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村上春樹の「一人称単数」を読んで

2020-09-30 23:36:14 | 日記
村上春樹の新作は8編の小説からなる短編集である。タイトルの「一人称単数」が書き下ろしで、他の7編は既に文芸誌等で発表されたものらしい。ただ私は今回8編全てを初めて読んだ。メディアでの読者評価は賛否両論に分かれており、わりと厳しい批評が多い。それはさておき個人的には、村上春樹らしい好作品だと素直に申し上げておきたい。この8つの物語のうち、とりわけ印象深かったのは「謝肉祭」、「品川猿の告白」、「一人称単数」の3つである。

村上春樹の小説が魅力的なのは、他の多くの優れた作家がそうであるように、様々な解釈が可能なところだろう。物語の結末も予定調和的ではなく、読者の判断に委ねられている。そこは今回も過去の作品と同様であった。それゆえ少し考えを深める、考察を要する読後感が残るのだが、私は結構そこが気に入っているところだ。

そしてこの新作の特徴の1つはそのブックカバーデザインである。これは明らかにアニメや漫画の表紙になりそうなビジュアルだ。あくまでも推測だが、若者の読者層へ強くアピールしようとしていることが感じられる。村上春樹も年齢が古希を越え、70代の作家として若い新世代に残しておきたいメッセージがあるのかもしれない。無論、それはこの作家の個性から判断すると、本を読んだ読者が自分で考えるべきだということであろうが。

私のように実人生が半世紀を既に越えている人間からすると、ノーベル文学賞候補にも名前があがる作家の新作というのは、特にパンデミックが襲来しているこの日常では、否が応にも興味が湧く。村上春樹に限らず、そのような文学的知性が、時代をどう捉えているかというのは大変気になるところだ。そして結論からいうと「一人称単数」は、多分コロナ禍に人類が遭遇してから書かれたもののように思われる。

「謝肉祭」にはエネルギッシュで好戦的な女性の登場人物が現れて、主人公の僕と趣味が合う音楽を媒介にすることで、2人は意気投合する。しかし暫しの時が流れた後に、彼女が悪質な特殊詐欺を夫婦で働いていたことが発覚する。テレビのニュースで放映された警察に連行される悪辣な夫婦の姿はグロテスクだが、この話は「一人称単数」と少し連関しているようだ。読めば確認できるが、「謝肉祭」は小説の中の現実世界であり、「一人称単数」は小説の中の夢の世界である。そして「謝肉祭」では詐欺の顛末は明示されているが、「一人称単数」では詐欺の危険性が示唆されている。

「一人称単数」では、とあるバーで主人公の私に意味もなく絡んでくる女性が登場する。彼女は「謝肉祭」の女性とは完全なる別人で、容姿や年齢も明らかに違うのだが、エネルギッシュで好戦的なところは共通しているようだ。彼女の主人公への絡み方は詐欺の手口に似ている。他人に身に覚えのない話を聞かせて、それを事実だと洗脳してくるわけだ。しかも主人公と面識がないことさえも、主人公の知人と友人だという要素を持ち出して説得してくる。このあたりは、昨今の高齢者の子や孫に扮したり、業者や警察にまで化けたりする詐欺を思わせる。主人公は圧迫感を覚えながらも長居はせずにその場を立ち去るのだが、この詐欺師らしき女性の「恥を知りなさい」という台詞は刃物のように心に突き刺さる。バーに入る前は麗かな春であった季節が、バーの外へ出た時には不気味な冬に変化していた。まさに村上春樹らしい異界の風景である。

ここで「一人称単数」でキーワードになっている恥について考えてみたい。恥という漢字は耳と心の二つの漢字で構成されている。つまり恥とは耳を澄まして心で聴いてこそ意義のある概念だ。心の耳で聴く。そういうものなのかもしれない。たとえば、人を好きになった時に恥じらいの感情が自然と芽生えるのは、内なる声を心で聴いたその影響がなせる業であろう。またその恥じらいにおいては、好きになった対象となるその人を自分自身よりも高みに見ているはずである。要は対象を尊重し最大限に生かしているわけだ。恥じらいの気持ちや姿勢は謙虚であり、他者を侵害するものではない。そして「品川猿の告白」に登場する猿の心情はまさに健全なる恥じらいであろう。猿でありながら、人間の女性にしか恋愛感情を持てず、猿社会から疎外されているのだが、それでも恋愛が成就しない我が身を嘆くことはない。要は人を好きになったことが生きた証であり、それで本望なのだ。

