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雪舟伝説 (後)

2024-07-31 22:02:58 | 日記
 前回に引き続き今回も、今年の4月から5月にかけて京都国立博物館で開催された「雪舟伝説」についての話である。以前にこのブログで長谷川等伯に関し、それも彼の最高傑作「松林図屏風」を取り上げた。あの絵で等伯はついに雪舟の域に達した。否、鑑賞者によっては雪舟を超えたと感じる人も多いのではないか。勿論、等伯が尊敬し多大な影響を受けた雪舟の絵が存在しなければ、等伯の絵は生まれなかった。しかし「松林図屏風」は間違いなく等伯が目指した最高峰の到達点であろう。そしてこの展覧会でも、流石はそんな長谷川等伯だと納得させられる絵と対峙できた。それは「竹林七賢図屏風」だ。
 
「竹林七賢図屏風」は等伯が1607年に完成させた絵である。そして彼が3年後の1610年に江戸で客死していることを考えると、この絵は非常に意味深な内容を含む。まず主題は清談という古代中国の3世紀中頃に、儒教倫理を嫌い老荘思想に感化された貴族が、政治の表舞台から去って自然の中で自由気儘に議論をする姿を描いている。この絵で竹林の中に佇み話を交わす7人の貴族の様子を拝見していると、雪舟が描いた「慧可断碑図」からの影響を如実に感じざるを得ない。有難いことに、この展覧会では「慧可断臂図」も展示されていた為、雪舟から等伯へ絵師の魂が連鎖されたような感慨を得た人もいたのではないか。

「慧可断碑図」に登場する人間は達磨と慧可の2人だが、この絵の特筆すべき点は、雪舟が6世紀の中国大陸で起きた達磨と慧可のエピソードの真実を露わにしたことである。それは達磨に弟子入りを懇願する慧可が自らの腕を切断して捧げた行為が、虚偽であった事実だ。ここで雪舟は弟子が身を切り、血を流してまで師に尽くす忠義を批判的に表現している。暴力を否定する釈迦の声を、絵の世界から届けるようにして。そして慧可が腕を失ったのは、盗賊に襲われる等の暴力のトラブルかもしれないし、刑罰による切断かもしれないが、明白なのは達磨と出会うずっと以前から彼は片腕の身であったことだ。この「慧可断碑図」における儒教倫理に対する拒絶は、絵師が描いた時代背景こそ違え「竹林七賢図屏風」にも受け継がれている。
 
 恐らく「竹林七賢図屏風」の制作を決めた段階の長谷川等伯には、雪舟の「慧可断碑図」の概要やその解釈がかなり煮詰まっていたように思う。「慧可断碑図」が完成したのは1496年の室町時代後期で、京の都で勃発した応仁の乱が終息してから20年近い年月が経過しているが、畿内や関東のように室町時代初期から荒れていた地域以外にも戦禍が飛び火しだした頃である。要は戦国乱世の幕開けのような不穏な空気を、既に古希を過ぎた雪舟は絵筆を動かしながら察知していたはずだ。

 そしてその雪舟が鬼籍に入って丁度100年のタイミングで等伯の「竹林七賢図屏風」が完成する。この時、等伯は還暦を越えていたが時代は大きく揺れていた。まず1600年に関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が1603年に征夷大将軍に就くと江戸幕府を創立した。この為、大坂城で太閤の遺児秀頼を擁する豊臣家はまだ居座っているものの、これで実質上は徳川の世に入ったようなものである。この時勢において、等伯は自ら描いた絵によって時の権力者に向けて何かを伝えたくなったのではないか。それこそ雪舟のように。この「竹林七賢図屏風」の群像に目を光らせると、登場する7人の賢人のうち、3人は背中を向けてやや横顔に近い状態になっており顔の表情が判然としないが、他の4人は真正面ではなくともほぼ正面に近く、その容貌を確りと把握できる。そして「慧可断碑図」の達磨のように身体を太い輪郭線で描かれたこの4人は同じような丸顔で髭を蓄え、興味深いことにあの徳川家康に似ているのだ。
 
