史上で唯一無二というわけではない。仏教美術において象と鯨が一緒に登場する作品は古くから存在する。それは絵画だと涅槃図とよばれるものだ。

 涅槃図とは釈迦の入滅の光景を荘厳に描いた絵である。沙羅双樹の下で静かに横たわる仏教の始祖の釈迦の死に際し、弟子や信者の人々だけではなく、人間以外の動植物の多くも集う大団円が表現されている。鯨や魚たちは海から画面中央の釈迦へ視線を注ぎ、陸の象は長い鼻を伸ばして天を指し嘆いているわけだが、この釈迦の生涯最期の場面には、当然のこと深い悲しみも漂っていながら、むしろそんな悲壮感を超えた優しい光に包まれているような安息と悟りの境地を感じさせる。そして巨大生物である鯨と象は、此処では重要な役割を象徴的に果たしているようだ。それは強く大きな勢力が、謙虚に仏の教えを受容している姿として描かれたということである。つまりこの絵の世界では、動物たちは食うか食われるかという弱肉強食の食物連鎖からも逸脱し、争う理由もなく平和に共存しているのだ。そしてそれは人間も植物も含めてである。

 恐らく伊藤若冲は「象鯨図屏風」の制作において、涅槃図を幾許か参考にしたであろう。これは容易に想像できる。それゆえ、象と鯨は涅槃図と同様に象徴的な意味を持つ。ここで今一度「象鯨図屏風」を注視して頂きたい。まず右側の象の表情はその目を見れば一目瞭然で、実に微笑ましく機嫌が良さげである。しかし象の体勢は陸の王者として誇り高く天を仰いでいながら、行儀良く膝を丸めている。一方、左側の鯨は波打つ海面に阻まれてその全貌が掴めない。しかし広い背から吹き上がる潮は、象の長い鼻よりも遥かに天高く舞い上がっており、それは絵の画面から噴水のような潮がはみ出していることからも明白だ。

 これは随分と個人的な見解になってしまうかもしれないが、象は幕府の勢力を象徴しており、それに対する鯨は反幕府の勢力を象徴しているのではないか。多分、鯨は海外からの脅威と、幕府に制御されている朝廷の権威であろう。これは江戸幕府以前の室町幕府や鎌倉幕府が崩壊した要因でもあった。鎌倉幕府は元寇と建武の新政を目指した倒幕により滅んだ。また室町幕府も大航海地代の南蛮貿易と、その影響でポルトガル王国やスペイン帝国から最新の銃火器が輸入されてエスカレートした戦国乱世により崩壊している。そして鎌倉幕府のような軍事力による倒幕は起きなかったが、最後の将軍の足利義昭が将軍職を関白の豊臣秀吉からの要請で、朝廷に返上して室町幕府は名実共に消滅した。

 古希を過ぎた晩年に至り、この「象鯨図屏風」を制作することで、伊藤若冲もまた雪舟や長谷川等伯のように、社会や為政者たちに向けて、絵の世界から警鐘を鳴らしたくなったのかもしれない。少なくとも鑑賞する限りにおいて、そうした解釈は可能である。無論、雪舟や等伯が生きていた時代とは違い、若冲の84年の生涯は江戸時代のほぼ中期、つまり乱世とは無縁の時の流れに収まる。ところが江戸時代中期を厳密に定義すると、若冲の晩年は江戸時代後期に入っていた。恐らく19世紀を目前にして人生の幕を閉じた若冲は、江戸幕府の終わりの始まりを告げる鐘の音を聴いていたようにも思えるのだ。かつての鎌倉幕府や室町幕府と同じく、やがて遠からず江戸幕府にも終焉は訪れるであろうと。

 しかし伊藤若冲は江戸幕府が何れ滅びを迎えるにしても、幕府崩壊に連鎖した南北朝の動乱や戦国乱世のような軍事的カタストロフを予知していたようには思えない。少なくともこの「象鯨図屏風」には、そこまでの不穏な空気は感じられない。むしろ涅槃図からの影響を受けて、陸の王者と海の王者が敵対して争うのではなく、融和し共生する姿を描こうとしたのではないか。私がこの絵を鑑賞したのは、2015年に東京のサントリー美術館を訪れた時だが、視界が捉えた第一印象では、鯨と象の鳴き声が協奏して聞こえてくるほどに和んだ雰囲気が伝わってきた。そしてゆっくりと近づいたり離れたりしながら絵を暫し目で味わっても、その印象は消えなかった。やはりこの絵は平和を希求した作品である。

 仮にそこに一抹の不安を感じるとすれば、それは鯨の表情が海に隠れている為、象よりも体が大きいその鯨が、想像を遥かに超えた未知の神秘性や潜在力を有していることだ。そしてこれは「象鯨図屏風」が完成した約半世紀後に日本列島を揺るがす幕末動乱を、知る術もない伊藤若冲が最も恐れていた予感であろう。記録に残っている若冲の人物像は、外界との接触を嫌い、諍いに巻き込まれることを避けるタイプであったといわれている。40歳で隠居したのだから、流石に納得できる評価だ。しかし現代だと商社に該当する青物問屋の家業を弟に譲っても、完全な世捨て人にはならなかったようである。実際、弟を含めた家族が営む家業を町年寄として若冲がサポートしていたことが史実として判明している。

