今年のNHK大河ドラマは「光る君へ」という平安時代が舞台の物語になった。このドラマの主人公は紫式部だが、彼女は誰もが承知している通り、日本文学史はおろか世界文学史においても燦然と輝く不朽の名作「源氏物語」を創造した人である。
以前、このブログで「源氏物語」についてほんの少しばかり書いた。その時に述べた通り、私個人は大学時代、ゼミの先輩に薦められてこの長編小説と出会っている。しかも教えてくれたその人は米国人であった。彼はアーサー•ウェイリーが翻訳し1930年代に発表した英語版を読んでいたく感動し、それが日本への留学の決め手にもなったようだ。そしてウェイリーは英国の著名な東洋学者で、中国の「西遊記」の翻訳も手掛けており、その評価は格段に高い。日本文学の研究者の大家であるドナルド•キーンも、このウェイリーが翻訳した「源氏物語」を仮に読まなければ、日本に対する探究心も大して湧かず、日本への帰化もなかったかもしれない。そして何より翻訳したウェイリー自身がこの「源氏物語」の世界に魅了されており、それは原作者と翻訳者が一体化していると、英語圏で評されたことからも理解できる。
つまり「源氏物語」は、それだけ時空を超えてもなお読者の魂を揺さぶり続ける魅力に溢れているわけだ。またこの長編小説は全五十四帖からなる三部構成で、読者の好みが三つに分れるところも非常に興味深い。私の場合、第一部と第二部の主人公である光源氏の死後の時代が描かれた第三部に強く惹かれた。しかしだからといって第一部と第二部がつまらなかったわけではない。多分、一般的に最も人気が高いのは第一部であろう。実際、第一部で完結してほしかったという読者の声も多いようだ。
確かに第一部の構成は起承転結も見事な上に、個性豊かな登場人物が多く、豪華絢爛とした恋愛絵巻もあれば、権謀術数が陰陽道まで駆使されて渦巻いたり、予想を超えた波瀾万丈な展開もある。光の名に象徴される輝んばかりにオーラを発する英雄的な主人公が、この世に生を受けてから辿る運命は、時に挫折や苦悩も味わいつつ最終的には大きな成功を勝ち取り、栄華に到達するというサクセスストーリーだ。要は読者が超一級の娯楽作品としても味わえる内容になっている。また紫式部が生きていた平安時代の読者の殆どは皇族や貴族といった支配階級であったが、恐らく時の権力者たちからの要望や、要望を超えた圧力も受けながら執筆していたと思われる。この為、作者から読者への親切なサービス精神さえ感じられるほどだ。
ただ私個人にとって、第一部で最も印象に残ったシーンは天変地異の落雷であり、未だに「源氏物語」の落雷の表現を凌駕する文学作品に、私は遭遇していない。つまり紫式部は人間の心理描写に卓越しているだけではなく、人間以外の自然界もリアルに描き出せる作家であった。事実「源氏物語」が世界中で翻訳されている現代、日本へ赴任することになったビジネスマンの中には、「源氏物語」を読破してから渡日することを、会社から推奨されるケースさえあるらしい。斯様に紫式部は日本列島の気候風土や、それを感知する人間の五感、要は視覚はおろか聴覚や臭覚や触覚や味覚さえも素晴らしい言葉で表現できていた。これは物語を読むことでまざまざと体験できる。
しかしながら紫式部が創作し、世に送り出した小説作品はこの「源氏物語」一つだけである。それでも優れた歌を詠み、日記を書き残した偉大な文筆家であったことは間違いない。そして彼女の傑出した才能を持ってすれば、複数の物語を創出することも、当然のこと可能だったはずだが、この「源氏物語」のみに絞ったのは、彼女なりの理由があるようにも思える。恐らくそれは当時の人間社会に対して、物語の世界から警鐘を鳴らしたかったのではないか。
史実として伝わってくる紫式部の性格は控えめで内気、しかもネガティブ思考である。これは確かに物語を読むと何となく伝わってくることだ。女官として宮仕えをしていた彼女は、男性優位のシステムの中で、否が応でも男尊女卑や上下尊卑の屈辱を受けたであろう。そしてそうした局面において、男に利用されても派手に恋愛を楽しみ、憂さ晴らしができるような楽天性や社交性も有していなかった。つまり日常生活において相当なストレスを溜め込んでいたはずだ。また大変な読書家でもあった為、「日本書紀」や文学作品の「竹取物語」それに「宇津保物語」などの国産の書物は元より、「史記」のような中国の歴史書や仏典まで漢文で読んでいたらしい。この為、「源氏物語」の世界が、類い稀な広大無辺さを有しているのは、紫式部に固有の優れた感性と、その内向宇宙が膨大な学識を礎にしているからであろう。
このように「源氏物語」は平安時代の律令体制から検閲や統制を受けて完成された文学作品ではあっても、そのテーマを通り一遍で解釈できるほど生半可なものではなかった。例えば第一部のサクセスストーリーにしても、女性読者が憧れの対象とする主人公の光源氏は、本当のところ眩し過ぎる真昼の太陽のように、実体が定かではない。むしろその強力な光に照射されて、肖像が浮かび上がる女性たちこそが本当の主役であろう。なぜなら彼女たちの懊悩や嫉妬や絶望による苦しみの方が、光源氏の心の動きよりも真に迫っているからだ。そして宮中の女性たちを含めて、社会的に立場の弱い人々が救済される道を紫式部は真面目に模索し提示している。
それはとどのつまり釈迦の教え、つまり仏教に傾倒した世界観であった。しかも古来より日本列島に伝来して以降、権威や権力に散々利用されてきた鎮護国家のスローガンに代表される儒教で解釈された思想的インフラではなく、現世利益とは無縁の人間一人一人の心を癒す救済力としての仏教である。これは物語を読んでいくと明白になってくるのだが、光源氏を含めた恋愛至上主義者のような男たちに振り回されて疲弊した女たちの多くは、出家して仏門に入ってしまう。そのように生きたまま此岸から彼岸へ渡ることで彼女たちは、光源氏が佇立する領域を超越していくのだ。
