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映画と音楽と美術と珈琲とその他

ルードウィヒ

2016-10-24 13:57:06 | 日記
映画「ルードウィヒ」は現ドイツの南部に存在したバイエルン王国の狂王ルードウィヒ2世の即位からその死までを描いた壮大な歴史絵巻である。監督はイタリア映画界の巨匠ルキノ・ヴィスコンティ。日本での公開は1980年で、ヴィスコンティの死後4年目のことであった。公開当時は「ルードウィヒ / 神々の黄昏」と副題が付けられていたが、これはルードウィヒ2世が音楽家ワーグナーに心酔しており、映画音楽にもワーグナーを多用したことによると思われる。そして「神々の黄昏」はワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」三部作の第三部のタイトルだ。

私は劇場公開時に映画館に足を運んだのだが、3時間を超える長尺にも関わらず館内はほぼ満席であった。また1978年頃から日本の映画館ではヴィスコンティ・ブームが巻き起こっていた。きっかけは「家族の肖像」というバート・ランカスター主演の映画が大ヒットしたことによる。この映画は、ローマの広い邸宅に18世紀絵画等の懐古趣味の優雅なインテリアに囲まれて静かに暮らす初老の主人公の孤独な生活に、迷惑な他人が賃貸契約のトラブルから無礼講に入り込んできて共同生活が始まり、単なる偶然で成立してしまった疑似家族が悲劇的に崩壊する迄を描いた人間ドラマであったが、元来家族というテーマが好きな日本人に大いに受けたのだ。これが呼び水となり、ヴィスコンティの映画を漁るように鑑賞しだした人は多かったはずである。尤も人によって傾向は様々で、物語性はさておきヨーロッパの異国情緒漂う貴族趣味の豪華な映像美に酔い痴れたいだけのファンも少なからず存在した。そして見栄えのする端正な顔立ちの俳優陣を物語の主軸に据えて人物像の造形美を訴求し、美男美女に目がない鑑賞者の要求に十全に応えているのも大きな魅力だろう。実際、この「ルードウィヒ」で主役を演じたヘルムート・バーガーは、世界で最も美しい獣と呼ばれたほどの美貌の持ち主である。このように日本人に好まれる晩年の作品は、豪華絢爛たる貴族や上流階級を扱った映画が多い。しかしそうした側面だけがヴィスコンティの作品世界ではなく、晩年以前の作品群には労働者階級を主人公にした社会派の人間ドラマや、世界的文豪ドストエフスキーの「白夜」やカミユの「異邦人」を映画化したものも立派に存在する。この為、一面だけ捉えてヴィスコンティを評価すると真実を見失うかもしれない。

ヴィスコンティ映画の根源に横たわる主題が何かと問われれば、それは人間の孤独であり滅びの美学であろう。ヴィスコンティ自身が、勝者よりも敗者の物語に魅かれるしそれを創造したいのだと公言していることからも、それは明らかだ。そしてヴィスコンティその人がイタリアの傍系貴族出身ながら共産党に入党していた時期があり、映画界では赤い公爵と呼ばれていた。つまり社会に対し常に真摯な問題意識を持ち、現代を映す鏡のように過去を扱いながら巧みな映像表現で政治的なメッセージさえ送っていたように思えるのだ。たとえば彼とほぼ同世代の黒澤明が、世界文学を下敷きにして日本の歴史を描くことで現代社会に痛烈なメッセージを発し続けたように。

前置きが長かったようだが、いよいよ本題の映画「ルードウィヒ」に入りたい。主人公の王の治世は約22年に及び18歳で即位し40才で廃位。その人生の舞台は19世紀中頃のヨーロッパで、大国同士が領土拡張を企み対外戦争を重要な国策にして鎬を削っていた時代であった。にも関わらず、この小国の王様は政治や経済には殆ど無関心で、ひたすら音楽と建築に国費を注ぎ込み、自らが愛好するメルヘンチックな神話の世界に引き籠る。そこら辺は典型的な世間知らずのお坊ちゃんで内向きな性格だが、内省的ではなく偏執的なのがルードウィヒ2世の大きな特徴である。要は王が廃位したのは自業自得であり、常軌を逸した浪費により国家を破産寸前まで追い込んだ張本人であったからに他ならない。ある意味、この物語は奇妙奇天烈な愚か者の生涯を描いた悲喜劇なのだが、流石はヴィスコンティである。一筋縄ではいかない。映画の制作段階では「ルードウィヒ」の副題は当初「神々の黄昏」ではなく「全ては玩具にすぎない」であったことからもそれは理解できる。大規模な建設事業も罪悪感の無い子供が積木で城をつくっているかのようである。そして歴史上は狂王とさえ評されたこの主人公ではあるが、短絡的に諸悪の根源の如く描かれてもいない。むしろそれとは逆に人間存在そのものの弱さへの同情や滅びゆく者への哀惜の念さえ感じられるくらいだ。