 また江戸時代に、首都の江戸ほど巨大な人口を要せずとも、伊藤若冲が長く暮らした京は、商業都市の大坂に隣接した工業都市であった。謂わば江戸と大坂と京は、それぞれ政治と商業と工業の中心地として三都と称され栄えていた。しかし京と大坂は天領となる幕府の直轄地であった為に、幕府に遠隔支配された大名が統治する他藩のような地方分権的な自由度が低かった。それゆえ幕府から派遣された役人の圧力が強く、これに付随して汚職や利権が絡んだトラブルも横行していたようである。どうも若冲が早々と隠居した理由は画業に専念したかっただけではなく、職場環境も含めた地域社会からのストレスも多分にあったのではないか。

 そして青物問屋の周縁の問題発見と問題解決に際し、家業から引退し一歩退いた立場から、緩衝地帯のアドバイザーのようにして事に当たる形を伊藤若冲自身が望んだのかもしれない。なぜなら生家の青物問屋の家業も、絵師の経済的基盤を支えていたからである。事実、伊藤若冲の作品の多くは、保存性に優れた高価な絵の具の使用が確認できる。それゆえ若冲の絵は、江戸時代の作品とは思えないほど色鮮やかなものが多い。尤も「象鯨図屏風」の制作期間は、天明の大火という大惨事で京の都市の大半が焼け野原になった後のことだ。この忌まわしい人災で若冲は晩年になり経済的境遇は大幅にトーンダウンするのだが、石峯寺に隠棲して落ち着いた辺り、実はここからが真の隠居であったのかもしれない。還暦近くで出家している若冲にすれば、天明の大火によって気が動転することはなかったはずだが、困窮する人々を間近で目にし、被災地に当事者として彼も立っていたことを鑑みると、この大きな災厄が「象鯨図屏風」を創造する動機になった可能性はある。

 今回紹介している画像は、画集を開いた状態で撮影しており、多少歪んでしまって申し訳ないのだが、先に述べたように大画面で左右に配された2つの巨体、黒い鯨と白い象はこれから戦闘態勢に入るようには、やはり全く見えない。鯨と象の同居という到底あり得ないような組み合わせが、海と陸の境界で出会い、互いの存在を認めて呼応している。そんなユーモラスな光景であり、動植物が好きで、争い事が嫌いな伊藤若冲でしか創造できない世界が現出している。しかしながら皮肉なことに現実の歴史は、この「象鯨図屏風」の絵をグロテスクに変形させたような様相となった。若冲が鬼籍に入って約半世紀後に黒船が来航し、それと連動して倒幕運動が巻き起こり、江戸幕府は音を立てて崩壊に向かう。軍事的なカタストロフは幕末維新以降にエスカレートし、近代国家の大日本帝国の誕生と共に、日本列島から大陸へと帝国主義による海外侵略が始まった。もし伊藤若冲がこの史実を時空を超えて知ったとしたら、悲嘆にくれることは間違いなかろう。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雪舟伝説 (後)

2024-07-31 22:02:58 | 日記
 前回に引き続き今回も、今年の4月から5月にかけて京都国立博物館で開催された「雪舟伝説」についての話である。以前にこのブログで長谷川等伯に関し、それも彼の最高傑作「松林図屏風」を取り上げた。あの絵で等伯はついに雪舟の域に達した。否、鑑賞者によっては雪舟を超えたと感じる人も多いのではないか。勿論、等伯が尊敬し多大な影響を受けた雪舟の絵が存在しなければ、等伯の絵は生まれなかった。しかし「松林図屏風」は間違いなく等伯が目指した最高峰の到達点であろう。そしてこの展覧会でも、流石はそんな長谷川等伯だと納得させられる絵と対峙できた。それは「竹林七賢図屏風」だ。
 
「竹林七賢図屏風」は等伯が1607年に完成させた絵である。そして彼が3年後の1610年に江戸で客死していることを考えると、この絵は非常に意味深な内容を含む。まず主題は清談という古代中国の3世紀中頃に、儒教倫理を嫌い老荘思想に感化された貴族が、政治の表舞台から去って自然の中で自由気儘に議論をする姿を描いている。この絵で竹林の中に佇み話を交わす7人の貴族の様子を拝見していると、雪舟が描いた「慧可断碑図」からの影響を如実に感じざるを得ない。有難いことに、この展覧会では「慧可断臂図」も展示されていた為、雪舟から等伯へ絵師の魂が連鎖されたような感慨を得た人もいたのではないか。

「慧可断碑図」に登場する人間は達磨と慧可の2人だが、この絵の特筆すべき点は、雪舟が6世紀の中国大陸で起きた達磨と慧可のエピソードの真実を露わにしたことである。それは達磨に弟子入りを懇願する慧可が自らの腕を切断して捧げた行為が、虚偽であった事実だ。ここで雪舟は弟子が身を切り、血を流してまで師に尽くす忠義を批判的に表現している。暴力を否定する釈迦の声を、絵の世界から届けるようにして。そして慧可が腕を失ったのは、盗賊に襲われる等の暴力のトラブルかもしれないし、刑罰による切断かもしれないが、明白なのは達磨と出会うずっと以前から彼は片腕の身であったことだ。この「慧可断碑図」における儒教倫理に対する拒絶は、絵師が描いた時代背景こそ違え「竹林七賢図屏風」にも受け継がれている。
 
