goo blog サービス終了のお知らせ 

想:創:SO

映画と音楽と美術と珈琲とその他

「鳥獣戯画」

2025-03-25 16:41:35 | 日記

 最近、たまたま図書館を訪れていたら強いインパクトで、ある本の表紙が目に飛び込んできた。それは「鳥獣人物戯画」であった。一般的には「鳥獣戯画」というタイトルで広く親しまれている絵画作品で、制作年代は12世紀辺り、平安時代末期から鎌倉時代初期になるらしい。作者は戯画の名手とも評された鳥羽僧正覚猷の説が有力だが、その真偽は定かではなく作者不詳というのが定説である。

 今回の写真画像は甲と乙と丙と丁の全4巻の甲巻から取り上げさせていただいた。多分、鳥獣戯画といえば殆どの人がこの甲巻に収録された絵を思い浮かべてしまうのではないか。乙巻が神話や伝説上の動物を主に紹介し、丙巻は動物の世界よりも人間社会が濃密な題材になっており、また丁巻も丙巻と同様に人間社会を中心に据えているのだが、構成や筆運びが他の巻と比べると多少なりとも違和感を伴うのが特徴的である。そして甲巻で描かれた動物たちの情景は遊戯に溢れており、表情豊かで実に生き生きとしている。それこそ今にも絵から飛び出して声を発しながら踊りそうなくらいに。この類稀な作品世界が日本最古の漫画とも評されるほど親しみやすく魅力的なのはそのせいであろう。

 特に日本最古の漫画という評価に納得できるのは、この「鳥獣戯画」が遠い昔の紀元前10世紀以降から古代中国で使用されだした墨を画材にして、墨絵の広大なジャンルの中でも、白描画という殆ど線だけで描く技法を極めていることだ。従ってこの絵は陰影や遠近感を殆ど重視しておらず、その意味で現代の漫画との親和性が非常に強い。そしてそれは現代人の私たちにとって、時代背景など考える隙もなく、その違和感があっけなく剥がれ落ちてしまう見事さだ。斯様にこの作者の対象を捉える素描や筆触といった視覚表現は突出して優れている。これはやはり未だ正体不明の作者の才能によるところが大きいのだが、同時に動物たちをここまで擬人化して構成したアイディアにも舌を巻く。またそのアイディアには、なぜこの絵が描かれたのかという謎さえ残る。要はこの作者が絵を描くことを心底楽しみながら制作しているのは間違いなかろうが、それにプラスアルファして無目的ではない何かが炙り出されてくるのだ。

 ここで作者の候補でもあった鳥羽僧正覚猷について少し考察してみたい。実はこの人物、平安時代後期の天台宗の高僧で90歳近い長命を全うしているのだが、晩年に大寺社の要職を歴任していながら、宗教的権威や政治的権力の腐敗には批判的であった。つまり官に属してはいても、民に対する共感力や同情心は確りと持っていたらしい。そしてそんな彼の人間性は、天台宗の園城寺において自ら絵筆をとって密教図像を描きつつ絵師の育成にも努め、仏教美術を体現することで権威や権力に利用されない仏教の本質に接近していたように思われる。また「鳥獣戯画」が4巻で構成されており、巻によって筆触や雰囲気が微妙に違うことも考慮すると、複数の絵師によって描かれた可能性が高い。

