12月3日の金曜日、大阪フェスティバルホールでキング・クリムゾンをライブ体験した。既に公式発表で、最後の来日公演であることを知らされていた為、文字通りこれが見納めであり、大阪でのラストステージとなった。そして定刻通りに始まったコンサートの空間全域には最高過ぎるほどの音楽が鳴り響いた。
アンコールの「スターレス」の演奏が終わった瞬間、嵐のような大歓声と共に、キング・クリムゾンとしてのライブ活動がこのツアーで終焉を迎えることを悟った。そして言葉では語り尽くせないほどの大きな喪失感に見舞われた。と同時に、その喪失感を埋める存在が、やはり彼らの創造した美しい音楽であることを、今更ながらに思い知った。このブログを書きながら、1970年代のキング・クリムゾンのアルバムを聴いているのだからそれも当然だ。
実はこの貴重な歴史的コンサートで新しい発見があった。個人的な見解で恐縮だが、それは何故こんなにも、キング・クリムゾンの音楽を愛聴する根強くて熱心なファンが日本にはそこそこいるのかという、その謎が何となく解けたことだ。多分それは私たちの暮らすこの日本列島が、古来から天災の多い地域だからではないか。特に地球上において、日本列島は大きな地震による被害が多い。現に2011年の東日本大震災や、1995年の阪神大震災、さらに1923年の関東大震災といったメガトン級の巨大地震が100年以内に3度も発生している。
しかもそれ以前の19世紀から、江戸時代や室町時代や鎌倉時代へと時を遡ってさえ、巨大地震の記録は数多く残っているのだ。無論、地震だけではなく台風や洪水、旱魃といった天災はおろか、内戦や暴政による人災も含めると、実のところ日本は災厄が多い国だと改めて認識せざるを得ない。しかしながら私たち日本人自身は、意外とその過酷な歴史に対する当事者意識が薄い方だ。
一見するとこれは不可解でもあるが、冷静に考えれば大半の日本人はその理由に気付いているはずである。きっと災厄を受け入れて畏れつつ耐える社会風土が根付いているのではないかと。謂わば一種の潔い諦念だ。ところがその一方で、この諦念が沈殿してしまったような心の奥底を慰撫し、癒してくれる何かを私たちは探し求めているように思える。そしてその何かとはやはり音楽であろう。特にキング・クリムゾンの音楽などは見事にそこに当て嵌まる。
キング・クリムゾンが演奏する激しく凄まじい轟音は、恐ろしい災厄の事実を誤魔化すことなく曝け出す。それは酷い現実に目を背けてはならないという警鐘である。そして動から静へと転じる瞬間、その恐慌的な嵐が去った後に、聴こえてくる静かで優しく美しい音楽に、私たちは感動しその魂が救済されていく。その意味で、この静と動によって構築された音世界は、私たちに虚妄などではない希望を届けてくれている。
先に述べたように日本は天災の多い国だが、この度重なる苦難のせいで、どうも日本人は災厄に対する強い耐性を身に付けてしまっているようだ。それは阪神大震災や東日本大震災において、世界中から賞賛されたカタストロフに遭遇してもパニックに陥らない国民性でもあるのだが、そこには民主主義よりも全体主義に接近する危険性も潜んでいるように思われる。
実際、日本は先進諸国の中では、自殺者の数が非常に多い国だ。これはやはり学校や会社といった組織において個人が圧殺されがちであることを証明している。また社会的セーフティネットも強くはない。今はもうかつての一億総中流の時代ではなく、貧困層が増えているにも関わらず、政府や自治体から必要最低限のサポートを得られない人々も多いからだ。つまり民主主義の法治国家ならば、社会の不条理に対して国民はもっと声を大にして異議申し立てをすべきところなのだが、どういうわけか日本人は自己規制に終始する。
しかしネット社会の進化で、変化の兆しも現れてきた。特に若者たちにその流れを感じる。それは情報量が高速で飛び交い格段に増えてきたせいで、為政者たちが都合良く事実を隠蔽することができなくなってきたからだ。特にコロナ禍以前から深刻な状況にある環境破壊などは、その最たる例であろう。若者は国政を担う為政者たちの世代よりも当然のこと、この地球と末長く付き合っていかねばならない。切実な問題意識を持つのは自明の理だ。