 恐らく「竹林七賢図屏風」の制作を決めた段階の長谷川等伯には、雪舟の「慧可断碑図」の概要やその解釈がかなり煮詰まっていたように思う。「慧可断碑図」が完成したのは1496年の室町時代後期で、京の都で勃発した応仁の乱が終息してから20年近い年月が経過しているが、畿内や関東のように室町時代初期から荒れていた地域以外にも戦禍が飛び火しだした頃である。要は戦国乱世の幕開けのような不穏な空気を、既に古希を過ぎた雪舟は絵筆を動かしながら察知していたはずだ。

 そしてその雪舟が鬼籍に入って丁度100年のタイミングで等伯の「竹林七賢図屏風」が完成する。この時、等伯は還暦を越えていたが時代は大きく揺れていた。まず1600年に関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が1603年に征夷大将軍に就くと江戸幕府を創立した。この為、大坂城で太閤の遺児秀頼を擁する豊臣家はまだ居座っているものの、これで実質上は徳川の世に入ったようなものである。この時勢において、等伯は自ら描いた絵によって時の権力者に向けて何かを伝えたくなったのではないか。それこそ雪舟のように。この「竹林七賢図屏風」の群像に目を光らせると、登場する7人の賢人のうち、3人は背中を向けてやや横顔に近い状態になっており顔の表情が判然としないが、他の4人は真正面ではなくともほぼ正面に近く、その容貌を確りと把握できる。そして「慧可断碑図」の達磨のように身体を太い輪郭線で描かれたこの4人は同じような丸顔で髭を蓄え、興味深いことにあの徳川家康に似ているのだ。
 
「竹林七賢図屏風」の主題、つまり清談から読み解くなら、長谷川等伯は江戸幕府をコントロールする徳川家康に対し、儒教の社会通念で貫かれた圧政に向かうべきではないと訴えている。絵の中の人々は、彼らが身を置いた政権の中枢から離れ、儒教ではなく仏教と親和性のある老荘思想の観点において正しい道を探っており、恐らく家康にもその一考を期待しているのだ。1605年に家康は将軍職を嫡男の秀忠に譲り、以後は大御所として駿府で隠居した身に落ち着く。しかしそれは表向きの話で、実質的に幕政を頂点で取り仕切っていたのは家康その人であった。この辺りの事情も、清談を主題に絵を制作した理由かと思われる。

 また江戸幕府の創建から数年が経過し、その間に法整備も緻密に具現化されていく段階で、等伯はネガティブに幕府からの圧迫を感じていたのかもしれない。特に京で暮らす等伯にとって、大坂の豊臣氏が遠からず幕府に反旗を翻し、再び戦火が巻き起こる不安も感じていたようだ。等伯の絵師としての人脈で、顧客の超大物は太閤の豊臣秀吉であったが、秀吉の御用絵師にはなれなかった。また等伯と家康に交流があった史実も殆ど聞こえてこないが、恐らく「松林図屏風」と「竹林七賢図屏風」を徳川家康が鑑賞していた可能性は高い。そして懇意にしていた千利休や古田織部ほどではないにせよ、多少なりとも面識があったのではないか。
 
 そして長谷川等伯が後継者の次男宗宅を伴って、人生の終焉を悟った時期に江戸へ向かったのは、大御所の徳川家康から招かれて面会する為であった。この時、等伯の長谷川派が江戸幕府の御用絵師になるよう推挙された可能性はある。何より駿府で隠居している家康が幕府の本拠地の江戸に出向いた機会に呼び出されたのだから、そう考えるのが自然であろう。ただし等伯は江戸に着いて2日後に病に倒れて死ぬ。この為、等伯と家康が何を話したのか、またそもそも会うことさえ叶わなかったのか、事の次第は結局、謎のままだ。しかし豊臣秀吉よりも徳川家康の方が、等伯の絵を高く評価していたのではないか。
 
 長谷川等伯の「竹林七賢図屏風」は、雪舟の「慧可断碑図」から伝わってくる反骨精神と見事に共振している。絵に描かれた達磨と慧可や七賢人は権威や権力に対し背を向けた人々であり、その意味でこの2つの作品は非常に主張が強い。ところがこれから紹介する雲谷等顔は、長谷川等伯とはまた違う独自の切り口で雪舟を止揚し、その上で完成度の高い絵を残している。等伯も等顔も雪舟を目標としながらも、等伯の絵がその最高峰の頂を越える気概さえ感じさせるのとは逆に、等顔の絵には最高峰の頂に迫れても、そこを踏破する偉業をあえて放棄したような抑制や達観が感じられる。

 等顔は1547年に九州の備前国に生まれた。一方の等伯は1539年に北陸の能登国で生まれており、ほぼ同世代だが等伯が8歳ほど年長である。また等伯が20代から仏画や肖像画を描く絵師の仕事をしていたのとは対照的に、等顔が絵の道に入るのは30代になってからで、契機は1584年に父の原直家が戦死して家門が絶えたことだ。これを転換点として等顔は武士から絵師へと切り替わる。以後、京の狩野派に入門し、三代目の狩野松栄や四代目の狩野永徳に師事しているが、この展覧会で展示された等顔の「山水図襖」は狩野派よりも心眼の域において、遥かに雪舟の絵に近い。

 等顔は絵師としての基礎を狩野派に学んだが、やがてかつての雪舟が歩んだ道を辿るようにして京を離れている。そして周防国を治める毛利家に身を寄せた。この行動もまた雪舟を踏襲しているとしか思えない。雪舟が京から下向した先は大内家であったが、雪舟がこの世を去った後に大内家は陶晴賢の謀反で崩壊する。そして周防国も含めたその広大な領域を、陶晴賢や大内家の残存勢力を滅して治めたのは、毛利元就が率いた毛利家だ。
 