また第二部においては、光源氏が築いた繁栄の雲行きは怪しくなり、仏教的な因果応報に遭うようにして斜陽の道を辿りだす。そして富者であり強者の光源氏にも、やがて生者必衰の死が訪れる。第一部が陽の物語とするなら、第二部は正反対に陰の物語であろう。特に光源氏の最愛の女性で側室の紫の上の境遇や、聡明な彼女の心が明から暗へと変化する過程と、その悲劇的な有様は連動している。こうした意外なストーリー展開は、当時の紫式部のパトロンで権力の絶頂期にいた藤原道長も知っていたはずだが、作者の意向を尊重できたのは、我が世の春を謳歌した流石の道長も、老いと病いと死を身近に感じられる年代になっていたからだと思われる。つまり死後の世界、来世への不安と恐怖から、彼もまた出家して仏教思想に傾倒しはじめていた。尤もそれは摂関家の覇者として君臨した権力者らしく謙虚な信仰心とは程遠い、極楽浄土の風景を豪勢に具現化したような法成寺を建立し、来世の平穏と安堵の確約を神仏へ祈願するという身勝手な意志から生じている。
前置きが随分と長くなってしまったが、ここからは今回のタイトルである「源氏物語」の大君について述べさせていただく。この女性は第三部に登場してくるのだが、非常に個性的で珍しいタイプの女性である。ただしその強い個性は美しい容貌や雰囲気といった外見ではなく、内面に確りと根付いている。まずその他多くの女性たちと決定的に違うのは、この大君が恋愛体質ではなく、かなり内省的な性格であることだ。そしてそれは彼女が京の都に住む貴族ではなく、都の中心から離れた宇治で暮らす地方の貴族であることもその一因なのかもしれないが、八の宮という父親の影響が大きい。
八の宮は光源氏の異母弟で、皇子であった若かりし頃に彼自身の意志とは無関係に、皇位継承の権力抗争に巻き込まれてしまい、結果的には敗者の側に追いやられる。そしてこの皇位継承を巡る争いの勝者は、光源氏が後見人の冷泉帝であった。これで運も尽き、光源氏の栄耀栄華の時代には、火災で都の邸宅を失い財産も減らして、宇治の山荘に隠棲するという没落貴族の道を歩む。この忘れ去られたような人生ゆえに、八の宮は第一部と第二部には姿を見せないどころか、生きていたことすら書かれていないのだ。しかし第三部では彼こそが重要なキーマンである。
第三部は光源氏の死後の世界であり、彼の息子の薫と孫の匂宮が主要人物だが、この二人は同世代の若者ではあっても、全くタイプが違う。二人共、立身出世の階段を上っていく都の上流貴族で、かつて彗星の如く世に現れ時代の寵児となった光源氏の子孫でありながら、そこまでの存在感は無い。匂宮は光源氏と似た性格や言動が目についても、実際には光源氏の小型版のような男性である。また薫は、光源氏の息子なのに大胆不敵で豪勇な面は感じられず、性格もやや鬱屈した根暗な方で全く似ていないくらいのキャラクターだ。
そして第三部の主役はどちらかといえば薫である。なぜなら彼の人生の行程が物語の重要な流れになってくるからだ。そしてこの薫が自分の出生の謎を解明していくミステリー仕立ての構成も絡み、この第三部によって「源氏物語」は新たな飛躍を見せる。ただ第一部と第二部の内容を知っている読者にとって、謎は謎ではなく承知の事実であった。それでもほぼ公然の秘密の謎が解き明かされるプロセスにおいて、彼は宇治の山荘で八の宮と出会い、その愛娘である大君と中君の姉妹とも出会う。それから都とは違う時間の推移の中で、薫は大君と相思相愛の仲へと進むのだが、この展開が従来の「源氏物語」の世界にはなかった様相を帯びてくる。
まずこの心を通い合わせているはずの二人は、都の貴族たちが恋愛劇で繰り広げる丁々発止の駆け引きとは殆ど無縁である。そして中々恋愛が上手く進展しないのは、お互いが相手のことを思い遣り、また心配するあまり、そんな状態になってしまっているのだ。薫の場合、それは八の宮との約束がネックになっており、大君の場合は、彼女の父親の八の宮だけではなく母親の北の方との、つまり両親との約束がネックになっている。そして薫も大君もこの約束を尊重することが、相手の幸福になると思い込んでいるようだ。ところがその約束が成就されると、薫と大君は決して結ばれることはない。
これはどういうことかというと、大君の母親は既に病死しており、臨終において大君に対し、妹の中君の母親代わりとなることを望み、父親もそんな愛妻の意向を優先している事情がある。つまり長女の大君の未来において、この両親は結婚を視野に入れていなかった。そしてそれは平安時代の貴族社会では、家族構成や家格も考慮すると往々にして有り得るケースだ。特に都から宇治へ流れた没落貴族ではあっても、八の宮を長とする一族は、親族だけではなく従者のような下働きをする民衆も雇用しなければ、日々の暮らしが成り立たない。また落ちぶれた八の宮に、それでも仕えているような人々は薄情ではなく、そんな彼らの生活を支える必要性も生じている。この為、一族の核が老いた父親と娘二人という状態は心細く、大君が母親の代役を務める形に落ち着くのは、その意味でも常道なのだ。しかも大君本人さえもが、この両親の考えを素直に受け入れていた。
