村上春樹の新作は8編の小説からなる短編集である。タイトルの「一人称単数」が書き下ろしで、他の7編は既に文芸誌等で発表されたものらしい。ただ私は今回8編全てを初めて読んだ。メディアでの読者評価は賛否両論に分かれており、わりと厳しい批評が多い。それはさておき個人的には、村上春樹らしい好作品だと素直に申し上げておきたい。この8つの物語のうち、とりわけ印象深かったのは「謝肉祭」、「品川猿の告白」、「一人称単数」の3つである。
村上春樹の小説が魅力的なのは、他の多くの優れた作家がそうであるように、様々な解釈が可能なところだろう。物語の結末も予定調和的ではなく、読者の判断に委ねられている。そこは今回も過去の作品と同様であった。それゆえ少し考えを深める、考察を要する読後感が残るのだが、私は結構そこが気に入っているところだ。
そしてこの新作の特徴の1つはそのブックカバーデザインである。これは明らかにアニメや漫画の表紙になりそうなビジュアルだ。あくまでも推測だが、若者の読者層へ強くアピールしようとしていることが感じられる。村上春樹も年齢が古希を越え、70代の作家として若い新世代に残しておきたいメッセージがあるのかもしれない。無論、それはこの作家の個性から判断すると、本を読んだ読者が自分で考えるべきだということであろうが。
私のように実人生が半世紀を既に越えている人間からすると、ノーベル文学賞候補にも名前があがる作家の新作というのは、特にパンデミックが襲来しているこの日常では、否が応にも興味が湧く。村上春樹に限らず、そのような文学的知性が、時代をどう捉えているかというのは大変気になるところだ。そして結論からいうと「一人称単数」は、多分コロナ禍に人類が遭遇してから書かれたもののように思われる。
「謝肉祭」にはエネルギッシュで好戦的な女性の登場人物が現れて、主人公の僕と趣味が合う音楽を媒介にすることで、2人は意気投合する。しかし暫しの時が流れた後に、彼女が悪質な特殊詐欺を夫婦で働いていたことが発覚する。テレビのニュースで放映された警察に連行される悪辣な夫婦の姿はグロテスクだが、この話は「一人称単数」と少し連関しているようだ。読めば確認できるが、「謝肉祭」は小説の中の現実世界であり、「一人称単数」は小説の中の夢の世界である。そして「謝肉祭」では詐欺の顛末は明示されているが、「一人称単数」では詐欺の危険性が示唆されている。
「一人称単数」では、とあるバーで主人公の私に意味もなく絡んでくる女性が登場する。彼女は「謝肉祭」の女性とは完全なる別人で、容姿や年齢も明らかに違うのだが、エネルギッシュで好戦的なところは共通しているようだ。彼女の主人公への絡み方は詐欺の手口に似ている。他人に身に覚えのない話を聞かせて、それを事実だと洗脳してくるわけだ。しかも主人公と面識がないことさえも、主人公の知人と友人だという要素を持ち出して説得してくる。このあたりは、昨今の高齢者の子や孫に扮したり、業者や警察にまで化けたりする詐欺を思わせる。主人公は圧迫感を覚えながらも長居はせずにその場を立ち去るのだが、この詐欺師らしき女性の「恥を知りなさい」という台詞は刃物のように心に突き刺さる。バーに入る前は麗かな春であった季節が、バーの外へ出た時には不気味な冬に変化していた。まさに村上春樹らしい異界の風景である。
ここで「一人称単数」でキーワードになっている恥について考えてみたい。恥という漢字は耳と心の二つの漢字で構成されている。つまり恥とは耳を澄まして心で聴いてこそ意義のある概念だ。心の耳で聴く。そういうものなのかもしれない。たとえば、人を好きになった時に恥じらいの感情が自然と芽生えるのは、内なる声を心で聴いたその影響がなせる業であろう。またその恥じらいにおいては、好きになった対象となるその人を自分自身よりも高みに見ているはずである。要は対象を尊重し最大限に生かしているわけだ。恥じらいの気持ちや姿勢は謙虚であり、他者を侵害するものではない。そして「品川猿の告白」に登場する猿の心情はまさに健全なる恥じらいであろう。猿でありながら、人間の女性にしか恋愛感情を持てず、猿社会から疎外されているのだが、それでも恋愛が成就しない我が身を嘆くことはない。要は人を好きになったことが生きた証であり、それで本望なのだ。
「品川猿の告白」についてもう少し述べたい。この猿は人に飼われた末に捨てられた過去があり、どこか哀愁が漂う。そして猿社会にも人間社会にも属しておらず、猿社会からは差別や偏見を受けたあげく追放されている。謂わば猿社会の恥さらしである。ここで思い当たるのは、品川猿という個の恥じらいと、猿社会という集団や組織から個に対し審判のように下される恥さらしは明らかに異質であることだ。
恥とは個の内面の感情の範囲であれば、その個を成長させるものであろう。しかも実に良質な在り方で。たとえば職人が腕を磨く場合、目標に至らない現状の未熟さを恥だと感じるかもしれない。また人徳の有る政治家ならば、国政や地方行政において汚職や腐敗が蔓延していれば、それを恥と感じるはずだ。ところが組織や集団が掟で個を縛ろうとする時、恥は悪用される危険性がある。洗脳による支配などはその典型だ。私たちはそこを注意しなければならない。それこそ一人称単数という個の輪郭を確りと意識して。