そして今回の来日公演のコンサート会場には、前回の2018年の時よりも若者が多く足を運んでいたようである。これは勿論キング・クリムゾンの音楽を純粋に聴きたい素直な気持ちからであろうが、コンサートがMCも一切なくミュージシャンが表現する音楽の存在感のみで成り立っていることを考えると、若者なりに楽曲をかなり聴き込んでいるのではないか。無論、親子連れの観客も見かけた。しかし、若者たちは自らのルートでキング・クリムゾンに辿り着いたように思える。
やはりこれはキング・クリムゾンの音楽が、その文学的な歌詞のメッセージ性も含めて、未曾有の問題が山積する現代世界に訴える力がとてつもなく強いからだ。恐らく日本人に根強いファンが多いのもそこが決め手であろう。今の若者たちが現在から未来に対して絶望的になるのは、実は正常なことでもある。そして世の中は私たち個人レベルでは無力感を味わうほど期待できない状況が多い。しかしながらそんな状態でも、人間一人一人は自由意志に基づいて目標や希望を見出すことは可能だ。キング・クリムゾンの音楽にはそう気付かせてくれる魅力がある。私自身も日常生活において、結局彼らの音楽を半ば習慣的に聴いてしまうのは、感動することで気持ちが前向きになれるからだ。
今年の来日公演がキング・クリムゾンのラストコンサートになってしまったことで、都合がつかずに、その機会を逃してしまったファンの方々は痛恨の極みかもしれないが、かく云う私も1981年の初来日以降の全てのバンド編成のライブを体験していながら、やはり1970年代に健在だった頃のキング・クリムゾンに出会いたかったと思ってしまう口である。つまりグレッグ・レイクが歌う「エピタフ」を、ジョン・ウェットンが歌う「スターレス」を、そしてデヴィッド・クロスが弾くヴァイオリンの響きやジェイミー・ミューアが叩く打楽器の音を生で聴いてみたかった。
だが現在公式にリリースされているキング・クリムゾンのライブ音源も、その殆どは素晴らしい内容のものばかりだ。今年の来日公演も今後どこかのタイミングでリリースされるであろうことはほぼ間違いない。つまり実際にライブを体験した人々は、あの日あの時の魂に再会できるのだし、初体験の人々には新鮮な出会いが待っているわけである。そしてそれは音楽という、いつでもどこでも自分の味方になってくれる貴重な友人の存在に感謝する時だ。今回もミュージシャンのメンバー全員と彼らを支え続けているスタッフの方々にこの場をかりて心から感謝と敬意を表します。
アンコールの「スターレス」の演奏が終わった瞬間、嵐のような大歓声と共に、キング・クリムゾンとしてのライブ活動がこのツアーで終焉を迎えることを悟った。そして言葉では語り尽くせないほどの大きな喪失感に見舞われた。と同時に、その喪失感を埋める存在が、やはり彼らの創造した美しい音楽であることを、今更ながらに思い知った。このブログを書きながら、1970年代のキング・クリムゾンのアルバムを聴いているのだからそれも当然だ。
実はこの貴重な歴史的コンサートで新しい発見があった。個人的な見解で恐縮だが、それは何故こんなにも、キング・クリムゾンの音楽を愛聴する根強くて熱心なファンが日本にはそこそこいるのかという、その謎が何となく解けたことだ。多分それは私たちの暮らすこの日本列島が、古来から天災の多い地域だからではないか。特に地球上において、日本列島は大きな地震による被害が多い。現に2011年の東日本大震災や、1995年の阪神大震災、さらに1923年の関東大震災といったメガトン級の巨大地震が100年以内に3度も発生している。
しかもそれ以前の19世紀から、江戸時代や室町時代や鎌倉時代へと時を遡ってさえ、巨大地震の記録は数多く残っているのだ。無論、地震だけではなく台風や洪水、旱魃といった天災はおろか、内戦や暴政による人災も含めると、実のところ日本は災厄が多い国だと改めて認識せざるを得ない。しかしながら私たち日本人自身は、意外とその過酷な歴史に対する当事者意識が薄い方だ。
一見するとこれは不可解でもあるが、冷静に考えれば大半の日本人はその理由に気付いているはずである。きっと災厄を受け入れて畏れつつ耐える社会風土が根付いているのではないかと。謂わば一種の潔い諦念だ。ところがその一方で、この諦念が沈殿してしまったような心の奥底を慰撫し、癒してくれる何かを私たちは探し求めているように思える。そしてその何かとはやはり音楽であろう。特にキング・クリムゾンの音楽などは見事にそこに当て嵌まる。