冒頭の即位式に臨む若き王は純真無垢な美青年であり、債権者から逃亡を続ける音楽家ワーグナーを宮廷に招き彼のパトロンになった頃は希望に燃えている。しかし本来の資質には合致しない政務からのストレスで理想と現実との乖離に悩み、美しい従姉のオーストリア皇妃エリザベートへの敵わぬ恋をプラトニックなまま終生引きずり続ける姿は哀れである。またエリザベートの勧めでその妹のゾフィーと婚約するのだが、悩んだ末に破棄。またこの数年後にバイエルン王国は、普墺戦争や普仏戦争に参戦。ルードウィヒ2世の弟で戦地に従軍したオットー1世が精神に異常をきたす。また我儘なワーグナーを臣下からの諫言でついに追放せざるを得なくなる。この時期から彼の人生は大きく転回しはじめる。それまでのルードウィヒ2世は国家の王に相応しい器になるべき努力を曲がりなりにも続けていたようだが、ここから坂道を転げ落ちるように極端な方向へと舵を切ってしまう。青年期の純朴な夢想家が壮年期には誇大妄想狂へとエスカレートしていくのだ。太陽王と呼ばれたルイ14世の建設事業を真似るように尊大な巨城を建設し、その広大な要塞で昼夜逆転した隠棲生活をおくる。髭面で下膨れした中年男の容貌には、もはやかつての美青年の面影はなく、酒に溺れ、若い従僕らとの同性愛に耽り、久方ぶりに訪ねてきた憧れの女性エリザベートにも会おうとしない。この時、オーストリア皇妃エリザベートがベルサイユ宮殿を模したヘレンキームゼー城の大広間で笑い崩れるシーンがある。彼女は従弟であるバイエルン国王の極限的な贅沢に呆れているわけだが、その直後に従弟から再会を拒まれ、孤独な彼の行く末を案じる。しかし彼女が危惧した通り、国家財政の危機を憂えた臣下の裏切りに遭い医師の鑑定により精神病の烙印を押された揚げ句、クーデターの末にベルク城に幽閉された後、シュタルンベルク湖で入水自殺を遂げる。王の最期が自殺だったのか他殺だったのか事故だったのかは歴史的な事実としては謎のままだが、この映画では医師を道連れにした自殺という解釈をとっている。

ヴィスコンティが孤独を病んだこの王の生涯を描く気になったのはいったいなぜなのか?これは私の推測だが、栄耀栄華の終焉を美と醜を絡めて潔く見せることで、人類全体に貪欲さを避けて謙虚になるよう諭しているのではないか。そしてヴィスコンティが敗者の物語に拘り続けた理由もそこにあるように感じる。栄光を勝ち誇った者を称賛した物語にはどこか軽薄さが付きまとう。それとは真逆の世界が此処には在る。大航海時代以降のヨーロッパ文明は七つの海を越えてアフリカ、アジア、新大陸アメリカに覇を唱え、地球上の資源を貪り喰らいながら巨満の富を産出してきた。特にこの映画が扱っている時代には、ヨーロッパよりも産業革命が進展しなかったアジアのオスマントルコ帝国とムガール帝国と清帝国は衰退期に入っていた。バイエルン王国も産業革命の恩恵を受けて、ドイツ帝国に統一される以前の小国ながらも経済成長の波に乗っており、この影響でルードウィヒ2世の空前の浪費も可能になったと云える。晩年のヴィスコンティ作品の殆どが主人公の死で物語は終わるのだが、この映画も例外ではない。エンディングロールが流れるラストのカットは水死した王のデスマスクであり、富と権力を体現した者の淋しい末路を象徴している。私は鑑賞した後に、ヨーロッパとは異質ながら、私達日本人が古来から親しんでいる平家物語のメッセージを思い出した。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず。ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂には滅びぬ。ひとへに風の前の塵に同じ。
東洋と西洋という文明の差異や、武士から貴族に成り上がった一族と生まれながらにして王族であった者の違いこそあれ、ヴィスコンティが問いかけたかったことは、平家物語と同様のメッセージであったように思う。