 恐らく「鳥獣戯画」に鳥羽僧正覚猷の肉筆が入っていたとしても、その仕事の全容は全巻の編集であったように思えるのだ。また彼が生きた時代は治天の君と謳われた白河天皇が譲位して上皇となり、さらに出家して法皇となって院政を敷き、権威と権力を束ねて独裁化しようとした頃であり、後の平家の勃興を準備する北面の武士を設置し朝廷の軍事力を強化していた。そしてこの政策は、天台宗の総本山である比叡山の延暦寺が軍事的に武装化し、朝廷にも圧力を懸けてくる政治勢力になっていた現状に釘を刺したといえる。つまり国家の頂点に座す為政者が武闘派として君臨しており、それに付随して貴族や寺社も武力の存在価値をかなり重視する傾向にあった。しかもこの流れは時を経てさらに強まっていく。きっと鳥羽僧正覚猷は古代から中世に移行するこの時代が、かなり荒れた動乱期に向かっていたことを如実に察知していたはずだ。特に当時、仏教における末法思想が流布していた歴史的事実を鑑みると、彼はリアルタイムで釈迦の正しい教えが理解されずに通用しない、天災のみか人災で世の不安と絶望が増すばかりの社会情勢を、悲嘆しながらも諦観して見つめていたのではないか。

 そして「鳥獣戯画」の甲巻に登場する動物たちの擬人化が目を見張るほど冴えわたっているのは、描かれた彼らの親近感や可愛らしさが、私たち人間が人間に対して抱く感情の域にまで高められ到達しているからであろう。そこには種差別という偏見が存在しない。つまり釈迦の説いた、全ての生命は平等に尊重されるべきだという教えに、一直線で繋がっている。

「鳥獣戯画」が作者不詳という説を信じるならば想像を働かせるしかないが、鳥羽僧正覚猷が作品制作の過程で関与していたのはかなり信憑性の高いところだ。ゆえにその作者は無名でも彼の弟子に当たる人物で、その技と才を高く評価されていた絵師だったのではないか。鳥羽僧正覚猷がその長い人生の時間を多く過ごしたのは園城寺だが、この寺院がそもそも創建された理由は、同じ天台宗でも比叡山の延暦寺と宗教的な正当性で散々に揉めたあげく、10世紀末に分裂して独立したことによる。また鳥羽僧正覚猷の存命中に、延暦寺との僧兵を動員した軍事衝突で園城寺は度々焼き討ちに遭っていた。軍事力では延暦寺には敵わなかった為に全焼の憂き目も見たほどで、こうした仏教徒が暴力で釈迦の教えを踏みにじっている事態も、「鳥獣戯画」が生まれた要因なのかもしれない。なぜなら生命を蔑ろにする戦争や内戦を含めた紛争に対するアンチテーゼがこの作品のテーマだと解釈すると、絵の中で擬人化された動物たちの生命力は、なお一層その輝きを増すからだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

森永卓郎さん 追悼

2025-02-15 16:54:38 | 日記

 先月の28日に経済アナリストでエコノミストの森永卓郎さんが他界されていた。ブログの場ではありますが、衷心よりご冥福をお祈りいたします。

 森永さんは1990年代後半辺りからテレビ出演が増え、その漫画に登場しそうなユーモラスな風貌や雰囲気からとても親しみやすく、すっかりお茶の間の人気者にもなっていたようだ。しかしその発言は実のところ、非常に真面目な内容が多く、専門の経済の分野以外でオタク文化を語ったりもしていたが、日本社会や国際情勢の未来を真剣に考えておられた。それは数多くの彼の著作を読めばよく理解できる。

  森永さんがタレントのように有名になりだした頃、私は既に社会人であったが、語り口はソフトでも反権力の軸が非常に確りとしており、注目に値する言論人として個人的な記憶に強く留めることになった。そして日本のバブル景気が弾けた後の1990年代後半以降、だらだらと続く平成不況が始まり、失われた20年とも揶揄されたこの時代は20年どころか、元号が平成から令和になっても殆ど回復の目途がたたないまま、もう30年を過ぎようとしている。こうした閉塞した時代状況の中で、世界的に格差社会が進行する絶望的な流れはこの日本でも例外なく顕著になってきた。