そんな折に、八の宮の人物像を知って共感した薫が文通を願い、接触を図ってきた出来事は、突如として救世主が現れたような巡り合わせであった。要は客観的に財力となる後ろ盾が、都合良く登場してくれたようなものである。しかし八の宮の親子にはそんな企みは無い。なぜなら薫の方から経済的な援助を申し出てきたのだから。この事実から推理できるのは、薫の視点からすると八の宮たちの日常生活が質素倹約を旨とした暮らしだったのは間違いない。実際に物語を読み進めていくと、そうした描写は随所に感じられる。つまりこの宇治の土地には、妻に先立たれても後妻を迎えず、また娘たちの養育の為に仏教に傾倒しながらも出家を躊躇うような八の宮の優しい人間性を象徴する、世俗的価値観に背を向けた雰囲気が色濃く漂っている。
都の貴族社会に生きていながら、日々疲弊しがちな薫にとって、そんな宇治の環境は静的で寂し気ではあっても、むしろ魅力的に思えたはずだ。実際に八の宮に会い、宇治へ通うことで、出家した僧侶ではなくとも、彼を仏道の師と仰ぎ尊敬の念を抱くまでになる。さらに老いた八の宮から娘二人の後見人を依頼された時、薫は喜んでその役を引き受けてもいる。そしてそんな薫の姿に、大君もこの上ない好感を抱くのだが、彼女自身が薫よりも少し年上な為、薫より年下で妹の中君がその妻になる未来を牧歌的に思い描く。また大君と薫の心の動きも、八の宮が死を迎えるまでは、恋愛感情が湧き上がっているようには余り見えない。
ただし薫が八の宮の館で初めてこの姉妹を視界に入れるシーン、そこでは月明かりの下、大君と中君が音楽に造詣の深い父親の影響で楽器を演奏しているのだが、元々大君は琵琶を得意とし、中君は琴を得意とするのに、どういうわけか姉妹が演奏する楽器は逆になっていた。そして薫は琵琶の音色よりも琴の音色を好む為、この最初の出会いで大君と薫にはそんな偶然も作用し、瞬間的に恋心が芽生えた可能性も感じられる。少なくとも作者の紫式部は、姉妹の楽器を取り違えることで、読者にそう匂わせた節はあったのではないか。
しかし同時にこのシーンが印象的なのは、そこに音楽への純粋な愛が感じられることだ。これは第一部のラストにおいて、帝に準ずる位を得た光源氏が、冷泉帝と朱雀院を自邸に招待して豪華な宴を催す際に披露される宮廷音楽とは全く違う。むしろ宇治で暮らす八の宮の一族にとって、音楽は慰めや救いに近い。誰にでも手の届く慈悲深い存在であり、権威や権力を礼賛する儀式的な一要素ではなく、奏でる者にとっても、聴く者にとっても心を豊かにするものだ。
そしてこの第三部が第一部と第二部に比べてかなり異質なのは、紫式部の分身のような人が物語に現れたことではないか。そしてその人とはきっと大君だと思われる。紫式部という作家は、明らかに恋愛を物語の主題に据えていながら、恋愛に対して懐疑的な視点も多く、不毛性や拒絶感も有していた。尤もそれは人を好きになることを否定しているわけではない。しかしながら傲慢でエゴイスティックな都の貴族たちが、恋愛に血道をあげて手段を選ばずに、愚かしくその優劣を競ったり、人を傷つけることで解放感を得たりする様には辟易していたようだ。
大君と薫の恋愛感情が明らかになるのは八の宮の死後の話だが、ここで薫が痛恨のミスを犯す。それは大君へ求婚し、度々断られた末に、友人の匂宮を宇治へ呼んで中君を紹介して縁を取り持とうとした行動だ。大君は薫と両想いでも恋愛が成就することは望んでおらず、あくまでも妹の中君を信頼できる薫に託したかった。ところが薫は中君が自分以外の男と婚姻関係になれば、大君が求婚に応じると一計を案じてしまうのだ。案の定、恋愛巧者の匂宮は早々と中君を側室に娶るのだが、程なくして親から推薦された中君とは別の、都の貴族の娘を正室に迎えている。これによって、匂宮の足は宇治から遠のきだす。この現実に絶望した大君は心労から病み衰えていく。
ただこの大君の絶望感は、自己完結的でもあった。なぜなら中君本人は匂宮への愛情を捨てておらず、疎遠な側室という立場になっても悲観してはいないからだ。この中君の匂宮に靡く心は、大君にとって想定外の衝撃であった。恐らく大君の絶望はやはり薫を愛していたがゆえに生まれた感情であろう。特に父親を敬愛していた彼女が、その父親と意気投合し志向性も似ている薫に対して、家族的な親近感を持ち続けていたことからもそれは明らかだ。つまり彼女の意志や思想信条には揺らぎがない。その点、薫の誤った行動には、都の貴族らしい駆け引きも感じられ、大君よりも心の軸が確りしておらず、それが悲劇を生む原因にもなってしまった。既に八の宮が鬼籍に入った今、薫はこの姉妹の保護者であり、彼は望んで大君の看病をすることになる。
薫が重病の大君を支える光景は、究極の愛の姿なのかもしれない。二人は夫婦になっていないが、薫の献身的な看病を受ける大君という構図は、もはや聖像のように夫婦同然である。そして死が訪れることを悟った大君は、心残りだからと薫への真意、慕っていた気持ち、愛を打ち明けるのだ。大君が薫に惹かれたのは、都で名も財も手に入れている若い上流貴族でありながら、上昇志向に背を向け仏法に導かれようとして、八の宮の説く仏の教えを傾聴していたからだ。そして何より薫は都の権力と癒着している高僧たちを信頼していない。大君の父親の八の宮は信じられても。このシーンで二人の愛の形は揺るぎないほど強いものになっている。大君の命は燃え尽き、臨終の時を迎えようとしているのだが、一瞬が永遠に感じられるほどだ。
また薫に看取られた大君の最期は、紫式部によって美しく描写されている。眠っているような死顔は生前と何一つ変わらぬほどであり、薫は夢の中にいるようで、大君の死が信じられない。読者はここでこの悲劇に至るまでの、薫と大君の会話や情景を、思い出したくなるのではないか。月明かりで大君が琴を奏しているところや、男性不信気味の大君が薫の求婚を断り続けていた頃に、二人が御簾で隔てられていても、薫が襖をほんの少し開けて同じ朝焼けの空を一緒に見ていたところなどである。また大君はこのシーンで薫へ、御簾で隔てられているから、心の隔たりがなく語り合えると、そう声をかけている。