「竹林七賢図屏風」の主題、つまり清談から読み解くなら、長谷川等伯は江戸幕府をコントロールする徳川家康に対し、儒教の社会通念で貫かれた圧政に向かうべきではないと訴えている。絵の中の人々は、彼らが身を置いた政権の中枢から離れ、儒教ではなく仏教と親和性のある老荘思想の観点において正しい道を探っており、恐らく家康にもその一考を期待しているのだ。1605年に家康は将軍職を嫡男の秀忠に譲り、以後は大御所として駿府で隠居した身に落ち着く。しかしそれは表向きの話で、実質的に幕政を頂点で取り仕切っていたのは家康その人であった。この辺りの事情も、清談を主題に絵を制作した理由かと思われる。

 また江戸幕府の創建から数年が経過し、その間に法整備も緻密に具現化されていく段階で、等伯はネガティブに幕府からの圧迫を感じていたのかもしれない。特に京で暮らす等伯にとって、大坂の豊臣氏が遠からず幕府に反旗を翻し、再び戦火が巻き起こる不安も感じていたようだ。等伯の絵師としての人脈で、顧客の超大物は太閤の豊臣秀吉であったが、秀吉の御用絵師にはなれなかった。また等伯と家康に交流があった史実も殆ど聞こえてこないが、恐らく「松林図屏風」と「竹林七賢図屏風」を徳川家康が鑑賞していた可能性は高い。そして懇意にしていた千利休や古田織部ほどではないにせよ、多少なりとも面識があったのではないか。
 
 そして長谷川等伯が後継者の次男宗宅を伴って、人生の終焉を悟った時期に江戸へ向かったのは、大御所の徳川家康から招かれて面会する為であった。この時、等伯の長谷川派が江戸幕府の御用絵師になるよう推挙された可能性はある。何より駿府で隠居している家康が幕府の本拠地の江戸に出向いた機会に呼び出されたのだから、そう考えるのが自然であろう。ただし等伯は江戸に着いて2日後に病に倒れて死ぬ。この為、等伯と家康が何を話したのか、またそもそも会うことさえ叶わなかったのか、事の次第は結局、謎のままだ。しかし豊臣秀吉よりも徳川家康の方が、等伯の絵を高く評価していたのではないか。
 
 長谷川等伯の「竹林七賢図屏風」は、雪舟の「慧可断碑図」から伝わってくる反骨精神と見事に共振している。絵に描かれた達磨と慧可や七賢人は権威や権力に対し背を向けた人々であり、その意味でこの2つの作品は非常に主張が強い。ところがこれから紹介する雲谷等顔は、長谷川等伯とはまた違う独自の切り口で雪舟を止揚し、その上で完成度の高い絵を残している。等伯も等顔も雪舟を目標としながらも、等伯の絵がその最高峰の頂を越える気概さえ感じさせるのとは逆に、等顔の絵には最高峰の頂に迫れても、そこを踏破する偉業をあえて放棄したような抑制や達観が感じられる。

 等顔は1547年に九州の備前国に生まれた。一方の等伯は1539年に北陸の能登国で生まれており、ほぼ同世代だが等伯が8歳ほど年長である。また等伯が20代から仏画や肖像画を描く絵師の仕事をしていたのとは対照的に、等顔が絵の道に入るのは30代になってからで、契機は1584年に父の原直家が戦死して家門が絶えたことだ。これを転換点として等顔は武士から絵師へと切り替わる。以後、京の狩野派に入門し、三代目の狩野松栄や四代目の狩野永徳に師事しているが、この展覧会で展示された等顔の「山水図襖」は狩野派よりも心眼の域において、遥かに雪舟の絵に近い。

 等顔は絵師としての基礎を狩野派に学んだが、やがてかつての雪舟が歩んだ道を辿るようにして京を離れている。そして周防国を治める毛利家に身を寄せた。この行動もまた雪舟を踏襲しているとしか思えない。雪舟が京から下向した先は大内家であったが、雪舟がこの世を去った後に大内家は陶晴賢の謀反で崩壊する。そして周防国も含めたその広大な領域を、陶晴賢や大内家の残存勢力を滅して治めたのは、毛利元就が率いた毛利家だ。
 