「品川猿の告白」についてもう少し述べたい。この猿は人に飼われた末に捨てられた過去があり、どこか哀愁が漂う。そして猿社会にも人間社会にも属しておらず、猿社会からは差別や偏見を受けたあげく追放されている。謂わば猿社会の恥さらしである。ここで思い当たるのは、品川猿という個の恥じらいと、猿社会という集団や組織から個に対し審判のように下される恥さらしは明らかに異質であることだ。

恥とは個の内面の感情の範囲であれば、その個を成長させるものであろう。しかも実に良質な在り方で。たとえば職人が腕を磨く場合、目標に至らない現状の未熟さを恥だと感じるかもしれない。また人徳の有る政治家ならば、国政や地方行政において汚職や腐敗が蔓延していれば、それを恥と感じるはずだ。ところが組織や集団が掟で個を縛ろうとする時、恥は悪用される危険性がある。洗脳による支配などはその典型だ。私たちはそこを注意しなければならない。それこそ一人称単数という個の輪郭を確りと意識して。
 
「一人称単数」の物語の最後は「恥を知りなさい」の言葉で締め括られるわけだが、この一種悪夢の世界で浴びせられた「恥を知りなさい」を反芻する主人公の私はどうも小市民ではなく富裕層のようだ。しかしながら大いなるこの危機の時代に、「恥を知りなさい」を自問自答すべきは、国を動かせるほどの権力を行使できる指導者たちであろう。彼らの一挙手一投足にその良心や良識が試されている。



 
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レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」

2020-09-12 13:37:38 | 日記
レオナルド・ダ・ヴィンチはルネサンス期を代表する偉大な芸術家だ。そして芸術のみならず、解剖学や生物学も含めた自然科学の分野に渡っても傑出した才能を発揮した人物であった。彼は謂わば人類史において類稀な万能の人である。

レオナルドの代表作をあげるとすると、ほぼ間違いなくこの「モナ・リザ」が最高位にくるらしい。次点は「最後の晩餐」だそうだが、大半の人はこの評価に異存はないだろう。またこの入魂の2作は彫刻などの立体作品ではないことから、彼の造形感覚や色彩センス、それに構成力は絵的な2次元表現に大変優れていたのは明白であるし、レオナルド本人もそれを十全に心得ていたように思われる。特に彼が編み出したスフマートという絵画技法は丹念に色を薄く何層にも塗り重ねていく手法で、その透明に近い層の重なりは、形ある物を煙のようにぼかしていくのだが、これによって既存の絵の殆どに存在した輪郭線が消失して重厚なリアリズムが顕現すると同時に、従来には感じられなかった奥深い幻想性さえ生まれた。またスフマートは大変な時間と労力を要する表現技術であり、そのリアリズムを追求する姿勢は科学的な実験精神に近い。

そして「モナ・リザ」はレオナルド最晩年の頃に完成した作品だ。それはこの偉人の弛まぬ創造と探究心が到達した英知の結集であり、言ってみればレオナルド・ダ・ヴィンチの壮大な内向宇宙において、芸術と科学が融合した理想形でもある。生み出された肖像の表情は人知を超えた聖母の如く優しい。

「モナ・リザ」に関しては、1つ興味深いエピソードが残っている。それは現代の科学技術を駆使して調査した結果、モデルとなった女性をレオナルドが描いた肖像画は習作を含めて数点存在し、その中には表情豊かに美しく描かれてはいても、あの神秘的雰囲気が希薄な、しかも年齢はもっと若い娘の肖像画が存在していることだ。この「モナ・リザ」を若返らせたような肖像画は、「アイルワースのモナ・リザ」と呼ばれている。私はテレビ番組で拝見したのだが、コンピュータも使用したデジタルなデータ分析から、レオナルド・ダ・ヴィンチの作品であることがほぼ納得できた。