大君の死後、暫しの時を経て第三部の物語世界は大きく変転する。最愛の女性を亡くし未だ傷心状態の薫の前に、その大君の面影と瓜二つの女性が現れたからだ。彼女は浮舟という「源氏物語」の最終のヒロインだ。ここからの展開は、宇治を舞台としながらも第一部に似た雰囲気が漂いだし、それはこの浮舟という女性を巡って薫と匂宮の二人が悲喜交々の恋愛劇を繰り広げるからである。ただこの時期の薫は投げやりではあっても帝の娘を娶り、匂宮のように既婚の身になっており、そんな二人にとって浮舟は愛人のような対象でしかない。先に動いたのは、彼女の存在を知った薫の方だが、大君にまるで生き写しの浮舟に、叶わぬ恋を昇華させるかのように、彼女を囲ってのめり込んでいく。ところが匂宮も浮舟の美貌に偶然にも心を奪われ、彼もまた浮舟と密通を重ねる。そして二人の男性の間で板挟みとなった浮舟は苦悩の果てに宇治川へ身を投げようと自殺を試みるものの、僧侶たちに命を助けられた彼女は出家を望んで仏門に入ってしまう。
この浮舟という女性は「源氏物語」のラストを飾るヒロインだが、光源氏が生きた時代から遡って全編に渡り登場した全てのヒロインの中では最も身分の低い女性である。また大君とそっくりな姿形をしていても、音楽を奏する趣味もなく、さほど教養も身に付けてはいない。つまり彼女はその立ち位置が民衆に近かった。実際、母親は八の宮に仕えていた下級貴族の女性で、八の宮が愛妻を亡くし悲嘆した時期に情が通じてしまい身籠った娘である。この為、大君や中君の腹違いの妹に当たる。そして母親が東国の地方長官である受領の男性の後妻に収まったことから、遥か遠い東国で育てられた。
浮舟のエピソードで最も印象的なのは、出家を決断し、実際に剃髪して出家に臨むシーンであろう。彼女はそこで涙を流すのだが、それは生きながら此岸から彼岸へ渡ること、つまり境界の突破によって未練を断ち切る必要が生じ、これまでの人生で関わってきた人々やその思い出との別れを、痛切に惜しんでいるように見える。また一端は自ら命を絶つ行動までしている為、強い自戒の念さえも感じられる。しかもそれだけではなく、仏門に入った後、拝み祈ることで衆生を救う心の準備にも入っているかのようだ。この浮舟の姿は、作者の紫式部によって、他の女性たちの出家よりも丹念に描かれているのが特徴的だ。またそこには浮舟を通して、光源氏の意志で哀れにも出家を許されなかった紫の上や、薫が浮舟に面影を重ねた大君のような信心深い女性たちの姿も垣間見える。
浮舟が出家して仏門に入ったことは、物語の中の大多数の人々は知らない。それゆえ彼女は入水自殺で死んだことになっていた。葬儀も取り行われ、それを仕切った薫も匂宮も浮舟の死を悲しむが、匂宮はそれを引き摺ることなく前へ進む。一方、薫は大君の死ほどではないにせよ、浮舟の肖像は一周忌が過ぎても心に残り続ける。そして風の噂で浮舟が生きている真実を知ってしまう。それから薫は浮舟へ手紙を出すのだが、浮舟は人違いだと断じる。しかし浮舟は大君ほど意志の強い女性ではない為、心は微妙に揺れ動く。それでも彼岸にいる彼女が、此岸にいる人で最も会いたいのは母親であり、過去に執われている彼女自身の心を阿弥陀仏を念じて鎮める。
稀有壮大な「源氏物語」のラストは、この浮舟の断りの返事に対し、薫が人違いだという話を受け入れつつ、ひよっとしたら浮舟は生きていて、新しい男に囲われているのではないかという邪推のような疑問符を打ったところで終わっている。しかしこの尻切れ蜻蛉のような終わり方の印象は、どこか第二部の終わりと通底している気がしないでもない。第二部は光源氏の死を暗示したところで終わっている。ただその文学的表現は、紫式部にしか到底できない離れ技だ。このラストの帖のタイトルは「雲隠」であり、このタイトル以外は何も書かれておらず、内容は白紙である。当然のこと光源氏がどのように死を迎えたのかは、読者が白紙の無の状態から想像するしかない。しかしそれこそが紫式部の狙いであろう。
第三部のラストの帖のタイトルは「夢の浮橋」である。これは夢の中で想う人の処へ通える道のことだ。つまり薫が夢の中で橋を渡って会える人とは浮舟ではなく、今は亡き大君であろう。そもそも浮舟に関心を抱いたのは、大君の面影を彼女を通して見れるからだ。この第三部のラストも、第二部のラストとは異なる意味で、読者に想像力を働かせることを求めている。それは登場人物たちのその後を想像することだ。恐らく薫もいつかどこかのタイミングで、浮舟のように出家をして仏門に入るのではないか。そして大君の菩提を弔うように思われる。
「源氏物語」に流れている通奏低音は、もののあわれだとよく言われる。紫式部の仏教観は阿弥陀仏への傾倒が有名だが、「源氏物語」の登場人物たちは多分、作者の紫式部が身を置いていた現実の貴族社会の人々よりも、幾分か心が優しいのではないか。そこには現実へ向けて物語が投じた批判さえ伝わってくる。打てば響くように。あわれと感じる心には弱者への同情が存在する。しかしそこに安住することなく、そこからさらに飛躍する心の働きも描かれているようだ。それはきっと祈りであろう。平安時代も天災や人災の被災者や死者は多かった。不幸な死に至った人々が、阿弥陀仏の本願により浄土で成仏できるよう祈る。またそのような恐ろしい天災や人災に、この世の人々が遭わないよう祈る。この祈りという行為が、「源氏物語」の世界で相応しいのは僧侶や、そして男性よりも、紫の上や大君や浮舟のような信仰心の篤い女性であろう。