 雲谷等顔の雲谷という姓は、晩年の雪舟が周防国でアトリエにしていた雲谷庵から拝借したもので、等顔の名も雪舟等揚の等の一字から拝借している。しかも雲谷等顔のフルネームは法名であり、元々は原直治という武士の名を1593年に出家して彼は捨てた。ここから雲谷等顔は毛利元就の孫で当主の毛利輝元から雲谷庵を託され、幸運なことにあの「山水長巻」も授けられている。「山水長巻」は毛利家の家宝でもあり、それゆえ等顔と輝元の信頼関係には並々ならぬものがあったようだ。

 等顔が毛利家の前に現れて以降、輝元の後半生は随分と波瀾万丈な展開になった。豊臣政権では徳川家康や前田利家らと共に五大老を任され、太閤の秀吉を支えながら権勢を誇示していたが、秀吉の死に伴い勃発した関ヶ原の戦いで、五奉行の石田三成らにより西軍の総大将に祭り上げられてしまう。ところがたった1日で東軍勝利という決着がついたことから、敗北の責務を負い自業自得の辛酸を舐めている。かつて織田信長と敵対していた頃には、祖父が築いた最大版図を凌駕した局面さえあったはずだが、勝者の徳川家康に120万石から一気に30万石へと減封されてしまうのだ。

 多分、雪舟が大内政弘に献上した曰く付きの「山水長巻」を、毛利家の重要人物たちは悉く鑑賞していたはずである。あの毛利元就は言うに及ばず、その3人の息子の毛利隆元と吉川元春と小早川隆景、それに孫の毛利輝元に、この絵は家宝である以上、丹念に拝されていた。そして毛利輝元は祖父と父の死後、吉川元春と小早川家隆景という有能で優れた叔父2人に支えられ、1578年に織田信長の勢力圏にあった播磨国の上月城を落城させた時点で、偉大な祖父が達成した最大版図土の拡大に成功する。ただこれ以降、織田軍との一進一退の攻防の末に、本能寺の変で信長が憤死してからは、後継者を自称する秀吉に翻弄され、いつの間にか関白に就任し天下人になったその秀吉に臣従するはめになった。

「山水長巻」はこの展覧会でも展示されているが、毛利輝元と雲谷東顔はこの絵と向き合った時、似たような感慨を得ていたのかもしれない。滅亡した大内家や、斜陽の毛利家を思い、栄枯盛衰という世の儚さを心に刻むようにして。特に輝元は、祖父の元就の遺訓「われ、天下を競望せず」という言葉を聞いていたのではないか。等顔は輝元からの要請で「山水長巻」を模写しているが、恐らくそれは関ヶ原の敗戦後、卦辞として輝元が出家をして以降のことだと思われる。この任に当たるよう主君に背中を押された時、等顔は迷うことなく得心したであろう。

 そして雲谷等顔の画業はある意味、雪舟の「山水長巻」という唯一無二の遺産を手元に置き、その貴重な原石の魅力を粉骨砕身し抽出し続けたことに尽きる。実際、等顔が描いた全ての絵には、何処かしら何かしら「山水長巻」の空気や匂いが感じられるからだ。この展覧会に展示された等顔の絵は「山水図襖」のみだが、その濃淡や陰影、それに画面構成には雪舟の憑依さえ覚える。無論、絵師は別人であり、線描に関してなら等顔の線は雪舟よりも繊細で丁寧だ。また当時の狩野派のような装飾性も窺え、この辺りは明らかに違うのだが違っている為に、むしろ雪舟の自由自在に宙を這う線が錯覚のようにして滲み出てくる。鑑賞する側からするとこれはもう、雪舟への尊崇の念が生んだ神秘だと讃える他ない。