 森永さんは一昨年に発覚したステージ4の癌に蝕まれてからは、過酷な闘病生活の中でもメディアでの発言や著作によって全力で警鐘を鳴らしていた。その主張に一貫しているのは、政府の経済政策が機能不全に陥っていることへの痛烈な批判だ。そこには弱者切り捨て、弱い者いじめを許さない方向に舵を切るべきだという信念が感じられる。しかしこの森永さんの強い信念は感情論などではなく、政府への具体的な政策の提案でもあった。そしてそれはつまるところ政府から国民への財政出動であろう。要は貧すれば鈍する状態の庶民が貯金に回さざるを得ない程度の少額ではなく、景気が刺激されるほど安心して消費に回せる量のお金をばら撒くべきだということである。 

 この失われた30年間、小泉内閣の構造改革や、安倍内閣のアベノミクスといった小さな政府による新自由主義や市場原理主義を肯定した路線は、数字の上でGDPが上向く局面はあったにせよ、大多数の国民は幸福になっていない。かつて一億総中流と形容された中間層が没落していき、幸福を実感できたのは少数派の勝ち組だけだ。しかもその勝ち組の中には2世3世の国会議員もいる。要するに人生のスタート地点で恵まれた境遇にいる人々とは裏腹に、負け組の敗者復活戦の機会均等に元々恵まれていない日本という国においては、このお粗末な状況はどう考えても不可解千万かつ不条理である。

 森永さんは帰国子女で東大を卒業後は日本専売公社に新卒で入社しており、官僚ではなくともエリートの部類に入る。今のJTである日本専売公社には8年ほど在籍したが、退職後は財閥系の総合研究所へ移籍して暫し研究員を務めた。テレビ出演を始めたのはこの研究員の頃からだと思う。そして21世紀になり企業人から大学教員へ鞍替えすると、執筆活動も本格化し著作も増えていく。そんな物申すタレント森永卓郎が本領を発揮するステージへと移行した。

 先月に人生の終点を迎えるまで、全身全霊をかけて真情を発露されていたが、その思想信条やビジョンは全くぶれなかった。それは先にも述べた通り、私たちが生きている社会が弱者切り捨て、弱い者いじめを許さない世界に変わらなければ、人類の未来は暗澹たるものだということ。これに尽きる。そしてこの間違った方向性の軌道修正とは、やはり政・官・財が特権を手放して富を民に還元する道であろう。この軌道修正を実行するのは容易ではないと思われるが、意外と森永さんは若いエリートの人々にそれを期待していたのかもしれない。

  特に親ガチャなどではなく、受験戦争を含めた過酷な競争を不断の努力で勝ち抜き、給与待遇や福利厚生にも恵まれたエリートの領域に、やっと最初の一歩を刻んだ社会人1年生あたりに対してである。恐らく本来ならこうした若者は初期段階では高潔な志も持っているはずだ。ところが実際には、彼らの過酷な競争を勝ち抜いて得たスキルは、足の引っ張り合いのような出世競争でそのエネルギーを消費する形に変容してしまう。これは実に滑稽で馬鹿げた展開なのだが、既にエリートの領域にどっぷり浸かっている諸先輩方が、生臭い出世によって富み栄えている現状を目にすれば、その渦に巻き込まれて、世の為に人の為にといった高潔な志は忘却の彼方に消えていくのであろう。

 多分、エリートからドロップアウトした森永さんは、自分のように外へ出てしまうのではなく、中に残って内部改革を進める人々が増えていくことに大きな期待を寄せていたのかもしれない。無論、彼の著書に触れた全ての読者に健全な変化を期待していたのは当然だとしても。そして他界から1箇月がまだ経過していない現在、図書館で森永卓郎の本を借りようとすると、大半が貸出中でしかも予約待ちになっている事実に唖然とさせられるが、これはそれだけ森永さんの言葉には説得力があり、本を読んだ人々の行動にもその影響力が発揮されるという証明でもあろう。 

 死期を悟った森永さんは、日本の今の国政のトップに立つ石破茂首相へ具体的な政策提言もされていた。それは経済政策における地方創生にはベーシックインカムの導入がベストだという提案である。確かにベーシックインカムは全ての対象者に分け隔てなく一定金額を定期的に支給する社会保障制度であり、大都市圏より所得が低く貧しい地方の人々の生活の質を改善するには優れた選択肢だ。