ルードウィヒ2世の生涯は、ある意味極端で愚かしくもあったが、彼が贅を尽くして建設したノイシュバンシュタイン城、ヘレンキームゼー城、そしてリンダ―ホーフ城は現在でもドイツの有名な観光名所である。実際に映画を大画面で鑑賞すると、映像のパワーに圧倒されて当地を巡る観光気分を味わえるほどだ。また城だけではなくバイロイト祝祭劇場も残しており、ワーグナーの言いなりで建築した木造のオペラハウスだが、こちらも世界中から音楽ファンが集まってくる。このようにとてつもない贅沢はしたが歴史的な遺産を残したわけだ。ルードウィヒ2世は奇異な人間ではあっても狡猾さには欠けており、映画の中で絵に描いたような悪役に最も近いのは大音楽家ワーグナーであろう。そもそも王が湯水のように音楽へ資本を投入した理由はワーグナーへの極端な傾倒にあった。ワーグナーの音楽に心底惚れ込み、彼の優れた才能や作品と人格を同一視してしまう王の純真さゆえに、臣下もその無謀な政策を手遅れになる迄止められなかったようだ。事実、ワーグナーの人間性は相当に問題有りであった。放蕩三昧な生活で借金塗れになっているし、自意識過剰でプライドが高く弟子の妻と不倫し略奪婚を敢行。完成度の高い芸術作品を創造する才能がありながら、とにかく私生活が倫理的に堕落した食わせ物である。只、ワーグナーにとってはこのルードウィヒ2世は最高のパトロンであったことだろう。完全に信頼しきっており、金は出しても口は出さないのだから。

一説によると、生前のルードウィヒ2世は自身の死後にノイシュバンシュタイン城を破壊するように遺言していたらしい。しかしそのような愚行は現実化しなかった。それはルードウィヒ2世の廃位後に、バイエルン王国を統治した叔父のルイトポルト摂政が城を破壊せずに地元の住民に開放したからだ。この白鳥のように美しい城はあのディズニーランドのモデルとしても有名である。
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見出された時

2016-10-06 16:12:01 | 日記
マルセル・プルーストは20世紀文学における巨人である。そして自伝的な大長編小説「失われた時を求めて」は後世に多大な影響を与えた文学史上の金字塔だとも云える。今回紹介する「見出された時」という映画はこの長い長い小説の最終篇を映像化した作品であり、1999年にチリ出身のラウル・ルイス監督の手により完成された。

原作が小説の場合、物語を読んでから映画を鑑賞すると、がっかりさせられることが多い。かくいう私も数多くの映画でこれを経験した口である。映画を存分に味わいたいならば、どんな文芸大作でも映画を鑑賞した後に、その原作となった小説を読んだほうが苦い思いをしなくて済む。だが、この「見出された時」は唯一の例外であった。

私が「失われた時を求めて」を読んだのは30代前半の頃である。元々フランス文学が好きな方ではなく、ヨーロッパの小説ならドイツやイギリスの方が口当たりが良かった為、2年近くかかってのろのろ運転で読破したわけだが、途中で投げ出さずに最後まで付き合えたのは「スワンの恋」という映画を事前に鑑賞していたからだ。これは「失われた時を求めて」の第一篇「スワン家の方へ」を描いたもので、真に素晴らしい内容であった。監督はカンヌ映画祭で最高賞を射止めた「ブリキの太鼓」で有名なドイツ人のフォルカー・シュレンドルフ。この映画がきっかけで小説「失われた時を求めて」の世界を曲がりなりにも最初の一歩、体験することができたのだ。これは私にとって幸福な流れであった。物語の舞台である第一次世界大戦前後のヨーロッパの時代背景や、登場人物の殆どが貴族や新興ブルジョア階級といった富裕層の人々であり、その生活の舞台である上流社会の美と退廃や、その他多くの情報量をも映像で入手することが可能となり、原作を読む程良い準備運動ができたわけだ。

小説「失われた時を求めて」の主要なテーマは無意志的記憶と恋愛の不毛性である。特に私個人は、無意志的記憶という概念をこの小説を読むまでは知らなかった。勿論、実人生において無意志的記憶を感じることは当然あったのだが、概念としては知る由もなかった。ではここで、その無意志的記憶について少し説明したい。私の実体験で語らせていただく。私が20代の頃、東京で仕事をしていた通勤途中、ある雨の日に感じた街路樹の匂いに、突然小学校の運動場に植えられた木の下で小学生の自分が雨宿りをしていた瞬間が蘇ってきた。これは私の意志とは無関係に感覚的に、過去のある瞬間がすっと空かどこかから降りてきたような感じなのだ。これが無意志的記憶である。誰しも大なり小なりこうした体験はあるはずだ。