以前、このブログで「源氏物語」についてほんの少しばかり書いた。その時に述べた通り、私個人は大学時代、ゼミの先輩に薦められてこの長編小説と出会っている。しかも教えてくれたその人は米国人であった。彼はアーサー•ウェイリーが翻訳し1930年代に発表した英語版を読んでいたく感動し、それが日本への留学の決め手にもなったようだ。そしてウェイリーは英国の著名な東洋学者で、中国の「西遊記」の翻訳も手掛けており、その評価は格段に高い。日本文学の研究者の大家であるドナルド•キーンも、このウェイリーが翻訳した「源氏物語」を仮に読まなければ、日本に対する探究心も大して湧かず、日本への帰化もなかったかもしれない。そして何より翻訳したウェイリー自身がこの「源氏物語」の世界に魅了されており、それは原作者と翻訳者が一体化していると、英語圏で評されたことからも理解できる。
つまり「源氏物語」は、それだけ時空を超えてもなお読者の魂を揺さぶり続ける魅力に溢れているわけだ。またこの長編小説は全五十四帖からなる三部構成で、読者の好みが三つに分れるところも非常に興味深い。私の場合、第一部と第二部の主人公である光源氏の死後の時代が描かれた第三部に強く惹かれた。しかしだからといって第一部と第二部がつまらなかったわけではない。多分、一般的に最も人気が高いのは第一部であろう。実際、第一部で完結してほしかったという読者の声も多いようだ。
確かに第一部の構成は起承転結も見事な上に、個性豊かな登場人物が多く、豪華絢爛とした恋愛絵巻もあれば、権謀術数が陰陽道まで駆使されて渦巻いたり、予想を超えた波瀾万丈な展開もある。光の名に象徴される輝んばかりにオーラを発する英雄的な主人公が、この世に生を受けてから辿る運命は、時に挫折や苦悩も味わいつつ最終的には大きな成功を勝ち取り、栄華に到達するというサクセスストーリーだ。要は読者が超一級の娯楽作品としても味わえる内容になっている。また紫式部が生きていた平安時代の読者の殆どは皇族や貴族といった支配階級であったが、恐らく時の権力者たちからの要望や、要望を超えた圧力も受けながら執筆していたと思われる。この為、作者から読者への親切なサービス精神さえ感じられるほどだ。
ただ私個人にとって、第一部で最も印象に残ったシーンは天変地異の落雷であり、未だに「源氏物語」の落雷の表現を凌駕する文学作品に、私は遭遇していない。つまり紫式部は人間の心理描写に卓越しているだけではなく、人間以外の自然界もリアルに描き出せる作家であった。事実「源氏物語」が世界中で翻訳されている現代、日本へ赴任することになったビジネスマンの中には、「源氏物語」を読破してから渡日することを、会社から推奨されるケースさえあるらしい。斯様に紫式部は日本列島の気候風土や、それを感知する人間の五感、要は視覚はおろか聴覚や臭覚や触覚や味覚さえも素晴らしい言葉で表現できていた。これは物語を読むことでまざまざと体験できる。
しかしながら紫式部が創作し、世に送り出した小説作品はこの「源氏物語」一つだけである。それでも優れた歌を詠み、日記を書き残した偉大な文筆家であったことは間違いない。そして彼女の傑出した才能を持ってすれば、複数の物語を創出することも、当然のこと可能だったはずだが、この「源氏物語」のみに絞ったのは、彼女なりの理由があるようにも思える。恐らくそれは当時の人間社会に対して、物語の世界から警鐘を鳴らしたかったのではないか。
史実として伝わってくる紫式部の性格は控えめで内気、しかもネガティブ思考である。これは確かに物語を読むと何となく伝わってくることだ。女官として宮仕えをしていた彼女は、男性優位のシステムの中で、否が応でも男尊女卑や上下尊卑の屈辱を受けたであろう。そしてそうした局面において、男に利用されても派手に恋愛を楽しみ、憂さ晴らしができるような楽天性や社交性も有していなかった。つまり日常生活において相当なストレスを溜め込んでいたはずだ。また大変な読書家でもあった為、「日本書紀」や文学作品の「竹取物語」それに「宇津保物語」などの国産の書物は元より、「史記」のような中国の歴史書や仏典まで漢文で読んでいたらしい。この為、「源氏物語」の世界が、類い稀な広大無辺さを有しているのは、紫式部に固有の優れた感性と、その内向宇宙が膨大な学識を礎にしているからであろう。
このように「源氏物語」は平安時代の律令体制から検閲や統制を受けて完成された文学作品ではあっても、そのテーマを通り一遍で解釈できるほど生半可なものではなかった。例えば第一部のサクセスストーリーにしても、女性読者が憧れの対象とする主人公の光源氏は、本当のところ眩し過ぎる真昼の太陽のように、実体が定かではない。むしろその強力な光に照射されて、肖像が浮かび上がる女性たちこそが本当の主役であろう。なぜなら彼女たちの懊悩や嫉妬や絶望による苦しみの方が、光源氏の心の動きよりも真に迫っているからだ。そして宮中の女性たちを含めて、社会的に立場の弱い人々が救済される道を紫式部は真面目に模索し提示している。
それはとどのつまり釈迦の教え、つまり仏教に傾倒した世界観であった。しかも古来より日本列島に伝来して以降、権威や権力に散々利用されてきた鎮護国家のスローガンに代表される儒教で解釈された思想的インフラではなく、現世利益とは無縁の人間一人一人の心を癒す救済力としての仏教である。これは物語を読んでいくと明白になってくるのだが、光源氏を含めた恋愛至上主義者のような男たちに振り回されて疲弊した女たちの多くは、出家して仏門に入ってしまう。そのように生きたまま此岸から彼岸へ渡ることで彼女たちは、光源氏が佇立する領域を超越していくのだ。