 政府は今年度の地方創生交付金の倍増を掲げているが、地方創生の方向性は2014年の第2次安倍内閣でも実現しており、ここでも地域創生というスローガンで交付金を出していたが、国や地方自治体のプロジェクトに民間企業が受託者として参加して資金の交付を受けるケースが多かった。結果は10年以上経過しても地方と都市部の所得格差は是正できておらず、残念ながら実を結んでいない。これはやはりベーシックインカムのように対象者の1人1人へ、政府がお金を配る形になっていなかったからであろう。

  ベーシックインカムの制度を完全導入した国は世界にまだ存在していない。しかしこの制度は全ての国民が衣食住において最低限の生活を営むことを保証することがその目的とされている。このビジョンは日本国憲法における3つの原則、国民主権と基本的人権の尊重と平和主義の、基本的人権の尊重に等しい。現段階の具体例としてはベーシックインカムを実験的に導入した国は、フィンランドとインドとカナダとオランダ、それにアメリカ合衆国だ。

 興味深いのはカナダでオンタリオ州の貧困層4000人のみ対象に実施したケースで、これは州議会の選挙による政権交代で3年間しか実現しなかったが、実験時における対象者の貧困層は仕事を辞めずに健康状態も改善したという調査結果がでている。

 またアメリカ合衆国はイリノイ州のシカゴ議会で2011年に議決し、低所得の5000世帯を対象に毎月500ドルを1年間のベーシックインカムプログラムとして実験的に支給したし、アラスカ州では州から産出する原油収入の25%をアラスカ恒久基金として積み立てて、対象者を全ての州民とし、毎年1000ドル以上1500ドル以下の範囲の配当金を支給している。つまりアラスカは厳寒の地で人口密度も低過ぎて住み易い環境ではないが、貧困の境遇から脱出するには格好の移住先なのかもしれない。

 日本の場合、ベーシックインカムを導入するには労働市場と社会福祉やその財源の確保を含めた制度設計の整備をしてから踏み切るべきだと思うが、恐らく森永さんが捉えた財源とは、日銀による通貨発行益は勿論のこと、政・官・財が特権によって蓄積した富であろう。たとえば20世紀からずっと問題視されている天下りは、官民の癒着による予算や許認可の権限の乱用や、過剰な補助金という税金の無駄遣いから発生する暴利の構図だ。また10%の消費税を含めて過去最高に達した税収は国民に還元されなければ惨い搾取でしかない。

 こうした暴利や重税というナンセンスを削除していけば財源は確保できるということではないか。また現在の日本社会の物価高に賃上げが追い付かない労働市場と、年金だけでは生活できない社会福祉の実態は、正直お先真っ暗の典型である。その意味でも政府は地方創生に限らず、ベーシックインカムの制度を真剣に検討するべきなのだ。

 幸いにも森永さんのラストメッセージはこれからまだ受け取ることができる。今月も来月も新しい本が出版されるからだ。もう故人になられてしまったが、以下の著作から真摯な言葉と向き合う機会はまだ残されている。

・発言禁止 誰も書かなかったメディアの闇 2025/02/27

・日本人「総奴隷化」計画1985-2029 アナタの財布を狙う「国家の野望」 2025/03/01

・森永卓郎流「生き抜く技術」--31のラストメッセージ 2025/03/03

・この国でそれでも生きていく人たちへ 2025/03/06

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

米国第47代大統領の就任演説

2025-01-26 21:49:17 | 日記

 4年ぶりにホワイトハウスに返り咲いたトランプ大統領は、その就任式の演説でアメリカの黄金時代が今からはじまると明言されているが、実に彼らしい大言壮大語である。 

 しかし21世紀も今年でその4分の1を過ぎようとしているわけだが、20世紀が米国の世紀と形容されたほど、米国が文明の先頭を走っていた時代は、まだまだ余裕で継続しているようにも思われる。それを象徴するのは、今回の就任式において、政界の大物たちに引けを取らないほどの存在感で、ズラリと顔を揃えたGAFAMのテック企業トップの面々だ。ただ、こうした先端技術の邁進や新興の巨大企業の成功の影で、酷い格差に苦しむ多くの貧困層の人々がいることを忘れてはならない。