「一人称単数」の物語の最後は「恥を知りなさい」の言葉で締め括られるわけだが、この一種悪夢の世界で浴びせられた「恥を知りなさい」を反芻する主人公の私はどうも小市民ではなく富裕層のようだ。しかしながら大いなるこの危機の時代に、「恥を知りなさい」を自問自答すべきは、国を動かせるほどの権力を行使できる指導者たちであろう。彼らの一挙手一投足にその良心や良識が試されている。
村上春樹の小説が魅力的なのは、他の多くの優れた作家がそうであるように、様々な解釈が可能なところだろう。物語の結末も予定調和的ではなく、読者の判断に委ねられている。そこは今回も過去の作品と同様であった。それゆえ少し考えを深める、考察を要する読後感が残るのだが、私は結構そこが気に入っているところだ。
そしてこの新作の特徴の1つはそのブックカバーデザインである。これは明らかにアニメや漫画の表紙になりそうなビジュアルだ。あくまでも推測だが、若者の読者層へ強くアピールしようとしていることが感じられる。村上春樹も年齢が古希を越え、70代の作家として若い新世代に残しておきたいメッセージがあるのかもしれない。無論、それはこの作家の個性から判断すると、本を読んだ読者が自分で考えるべきだということであろうが。
私のように実人生が半世紀を既に越えている人間からすると、ノーベル文学賞候補にも名前があがる作家の新作というのは、特にパンデミックが襲来しているこの日常では、否が応にも興味が湧く。村上春樹に限らず、そのような文学的知性が、時代をどう捉えているかというのは大変気になるところだ。そして結論からいうと「一人称単数」は、多分コロナ禍に人類が遭遇してから書かれたもののように思われる。
「謝肉祭」にはエネルギッシュで好戦的な女性の登場人物が現れて、主人公の僕と趣味が合う音楽を媒介にすることで、2人は意気投合する。しかし暫しの時が流れた後に、彼女が悪質な特殊詐欺を夫婦で働いていたことが発覚する。テレビのニュースで放映された警察に連行される悪辣な夫婦の姿はグロテスクだが、この話は「一人称単数」と少し連関しているようだ。読めば確認できるが、「謝肉祭」は小説の中の現実世界であり、「一人称単数」は小説の中の夢の世界である。そして「謝肉祭」では詐欺の顛末は明示されているが、「一人称単数」では詐欺の危険性が示唆されている。
「一人称単数」では、とあるバーで主人公の私に意味もなく絡んでくる女性が登場する。彼女は「謝肉祭」の女性とは完全なる別人で、容姿や年齢も明らかに違うのだが、エネルギッシュで好戦的なところは共通しているようだ。彼女の主人公への絡み方は詐欺の手口に似ている。他人に身に覚えのない話を聞かせて、それを事実だと洗脳してくるわけだ。しかも主人公と面識がないことさえも、主人公の知人と友人だという要素を持ち出して説得してくる。このあたりは、昨今の高齢者の子や孫に扮したり、業者や警察にまで化けたりする詐欺を思わせる。主人公は圧迫感を覚えながらも長居はせずにその場を立ち去るのだが、この詐欺師らしき女性の「恥を知りなさい」という台詞は刃物のように心に突き刺さる。バーに入る前は麗かな春であった季節が、バーの外へ出た時には不気味な冬に変化していた。まさに村上春樹らしい異界の風景である。
ここで「一人称単数」でキーワードになっている恥について考えてみたい。恥という漢字は耳と心の二つの漢字で構成されている。つまり恥とは耳を澄まして心で聴いてこそ意義のある概念だ。心の耳で聴く。そういうものなのかもしれない。たとえば、人を好きになった時に恥じらいの感情が自然と芽生えるのは、内なる声を心で聴いたその影響がなせる業であろう。またその恥じらいにおいては、好きになった対象となるその人を自分自身よりも高みに見ているはずである。要は対象を尊重し最大限に生かしているわけだ。恥じらいの気持ちや姿勢は謙虚であり、他者を侵害するものではない。そして「品川猿の告白」に登場する猿の心情はまさに健全なる恥じらいであろう。猿でありながら、人間の女性にしか恋愛感情を持てず、猿社会から疎外されているのだが、それでも恋愛が成就しない我が身を嘆くことはない。要は人を好きになったことが生きた証であり、それで本望なのだ。
「品川猿の告白」についてもう少し述べたい。この猿は人に飼われた末に捨てられた過去があり、どこか哀愁が漂う。そして猿社会にも人間社会にも属しておらず、猿社会からは差別や偏見を受けたあげく追放されている。謂わば猿社会の恥さらしである。ここで思い当たるのは、品川猿という個の恥じらいと、猿社会という集団や組織から個に対し審判のように下される恥さらしは明らかに異質であることだ。
恥とは個の内面の感情の範囲であれば、その個を成長させるものであろう。しかも実に良質な在り方で。たとえば職人が腕を磨く場合、目標に至らない現状の未熟さを恥だと感じるかもしれない。また人徳の有る政治家ならば、国政や地方行政において汚職や腐敗が蔓延していれば、それを恥と感じるはずだ。ところが組織や集団が掟で個を縛ろうとする時、恥は悪用される危険性がある。洗脳による支配などはその典型だ。私たちはそこを注意しなければならない。それこそ一人称単数という個の輪郭を確りと意識して。
「一人称単数」の物語の最後は「恥を知りなさい」の言葉で締め括られるわけだが、この一種悪夢の世界で浴びせられた「恥を知りなさい」を反芻する主人公の私はどうも小市民ではなく富裕層のようだ。しかしながら大いなるこの危機の時代に、「恥を知りなさい」を自問自答すべきは、国を動かせるほどの権力を行使できる指導者たちであろう。彼らの一挙手一投足にその良心や良識が試されている。