最近、たまたま図書館を訪れていたら強いインパクトで、ある本の表紙が目に飛び込んできた。それは「鳥獣人物戯画」であった。一般的には「鳥獣戯画」というタイトルで広く親しまれている絵画作品で、制作年代は12世紀辺り、平安時代末期から鎌倉時代初期になるらしい。作者は戯画の名手とも評された鳥羽僧正覚猷の説が有力だが、その真偽は定かではなく作者不詳というのが定説である。
今回の写真画像は甲と乙と丙と丁の全4巻の甲巻から取り上げさせていただいた。多分、鳥獣戯画といえば殆どの人がこの甲巻に収録された絵を思い浮かべてしまうのではないか。乙巻が神話や伝説上の動物を主に紹介し、丙巻は動物の世界よりも人間社会が濃密な題材になっており、また丁巻も丙巻と同様に人間社会を中心に据えているのだが、構成や筆運びが他の巻と比べると多少なりとも違和感を伴うのが特徴的である。そして甲巻で描かれた動物たちの情景は遊戯に溢れており、表情豊かで実に生き生きとしている。それこそ今にも絵から飛び出して声を発しながら踊りそうなくらいに。この類稀な作品世界が日本最古の漫画とも評されるほど親しみやすく魅力的なのはそのせいであろう。
特に日本最古の漫画という評価に納得できるのは、この「鳥獣戯画」が遠い昔の紀元前10世紀以降から古代中国で使用されだした墨を画材にして、墨絵の広大なジャンルの中でも、白描画という殆ど線だけで描く技法を極めていることだ。従ってこの絵は陰影や遠近感を殆ど重視しておらず、その意味で現代の漫画との親和性が非常に強い。そしてそれは現代人の私たちにとって、時代背景など考える隙もなく、その違和感があっけなく剥がれ落ちてしまう見事さだ。斯様にこの作者の対象を捉える素描や筆触といった視覚表現は突出して優れている。これはやはり未だ正体不明の作者の才能によるところが大きいのだが、同時に動物たちをここまで擬人化して構成したアイディアにも舌を巻く。またそのアイディアには、なぜこの絵が描かれたのかという謎さえ残る。要はこの作者が絵を描くことを心底楽しみながら制作しているのは間違いなかろうが、それにプラスアルファして無目的ではない何かが炙り出されてくるのだ。
ここで作者の候補でもあった鳥羽僧正覚猷について少し考察してみたい。実はこの人物、平安時代後期の天台宗の高僧で90歳近い長命を全うしているのだが、晩年に大寺社の要職を歴任していながら、宗教的権威や政治的権力の腐敗には批判的であった。つまり官に属してはいても、民に対する共感力や同情心は確りと持っていたらしい。そしてそんな彼の人間性は、天台宗の園城寺において自ら絵筆をとって密教図像を描きつつ絵師の育成にも努め、仏教美術を体現することで権威や権力に利用されない仏教の本質に接近していたように思われる。また「鳥獣戯画」が4巻で構成されており、巻によって筆触や雰囲気が微妙に違うことも考慮すると、複数の絵師によって描かれた可能性が高い。
恐らく「鳥獣戯画」に鳥羽僧正覚猷の肉筆が入っていたとしても、その仕事の全容は全巻の編集であったように思えるのだ。また彼が生きた時代は治天の君と謳われた白河天皇が譲位して上皇となり、さらに出家して法皇となって院政を敷き、権威と権力を束ねて独裁化しようとした頃であり、後の平家の勃興を準備する北面の武士を設置し朝廷の軍事力を強化していた。そしてこの政策は、天台宗の総本山である比叡山の延暦寺が軍事的に武装化し、朝廷にも圧力を懸けてくる政治勢力になっていた現状に釘を刺したといえる。つまり国家の頂点に座す為政者が武闘派として君臨しており、それに付随して貴族や寺社も武力の存在価値をかなり重視する傾向にあった。しかもこの流れは時を経てさらに強まっていく。きっと鳥羽僧正覚猷は古代から中世に移行するこの時代が、かなり荒れた動乱期に向かっていたことを如実に察知していたはずだ。特に当時、仏教における末法思想が流布していた歴史的事実を鑑みると、彼はリアルタイムで釈迦の正しい教えが理解されずに通用しない、天災のみか人災で世の不安と絶望が増すばかりの社会情勢を、悲嘆しながらも諦観して見つめていたのではないか。
そして「鳥獣戯画」の甲巻に登場する動物たちの擬人化が目を見張るほど冴えわたっているのは、描かれた彼らの親近感や可愛らしさが、私たち人間が人間に対して抱く感情の域にまで高められ到達しているからであろう。そこには種差別という偏見が存在しない。つまり釈迦の説いた、全ての生命は平等に尊重されるべきだという教えに、一直線で繋がっている。
「鳥獣戯画」が作者不詳という説を信じるならば想像を働かせるしかないが、鳥羽僧正覚猷が作品制作の過程で関与していたのはかなり信憑性の高いところだ。ゆえにその作者は無名でも彼の弟子に当たる人物で、その技と才を高く評価されていた絵師だったのではないか。鳥羽僧正覚猷がその長い人生の時間を多く過ごしたのは園城寺だが、この寺院がそもそも創建された理由は、同じ天台宗でも比叡山の延暦寺と宗教的な正当性で散々に揉めたあげく、10世紀末に分裂して独立したことによる。また鳥羽僧正覚猷の存命中に、延暦寺との僧兵を動員した軍事衝突で園城寺は度々焼き討ちに遭っていた。軍事力では延暦寺には敵わなかった為に全焼の憂き目も見たほどで、こうした仏教徒が暴力で釈迦の教えを踏みにじっている事態も、「鳥獣戯画」が生まれた要因なのかもしれない。なぜなら生命を蔑ろにする戦争や内戦を含めた紛争に対するアンチテーゼがこの作品のテーマだと解釈すると、絵の中で擬人化された動物たちの生命力は、なお一層その輝きを増すからだ。