 そして新しい大統領が標榜した黄金時代とは、超大国においてささやかな幸福にも手が届かず見捨てられているような人々も、幸福を実感し享受できるような社会の到来を意味するのではないか。少なくとも劇場型の選挙アピールに酔わずに、トランプ大統領に投票した有権者は、政権が与党から野党に変わることで日常生活の改善をシンプルに望んでいるはずである。こうした現象も、日本がほほ延々と自民党が与党の政権を維持している姿に比べると、日本も米国も共に民主主義の法治国家でありながら、米国社会の方が日本社会よりも、民主主義が正常に機能しているのは間違いない。

 今回の就任演説でアメリカ•ファーストしか視野に入っていない内容は、ここではコメントを差し控えるにしても、以下の言葉には堅実さと賢明さを含蓄した決意を強く感じた。 

「平和の使者であり団結を促す人物でありたい」

 この声明で、トランプ大統領は「私にとって最も誇らしい遺産は、平和の使者であり、団結を促す人物であることだ。それが私の目指す姿であり、平和の使者であり、団結を促す人物でありたい」と述べている。

 遺産という言葉には、メディアで批判されているノーベル平和賞狙いという見方もあるかもしれないが、ここは暗殺未遂にまで遭遇した人物の素直な心情の発露だと解釈したい。そしてここ数日の間に、トランプ大統領は産油国で構成されたOPECに対し、原油価格の引き下げを要求するとも述べている。これは原油価格の下落によりウクライナ戦争が終わる可能性が強まるからだ。また馬鹿げた戦争をやめろとも発言していた。

 トランプ大統領は力による平和を信じて疑わないタイプだと思われるが、戦争という選択肢を避けようとする姿勢は感じられる。つまり戦争というハイリスク•ハイリターンの路線は、中長期的には国家経済にとって失敗しか招かないという事実を、過激な言動とは裏腹に、企業経営者でもある観点から熟知しているのではないか。

 ここは一つ、日本政府は力による平和ではない、世界で唯一の被曝国である日本の独自な立ち位置を明確にした、日本国憲法や非核三原則といった理念を、日米外交の場で積極的に提唱してはどうか。無論、この理念が世界平和の為の団結にとっては欠かせないものであり、国際政治の場でも現実的に役立つことを丹念に説明してだ。その例をあげれば被団協の活動が核戦争の抑止に貢献した事実はもう自明の理であろう。この大統領に3期目はもうなく、高齢でもあることを鑑みると案外、聞く耳は持っていると思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今年の「漢字」

2024-12-28 14:39:11 | 日記

「今年の漢字」が京都の清水寺で発表された。毎年恒例の行事だが、選ばれたのは「金」である。

 漢字の総数は膨大でこの世に10万字ほど存在する。人間の数で約10万人といえば、日本の市区町村を例にすると神奈川県の伊勢原市辺りか。ひょっとするとこの選定の過程は、伊勢原市の総人口から一人の市民が選ばれるようなものかもしれない。しかし選ぶ側からすると、膨大な10万字から厳選する感覚はほぼ無いと思われる。人間社会の1年間に相応しい漢字のリストは、いくらなんでも10万種類には及ばない。しかし今年の応募総数が22万1971票だったことを考えると、さぞ多種多様なイメージが湧き出てきたはずだ。実際、選ばれた1位から10位までの漢字のリストは以下の通りである。

