想:創:SO

映画と音楽と美術と珈琲とその他

コーヒー療法

2016-05-28 12:17:17 | 日記
私がコーヒーを嗜むようになったのは四十代からである。勿論、それ以前からコーヒーを飲む機会もあるにはあったのだが、それは仕事の徹夜明けの眠気覚ましの缶コーヒーだったり、会議で出されたコーヒーを頂くとかいったもので、あまり主体的なコーヒーとの関わりではなかった。それがそうではなくなったのは父の死がきっかけである。父は癌で他界したが、元々私の家系には癌が多く、これを機に癌にならない為の予防医学的な試みでコーヒーを取り入れることにしたのだ。実際、その頃に勤めていた職場に癌で闘病している御仁がいて、コーヒーが癌の予防になると固く信じ、1日に5杯のコーヒーを飲む習慣を続けておられた。曰くこの習慣を維持してもう5年になるが癌の再発はしていないという。まるでコーヒー療法である。私個人に関していえば、お陰様で癌になってはいないが、コーヒーを1日に1杯か2杯飲みだしてから興味深い結果が一つ出た。ピロリ菌が消えたのだ。38歳の時に胃カメラの検診時にピロリ菌の検査もしたところ、偶然ピロリ菌を発見。当時は多忙でそのままピロリ菌を放置。ところがそれから7年後の検査ではピロリ菌は見事に消失していた。それ以後も定期的に胃カメラの検査でピロリ菌の有無も調べているが、ピロリ菌は復活していない。コーヒーによる療法が効いたのだろうか。
写真は大阪梅田の富国生命ビルの1階にあるトラジャコーヒー店である。私はどちらかというと酸味の効いたコーヒーが好きだが、ここのトラジャブレンドは苦味も酸味もバランスが宜しい。店舗スペースは1階のシンプルな空間全域の奥の一角に位置しており、広い余白を感じながらコーヒーが味わえる。
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パナマ文書

2016-05-13 16:27:52 | 日記
パナマ文書に関しては、ただただ馬鹿らしいの一言。この件で富を蓄えた人々は、現代の超絶した格差社会におけるとてつもない勝利者である。もうこれ以上、欲にかられて搾取し貪る必要など無いはずである。どうか、世界で一番貧しい大統領と呼ばれたウルグアイのホセ・ムヒカ氏を見習っていただきたい。







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モーツァルトの音楽

2016-05-12 11:01:38 | 日記
数年前に母が他界してからというもの、モーツァルトを聴く時間がかなり増えた。それ以前には考えられなかった現象である。モーツァルトは神童とよばれた不世出の天才音楽家。幼少期から父親に情熱的な音楽教育を受けたといわれるが、このあたりは父親から美術教育を受けた天才画家のピカソに育った環境が似ている。両者は生きた時代や聴覚表現と視覚表現という違いこそあれ、天才ならではの完成度の高い作品をひたすら創造し続けた。ここからは、ピカソには丁重にご退場いただいてモーツァルトのみに話を絞りたい。私は母の生前に、モーツァルトの音楽で癒されたことはない。事実である。もちろん感動させられたことは多々あった。メロディーが親しみ易い上に覚え易い。そして日常生活の中で聴くと元気をくれる、端的に健康になれる音楽であった。そこに癒しの効果が全く無かったといえばさすがに嘘になるだろう。しかし、仕事上の挫折や失恋といった過去の癒しを必要とした局面において、私の場合はモーツァルトの出番は無かったわけである。ところが母親の死という私の人生において最大の不幸が訪れた時、モーツァルトの音楽は神仏の如き救済力を発揮してくれた。特にこの曲。

ヴァイオリン協奏曲第5番 第2楽章

なぜ、癒されたことのなかった音楽に癒されるようになったのか、最近になってわかってきた気がする。これはモーツァルトの音楽に内在する癒しの力に私が気づかなかったことが最大の理由だろう。母の死に直面し、私は不幸のどん底に落ちた。そのような最大級の不幸に人が在る時、音楽よりも音そのものに癒されることがある。小鳥の鳴き声、小川のせせらぎ、優しい風、これは聴界だけではなく、空に広がる夕焼けや、海面の光や、木漏れ日といった視界にも存在するものである。そしてそれらは人が創造したものではない。只、モーツァルトの音楽に、人の創造の域を超えた慈悲深い恩寵を感じたのは、母の死がきっかけであった。映画「アマデウス」で、宮廷音楽家のサリエリはモーツァルトの書いた譜面を読んで、神の声が聞こえたと独白する。






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京都でモネの絵を鑑賞

2016-05-11 15:17:28 | 日記
5月1日に、京都市美術館で開催されていたモネ展に行った。「印象、日の出」から「睡蓮」まで充実の90点。館内は大盛況で満員だった為、落ち着いて絵を鑑賞する余裕は無かったが、モネの偉大さを堪能するには時間はさほど重要ではない。一瞬の吟味でも十二分にその色彩表現に圧倒されてしまうからだ。前回モネの絵に会ったのは、昨年の神戸市立博物館で展示されていた幅6メートルの「睡蓮」の大作。誠に個人的な感想で恐縮ではあるが、この京都で展示されていた「睡蓮」の連作よりも、昨年の神戸で見た「睡蓮」に魅力を感じてしまうのは私だけだろうか。私は印象派の画家達の中では、セザンヌやゴッホも含めてモネが一番好きだし、物凄い画家だと位置づけている。いや、印象派という範疇のみならず西洋絵画史の中でもベスト10には入るだろう。それほど驚異的な才能の持ち主なのだ。セザンヌは「モネは素晴らしい目を持っている」と語ったが、まさにその通りで、モネの視力は我々人間の可視光線の領域を超えているのではないかとさえ疑いたくなる。ゆえにモネの絵は他の作家の絵と並べられた時に、他の追随を許さない訴求力で鑑賞者へ特異な美を放出するのである。この為、モネ尽くしの空間であるならば、展示にもう一工夫の捻りが欲しかったところだ。今回の展覧会は「究極のモネ展」と名打ってはいるが、それには少し違和感も覚えた。10代から晩年までの画業を辿ることができる画家本人によるプライベート・コレクションであるならば、究極という形容には首を傾げる。
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「東京物語」と「カサブランカ」

2016-05-10 15:17:04 | 日記
「東京物語」と「カサブランカ」。最近、この2作品のデジタルリマスター版を視聴した。

久しぶりに古い友人に再会したら驚嘆させられたという印象に近い。一番驚いたのは「東京物語」の年老いた父親役の笠智衆が老人に見えないことと、逆に「カサブランカ」のハンフリー・ボガードが実年齢よりもかなり老けて見えたことだ。撮影時には笠智衆は五十歳になるかならないかだし、ハンフリー・ボガードは四十一歳くらいだろう。デジタル効果で露わになってしまったのは、笠智衆を老けさせる為のメイクと、ハンフリー・ボガードの皺の多さである。これはデジタル処理をされていない通常版では感じられない要素であり、技術の進歩の影に生まれた意外な落し穴だといえる。無論、総じて映像は綺麗だし、音声も聞き取りやすいので嘆くほどのことではない。そしてストーリーと俳優の演技や監督の演出も最高水準なのだから、やはり文句をつける理由などないのだ。さらに一言付け加えるなら「カサブランカ」のイングリッド・バーグマンの美貌はデジタルでも輝いていたこと。撮影当時のアナログな映像表現において、イングリッド・バーグマンの魅力を最大限に生かそうとした意志を強く感じた。デジタルリマスター版の「カサブランカ」をご覧いただければお分かりになります。
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