 雲谷等顔の雲谷という姓は、晩年の雪舟が周防国でアトリエにしていた雲谷庵から拝借したもので、等顔の名も雪舟等揚の等の一字から拝借している。しかも雲谷等顔のフルネームは法名であり、元々は原直治という武士の名を1593年に出家して彼は捨てた。ここから雲谷等顔は毛利元就の孫で当主の毛利輝元から雲谷庵を託され、幸運なことにあの「山水長巻」も授けられている。「山水長巻」は毛利家の家宝でもあり、それゆえ等顔と輝元の信頼関係には並々ならぬものがあったようだ。

 等顔が毛利家の前に現れて以降、輝元の後半生は随分と波瀾万丈な展開になった。豊臣政権では徳川家康や前田利家らと共に五大老を任され、太閤の秀吉を支えながら権勢を誇示していたが、秀吉の死に伴い勃発した関ヶ原の戦いで、五奉行の石田三成らにより西軍の総大将に祭り上げられてしまう。ところがたった1日で東軍勝利という決着がついたことから、敗北の責務を負い自業自得の辛酸を舐めている。かつて織田信長と敵対していた頃には、祖父が築いた最大版図を凌駕した局面さえあったはずだが、勝者の徳川家康に120万石から一気に30万石へと減封されてしまうのだ。

 多分、雪舟が大内政弘に献上した曰く付きの「山水長巻」を、毛利家の重要人物たちは悉く鑑賞していたはずである。あの毛利元就は言うに及ばず、その3人の息子の毛利隆元と吉川元春と小早川隆景、それに孫の毛利輝元に、この絵は家宝である以上、丹念に拝されていた。そして毛利輝元は祖父と父の死後、吉川元春と小早川家隆景という有能で優れた叔父2人に支えられ、1578年に織田信長の勢力圏にあった播磨国の上月城を落城させた時点で、偉大な祖父が達成した最大版図土の拡大に成功する。ただこれ以降、織田軍との一進一退の攻防の末に、本能寺の変で信長が憤死してからは、後継者を自称する秀吉に翻弄され、いつの間にか関白に就任し天下人になったその秀吉に臣従するはめになった。

「山水長巻」はこの展覧会でも展示されているが、毛利輝元と雲谷東顔はこの絵と向き合った時、似たような感慨を得ていたのかもしれない。滅亡した大内家や、斜陽の毛利家を思い、栄枯盛衰という世の儚さを心に刻むようにして。特に輝元は、祖父の元就の遺訓「われ、天下を競望せず」という言葉を聞いていたのではないか。等顔は輝元からの要請で「山水長巻」を模写しているが、恐らくそれは関ヶ原の敗戦後、卦辞として輝元が出家をして以降のことだと思われる。この任に当たるよう主君に背中を押された時、等顔は迷うことなく得心したであろう。

 そして雲谷等顔の画業はある意味、雪舟の「山水長巻」という唯一無二の遺産を手元に置き、その貴重な原石の魅力を粉骨砕身し抽出し続けたことに尽きる。実際、等顔が描いた全ての絵には、何処かしら何かしら「山水長巻」の空気や匂いが感じられるからだ。この展覧会に展示された等顔の絵は「山水図襖」のみだが、その濃淡や陰影、それに画面構成には雪舟の憑依さえ覚える。無論、絵師は別人であり、線描に関してなら等顔の線は雪舟よりも繊細で丁寧だ。また当時の狩野派のような装飾性も窺え、この辺りは明らかに違うのだが違っている為に、むしろ雪舟の自由自在に宙を這う線が錯覚のようにして滲み出てくる。鑑賞する側からするとこれはもう、雪舟への尊崇の念が生んだ神秘だと讃える他ない。

 雲谷等顔と長谷川等伯はほぼ同じ時代を生きているが、この2人が鬼籍に入って約1世紀を過ぎた頃、伊藤若冲が山城国で生まれている。江戸時代も中期に入り戦国乱世とは無縁の泰平の世で、若冲は長命の齢84年を全うした。生家は卸売業の青物問屋で、彼は長男ゆえに商人として40歳まで家業を営んでいたが、絵を描くことは大変好きで、その制作活動は余暇どころか本業を疎かにするほど旺盛であった。それゆえ40歳で弟へ家督を譲り、以降は隠居して作品の創造に専念する。また子もおらず生涯独身を貫いた。これは雪舟も同様なのだが、画僧は禅宗の僧侶ゆえ妻帯が許されなかった為、強制ではなく本人の自由意志でそうなった若冲と事情は異なる。この辺りは洋の東西こそ違え、ルネサンス期のイタリアで自ら生涯独身を通したレオナルドとミケランジェロとラファエロに若冲は似ている。

 そしてこの展覧会で展示された伊藤若冲の作品で崇高なまでに輝いていたのは「竹梅又鶴図」ではないか。この絵は雪舟の「四季花鳥図屏風」と同じ流れを汲む。勿論「四季花鳥図屏風」も展示されており、2人の絵師が生きた時代には2世紀もの隔たりがあるとはいえ、絵に描かれた鶴の姿を通して生命への畏敬を最大級に伝えている点で、雪舟と若冲は一体化している。一般的に雪舟の絵というと、空と山と水に占有された空間がすんなり頭に浮かぶ人は多いかもしれない。しかし雪舟が生前に残した「風景が全てを教えてくれる」という言葉には、通り一遍では解釈できない深い意味があるようだ。風景には石や土といった無機物だけではなく、人間や動植物も存在する。そして生命と生命を育む環境の全容を視覚的に表現することで、一切の生きとし生けるものは平等だという仏の教えを示している。