しかしながらレオナルドが「モナ・リザ」を終生その手元に置き、親愛の情を込めて絵筆を入れ続けていることから考えると、この若い娘の肖像画はモデルが同一人物だとしても、彼のライフワークとは違う気がする。無論、絵の中で微笑んでいる娘は、人を疑わない無垢なオーラを放っており、レオナルド作品に特有なあの魅力は健在なのだが。ともあれ仮にこの作品が贋作だとしても、レオナルド・ダ・ヴィンチへの大いなる敬意が感じられるのは間違いない。

前回のブログで法隆寺の百済観音像が母性を主題とした作品であることを書いた。さらにそれはこの「モナ・リザ」も同様だとも書かせて頂いた。それを理解してもらうには、少しレオナルド自身の人生と彼が生きた時代に関しても考察する必要がある。

レオナルドがフィレンツェのヴィンチ村で生を受け活躍した時代のイタリア半島は、幾つもの都市国家に分立し、カトリックの総本山バチカンがローマ教皇を頂点に戴いてキリスト教の最高権威をヨーロッパ全域に誇示していた。ところがいかにローマ教皇に尊大な権威があろうとも、広大な領土を支配する実質的権力は、スペイン帝国と神聖ローマ帝国を束ねるハプスブルク家や、ヴァロア家のフランス帝国が有しており、かつてのヨーロッパどころか中東や北アフリカをも版図に加えていた古代ローマ帝国時代の面影は最早イタリアには無かった。しかもレオナルドの壮年期以降、15世期末からフランス軍の侵略をきっかけにイタリア戦争が勃発し、イタリア半島全域は約半世紀に渡って戦乱状態に陥ってしまう。尤もこのイタリア戦争以前からもヨーロッパはほぼ断続的に戦火が絶えなかったが。

以上のような次第で、レオナルドが生きた時代は戦争と無縁ではなかった。そして彼は戦争が起きてしまう人間社会に対し懐疑的な目を持っており、それは彼の手記からも明確に読み取れる。事実、彼は倫理的観点から菜食主義を主張して、町の市場で食用に売られている籠の中の鳥を買って帰ると、空へ解放して逃していたし、こんな言葉さえも残している。「生命の価値を認めない者に生きる権利はない」と。

どうやらレオナルドの性格は大変柔和で一際優しいタイプであったようだ。これには家庭環境も影響していたと思われる。彼は裕福な公証人の父と婚姻関係にはない貧困層の母との間に生まれた。幼少期に母子は生活を共にしていたが、後に母親は持参金を渡されて他家に嫁がされてしまう。それでも幼い頃に母からの愛情はたっぷり受けており、その恩を返すような形でレオナルドは実母の老後を共に暮らしその面倒をみている。また庶子である為に、正式な学校教育を受ける権利が無かったのだが、祖父と叔父に可愛がられ自由奔放に育てられていた。特に少年期に野山を探索しスケッチを重ねたりすることで、絵も上手くなると共に豊かな想像力を養っていたようだ。

無論、父の正妻との間に生まれた兄弟とは違う境遇に、疎外感や孤独を味わったであろうが、こうした環境はむしろ彼の個性を伸ばす人間形成に役立ったはずである。そして家庭を省みず自分勝手な父親も、仕事ではかなりのやり手だったらしく富を増やし続け資産形成に成功している。父親とのエピソードは余りないレオナルドだが、後の人生において経済的窮地に陥った時期には、この父親から確り支援を受けていた。生涯独身ではあっても、意外と家族愛には恵まれていたのではないか。

彼の勤め人としてのスタートはフィレンツェでも著名な画家で彫刻家のヴェロッキオの工房だが、この恩師との師弟関係も良好で、独立して自分の工房を持てる親方の資格を取得してからも、協働作業を続けている。また人当たりが良く、彼が仕えた教会や王室や貴族の中には傲慢で強欲なクセ者も多かったはずだが、天性の温厚さと友好的姿勢が幸いして、創造における妥協を許さない完璧主義のマイペースがほぼ容認されていた。

ただレオナルドは、ライフワークたる純粋な芸術活動と、生計を立てる為の仕事を切り分けていたようだ。この為、芸術の分野では半ばスケジュールを無視したような未完の作品も多い。また紛争地の飛び火による制作の中断や中止、それに作品の破壊という憂き目にも遭っている。しかも工房の仕事だけでは生活が困窮するのが現実で、パトロンから経済的援助を受けて宮廷芸術家になる必要性が生じた。

ところが彼は技師としても有能で、設計のアイディアを手稿に数多くまとめていたが、それが皮肉なことに芸術的才能以外にも、時の権力者に雇用されるネタになっていた。特に土木治水だけではなく、軍事兵器の設計図などには領土欲に取り憑かれた権力者たちは飛び付いたはずだ。しかしここが重要だが、当時にレオナルドの設計した兵器が製作されて実用化された事実はない。恐らくこれは面従腹背の方便だったように思われる。要するに最初からアイディアベースで完結していたのだ。つまり本心では戦争に加担する気は微塵も無く、設計図は芸術活動を続ける為のメシの種であった。レオナルドは芸術活動をする為にそこそこのお金も稼げる世俗的な仕事をしたのであって、世俗的に成功する為に芸術活動をしたわけではない。

ではそろそろ「モナ・リザ」の全容に迫っていきたい。この絵の構成の特徴は、それが単なる肖像画の次元を超えている点にある。まず人物が画面全体に占める割合が大きい。そして人物の後ろの遠い背景が非常に神秘的で、中国の水墨画の山水の世界を想起させる。レオナルドが水墨画を資料として所持していたかどうかは不明だが、イスラム圏を経由して中国の文物がヨーロッパにも流れていた可能性はある。また仮にそれを鑑賞していたとすれば、レオナルドほど感性の優れた画家であれば、東洋的山水の遠景の深奥に惹かれたであろうことは容易に想像できる。そこは戦乱と搾取による過酷な現世から逃避した静かな理想郷だ。「モナ・リザ」に描かれた背景も静謐としており、ここには肖像の女性が生きた近世よりもずっと古いゆったりとした時間の感覚が漂っている。特に肖像の左肩の背後に見える小さな橋は実に謙虚な佇まいで、人間と自然の共生を象徴しているかのようだ。

次に主役の女性の肖像についてだが、まずこれほど優しい微笑みは、古今東西の美術史においても唯一無二であろう。争う人々に和解を促すかのような表情が心に響く。そしてこの女性は明らかに母親の顔をしている。冒頭で述べたように、モデルが若い娘であったとしても、レオナルドは創造の過程で、娘を母へと変化させている。恐らくそうすることによって、絵の完成度を極限にまで高めようとしたのだ。彼が亡くなる2年前まで延々と制作を続けたのも、この絵にしか込められない特別な想いがあったからこそだろう。恐らくそれは彼が生きた時代よりも世界が良くなってほしいという願いではなかったか。この母なる婦人の微笑みが謎めいてはいても、強い意志を秘めているのはそのせいではないのか。

「モナ・リザ」の微笑みは未来に対し向けられている。この絵を描いているレオナルド・ダ・ヴィンチという画家の現在地点から、絵が完成した後に鑑賞する私たち未来を生きる人々に対してだ。それが実物ではなく、印刷媒体であれ、デジタルな画像データであれ、この微笑む婦人の目は常に鑑賞者を見つめている。鑑賞者を透徹した視線で見据えていながら、母なる優しさで私たちを慈しむ。きっと彼女は希望のある明るい未来の到来を確信しているのだ。それは私たちに、人間が自然と共生する未来、戦乱と搾取の無い未来、全ての生命が尊重される未来を創るよう諭している。これは作者レオナルド・ダ・ヴィンチの遺言でもあるだろう。