1位 「金」 / 2位 「災」 / 3位 「翔」 / 

4位 「震」 / 5位 「新」 / 6位 「選」 / 

7位 「変」/ 8位 「暑」 / 9位 「楽」 / 10位 「米」

  このリストを見ると、やはり1位に選ばれた「金」は納得できる結果かもしれないが、興味深いのは「金」が1位で登場した年は過去にもあり、2021年と2016年と2012年と2000年がそれに相当する。しかも共通するのはどれもオリンピックが開催された年であったこと。要は光り輝く金メダルのイメージが「金」という漢字の象徴になっているのだ。

 しかし無論、そんなボジティブなイメージだけで完結しているわけではない。スポーツの祭典のメダルのような健全さとは無縁の生臭い政治とカネの問題の象徴としての裏金も、当然「金」の意味の範疇に入る。そして闇バイトの強盗事件や過酷なインフレにも金銭としての「金」のイメージがつきまとう。

 裏金は庶民とは異次元の経済感覚と金満状態にある政治家が、なおも欲深く集金して暴利を貪るシステムだ。闇バイトも犯罪の司令塔は暴利を貪ろうとする強欲な金の亡者であり、それに利用される現場の犯罪者もギャンブルで浪費するなどして借金で首が回らなくなってしまったケースが多い。そして現在進行形の日本社会の物価高は、賃上げや年金支給では補えないほど危険水域に達している。物価高で国家の税収が増えるのとは逆に、税を納めている国民の大多数はお金に困る生活を余儀なくされており、この2024年の現実は非常に厳しい。

 日本の政・官・財の中枢にいて、国を動かす影響力を有する人々は、この「金」という漢字から何を感じているのか、今一つ判然としない。しかし是が非でもことの深刻さや重大さを肝に銘じていただきたいものである。国債の発行額は増え続けているが、赤字国債を国の借金と短絡的に定義するのは不可解なことこの上ない。借金の概念を当てはめるならば、国債よりも奨学金制度のほうが遥かに近いといえる。奨学金制度は国が運営するサラ金事業のようなものだからだ。

 そもそも国の借金というワンフレーズによる印象操作で、実は国債の概要を知ろうとしない国民も多いのではないか。奨学金制度の利用者は学校を卒業したら、学費として借りたお金を働いて返済しなければいけない。しかし国債は家計の仕組みとは本質的に違うものである。借りたお金が返せなくなったら、刷ったお金で返せる仕組み、それが国債を発行して歳出するということである。これは冷静に考えると借金とはいえない代物だ。しかも政府は日本の総資産を全部ひっくるめた上で、借金のフレーズを連呼しているわけではない。これでは借金という脅し文句で、国民に危機感を植え付けているようなものである。

  こうした印象操作で、増税や利上げをしても事態は好転しないであろう。日本は古くから国民が政府を信じる力よりも、政府が国民を信じる力が弱い国だ。典型的なのは古代律令制の遥か昔から為政者が重税を課す圧政が多かったことで、要するにそんな過酷な状態に耐える被支配層の強靭性に、支配層が甘えているわけである。そしてそうした甘えは現代でも殆ど変わらない。ここは一つ、今の政府は国民を信じ、国民に投資する強い気概を持ち、インフレ手当を定期的に支給してはどうか。

 コロナ禍の2020年に国民一人当たり10万円の特別定額給付金が支給されたが、残念ながら10万円は少な過ぎたとしか思えない。あの折に50万円以上支給していたとしたら、パンデミックでしか生まれない社会福祉的なアイディアや志を持つ人々が起業して、ビジネスチャンスを掴み成功への道を邁進し、コロナ禍のマイナスをプラスに変える世界的潮流が日本から生まれた可能性さえある。そして何よりも老若男女問わずに助け合いの輪がもっと広がったのではないか。