また第二部においては、光源氏が築いた繁栄の雲行きは怪しくなり、仏教的な因果応報に遭うようにして斜陽の道を辿りだす。そして富者であり強者の光源氏にも、やがて生者必衰の死が訪れる。第一部が陽の物語とするなら、第二部は正反対に陰の物語であろう。特に光源氏の最愛の女性で側室の紫の上の境遇や、聡明な彼女の心が明から暗へと変化する過程と、その悲劇的な有様は連動している。こうした意外なストーリー展開は、当時の紫式部のパトロンで権力の絶頂期にいた藤原道長も知っていたはずだが、作者の意向を尊重できたのは、我が世の春を謳歌した流石の道長も、老いと病いと死を身近に感じられる年代になっていたからだと思われる。つまり死後の世界、来世への不安と恐怖から、彼もまた出家して仏教思想に傾倒しはじめていた。尤もそれは摂関家の覇者として君臨した権力者らしく謙虚な信仰心とは程遠い、極楽浄土の風景を豪勢に具現化したような法成寺を建立し、来世の平穏と安堵の確約を神仏へ祈願するという身勝手な意志から生じている。
前置きが随分と長くなってしまったが、ここからは今回のタイトルである「源氏物語」の大君について述べさせていただく。この女性は第三部に登場してくるのだが、非常に個性的で珍しいタイプの女性である。ただしその強い個性は美しい容貌や雰囲気といった外見ではなく、内面に確りと根付いている。まずその他多くの女性たちと決定的に違うのは、この大君が恋愛体質ではなく、かなり内省的な性格であることだ。そしてそれは彼女が京の都に住む貴族ではなく、都の中心から離れた宇治で暮らす地方の貴族であることもその一因なのかもしれないが、八の宮という父親の影響が大きい。
八の宮は光源氏の異母弟で、皇子であった若かりし頃に彼自身の意志とは無関係に、皇位継承の権力抗争に巻き込まれてしまい、結果的には敗者の側に追いやられる。そしてこの皇位継承を巡る争いの勝者は、光源氏が後見人の冷泉帝であった。これで運も尽き、光源氏の栄耀栄華の時代には、火災で都の邸宅を失い財産も減らして、宇治の山荘に隠棲するという没落貴族の道を歩む。この忘れ去られたような人生ゆえに、八の宮は第一部と第二部には姿を見せないどころか、生きていたことすら書かれていないのだ。しかし第三部では彼こそが重要なキーマンである。
第三部は光源氏の死後の世界であり、彼の息子の薫と孫の匂宮が主要人物だが、この二人は同世代の若者ではあっても、全くタイプが違う。二人共、立身出世の階段を上っていく都の上流貴族で、かつて彗星の如く世に現れ時代の寵児となった光源氏の子孫でありながら、そこまでの存在感は無い。匂宮は光源氏と似た性格や言動が目についても、実際には光源氏の小型版のような男性である。また薫は、光源氏の息子なのに大胆不敵で豪勇な面は感じられず、性格もやや鬱屈した根暗な方で全く似ていないくらいのキャラクターだ。
そして第三部の主役はどちらかといえば薫である。なぜなら彼の人生の行程が物語の重要な流れになってくるからだ。そしてこの薫が自分の出生の謎を解明していくミステリー仕立ての構成も絡み、この第三部によって「源氏物語」は新たな飛躍を見せる。ただ第一部と第二部の内容を知っている読者にとって、謎は謎ではなく承知の事実であった。それでもほぼ公然の秘密の謎が解き明かされるプロセスにおいて、彼は宇治の山荘で八の宮と出会い、その愛娘である大君と中君の姉妹とも出会う。それから都とは違う時間の推移の中で、薫は大君と相思相愛の仲へと進むのだが、この展開が従来の「源氏物語」の世界にはなかった様相を帯びてくる。
まずこの心を通い合わせているはずの二人は、都の貴族たちが恋愛劇で繰り広げる丁々発止の駆け引きとは殆ど無縁である。そして中々恋愛が上手く進展しないのは、お互いが相手のことを思い遣り、また心配するあまり、そんな状態になってしまっているのだ。薫の場合、それは八の宮との約束がネックになっており、大君の場合は、彼女の父親の八の宮だけではなく母親の北の方との、つまり両親との約束がネックになっている。そして薫も大君もこの約束を尊重することが、相手の幸福になると思い込んでいるようだ。ところがその約束が成就されると、薫と大君は決して結ばれることはない。
これはどういうことかというと、大君の母親は既に病死しており、臨終において大君に対し、妹の中君の母親代わりとなることを望み、父親もそんな愛妻の意向を優先している事情がある。つまり長女の大君の未来において、この両親は結婚を視野に入れていなかった。そしてそれは平安時代の貴族社会では、家族構成や家格も考慮すると往々にして有り得るケースだ。特に都から宇治へ流れた没落貴族ではあっても、八の宮を長とする一族は、親族だけではなく従者のような下働きをする民衆も雇用しなければ、日々の暮らしが成り立たない。また落ちぶれた八の宮に、それでも仕えているような人々は薄情ではなく、そんな彼らの生活を支える必要性も生じている。この為、一族の核が老いた父親と娘二人という状態は心細く、大君が母親の代役を務める形に落ち着くのは、その意味でも常道なのだ。しかも大君本人さえもが、この両親の考えを素直に受け入れていた。