 この2つの絵に描かれた鶴は、自然に感謝し生命を謳歌する愛らしい表情や仕草を、鑑賞者に見せてくれるのだが、実はあの長谷川等伯も鶴ではなく可愛い猿を「枯木猿猴図」で描いて、若冲と同様に雪舟と魂の邂逅を果たしている。この展覧会では等伯の絵に猿は登場しないが、展示されている雪舟の絵には脇役ではあっても、猿の姿を見かけた。その表現は少しデフォルメが効いているが、親しみを含んだ表情は、鶴と同様に全ての命は同じく尊いと感じさせる魅力を放っている。そして興味深いことに等伯の描いた猿は、雪舟の描いた猿と瓜二つなほど似ていた。「枯木猿猴図」は京都国立博物館に所蔵されており、今回展示されなかったのは残念だが、この等伯の模写に近い表現から理解できるのは、雪舟の絵に傾倒した絵師たちは、そこに動植物への慈愛を見出していたことだ。

 伊藤若冲の作品にも動植物を主題にした絵が多い。また描く対象への愛情の深さも抜きん出ており、そこがこの絵師の仏性のような特質でもあろう。そしてこれは雪舟を彼固有の姿勢で咀嚼し、見本にしたからこそ生まれたといえる。また雪舟と若冲に心眼の域で通底していたのは、恐らく仏教における草木国土悉皆成仏という概念であろう。これは全ての生命を分け隔てなく慈しむと共に、生命を維持する水や土や空気、つまり環境保全をも重視した思考であり、21世紀の今にも響くメッセージだ。この雪舟伝説を謳った展覧会で、雪舟の魂を、最も強く継承していたのは伊藤若冲ではないか。それは他の絵師たちよりも、絵から感じられる悟りや祈りが深く、泰平の世を生きていても、軍事政権の幕府に統治された現世を理想社会だとは認識せず、絵の創造を通して、仏の教えを示そうとしていたように思えるからだ。しかし仮にたった1つの絵で、雪舟から継承された魂を強く感じるなら、それはこの展覧会では展示されなかった長谷川等伯の「松林図屏風」であろう。そして京都国立博物館を後にした時、今更のようにして、展示された全ての絵の中で雪舟の絵が一際静かであったことに気付いた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雪舟伝説 (前)

2024-06-30 17:17:12 | 日記
 先月、京都国立博物館へ行った。そこで開催されていた「特別展 雪舟伝説」を鑑賞する為である。今回展示されていた雪舟の絵とは、過去に出会った作品ばかりなのだが、新しい発見もあったように思う。また記憶を紐解くと東京在住の頃に、殆どの絵を東京国立博物館で鑑賞していたようだ。多分、この京都国立博物館に所蔵されている国宝作品も、東京国立博物館に貸し出された時期に拝見しているはずである。また毛利博物館に所蔵の「山水長巻」は21世紀になってから東京国立博物館で鑑賞した。ただ今回この「山水長巻」が巻物全体を広げた展示にはなっておらず、そこは誠に残念であった。ただし原寸大の複製も壁面展示されており、その全貌は丁寧に把握できる。それでも来場者の多くは巻物の方に行列をつくっていたが。
 
 なおこの展覧会は雪舟の大回顧展ではない為、雪舟の作品数は、彼の影響を受けた数多くの絵師たちの作品数よりも少ない。しかしそのように多勢に無勢ではあっても、雪舟の絵の存在感が孤高なのは、やはり疑いようがなかった。また雪舟の影響力も、絵師によってその受容の仕方がそれぞれ違う。今回の展示で感触を得た、個人的な新しい発見もそこにあった。そして雪舟に尊敬の念を抱いた絵師たちの視点も、多種多様な印象を受ける。

 そんな中で、特に理解し易いのは狩野派であろう。狩野派の絵師たちの作品には、雪舟の技巧を消化し換骨奪胎する情熱や執念は感じられても、その行き着く先は様式美の構築だといえる。そしてその様式美はそれを需要する権威や権力への貢献にも結びつく。しかもその貢献は癒着の過程であり、狩野派という職業絵師が属する組織の成功と繁栄が、権威や権力との共存共栄という形で実現することにもなる。事実、狩野派は室町幕府と江戸幕府という2つの武家政権に跨って400年近く画壇の中心で隆盛を極めた。それゆえ狩野派の絵師たちは元来、血縁も重視する組織を構成する一員としての職業人の意識が濃厚だ。
 
 この辺り狩野派作品は、長谷川等伯、雲谷等顔、尾形光琳、伊藤若冲、それに円山応挙らとはかなり趣きを異にする。またこの5人の中で、流派に属していないのは伊藤若冲だけだが、等伯の長谷川派も等顔の雲谷派も光琳の琳派も応挙の円山派も、狩野派のような400年も続く、統制のとれた大組織ではなかった。また何よりこの5人は雪舟の絵と向き合った時、純粋な邂逅に近い感覚を大切にし、そこから起動して絵筆を走らせていたように思える。つまり彼らは個と個で対峙し、時空を超えて雪舟から学んでいたはずなのだ。