 国民を信じ国民に投資する姿勢があれば、年々税収が増えているにも関わらず、国民への還元が不十分なことは異常である。また利上げの動きも、国民目線の発想ではなかろう。確かに日本の金利が低いのは自明の理だが、マイホームを購入して住宅ローンを組んだばかりの人々にとって、日常生活を圧迫する物価高と、賃上げが実現していない現状から、金利が上がっていくのは非常事態かもしれないからだ。それに給料を支給している日本の事業体が全て賃上げを実施できる状態ではない以上、まず政府が国民全てにインフレ手当を支給すべきであろう。

「今年の漢字」に来年も同じ「金」が選ばれることは、流石に想像し難い。なぜなら社会は大きく動かなくとも、必ず変化しているからだ。来年にどんな漢字が選ばれるのかは未知の話だが、今年よりも私たちの世界が良くなったと実感できる、そんな1年後が来ることを切に望む。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2024年米国大統領選挙

2024-11-10 17:35:46 | 日記

 アメリカ合衆国の次期大統領にドナルド•トランプが選ばれた。彼は既に2017年から4年間、大統領職を務めている為、来年2025年から2期連続とは違う空白期を経ての再登板となる。

 この全世界が注目する超大国の大統領選、終盤までの事前調査では大接戦が想定されていたが、蓋を開けてみると、僅差ではなくほぼトランプ圧勝に近い結果になった。正直、個人的には米国史上初の女性大統領の誕生を期待していた為、真に残念である。


 ただ現職のバイデン大統領が、まだ選挙戦の辞退を決める前に、自分が大統領選に勝利した場合、その選挙結果に納得しない反対勢力の暴走を非常に危惧していたことを鑑みると、この結果は米国で内戦が勃発するという最悪の事態にはならないように思える。また今回の政権移行に際しては、前回のように元トランプ大統領が非協力的であったのとは逆に政権移行チームが発足し、スムーズに平和的に実施されることがホワイトハウスからアナウンスされた。そして同時に副大統領カマラ•ハリスを含めた現政権が、選挙結果を真摯に受け止め、肯定している姿も、この超大国が民主主義の法治国家であることを如実に証明している。つまり米国社会は様々な問題を抱えていても、民主主義は歴然と機能しているのだ。


 来年から発足するこの新しいトランプ政権に関してだが、前回のトランプ政権よりも、大統領の権限は増すと思われる。要は大統領令が州法で停止されたりするケースが減るのではないか。ホワイトハウスと上下両院が共和党で占められると、その可能性は高くなるからだ。民主主義を数の論理だけで解釈するなら、そうなってもおかしくはない。この為、政府の要人たちにはその良識が問われ、試されることになる。彼らに大統領の独断専横を止める器量があるかどうかだ。尤もそれ以前に当の大統領自身が、良識のある意志決定をしてくれれば何の問題もないはずだが。


 ドナルド•トランプという人物において、世界中が不安にさせられるのは、民主主義の超大国のリーダーでありながら、権威主義国家の独裁者タイプの人々に親愛の情を感じているように見えることだ。彼の行動が予測不可能な点も大いに不安だが、超大国が覇道に突き進む流れは非常に危険である。しかしこれは国際法を無視するような国の政府を支持してしまう国民や、そんな政府をつくる政治家を選ぶ有権者にもその責任はあろう。独裁者の常套句には、敵を倒せという類の勇ましいスローガンが多い。強者や勇者、あるいは英雄として着飾る演出に優れている。要は独裁者たちは英雄に憧れる人々に支えられているわけだ。


 だが、そんな独裁者を支える人々は、英雄に憧れても、英雄の一員にも英雄そのものにもなれないことに気付くべきであろう。ドナルド•トランプは億万長者だが、彼を支持し応援しても、大多数は金持ちクラブのような億万長者の一員にはなれないし、ましてや億万長者にもなれない。


 現時点では、新しいトランプ政権はアメリカ•ファーストを前回以上にエスカレートさせることが予想できる。ただ今年の大統領選の最中、ドナルド•トランプは暗殺未遂に遭遇した。その九死に一生を得た劇的瞬間は全世界に報道されている。生かされた命を、分断ではなく融和に使うことを願う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする