前回はコメダ珈琲の話をしたが、今回はスターバックスである。ご存じのようにスターバックスはアメリカ合衆国で生まれたカフェだ。そしてこのスターバックスという店名は、アメリカ文学の不朽の名作「白鯨」に登場するスターバック一等航海士からとったものらしい。
では、これから小説「白鯨」について述べていきたい。作者はハーマン・メルヴィル。物語は白熱するほどのリアリティに溢れ、静と動の対比も絶妙な上に鬼気迫るような圧倒的シーンが深く読者の心に刻まれる。それは作者メルヴィル自身、捕鯨船の乗組員になった実体験が生々しく反映されているからだろう。私の「白鯨」の読書体験は壮年期に入って以降で、今更だがもっと若い頃に読んでおくべきだったと後悔している。世界文学全集には昔から必ず名を連ねる名作だし、世界の十大小説の一つとも絶賛される傑作だ。もし若い人でまだ読んでいない人がいたら是非お薦めしたい。なぜなら、ここで描かれている小説世界には、人間社会における普遍的な問題が浮き彫りになっているからだ。そして問題多き社会と末永く付き合っていかざるを得ない若者こそ、やはり真面目な問題意識を持つべきである。その問題とは当然解決されて然るべき事柄なのだが、残念なことに殆ど未解決のまま人類の歴史は続いている。
ここ数年、格差社会という言葉をよく耳にする。そして「白鯨」が舞台になっている19世紀のアメリカ合衆国もまた現代と同様に格差社会であった。作者メルヴィルは実は裕福な貿易商の家庭の出身である。ところが当時も資本主義の競争は激烈で、十代の頃に家計は傾きだし、父親が多額の借金を残して死んでしまう。この為、以後は債権者から追われるという不遇の人生がはじまり、捕鯨船で働くはめになったのは多額の借金返済がその目的だと思われる。ただ小説を読めばわかるのだが、捕鯨船の仕事はとてつもない重労働だ。実際、メルヴィル自身も常軌を逸した激務に耐えきれずに何度か船から脱走している。
「白鯨」の主人公はイシュメイルとういう青年で、この物語の語り手でもある。彼は中学校の教師を辞めて捕鯨船の船員に転職したのだが、教職に就いていたがゆえに海洋学や生物学、特に鯨の知識が豊富な為、一見するとこの大胆な人生の選択はいい加減なものではなさそうにも思える。しかし捕鯨船ピークォド号に乗り込んで共同生活がはじまると、殆ど陸の大地を踏むことなく船上で生活してきた強靭な肉体を有する海の男たちの中で、それ迄教壇に立ち学生を啓蒙していたイシュメイルは劣等感を味わう。ところが、地球上の海で大移動を繰り返す捕鯨船の中では、学校や一般社会における上下の身分や優劣が殆ど無意味なことに気付く。なぜなら環境が極端で過酷な余り、優劣を競ったり徒党を組んだりしている暇はないからだ。従って差別や搾取がほぼ存在しない。実際、イシュメイルと心を通わす先住民の黄色人種の男は、陸の社会は不条理が横行する恐ろしい世界だと言う。他にも黒人の少年が登場するが彼も同じような気持ちを抱いている。また彼ら以外の船員の面々も多種多様でゾロアスター教徒がいたり、出身地が中東、インド、中国とそれこそ世界中から集まってきた連中だが、その殆どが陸の社会では人生に失敗した敗北者のような印象を湛えている。この捕鯨船の最高指導者であるエイハブ船長は、過去に白鯨との死闘で片足をもぎ取られ復讐鬼と化しており、一般社会におけるリーダー像とはかなり異なる。彼はカリスマ性があっても、組織の制度設計やヒエラルキーを重視してはいない。そして彼のカリスマは片足姿という痛ましい外面と、執念の塊のような内面に象徴されている。独特な魅力で人が吸引されていく力を有している器なのだが、エイハブ船長の最大の目的は白鯨を倒し報復することであり、実は捕鯨という仕事や商売を成功させることではなかった。物語の終盤のクライマックス、獰猛で恐ろしい白鯨と至近距離で遭遇することになる段階で、船員はそのような船長の真の姿を知り戦慄することになる。
ここまで述べてきた段階で、現代社会と少し比較してみよう。捕鯨船の中には格差社会は存在しない。だが、それは日本でいえば第二次世界大戦の敗戦後の焼け野原のような、みんな貧乏で平等だったという状態に近い。捕鯨船内部のリアルな描写に触れるにつれ、そこは衣食住が最底辺のレベルであることを読者は認識させられる。と同時に大自然の雄大な美が対照的に際立ってくるのだ。太陽や月が輝く大空、無限の大海原や補給に立ち寄った際の清涼な浜辺は、時に理想郷のようにも感じられる。メルヴィルは差別と搾取の恩恵を受けている格差社会の最上層と、その構造を支えている大多数の最下層の両面に光を当てており、どうもこうした不条理が生まれてしまう原因は、生物界全体をも含めた弱肉強食のシステムにあると考えていたようだ。たとえば、捕鯨に関する著述がかなり長々と述べられているのだが、鯨や鯨を含めた哺乳類の生態についても同様である。また旧約聖書からの著述も多い。メルヴィルの人生が波乱万丈な報われないものでもあった為、心の底では神による人類の救済を固く信じていたのかもしれない。
この小説は物語の流れもかなり個性的である。私は文庫本の上下2巻を読んだのだが、大迫力の白鯨と捕鯨船ピークォド号の死闘のシーンはなんと下巻の後半部分で、いわば最大級に盛り上がる場面が随分と待ちぼうけを食わされたような終盤に用意されているのだ。そこに至る迄の過程では、海洋の果てしなく広がる大自然と、それとは対照的な陸の人間社会における特権階級の腐敗から、イシュマイル独自の世界観や専門知識が宗教、文学、科学といった多岐に渡る分野の領域で語られており、かなり教養小説的な色合いも濃い。そしてこの物語は生半可な冒険活劇などではなく、その主題に据えられているのは痛烈な文明批判、社会批評でもある。特に小説のタイトルにもなっている白鯨だが、この巨大で知的かつ攻撃的鯨は、アメリカ合衆国よりも先行して植民地政策を掲げ世界制覇にのりだした欧州の帝国主義国家群(特に19世紀に日の沈まない帝国と呼ばれた大英帝国)を表しているように思われてならない。実際、鯨が白いのは白人中心の帝国主義を象徴した比喩だという説さえある。そして白鯨への報復を誓うエイハブ船長の姿は欧州の帝国主義国家群と争い勝利すべく貪欲にひたすら拡張を図る新興のアメリカ合衆国そのものではないのか。白鯨との闘いでエイハブが失った片足は、イギリスの植民地から多くの戦禍を乗り越えて独立したという古傷や犠牲という解釈もできる。まさに血を流しながら無際限に競い走り続けるような弱肉強食の世界であり、こんな世界には当然の如く救済は無い。
ここでスターバックを紹介したい。彼はピークォド号の一等航海士であり、云わば副船長のような立場だ。その性格は船長のエイハブとは対照的で、家族を大切にし、誰に対しても思い遣りがあり親切に振舞う。まさに良心の象徴のような人物だ。恐らく過酷な捕鯨船での生活を船員が全うできてしまうのは、強力な求心力を備えたエイハブと包容力に溢れた心優しいスターバックがタッグを組んで船を前に進めていたからだろう。ところが最後の最後、報復の機を掴んだエイハブが白鯨との復讐戦に舵を切る時、スターバックは異を唱える。皆、戦いを放棄し家族の元へ、故郷へ帰ろうと。しかし、その時はもう時間切れであった。白鯨の記憶にも復讐に燃えたエイハブの姿は確りと残っており、ピークォド号に襲い懸かってきたからだ。ここからはもう文学史に残る空前絶後の大迫力のシーンである。多分、映画や漫画といった視覚表現では到底及ばない壮絶な場面が読者の脳裏で繰り広げられる。
物語はイシュメイル唯一人が生き残ったところで終わっている。結局、ピークォド号は白鯨に打撃は与えても無残に沈没してしまった。大惨事の海難事故である。それでも絶望だけではなく、作者メルヴィルはスターバックの行動に微かな希望と、人類の行く末を託しているように思える。スターバックはキリスト教のプロテスタントの中でも特に平和主義を重んじるクェーカー教徒である。誠実さ、平等、質素を日常生活に根付かせている。キリスト教の中では、男女平等を最も早くから唱えており、非暴力の信念も強い。また良心的兵役拒否者や反戦活動家にはクェーカー教徒が多いと云う。スターバックがこの物語で大きな決断を下すシーンがある。それは船の運命を白鯨への報復の道ずれにしてしまうエイハブ船長を銃で殺そうとするところだ。引き金を引けば狂信者のように復讐に取り憑かれたエイハブは死ぬ。流れは変わるかもしれない。だが、スターバックは銃を納める。殺戮では決して問題が解決しないことを悟っているからだろう。ここが重要である。スターバックは生き残らなかったが、逆に主要登場人物の中で彼の希少な人間性は不滅の輝きを放ってくる。その名前が日常で親しまれるカフェに命名されたのも頷けるというものだ。
私がスターバックスのカフェで珈琲を飲む時は、いつもその日のお薦めのホットを頼むことにしている。白状すると個人的に拘りのメニューがないからである。そして前回のコメダ珈琲とも共通しているのは、珈琲そのものの質にはあまり期待していないということだ。ではスターバックスをなぜ利用するのかというと、店員が皆さん親切で友好的で、その姿勢に癒されるからである。これはスターバックスの企業文化であると同時に、そのルーツは「白鯨」の登場人物スターバックの人物像そのままであろう。他者に対し親切であることや友好的であることは、人間同士のコミュニケーションのみならず、人間以外の生物に対してもあてはまる。犬や猫といったペットを家族にしている人なら、それはよくわかるはずだ。そして格差社会の問題も、これはもう一朝一夕には解決しない。国際政治における外交の舞台においてさえ、駆け引きや取引よりも、まずその前に親切と友好が必要とされる。それがなければ同じテーブルに着くこと自体困難だからだ。
日本の格差社会については、どうも政府は問題を先送りにして逃げているようだ。消費税率を上げる政策も愚の骨頂だろう。先週にロシアで年金が支給される年齢を引き上げる記事を読んだが、これにも同じ方向性を感じる。政府が国民に負担を課すことで山積した問題が無難に処理できると盲信しているのだ。数年前に「21世紀の資本」という本がベストセラーになった。著者であるフランスの社会学者トマ・ピケティは、格差社会の解決は資本移動だと明言しているが、間違いなくそれが正解だ。超富裕層の資産のほんの一握りでも貧困層への寄付に回れば、事態は好転していくと思われる。戦争や革命といった暴力や闘争による変革は有効ではない。憎悪から行動する人間と巨大で狂暴な鯨の死闘が無意味なように。そんな愚行よりも、被災地で平和的に行われるボランティア活動の健気な姿の方が、よっぽど超富裕層の硬い心の鎧を解いていくはずだ。そしてそのような人々の姿勢には、あの「白鯨」のスターバックのような親切心や友好的態度が見受けられる。ボランティア精神、つまり慈愛の心と言い換えても良い。
私が「白鯨」を読んだ後に真っ先に感じたのは、作者メルヴィルが最も訴えたかったことである。恐らくそれは、若者は問題意識を持って行動すべきだということではないか。陸の一般社会で教師という、人の上に立ち差別されることもない安定した地位にあるイシュメイルが、自らの意志で大海に浮かぶ船の中で最底辺の生活に身を落とし、視野が広がることで戦乱や搾取に満ちた世界の厳しい現状認識を得るに至る。イシュメイルほどの破天荒な転職は推奨できないが、21世紀になってから世界中で天災が増えてきた、働く気力の薄い若者には是非とも被災地でボランティアに参加していただきたい。そして物語の中では、エイハブの野心に気付かずにスターバックの行動は時既に遅しの観があったが、これもメルヴィルからの警告だ。手遅れになる前に行動するべきだと云う。選挙にも積極的に参加し、民主主義を社会にきちんと機能させるべきだろう。与党による政府の政策が失敗しているのなら、それに疑問を持ち野党が選挙で勝利する道を選ぶべきだ。政権交代ですぐに万事が上手くいくとは思えないが、国家の資産や運営を同じ勢力にずっと委ねてしまうのはむしろ危険である。日本の国会議員に2世3世が多いのも、格差が世代を越えて引き継がれていく原因になっている。若い人は残りの人生の時間も長い。日本は民主主義の法治国家であり、全体主義の専制国家とは違う。世の中を変えるチャンスや権利は歴然と存在しているのだ。たとえ草の根のレベルであったとしても、小さな行動の積み重ねが大きな問題をやがて解決していくだろう。
では、これから小説「白鯨」について述べていきたい。作者はハーマン・メルヴィル。物語は白熱するほどのリアリティに溢れ、静と動の対比も絶妙な上に鬼気迫るような圧倒的シーンが深く読者の心に刻まれる。それは作者メルヴィル自身、捕鯨船の乗組員になった実体験が生々しく反映されているからだろう。私の「白鯨」の読書体験は壮年期に入って以降で、今更だがもっと若い頃に読んでおくべきだったと後悔している。世界文学全集には昔から必ず名を連ねる名作だし、世界の十大小説の一つとも絶賛される傑作だ。もし若い人でまだ読んでいない人がいたら是非お薦めしたい。なぜなら、ここで描かれている小説世界には、人間社会における普遍的な問題が浮き彫りになっているからだ。そして問題多き社会と末永く付き合っていかざるを得ない若者こそ、やはり真面目な問題意識を持つべきである。その問題とは当然解決されて然るべき事柄なのだが、残念なことに殆ど未解決のまま人類の歴史は続いている。
ここ数年、格差社会という言葉をよく耳にする。そして「白鯨」が舞台になっている19世紀のアメリカ合衆国もまた現代と同様に格差社会であった。作者メルヴィルは実は裕福な貿易商の家庭の出身である。ところが当時も資本主義の競争は激烈で、十代の頃に家計は傾きだし、父親が多額の借金を残して死んでしまう。この為、以後は債権者から追われるという不遇の人生がはじまり、捕鯨船で働くはめになったのは多額の借金返済がその目的だと思われる。ただ小説を読めばわかるのだが、捕鯨船の仕事はとてつもない重労働だ。実際、メルヴィル自身も常軌を逸した激務に耐えきれずに何度か船から脱走している。
「白鯨」の主人公はイシュメイルとういう青年で、この物語の語り手でもある。彼は中学校の教師を辞めて捕鯨船の船員に転職したのだが、教職に就いていたがゆえに海洋学や生物学、特に鯨の知識が豊富な為、一見するとこの大胆な人生の選択はいい加減なものではなさそうにも思える。しかし捕鯨船ピークォド号に乗り込んで共同生活がはじまると、殆ど陸の大地を踏むことなく船上で生活してきた強靭な肉体を有する海の男たちの中で、それ迄教壇に立ち学生を啓蒙していたイシュメイルは劣等感を味わう。ところが、地球上の海で大移動を繰り返す捕鯨船の中では、学校や一般社会における上下の身分や優劣が殆ど無意味なことに気付く。なぜなら環境が極端で過酷な余り、優劣を競ったり徒党を組んだりしている暇はないからだ。従って差別や搾取がほぼ存在しない。実際、イシュメイルと心を通わす先住民の黄色人種の男は、陸の社会は不条理が横行する恐ろしい世界だと言う。他にも黒人の少年が登場するが彼も同じような気持ちを抱いている。また彼ら以外の船員の面々も多種多様でゾロアスター教徒がいたり、出身地が中東、インド、中国とそれこそ世界中から集まってきた連中だが、その殆どが陸の社会では人生に失敗した敗北者のような印象を湛えている。この捕鯨船の最高指導者であるエイハブ船長は、過去に白鯨との死闘で片足をもぎ取られ復讐鬼と化しており、一般社会におけるリーダー像とはかなり異なる。彼はカリスマ性があっても、組織の制度設計やヒエラルキーを重視してはいない。そして彼のカリスマは片足姿という痛ましい外面と、執念の塊のような内面に象徴されている。独特な魅力で人が吸引されていく力を有している器なのだが、エイハブ船長の最大の目的は白鯨を倒し報復することであり、実は捕鯨という仕事や商売を成功させることではなかった。物語の終盤のクライマックス、獰猛で恐ろしい白鯨と至近距離で遭遇することになる段階で、船員はそのような船長の真の姿を知り戦慄することになる。
ここまで述べてきた段階で、現代社会と少し比較してみよう。捕鯨船の中には格差社会は存在しない。だが、それは日本でいえば第二次世界大戦の敗戦後の焼け野原のような、みんな貧乏で平等だったという状態に近い。捕鯨船内部のリアルな描写に触れるにつれ、そこは衣食住が最底辺のレベルであることを読者は認識させられる。と同時に大自然の雄大な美が対照的に際立ってくるのだ。太陽や月が輝く大空、無限の大海原や補給に立ち寄った際の清涼な浜辺は、時に理想郷のようにも感じられる。メルヴィルは差別と搾取の恩恵を受けている格差社会の最上層と、その構造を支えている大多数の最下層の両面に光を当てており、どうもこうした不条理が生まれてしまう原因は、生物界全体をも含めた弱肉強食のシステムにあると考えていたようだ。たとえば、捕鯨に関する著述がかなり長々と述べられているのだが、鯨や鯨を含めた哺乳類の生態についても同様である。また旧約聖書からの著述も多い。メルヴィルの人生が波乱万丈な報われないものでもあった為、心の底では神による人類の救済を固く信じていたのかもしれない。
この小説は物語の流れもかなり個性的である。私は文庫本の上下2巻を読んだのだが、大迫力の白鯨と捕鯨船ピークォド号の死闘のシーンはなんと下巻の後半部分で、いわば最大級に盛り上がる場面が随分と待ちぼうけを食わされたような終盤に用意されているのだ。そこに至る迄の過程では、海洋の果てしなく広がる大自然と、それとは対照的な陸の人間社会における特権階級の腐敗から、イシュマイル独自の世界観や専門知識が宗教、文学、科学といった多岐に渡る分野の領域で語られており、かなり教養小説的な色合いも濃い。そしてこの物語は生半可な冒険活劇などではなく、その主題に据えられているのは痛烈な文明批判、社会批評でもある。特に小説のタイトルにもなっている白鯨だが、この巨大で知的かつ攻撃的鯨は、アメリカ合衆国よりも先行して植民地政策を掲げ世界制覇にのりだした欧州の帝国主義国家群(特に19世紀に日の沈まない帝国と呼ばれた大英帝国)を表しているように思われてならない。実際、鯨が白いのは白人中心の帝国主義を象徴した比喩だという説さえある。そして白鯨への報復を誓うエイハブ船長の姿は欧州の帝国主義国家群と争い勝利すべく貪欲にひたすら拡張を図る新興のアメリカ合衆国そのものではないのか。白鯨との闘いでエイハブが失った片足は、イギリスの植民地から多くの戦禍を乗り越えて独立したという古傷や犠牲という解釈もできる。まさに血を流しながら無際限に競い走り続けるような弱肉強食の世界であり、こんな世界には当然の如く救済は無い。
ここでスターバックを紹介したい。彼はピークォド号の一等航海士であり、云わば副船長のような立場だ。その性格は船長のエイハブとは対照的で、家族を大切にし、誰に対しても思い遣りがあり親切に振舞う。まさに良心の象徴のような人物だ。恐らく過酷な捕鯨船での生活を船員が全うできてしまうのは、強力な求心力を備えたエイハブと包容力に溢れた心優しいスターバックがタッグを組んで船を前に進めていたからだろう。ところが最後の最後、報復の機を掴んだエイハブが白鯨との復讐戦に舵を切る時、スターバックは異を唱える。皆、戦いを放棄し家族の元へ、故郷へ帰ろうと。しかし、その時はもう時間切れであった。白鯨の記憶にも復讐に燃えたエイハブの姿は確りと残っており、ピークォド号に襲い懸かってきたからだ。ここからはもう文学史に残る空前絶後の大迫力のシーンである。多分、映画や漫画といった視覚表現では到底及ばない壮絶な場面が読者の脳裏で繰り広げられる。
物語はイシュメイル唯一人が生き残ったところで終わっている。結局、ピークォド号は白鯨に打撃は与えても無残に沈没してしまった。大惨事の海難事故である。それでも絶望だけではなく、作者メルヴィルはスターバックの行動に微かな希望と、人類の行く末を託しているように思える。スターバックはキリスト教のプロテスタントの中でも特に平和主義を重んじるクェーカー教徒である。誠実さ、平等、質素を日常生活に根付かせている。キリスト教の中では、男女平等を最も早くから唱えており、非暴力の信念も強い。また良心的兵役拒否者や反戦活動家にはクェーカー教徒が多いと云う。スターバックがこの物語で大きな決断を下すシーンがある。それは船の運命を白鯨への報復の道ずれにしてしまうエイハブ船長を銃で殺そうとするところだ。引き金を引けば狂信者のように復讐に取り憑かれたエイハブは死ぬ。流れは変わるかもしれない。だが、スターバックは銃を納める。殺戮では決して問題が解決しないことを悟っているからだろう。ここが重要である。スターバックは生き残らなかったが、逆に主要登場人物の中で彼の希少な人間性は不滅の輝きを放ってくる。その名前が日常で親しまれるカフェに命名されたのも頷けるというものだ。
私がスターバックスのカフェで珈琲を飲む時は、いつもその日のお薦めのホットを頼むことにしている。白状すると個人的に拘りのメニューがないからである。そして前回のコメダ珈琲とも共通しているのは、珈琲そのものの質にはあまり期待していないということだ。ではスターバックスをなぜ利用するのかというと、店員が皆さん親切で友好的で、その姿勢に癒されるからである。これはスターバックスの企業文化であると同時に、そのルーツは「白鯨」の登場人物スターバックの人物像そのままであろう。他者に対し親切であることや友好的であることは、人間同士のコミュニケーションのみならず、人間以外の生物に対してもあてはまる。犬や猫といったペットを家族にしている人なら、それはよくわかるはずだ。そして格差社会の問題も、これはもう一朝一夕には解決しない。国際政治における外交の舞台においてさえ、駆け引きや取引よりも、まずその前に親切と友好が必要とされる。それがなければ同じテーブルに着くこと自体困難だからだ。
日本の格差社会については、どうも政府は問題を先送りにして逃げているようだ。消費税率を上げる政策も愚の骨頂だろう。先週にロシアで年金が支給される年齢を引き上げる記事を読んだが、これにも同じ方向性を感じる。政府が国民に負担を課すことで山積した問題が無難に処理できると盲信しているのだ。数年前に「21世紀の資本」という本がベストセラーになった。著者であるフランスの社会学者トマ・ピケティは、格差社会の解決は資本移動だと明言しているが、間違いなくそれが正解だ。超富裕層の資産のほんの一握りでも貧困層への寄付に回れば、事態は好転していくと思われる。戦争や革命といった暴力や闘争による変革は有効ではない。憎悪から行動する人間と巨大で狂暴な鯨の死闘が無意味なように。そんな愚行よりも、被災地で平和的に行われるボランティア活動の健気な姿の方が、よっぽど超富裕層の硬い心の鎧を解いていくはずだ。そしてそのような人々の姿勢には、あの「白鯨」のスターバックのような親切心や友好的態度が見受けられる。ボランティア精神、つまり慈愛の心と言い換えても良い。
私が「白鯨」を読んだ後に真っ先に感じたのは、作者メルヴィルが最も訴えたかったことである。恐らくそれは、若者は問題意識を持って行動すべきだということではないか。陸の一般社会で教師という、人の上に立ち差別されることもない安定した地位にあるイシュメイルが、自らの意志で大海に浮かぶ船の中で最底辺の生活に身を落とし、視野が広がることで戦乱や搾取に満ちた世界の厳しい現状認識を得るに至る。イシュメイルほどの破天荒な転職は推奨できないが、21世紀になってから世界中で天災が増えてきた、働く気力の薄い若者には是非とも被災地でボランティアに参加していただきたい。そして物語の中では、エイハブの野心に気付かずにスターバックの行動は時既に遅しの観があったが、これもメルヴィルからの警告だ。手遅れになる前に行動するべきだと云う。選挙にも積極的に参加し、民主主義を社会にきちんと機能させるべきだろう。与党による政府の政策が失敗しているのなら、それに疑問を持ち野党が選挙で勝利する道を選ぶべきだ。政権交代ですぐに万事が上手くいくとは思えないが、国家の資産や運営を同じ勢力にずっと委ねてしまうのはむしろ危険である。日本の国会議員に2世3世が多いのも、格差が世代を越えて引き継がれていく原因になっている。若い人は残りの人生の時間も長い。日本は民主主義の法治国家であり、全体主義の専制国家とは違う。世の中を変えるチャンスや権利は歴然と存在しているのだ。たとえ草の根のレベルであったとしても、小さな行動の積み重ねが大きな問題をやがて解決していくだろう。