 雲谷等顔と長谷川等伯はほぼ同じ時代を生きているが、この2人が鬼籍に入って約1世紀を過ぎた頃、伊藤若冲が山城国で生まれている。江戸時代も中期に入り戦国乱世とは無縁の泰平の世で、若冲は長命の齢84年を全うした。生家は卸売業の青物問屋で、彼は長男ゆえに商人として40歳まで家業を営んでいたが、絵を描くことは大変好きで、その制作活動は余暇どころか本業を疎かにするほど旺盛であった。それゆえ40歳で弟へ家督を譲り、以降は隠居して作品の創造に専念する。また子もおらず生涯独身を貫いた。これは雪舟も同様なのだが、画僧は禅宗の僧侶ゆえ妻帯が許されなかった為、強制ではなく本人の自由意志でそうなった若冲と事情は異なる。この辺りは洋の東西こそ違え、ルネサンス期のイタリアで自ら生涯独身を通したレオナルドとミケランジェロとラファエロに若冲は似ている。

 そしてこの展覧会で展示された伊藤若冲の作品で崇高なまでに輝いていたのは「竹梅又鶴図」ではないか。この絵は雪舟の「四季花鳥図屏風」と同じ流れを汲む。勿論「四季花鳥図屏風」も展示されており、2人の絵師が生きた時代には2世紀もの隔たりがあるとはいえ、絵に描かれた鶴の姿を通して生命への畏敬を最大級に伝えている点で、雪舟と若冲は一体化している。一般的に雪舟の絵というと、空と山と水に占有された空間がすんなり頭に浮かぶ人は多いかもしれない。しかし雪舟が生前に残した「風景が全てを教えてくれる」という言葉には、通り一遍では解釈できない深い意味があるようだ。風景には石や土といった無機物だけではなく、人間や動植物も存在する。そして生命と生命を育む環境の全容を視覚的に表現することで、一切の生きとし生けるものは平等だという仏の教えを示している。

 この2つの絵に描かれた鶴は、自然に感謝し生命を謳歌する愛らしい表情や仕草を、鑑賞者に見せてくれるのだが、実はあの長谷川等伯も鶴ではなく可愛い猿を「枯木猿猴図」で描いて、若冲と同様に雪舟と魂の邂逅を果たしている。この展覧会では等伯の絵に猿は登場しないが、展示されている雪舟の絵には脇役ではあっても、猿の姿を見かけた。その表現は少しデフォルメが効いているが、親しみを含んだ表情は、鶴と同様に全ての命は同じく尊いと感じさせる魅力を放っている。そして興味深いことに等伯の描いた猿は、雪舟の描いた猿と瓜二つなほど似ていた。「枯木猿猴図」は京都国立博物館に所蔵されており、今回展示されなかったのは残念だが、この等伯の模写に近い表現から理解できるのは、雪舟の絵に傾倒した絵師たちは、そこに動植物への慈愛を見出していたことだ。

 伊藤若冲の作品にも動植物を主題にした絵が多い。また描く対象への愛情の深さも抜きん出ており、そこがこの絵師の仏性のような特質でもあろう。そしてこれは雪舟を彼固有の姿勢で咀嚼し、見本にしたからこそ生まれたといえる。また雪舟と若冲に心眼の域で通底していたのは、恐らく仏教における草木国土悉皆成仏という概念であろう。これは全ての生命を分け隔てなく慈しむと共に、生命を維持する水や土や空気、つまり環境保全をも重視した思考であり、21世紀の今にも響くメッセージだ。この雪舟伝説を謳った展覧会で、雪舟の魂を、最も強く継承していたのは伊藤若冲ではないか。それは他の絵師たちよりも、絵から感じられる悟りや祈りが深く、泰平の世を生きていても、軍事政権の幕府に統治された現世を理想社会だとは認識せず、絵の創造を通して、仏の教えを示そうとしていたように思えるからだ。しかし仮にたった1つの絵で、雪舟から継承された魂を強く感じるなら、それはこの展覧会では展示されなかった長谷川等伯の「松林図屏風」であろう。そして京都国立博物館を後にした時、今更のようにして、展示された全ての絵の中で雪舟の絵が一際静かであったことに気付いた。

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