映画「スワンの恋」においては、この大長編の第一篇であり、恋愛の不毛性が主題となり無意志的記憶については余り触れられてはいない。実際、小説「失われた時を求めて」の全貌は主人公の回想録という形をとっているのだが、映画「スワンの恋」には語り手である主人公は不在である。それとは対照的に「見い出された時」という最終篇の映画化では、無意志的記憶を主題に据えている。これは予想通りだったが、驚かされたのはルイス監督の離れ業であった。あくまでも映像でしかできないような表現でこれをやってのけたからだ。しかし考えてみるとこれはいたって誠実な表現手法であろう。なぜなら無意志的記憶は、作者と読者が一対一で接する小説だからこそリアリティが感じられるのだから。小説では作者の紡ぐ言葉を頼りにして読者が心で映像を生み出す。ところが映画はそうではない。鑑賞者は登場人物に感情移入することはあっても、他人が他人の視点でつくった映像を一方的に受け入れているだけだ。だから小説を読んでから映画を鑑賞すると、そのイメージの落差にがっかりさせられることが多い。これは冒頭でも述べた通り、まずは原作を読まずに映画を見ろである。映画を鑑賞する前の先入観は邪魔にもなるが、小説を読む前の先入観はいかようにも読者が料理可能なのだろう。

原作では主人公に名前はなく広大な物語世界の話者になっている。ところが映画の「見い出された時」では、マルセル・プルーストのそっくりさんの無名俳優を出演させ、あろうことか彼は登場人物達からマルセルと呼ばれてしまう。まさに大胆不敵。しかもそれだけではなく、マルセルの少年期、青年期、壮年期といったそれぞれの時期で別人の俳優を用意し、おのおのが余り似ていないのも小技が効いていて面白い。定石ならば、少年期はともかく青年期を演じるマルセル・プルーストのそっくりさんを亡くなる迄使ってしまうところだが、そうしないことで原作では主人公に名前がないという神秘性に接近しているのだ。特にラストの美しい砂浜の場面では、病による死が近いマルセルが海へ歩みを進めるところで、少年時代のマルセルや青年時代のマルセルが時を超えて同じ場所に存在している。まさにこれは壮年期のマルセルが遭遇する無意志的記憶の映像表現だと解釈できようが、こうした小説と映像でのアプローチの違いがこの映画では見事に成功している。

そしてこれは最終篇の映像化であり、全篇の様々なエピソードが万華鏡のように散りばめられているのだ。そう、まさに映像の万華鏡である。そのエピソードの中には、私が個人的に描いてほしかった部分も確りと存在しており、ここはルイス監督に深く感謝したい。特に最も衝撃的なエピソードは、登場人物の中でも一際個性が強く怪しいシャルリュス男爵が娼館の一室で男娼に鞭を打たせて苦痛に悶えながらマゾヒズムに浸っているシーンである。しかもこの光景を主人公が覗き見ている。一見すると非情にグロテスクな場面なのだが、私はここに腐敗したヨーロッパ白人種の富裕層が持つ捻じれた良心を発見した。なぜならその娼館で働く男娼の多くは貧困層の若者で、しかも植民地からフランスに移民した有色人種の人々であり、さらに戦争が始まればフランスの為に戦地の最前線で兵役に就かねばならない。事実、彼ら男娼が娼館の控室で仲間と交わす会話は故郷の貧しい家族の有様か戦場の悲惨な現実である。退廃的な行為が終わった後に男爵は男娼に金を支払うわけだが、その金を何に使うのかを訊ねる。そこで男娼はこう答える。家族に仕送りをすると。そしてそれを聞いた男爵はぞっとする。なぜ、ぞっとするのか?理由の一つはフランスを含めた帝国主義国家群が戦争産業で領土を奪い合い植民地から収奪と搾取を繰り返している以上、そのような暴走や暴虐から生まれた富の享受者である支配階級の自分自身が後ろめたいからだ。そしてもう一つの理由は男娼と身分の差こそ違え男爵にも家族愛が存在するからである。シャルリュス男爵は老いた独身の同性愛者であり、一族の中では奇怪な人物像のレッテルを張られている。しかし饒舌で辛辣ではあっても、彼はスノビズムに陥ることなく隣人への思い遣りや配慮の心遣いを忘れない。物語の主人公はこの身内の男爵から愛情を含んだ多くの助言を受けているのだが、その一端は映画の中でも確認することができる。当のシャルリュス男爵を演じているのは名優ジョン・マルコヴィッチ。

この映画は小説「失われた時を求めて」をこれから読もうと考えている人には大変お薦めと云える。特に、近現代のヨーロッパ史の知識が乏しい場合には、格好の水先案内人になってくれることは必定である。実際、興味があったにも関わらず、時代背景等に違和感があり、素晴らしい物語に出会う機会を逃してしまうのは、誠に残念な話ではないか。恐らくルイス監督もそれを考慮して制作したのではないだろうか。何よりも監督の「失われた時を求めて」への愛が詰まっており、この固有で独特な物語世界を是非体験してほしいという願いが感じられる。

この長い長い小説のラストでは、語り手である主人公が小説を書く決意をするところで終わる。だが、そのラストに読者が長い長い読書時間を費やして辿り着いた時、主人公によって書かれるべきその長大な小説を読者はやっと読み終えたところなのだ。その読後感は隔絶している。
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