キング・クリムゾンが演奏する激しく凄まじい轟音は、恐ろしい災厄の事実を誤魔化すことなく曝け出す。それは酷い現実に目を背けてはならないという警鐘である。そして動から静へと転じる瞬間、その恐慌的な嵐が去った後に、聴こえてくる静かで優しく美しい音楽に、私たちは感動しその魂が救済されていく。その意味で、この静と動によって構築された音世界は、私たちに虚妄などではない希望を届けてくれている。
先に述べたように日本は天災の多い国だが、この度重なる苦難のせいで、どうも日本人は災厄に対する強い耐性を身に付けてしまっているようだ。それは阪神大震災や東日本大震災において、世界中から賞賛されたカタストロフに遭遇してもパニックに陥らない国民性でもあるのだが、そこには民主主義よりも全体主義に接近する危険性も潜んでいるように思われる。
実際、日本は先進諸国の中では、自殺者の数が非常に多い国だ。これはやはり学校や会社といった組織において個人が圧殺されがちであることを証明している。また社会的セーフティネットも強くはない。今はもうかつての一億総中流の時代ではなく、貧困層が増えているにも関わらず、政府や自治体から必要最低限のサポートを得られない人々も多いからだ。つまり民主主義の法治国家ならば、社会の不条理に対して国民はもっと声を大にして異議申し立てをすべきところなのだが、どういうわけか日本人は自己規制に終始する。
しかしネット社会の進化で、変化の兆しも現れてきた。特に若者たちにその流れを感じる。それは情報量が高速で飛び交い格段に増えてきたせいで、為政者たちが都合良く事実を隠蔽することができなくなってきたからだ。特にコロナ禍以前から深刻な状況にある環境破壊などは、その最たる例であろう。若者は国政を担う為政者たちの世代よりも当然のこと、この地球と末長く付き合っていかねばならない。切実な問題意識を持つのは自明の理だ。
そして今回の来日公演のコンサート会場には、前回の2018年の時よりも若者が多く足を運んでいたようである。これは勿論キング・クリムゾンの音楽を純粋に聴きたい素直な気持ちからであろうが、コンサートがMCも一切なくミュージシャンが表現する音楽の存在感のみで成り立っていることを考えると、若者なりに楽曲をかなり聴き込んでいるのではないか。無論、親子連れの観客も見かけた。しかし、若者たちは自らのルートでキング・クリムゾンに辿り着いたように思える。
やはりこれはキング・クリムゾンの音楽が、その文学的な歌詞のメッセージ性も含めて、未曾有の問題が山積する現代世界に訴える力がとてつもなく強いからだ。恐らく日本人に根強いファンが多いのもそこが決め手であろう。今の若者たちが現在から未来に対して絶望的になるのは、実は正常なことでもある。そして世の中は私たち個人レベルでは無力感を味わうほど期待できない状況が多い。しかしながらそんな状態でも、人間一人一人は自由意志に基づいて目標や希望を見出すことは可能だ。キング・クリムゾンの音楽にはそう気付かせてくれる魅力がある。私自身も日常生活において、結局彼らの音楽を半ば習慣的に聴いてしまうのは、感動することで気持ちが前向きになれるからだ。
今年の来日公演がキング・クリムゾンのラストコンサートになってしまったことで、都合がつかずに、その機会を逃してしまったファンの方々は痛恨の極みかもしれないが、かく云う私も1981年の初来日以降の全てのバンド編成のライブを体験していながら、やはり1970年代に健在だった頃のキング・クリムゾンに出会いたかったと思ってしまう口である。つまりグレッグ・レイクが歌う「エピタフ」を、ジョン・ウェットンが歌う「スターレス」を、そしてデヴィッド・クロスが弾くヴァイオリンの響きやジェイミー・ミューアが叩く打楽器の音を生で聴いてみたかった。
だが現在公式にリリースされているキング・クリムゾンのライブ音源も、その殆どは素晴らしい内容のものばかりだ。今年の来日公演も今後どこかのタイミングでリリースされるであろうことはほぼ間違いない。つまり実際にライブを体験した人々は、あの日あの時の魂に再会できるのだし、初体験の人々には新鮮な出会いが待っているわけである。そしてそれは音楽という、いつでもどこでも自分の味方になってくれる貴重な友人の存在に感謝する時だ。今回もミュージシャンのメンバー全員と彼らを支え続けているスタッフの方々にこの場をかりて心から感謝と敬意を表します。