 たとえば今回展示されている尾形光琳と円山応挙の絵には、雪舟の「破墨山水図」からの影響が如実に感じられる。特に墨の濃淡と筆触にそれは顕著だが、殆ど直感に左右された発作的かつ本能的な反射から絵が生まれているといっても過言ではない。一方、狩野派の絵には障壁画や屏風絵や襖絵といった幕府や寺社へ納品するモデルケースを想定した上で、雪舟の素晴らしい絵の要素を見本として、どう取り入れて狩野派のプロジェクトに活かすかを考案した形跡が見える。つまり狩野派の絵はとてつもなく用意周到で強かなのだ。
 
 しかしその方向性で雪舟の絵に敬意を払い続ける狩野派が、如何に連続性や共通項を強調しても、その内実は雪舟から遠く離れていくことに気付かざるを得ない。皮肉にも江戸時代において、雪舟を高らかに称賛していたのは狩野派の絵師たちであったにも関わらずだ。尤もこれは近世の文化的な視点を踏まえた正論には反する。なぜならその正論とは、当時の画壇をリードする狩野派こそが、中世の室町時代中期から安土桃山期を経て近世の江戸時代に至るまで、雪舟の真髄を伝承してきたという説であり、なおかつ幕府のお墨付きにより一般化したその定義だ。

 ところがである。大名家の城や寺社も含めた建築物の内部において装飾的に構成される障壁画や襖絵や屏風絵を、それこそ幕府の威光を示すように制作してきた狩野派のスタイルは雪舟とは全く相容れない。また15世紀の室町時代に画僧であった雪舟が、京都から離れた理由は画壇で評価されていなかったこともその一因だが、無論それだけではなく、彼が属した相国寺が主に幕府からの要望で、障壁画や襖絵や屏風絵や庭園の制作を請け負うシステムに、率直な違和感を抱いていたことも考えられる。恐らくこの制作システムは、絵師の仕事も兼ねる画僧にとって心身に支障をきたすほど多忙を極めたのではないか。しかしこのシステムこそ、後に狩野派によって運営されていく大規模な工房が踏襲し発展させたものである。

 ここまでの話で気付かれた方も多いと思うが、恐らく雪舟と狩野派の絵師たちは水と油ほど溶け合えない。これは絵の作風以前の問題だ。作風に関して述べるなら、狩野派は周文や雪舟ら相国寺の画僧が制作してきた漢画の作風に連なる。つまり古代から中国大陸で延々と築かれてきた絵画様式の範疇に収まる。これは今回の展覧会の全作品が共有している。要するに雪舟伝説を謳う以上そうなってしまうのだ。ただ仮にそうした作風とは別に、現代社会に置き換えてビジネスライクに考えると、雪舟は利益の追求を殆ど無視した個人事業主であり、一方の狩野派は常に利益の追求を念頭に据えてそれを経営基盤とする会社組織のようなものである。この為、狩野派が捉えた雪舟とは、貴重な商材のような存在だ。

 そしてこの異なる制作姿勢を鑑みると、芸術の根本的な命題に辿り着く。それはいったい何の為に創造するのかということである。恐らく雪舟の場合、絵師である前に禅僧である自覚を常に持っていたはずだ。また禅僧にとっては絵を描くことも修行の一つで、それは絵が仏の教えを示すことにもなるからである。この為、絵を描く側も絵を鑑賞する側も、絵と出会うことで欲に支配されてしまう心やその執着から解放される瞬間を体験していることが理想であり、この感動体験を実現できるほどの作品を完成させること、これが雪舟を含めた画僧たちの創造行為の大きな理由であろう。

 一方、狩野派の場合、絵師たちの制作姿勢にこの意識を要求するのは無理がある。彼らは組織に属する職業画家であり、商品としての絵が売れて利益を出さなければ、組織の存立は厳しい。また中世から近世の時代的変遷の中で4世紀も続いた狩野派は、興隆と共に停滞も経験しているはずなのだ。そして恐らく停滞からの脱出に一役買ったのが雪舟の存在であろう。それも埋もれていた雪舟を再評価し、雪舟を師と仰ぎ歴史の表舞台に出すことによって、狩野派は飛躍することになる。今回の展覧会では漢画風の絵が多いことを先に述べたが、狩野派は安土桃山期には漢画よりも大和絵の豊穣で絢爛とした作風に傾斜する。そして時代を大きく動かした織田信長や豊臣秀吉に庇護されるのだが、太閤の秀吉が鬼籍に入り徳川家康が江戸幕府を創建した辺りから雲行きが怪しくなっていく。家康は秀吉のような派手好みの性格ではなかったのだから、時の権力者に取り入る為に、路線変更を余儀なくされたのかもしれない。実際、漢画から大和絵に傾倒しだしたのは狩野派二代目の狩野元信だが、織田信長や豊臣秀吉に仕えた四代目の狩野永徳によってこの流れは決定的になっている。しかし信長や秀吉が姿を消した後に、雪舟を讃え漢画に傾倒し直したのは六代目の狩野探幽であった。それを象徴するように、この展覧会でも狩野派の作品群では、探幽の絵が突出して多い。