そんな折に、八の宮の人物像を知って共感した薫が文通を願い、接触を図ってきた出来事は、突如として救世主が現れたような巡り合わせであった。要は客観的に財力となる後ろ盾が、都合良く登場してくれたようなものである。しかし八の宮の親子にはそんな企みは無い。なぜなら薫の方から経済的な援助を申し出てきたのだから。この事実から推理できるのは、薫の視点からすると八の宮たちの日常生活が質素倹約を旨とした暮らしだったのは間違いない。実際に物語を読み進めていくと、そうした描写は随所に感じられる。つまりこの宇治の土地には、妻に先立たれても後妻を迎えず、また娘たちの養育の為に仏教に傾倒しながらも出家を躊躇うような八の宮の優しい人間性を象徴する、世俗的価値観に背を向けた雰囲気が色濃く漂っている。
都の貴族社会に生きていながら、日々疲弊しがちな薫にとって、そんな宇治の環境は静的で寂し気ではあっても、むしろ魅力的に思えたはずだ。実際に八の宮に会い、宇治へ通うことで、出家した僧侶ではなくとも、彼を仏道の師と仰ぎ尊敬の念を抱くまでになる。さらに老いた八の宮から娘二人の後見人を依頼された時、薫は喜んでその役を引き受けてもいる。そしてそんな薫の姿に、大君もこの上ない好感を抱くのだが、彼女自身が薫よりも少し年上な為、薫より年下で妹の中君がその妻になる未来を牧歌的に思い描く。また大君と薫の心の動きも、八の宮が死を迎えるまでは、恋愛感情が湧き上がっているようには余り見えない。
ただし薫が八の宮の館で初めてこの姉妹を視界に入れるシーン、そこでは月明かりの下、大君と中君が音楽に造詣の深い父親の影響で楽器を演奏しているのだが、元々大君は琵琶を得意とし、中君は琴を得意とするのに、どういうわけか姉妹が演奏する楽器は逆になっていた。そして薫は琵琶の音色よりも琴の音色を好む為、この最初の出会いで大君と薫にはそんな偶然も作用し、瞬間的に恋心が芽生えた可能性も感じられる。少なくとも作者の紫式部は、姉妹の楽器を取り違えることで、読者にそう匂わせた節はあったのではないか。
しかし同時にこのシーンが印象的なのは、そこに音楽への純粋な愛が感じられることだ。これは第一部のラストにおいて、帝に準ずる位を得た光源氏が、冷泉帝と朱雀院を自邸に招待して豪華な宴を催す際に披露される宮廷音楽とは全く違う。むしろ宇治で暮らす八の宮の一族にとって、音楽は慰めや救いに近い。誰にでも手の届く慈悲深い存在であり、権威や権力を礼賛する儀式的な一要素ではなく、奏でる者にとっても、聴く者にとっても心を豊かにするものだ。
そしてこの第三部が第一部と第二部に比べてかなり異質なのは、紫式部の分身のような人が物語に現れたことではないか。そしてその人とはきっと大君だと思われる。紫式部という作家は、明らかに恋愛を物語の主題に据えていながら、恋愛に対して懐疑的な視点も多く、不毛性や拒絶感も有していた。尤もそれは人を好きになることを否定しているわけではない。しかしながら傲慢でエゴイスティックな都の貴族たちが、恋愛に血道をあげて手段を選ばずに、愚かしくその優劣を競ったり、人を傷つけることで解放感を得たりする様には辟易していたようだ。
大君と薫の恋愛感情が明らかになるのは八の宮の死後の話だが、ここで薫が痛恨のミスを犯す。それは大君へ求婚し、度々断られた末に、友人の匂宮を宇治へ呼んで中君を紹介して縁を取り持とうとした行動だ。大君は薫と両想いでも恋愛が成就することは望んでおらず、あくまでも妹の中君を信頼できる薫に託したかった。ところが薫は中君が自分以外の男と婚姻関係になれば、大君が求婚に応じると一計を案じてしまうのだ。案の定、恋愛巧者の匂宮は早々と中君を側室に娶るのだが、程なくして親から推薦された中君とは別の、都の貴族の娘を正室に迎えている。これによって、匂宮の足は宇治から遠のきだす。この現実に絶望した大君は心労から病み衰えていく。
ただこの大君の絶望感は、自己完結的でもあった。なぜなら中君本人は匂宮への愛情を捨てておらず、疎遠な側室という立場になっても悲観してはいないからだ。この中君の匂宮に靡く心は、大君にとって想定外の衝撃であった。恐らく大君の絶望はやはり薫を愛していたがゆえに生まれた感情であろう。特に父親を敬愛していた彼女が、その父親と意気投合し志向性も似ている薫に対して、家族的な親近感を持ち続けていたことからもそれは明らかだ。つまり彼女の意志や思想信条には揺らぎがない。その点、薫の誤った行動には、都の貴族らしい駆け引きも感じられ、大君よりも心の軸が確りしておらず、それが悲劇を生む原因にもなってしまった。既に八の宮が鬼籍に入った今、薫はこの姉妹の保護者であり、彼は望んで大君の看病をすることになる。
薫が重病の大君を支える光景は、究極の愛の姿なのかもしれない。二人は夫婦になっていないが、薫の献身的な看病を受ける大君という構図は、もはや聖像のように夫婦同然である。そして死が訪れることを悟った大君は、心残りだからと薫への真意、慕っていた気持ち、愛を打ち明けるのだ。大君が薫に惹かれたのは、都で名も財も手に入れている若い上流貴族でありながら、上昇志向に背を向け仏法に導かれようとして、八の宮の説く仏の教えを傾聴していたからだ。そして何より薫は都の権力と癒着している高僧たちを信頼していない。大君の父親の八の宮は信じられても。このシーンで二人の愛の形は揺るぎないほど強いものになっている。大君の命は燃え尽き、臨終の時を迎えようとしているのだが、一瞬が永遠に感じられるほどだ。
また薫に看取られた大君の最期は、紫式部によって美しく描写されている。眠っているような死顔は生前と何一つ変わらぬほどであり、薫は夢の中にいるようで、大君の死が信じられない。読者はここでこの悲劇に至るまでの、薫と大君の会話や情景を、思い出したくなるのではないか。月明かりで大君が琴を奏しているところや、男性不信気味の大君が薫の求婚を断り続けていた頃に、二人が御簾で隔てられていても、薫が襖をほんの少し開けて同じ朝焼けの空を一緒に見ていたところなどである。また大君はこのシーンで薫へ、御簾で隔てられているから、心の隔たりがなく語り合えると、そう声をかけている。