以前、このブログで旧ソ連の映画監督タルコフスキーについて、それも彼の代表作「惑星ソラリス」のことを書いた。またあの映画で、主人公クリスの亡き妻ハリーが初めて復活する姿が、「モナ・リザ」に似ているとも述べた。あの衝撃的かつ神秘的なシーンにおいて、優し気なハリーの顔は画面全体を覆っていた。しかも至近距離からカメラが捉えているのは微笑みである。それはこの「モナ・リザ」に描かれた女性の肖像を彷彿とさせる。「惑星ソラリス」にも聖母のような愛が描かれていたことは疑うべくもない。そしてタルコフスキーはレオナルド作品において、その独特な絵画世界に描かれている人物の優しい表情を怖れる人々が、一定程度存在することも知っていた。タルコフスキーの遺作「サクリファイス」には「私はレオナルドの絵が怖い」と告白する男が登場する。彼が見ている絵は、「東方の三賢人の礼拝」だ。この男は庶民ではあっても、権力に対しニヒリズムを含みつつ追従するタイプであるが、物語の後半に彼が肯定していたその権力が核戦争を起こしてしまう。

ここでタルコフスキーの映画から再びレオナルドの「モナ・リザ」に戻りたい。もし「モナ・リザ」の微笑みを見て怖れの感情を抱く人がいるとするならば、この微笑む女性の表情に揺るぎない強い意志を感じてしまうからであろう。そしてそれは、力の正義を断じて認めない気概である。力の正義には愛の居場所が存在しないことを、作者レオナルド・ダ・ヴィンチは熟知していた。彼の後半生、ヨーロッパにおいては大航海時代が本格化していく。特に無敵艦隊を誇るスペイン帝国は大西洋を越えて新大陸にまで領土を拡大し、ハプスブルク家は略奪の論理で栄華を極めんとするわけだが、レオナルドの描いた「モナ・リザ」は決してそのような権力の暴走を微笑んで賞賛しているわけではない。

そしてレオナルドの想いを汲んだような形で「モナ・リザ」が登場した日本映画も存在する。それは吉永小百合さんが主演した「愛と死をみつめて」だ。この実話を基にした映画で吉永さんは21才で生涯を閉じる悲劇のヒロイン大島みち子さんを演じているが、この不治の病に犯された娘は、気丈にも同じ病室で入院している女性たちに「阪神タイガースが優勝したら、もう私は死んでもええ」と言って周囲を元気にしようと可愛い笑顔を振りまいている。典型的な阪神ファンの浪花っ子なのだが、そんな彼女が寝泊りする狭い空間の壁には「モナ・リザ」のポスターが飾られている。穏やかで静かな微笑みは、この物語でもヒロインを慰め、彼女の恋人と共に希望を与える心の支えになっていた。

レオナルドの人生終焉の地は、皮肉にも故郷フィレンツェを含めたイタリア半島を侵略したフランス帝国のアンボアーズ地方であった。尤も彼がフランス王室に仕える為にイタリアからアルプスを越えたのは、フランス軍が撤退した後である。時のフランス王フランソア1世は対外戦争を積極的に続けながら絶対王政を強化した野心的な君主だが、芸術を保護する文化的センスにも優れており、レオナルドの最晩年は一応恵まれてはいたようだ。ただ祖国を蹂躙した敵国の世話になるのは、やはり内心忸怩たるものがあったのではないか。そしてイタリアを去った理由は、そこにはもう彼の居場所がなかったともいえる。膨大なエネルギーと時間を要しても、作品の完成度になかなか妥協しないレオナルドは、若い芸術家たちから仕事が遅いと揶揄され馬鹿にされてもいたからだ。実際、レオナルド・ダ・ヴィンチが後世に残した作品数は少ない。しかし美術史上、母性を主題とした芸術作品の最高峰であるこの「モナ・リザ」を描ききった一事は万事に価する。自ら信じた道を不屈の精神で歩み続けた彼の人生に最大級の賛辞を贈りたい。







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