 ここで雪舟の生前の話をしたい。これは随分と皮肉めいた歴史的展開なのだが、実は雪舟は生前に狩野派と接触している。狩野派の始祖の狩野正信との交流で、希少な逸話さえ残していた。その逸話とは単純明快に言うと、雪舟が正信に仕事を譲っている一件だ。時期的には中国大陸の明から帰国した後で、既に還暦を越えていた雪舟は、第八代室町幕府将軍の足利義政から依頼された東山山荘の障壁画の制作を固辞して正信を推薦した。この時、壮年期の正信は未だ富も名声も得ておらず、このチャンスを逃す手はなかった。

 この点で狩野派の初代の正信は、雪舟には大変な恩義があるわけだ。ひよっとすると狩野派が延々と雪舟を持ち上げ続けた理由の1つとして、このエピソードは非常に重要な出来事なのかもしれない。今回の展覧会では雪舟と同時代を生きて実際に交流した絵師は皆無なので、狩野正信の絵は企画外ではあるものの、例外的に展示されても良かった気がする。なぜなら狩野正信の師は宗湛であり、その宗湛の師は周文だからだ。つまり周文を師とした雪舟にとって、正信の絵には何か親和性を感じさせる魅力もあったように思える。それゆえ雪舟は足利義政に正信を推薦したのではないか。

 しかしここで忘れてはならないのは、雪舟があくまでも、時の最高権力者たる将軍の義政の要請を丁重に断っていることだ。要するに雪舟には工房の制作システムに関わる気が無かった。また固辞した理由として、自分が禅僧だから引き受けられませんとも答えている。この義政への意思表示は、ある意味で雪舟の絵から解釈するよりも、彼の本質を理解できる肉声であり言葉だといえよう。つまり仏に仕える身からすれば、仏の教えを示す絵の創造に値する仕事ではなかったということだ。この雪舟の仏教者としての存在意義を理解し共鳴していた絵師は、今回の展覧会においては長谷川等伯と雲谷等顔と伊藤若冲の3人であったように思う。今回は主に雪舟と狩野派の話に焦点を絞らせて頂いたが、次回は今述べた等伯や等顔や若冲を中心に書く予定です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

追悼 ポール•オースターの小説

2024-05-31 22:01:06 | 日記
 最近、米国の作家ポール・オースターの訃報を知った。肺がんの合併症で4月30日に77歳で他界されていた。彼の小説に親しんできた身としては誠に残念である。最初にオースター作品に出合ったのはニューヨーク3部作とよばれる「ガラスの街」と「幽霊たち」と「鍵のかかった部屋」で、きっかけは新聞の夕刊の文芸時評でこの個性的な作家が紹介されていたことだ。
 
 大学を卒業するまで田舎育ちだった私は1980年代後半から16年ほど東京に住むことになり、オースターの描く都市の姿には実感を伴う親近感も湧いた。東京は日本の首都であり、日本各地から絶えず人間が流入してくる為、多様性に富み、日本人に特有の島国根性や村意識からくる偏見も少ない。他人への関心も薄く、隣人が正体不明でも我関せずの世界だ。この感覚はオースターの小説を読んでいると、水を得た魚のように共有できる。

 東京で暮らしはじめて数年が経過した頃、仕事が休みの日に図書館へ出向いてオースターの小説を探していたら、運よく「幽霊たち」を借りれた。1日で読了できるほどの中短編小説だが、文体のリズムも心地良く、その読後感は素晴らしかった。そうなると当然、3部作の残り2作品も読みたくなってしまい、「幽霊たち」を図書館へ返したところ、生憎「ガラスの街」と「鍵のかかった部屋」は貸出中だった為にその後、タイミングが合った時に借りて読んだ。ただ初めてオースターの小説世界に遭遇したのは「幽霊たち」であり、この探偵小説のスタイルで描かれた物語には、何度も読み返したくなるほどの愛着を覚えた。多分、現代アメリカ文学において、自分に最も相性の合う作家がポール•オースターだったといえる。
 
 オースターに固有の淡々とした語り口から想像可能な風景は、一見すると整然として冷たい抽象的な都会の景観なのだが、そこには不思議と孤独ゆえの自由と、自由ゆえの孤独が社会から認められ許されている安心感がある。これは他者を侵害しない自由の容認を意味する。基本的人権が保障されている状態であり、なおかつそれは皮肉にも都会の居心地の良さなのかもしれない。

 そして「幽霊たち」は探偵小説のスタイルをとっていながら、謎解きが主題ではなく、むしろ主人公の自分探しが核になっている。他人に依頼された探偵の任務を続けながら、この主人公はどこか自由自在に行動し、自ら望んで孤独に浸ろうとしているかのようだ。結末は哀愁を誘うし、白日の下に曝されるようにして真実も明らかになるのだが、このラストは読者が如何様にも解釈可能なのだと、作者オースターからのそんな問いかけも感じられる。
 
 このニューヨーク3部作を読んで以降、「ムーン・パレス」、「偶然の音楽」、「リヴァィアサン」、「ミスター・ヴァーディゴ」、「幻影の書」、「オラクル・ナイト」、「闇の中の男」といった小説を読んできたが、私個人にとってのポール・オースターの最高傑作は「闇の中の男」である。また「偶然の音楽」を読んだ辺りから、オースターは実のところ世直し作家なのではないかという確信も芽生えだした。実際、この作家は寓話的な小説作品も多いのだが、創造された物語を読み返すとその殆どは社会批判的であり、しかも場当たり的な批判とは違い、人類の文明のシステム自体に、歴史的事実や彼の歴史観を踏まえた上でその核心に踏み込んでいる。