大君の死後、暫しの時を経て第三部の物語世界は大きく変転する。最愛の女性を亡くし未だ傷心状態の薫の前に、その大君の面影と瓜二つの女性が現れたからだ。彼女は浮舟という「源氏物語」の最終のヒロインだ。ここからの展開は、宇治を舞台としながらも第一部に似た雰囲気が漂いだし、それはこの浮舟という女性を巡って薫と匂宮の二人が悲喜交々の恋愛劇を繰り広げるからである。ただこの時期の薫は投げやりではあっても帝の娘を娶り、匂宮のように既婚の身になっており、そんな二人にとって浮舟は愛人のような対象でしかない。先に動いたのは、彼女の存在を知った薫の方だが、大君にまるで生き写しの浮舟に、叶わぬ恋を昇華させるかのように、彼女を囲ってのめり込んでいく。ところが匂宮も浮舟の美貌に偶然にも心を奪われ、彼もまた浮舟と密通を重ねる。そして二人の男性の間で板挟みとなった浮舟は苦悩の果てに宇治川へ身を投げようと自殺を試みるものの、僧侶たちに命を助けられた彼女は出家を望んで仏門に入ってしまう。
この浮舟という女性は「源氏物語」のラストを飾るヒロインだが、光源氏が生きた時代から遡って全編に渡り登場した全てのヒロインの中では最も身分の低い女性である。また大君とそっくりな姿形をしていても、音楽を奏する趣味もなく、さほど教養も身に付けてはいない。つまり彼女はその立ち位置が民衆に近かった。実際、母親は八の宮に仕えていた下級貴族の女性で、八の宮が愛妻を亡くし悲嘆した時期に情が通じてしまい身籠った娘である。この為、大君や中君の腹違いの妹に当たる。そして母親が東国の地方長官である受領の男性の後妻に収まったことから、遥か遠い東国で育てられた。
浮舟のエピソードで最も印象的なのは、出家を決断し、実際に剃髪して出家に臨むシーンであろう。彼女はそこで涙を流すのだが、それは生きながら此岸から彼岸へ渡ること、つまり境界の突破によって未練を断ち切る必要が生じ、これまでの人生で関わってきた人々やその思い出との別れを、痛切に惜しんでいるように見える。また一端は自ら命を絶つ行動までしている為、強い自戒の念さえも感じられる。しかもそれだけではなく、仏門に入った後、拝み祈ることで衆生を救う心の準備にも入っているかのようだ。この浮舟の姿は、作者の紫式部によって、他の女性たちの出家よりも丹念に描かれているのが特徴的だ。またそこには浮舟を通して、光源氏の意志で哀れにも出家を許されなかった紫の上や、薫が浮舟に面影を重ねた大君のような信心深い女性たちの姿も垣間見える。
浮舟が出家して仏門に入ったことは、物語の中の大多数の人々は知らない。それゆえ彼女は入水自殺で死んだことになっていた。葬儀も取り行われ、それを仕切った薫も匂宮も浮舟の死を悲しむが、匂宮はそれを引き摺ることなく前へ進む。一方、薫は大君の死ほどではないにせよ、浮舟の肖像は一周忌が過ぎても心に残り続ける。そして風の噂で浮舟が生きている真実を知ってしまう。それから薫は浮舟へ手紙を出すのだが、浮舟は人違いだと断じる。しかし浮舟は大君ほど意志の強い女性ではない為、心は微妙に揺れ動く。それでも彼岸にいる彼女が、此岸にいる人で最も会いたいのは母親であり、過去に執われている彼女自身の心を阿弥陀仏を念じて鎮める。
稀有壮大な「源氏物語」のラストは、この浮舟の断りの返事に対し、薫が人違いだという話を受け入れつつ、ひよっとしたら浮舟は生きていて、新しい男に囲われているのではないかという邪推のような疑問符を打ったところで終わっている。しかしこの尻切れ蜻蛉のような終わり方の印象は、どこか第二部の終わりと通底している気がしないでもない。第二部は光源氏の死を暗示したところで終わっている。ただその文学的表現は、紫式部にしか到底できない離れ技だ。このラストの帖のタイトルは「雲隠」であり、このタイトル以外は何も書かれておらず、内容は白紙である。当然のこと光源氏がどのように死を迎えたのかは、読者が白紙の無の状態から想像するしかない。しかしそれこそが紫式部の狙いであろう。
第三部のラストの帖のタイトルは「夢の浮橋」である。これは夢の中で想う人の処へ通える道のことだ。つまり薫が夢の中で橋を渡って会える人とは浮舟ではなく、今は亡き大君であろう。そもそも浮舟に関心を抱いたのは、大君の面影を彼女を通して見れるからだ。この第三部のラストも、第二部のラストとは異なる意味で、読者に想像力を働かせることを求めている。それは登場人物たちのその後を想像することだ。恐らく薫もいつかどこかのタイミングで、浮舟のように出家をして仏門に入るのではないか。そして大君の菩提を弔うように思われる。
「源氏物語」に流れている通奏低音は、もののあわれだとよく言われる。紫式部の仏教観は阿弥陀仏への傾倒が有名だが、「源氏物語」の登場人物たちは多分、作者の紫式部が身を置いていた現実の貴族社会の人々よりも、幾分か心が優しいのではないか。そこには現実へ向けて物語が投じた批判さえ伝わってくる。打てば響くように。あわれと感じる心には弱者への同情が存在する。しかしそこに安住することなく、そこからさらに飛躍する心の働きも描かれているようだ。それはきっと祈りであろう。平安時代も天災や人災の被災者や死者は多かった。不幸な死に至った人々が、阿弥陀仏の本願により浄土で成仏できるよう祈る。またそのような恐ろしい天災や人災に、この世の人々が遭わないよう祈る。この祈りという行為が、「源氏物語」の世界で相応しいのは僧侶や、そして男性よりも、紫の上や大君や浮舟のような信仰心の篤い女性であろう。