 特に「偶然の音楽」は、強運で傲慢な支配力に圧殺されてしまう人間の悲劇が描かれているのだが、ラストシーンは衝撃的にそれを全開で訴えていた。組織において上層から強制される命令は、それを受ける下層の人々にとっては心に突き刺さる不快な異物のようなものだ。それゆえ命令に従っても被支配者の心に責任感が生まれることはない。そして悲嘆すべきは、当の命令を発する支配者こそが限りなく無責任であることだ。この小説ではそんな構図を深く考えさせられる。また元来、オースター自身が政治的な発言も確りとされていた人なので、大きな天災や人災で未曾有の危機に直面している現代世界において、まだまだ存命でいてほしかった文化人の1人だ。

「闇の中の男」が発表されたのは2008年頃で、米国発の世界的金融危機となったリーマンショックが発生した時期と重なる。これは2期続いていた共和党のブッシュ政権が、9.11の大規模なテロに連動したイラク戦争の動乱に始まり、20世紀の世界恐慌に匹敵する経済的大不況の騒乱で終わった8年間の家族の物語だ。しかしオースター作品らしいのは、物語の中に物語が存在する劇中劇の形式になっていることで、主人公は米国に住む老作家であり、彼の脳裏で展開する構想中の物語では、本土攻撃の9.11テロが発生しなかった、もしもの米国社会が出現する。しかもそこでは南北戦争のような内戦が起きていた。

 そんな妄想に近い世界と、老作家の日常が描かれており、彼は孫娘と二人で暮らしている。一見すると静かな生活を思わせるが、別居している娘は夫に去られた辛い過去があり、身近な孫娘も兵役とは無縁の恋人をイラク戦争で亡くしていた。老いた男は心に傷を負った肉親と共に生きているのだが、この空想と現実の交差する物語全編にはテロや内戦や戦争といった残酷で破壊的な暴力への拒絶感と、そのような世界の破滅因子を溶解し消滅させるものは、やはり家族愛だと悟らせるような哀感と希望に満ちている。

 この「闇の中の男」には、戦争未亡人が登場する日本映画「東京物語」のエピソードも挿入されており、ポール•オースターが元来、強い反戦意識を持っていることは疑いようがない。実際、米国政府が民主主義の旗を振りながら、その裏で軍産複合体と癒着して軍事介入を海外で行う政策を、小説を含めた著作やメディアを通した発言で批判しているし、それは「闇の中の男」を読んでもよく理解できる。

 そしてこの物語の主役の老作家が空想する世界では、内戦が勃発するほど米国の分断がエスカレートしているわけだが、これは今の米国で現実に分断が非常に深刻になってしまったことを鑑みると、オースターの洞察や見識は近未来を予知できるほどに優れていたといえる。元々米国は移民によって成立した多民族国家であり、そこでは寛容と分断がコインの裏表のように存在する。そしてそんな長所と短所を明確にした上でその行末を案じ、オースターはこの超大国の病巣に対する処方箋を、小説家を本業とする文学者として真面目に探究していたようだ。

 近年のオースターの政治的態度で有名なのは、2016年の米国大統領選に勝利したドナルド•トランプの登場にショックを受けて、米国の存在と未来に悲観し絶望感に苛まれていた姿である。これは過去にイラク戦争を主導したブッシュ政権に抗議した彼にしてみれば察して余りある当然の心境であろう。オースターは世界をゼロサムの概念で定義し、その上で敗者ではなく勝者であり続ける強い米国、偉大な米国をスローガンにするホワイトハウスなど信用できなかったし、不誠実で不平等な社会が到来することなど、勿論のこと望んではいなかった。

 そしてそれは彼の小説空間で生きる主役たちの行動や言葉に出会えば一目瞭然であろう。彼らの殆どは、不器用で世間からずれた、謂わば社会の異分子のような存在なのかもしれないが、人生には意味があり、生きる価値があると、そう信じている。たとえ潜在意識ではあったとしても。そしてそんな彼らは、奈落の底で深い悲しみに遭遇しても、心を荒ませないことが大切であり、偏見に囚われず排外的にならなければ、絶望が希望に変換することを知っているようだ。つまり暴力が蔓延り分断へ向かう世界や、人が人を搾取する人間関係や社会には、愛は訪れないし、そもそも生まれようがない。

 ポール•オースターの小説は、1980年代後半に欧米で評価されて以降、意外とスムーズに日本でも広く読まれ親しまれるようになった。村上春樹作品との親和性を語られることも多いが、私自身はむしろ安倍公房の小説世界に近い魅力を感じた。特に「幽霊たち」のような探偵小説のスタイルには、米国と日本という時空の違いはあれども、地続きで繋がっていると錯覚させるほどに違和感が無かった。また物語において奇跡的に希少な愛が訪れる瞬間があり、その絶妙なストーリー展開は、闇の中で光の突破口を見つけたような感動を読者に呼び起こす。

 また小説に比べると作品数は少ないが、詩やエッセイも創作し、自作の映像化を試みて、映画さえ制作してしまった。そして日本語にはまだ翻訳されていない貴重な作品も存在する。オースター生涯最後の小説「4321」がそれだ。これは著者の最高峰と評されるほど海外での評価が高い。いずれ日本語で読める「4321」が、日本の書店に姿を現すことはほぼ間違いないと思われるが、その日が来ることを心待ちにしたい。この場を借りて、衷心よりご冥福をお祈り致します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする