「芸術というものは、時には嘘でもよいのだ。その嘘を承知の上で作った方がかえって本当に見えるんだ」
これは高村光雲の言葉である。前回は彼の代表作「西郷隆盛像」に関する話であったが、今回はそこで少し触れた「楠公像」について、それも作者の高村光雲は当然のこと、楠木正成や後醍醐天皇に関しても述べてみたい。この光雲の言葉をそのまま解釈すると「楠公像」における嘘とは、恐らく楠木正成が清廉潔白で過剰なまでの忠臣であったという伝説ではなかろうか。なぜなら、この楠木正成という人物は、単純に忠臣という言葉で説明するには、余りにも深淵で奥深い人間だからだ。そして鎌倉時代末期から室町時代初期を駆け抜けて、絶望的な最期を遂げたその人物像は、様々な誤解に満ちている。彼が日本史上、稀に見る忠臣であったというのもその誤解の1つだ。
ところが楠木正成が偉大な忠臣だという嘘を承知の上で高村光雲が作りあげたことによって、その完成形は本当に完全無欠な忠臣に見えてしまった。だが冷静に考えてみると、これは定説の予備知識があってこそ、そう見えるのだともいえる。事実、私がこの見事な彫像を初めて鑑賞したのは、10代の中学生の時だが、その頭抜けた迫力に驚嘆しても、偉大な忠臣という印象は殆ど受けなかった。しかしだからといって、それとは真逆に下克上を体現した戦国武将のような蛮勇とも無縁である。もう40年以上も昔のことなので記憶を捻り出しながら、ここで文章を書いているのだが、近畿圏に住んでいた私の中学校の修学旅行が首都圏に決まった為に、実物の「楠公像」に巡り会えた幸運には素直に感謝したい。
その修学旅行は残念なことに天候が悪く、富士山も雲や霧に霞んだような景観ばかりで、この「楠公像」もしとしとと降る雨に濡れている姿であった。また当時の私の歴史認識も浅いがゆえに、楠木正成は殆ど未知の人に近かった。しかしながら「楠公像」が皇居前広場に設置されている以上、天皇を守護する武人らしきことくらいは知っていた。それゆえ忠義という主題が、騎馬姿の彫像から鮮烈に伝わってきても良さそうなものだが、やはり何処か何かが違う。それは恐らく高村光雲が定義した、時には嘘でも良いからと制作した結果、その嘘が本当になった芸術作品が、実は嘘と本当という二元論を超えた異次元をも表現できてしまったからではないか。
つまりこの彫像には、忠義という概念では把握しきれない壮絶な凄みが宿っているとしか思えない。高村光雲が「楠公像」を完成させたのは明治30年、あの「西郷隆盛像」が完成する前年だ。しかもこの2つの作品には、歴史的敗者を同時期に創造したという共通点がある。ただ西郷隆盛も鬼籍に入っていたとはいえ、制作時期とほぼ同時代の人間であるのに対し、楠木正成はそこから700年以上もの時を遡り、想像力を働かせなければ中々その正体が見えてこない。この為、高村光雲は制作過程で相当な苦労をしたはずである。しかも楠木正成は彼の死後、中世から現代に至るまで、時の権威や権力にかなり都合良く解釈され、悲劇の英雄として語り継がれ利用されてきた。
しかし楠木正成その人は、英雄になる気なぞ全く無かったはずである。むしろ彼を取り巻く周縁から、鎌倉幕府の支配体制下の中世社会を改善しようと粉骨砕身していたのだから。では一体どのような時代状況に彼がいたのか、それをここで紐解いてみたい。楠木正成の生誕地は河内国、今の大阪府南部あたりで、当然のこと幕府の支配地域であった。そして当時の鎌倉時代末期は、幕府政治が機能不全に陥っており、諸問題が山積していた。端的に述べると鎌倉時代中期に蒙古が襲来した元寇による影響が大きく、要はユーラシア大陸の巨大帝国を撃退しても、その大功の報酬となるべき土地が幕府の管轄には殆ど無かったのだ。
この為に、全国に散らばり守護地頭として領民を支配管理することで幕府を支える御家人の武士階級は、必然的に富が増えずに地盤沈下していく状態にあった。ところがその武士階級は曲がりなりにもまだ社会の上層部であり、重税を含めた最大級の貧窮と苦難を舐めたのは、社会の下層にいる民衆である。一般的に鎌倉武士というと領地や領民を守る為に奮闘する勇猛果敢な肯定的イメージが浸透しているが、現実には躊躇なく殺人を含めた暴力を平然と日常的に行使できる恐ろしい連中でしかなかった。しかも武士の行動原理たる御恩と奉公とは、所領安堵を保証してくれる権威や権力を持った主の為に一所懸命に働くことだ。つまり彼らは弱肉強食の構図を支えており、強者に仕えて思う存分に武力を奮い戦うことを良しとした。
しかしよくよく考えてみると、こうした恐怖の介在する暴力支配は鎌倉幕府という最初の武家政権が成立する以前から、日本社会において常態化していたともいえる。なぜなら平安時代において皇族や貴族が自ら武装化するようなことは殆ど無かったにもかかわらず、彼らは暴力装置として武士を活用し続けていたからだ。つまり支配者が剣を自らの手から捨てても、決して心からも剣を捨てることはしなかった。そしてそれは倒幕と建武の新政の核であった後醍醐天皇とて例外ではない。
後醍醐天皇も楠木正成と同様にかなり誤解多き人物だ。しかし興味深いのは2人の人物評価が、反比例の関係性も有していることである。先に述べたように、楠木正成はその死後、立派な忠臣として賞賛されるような誤解のされ方をしたが、一方の後醍醐天皇は身勝手で横暴な暗君として、歴代の天皇の中では貶められるような誤解が多い。要するに天皇の無謀な命令を受けて憤死した楠木正成の評価が上がると、必然的に後醍醐天皇の評価が下がるわけである。そして後醍醐天皇を頂点とした建武の新政が短期間で失敗に終わり、南北朝時代の戦乱に突入すると、北朝側の天皇を擁立した室町幕府の足利将軍家にとって、南朝側の後醍醐天皇が悪者になるのは実に都合が良かった。
勝算が皆無であった湊川の戦いにおける楠木正成の憤死は、後世に忠義の鑑として伝承されていくわけだが、この上司から無理難題を押し付けられても従順に任務を遂行する犠牲的な部下の忠誠心は、その後の室町幕府や江戸幕府のみならず明治維新以降の大日本帝国政府においても、組織的洗脳の道具として随分と役立ってきた。つまり支配する側が支配される側に対し、楠木正成をそのあるべき姿として絶対的に推奨しているわけである。しかし高村光雲の手になる「楠公像」は、そういった長い歴史の中で培われてきた半ば胡散臭い価値観を、むしろ逆手にとって無効化させているかのようだ。
それは楠木正成が祀られた湊川神社に設置された彫像「大楠公像」と比較するとよく理解できる。こちらは昭和10年に彫刻家の斎藤嘉巌が制作したものだが、騎馬姿という共通点はあるものの、軍国主義の風潮が世相の主流であった昭和初期の空気を如実に反映している。怒髪天の勢いで馬を嘶かせる楠木正成は、まさに戦闘態勢そのものであり、国民の戦意高揚を後押しするような気迫に漲っているのだ。また昭和10年は、既に満州事変が勃発した後で、大日本帝国が中国大陸へ侵攻中であった。そしてその数年後には第2次世界大戦が始まるという時期であり、軍拡路線を突っ走る帝国主義への批判などできない国内で、そんな時代の圧力を受けながら斎藤嘉巌はこの「大楠公像」を完成させたと思われる。
一方、高村光雲の場合も、明治時代後半の日露戦争開戦の足音が聞こえてきそうな頃に、この「楠公像」を制作していたわけだが、全体主義に近い時勢の影響はさほど感じられない。兜を被った楠木正成の表情は、非常に抑制されており激情とは程遠く、作者高村光雲自身は、隠岐島に流されていた後醍醐天皇が倒幕のほぼ成功した都へ帰還する途上、それを迎えに行く楠木正成の姿を創造したのだと語っている。だが、この彫像はそのような歴史の1ページだけで完結しているようには到底思えない。むしろ楠木正成の全てが、この厳粛な佇まいに凝縮されている感さえある。つまりこの楠木正成の彫像からは、あの湊川の戦いの情景さえもが、蜃気楼のように見えてくるからだ。もしこれが人生最期の戦場へ向かう直前の姿だとしたら、100%の敗北を覚悟し、その上で自らを憐れむことを拒絶する強靭な意志が感じられる。ここで心に切迫してくるのは、高村光雲が楠木正成を通して死生観を表現することにも成功していることだ。そしてその気高さや潔さは、意外にも主君の為に殉ずるという儒教的精神とはやはり異なる。
なぜなら、楠木正成は湊川の戦いに出向く前に後醍醐天皇へ、足利尊氏の大軍との不利な決戦を避けるよう諭していたからだ。むしろ戦うならば一端は、京の都から軍需物資ごと比叡山へ撤退し、都を空っぽにして侵入してきた敵の大軍を兵量攻めにする策を進言している。しかもそれだけではない、足利尊氏との和睦さえ提案しているほどだ。ここから推測できるのは、後醍醐天皇と楠木正成は、帝と臣下という強固な主従関係において、実のところ後醍醐天皇という人物がワンマンでありながら、聞く耳もそれなりに持っていたということである。それを象徴するように、鎌倉幕府を倒し建武の新政を担った重臣の面々は、楠木正成に限らず北畠親房と顕家の親子、それに新田義貞などが、かなり批判的な意見を上奏していた。特に楠木正成は民を苦しめない善政の必要性を説き、北畠顕家は鎌倉幕府の時代よりも圧倒的に税を軽減するよう要請している。
つまり後醍醐天皇は政策決定が独断的でも、臣下の声を完全に無視するタイプではなかった。そこは大きな誤解である。無論、かなり頑固なワンマン路線であったことは否定できない。実際、綸旨を頻発している辺りは、現代においても大統領令を乱発するような大統領がほぼ独裁者なのを見れば明らかだ。また政治手腕もかなり怪しいもので、倒幕の立役者でもあった息子の護良親王が反抗してきたら幽閉した末に見殺しにしている。恐らく人事面、要するに人を動かす点において、情が薄く冷徹な上に不器用で頓珍漢だったのではないか。そしてそんな彼の性格や資質は政治家よりも学者に近い。それゆえ建武の新政を成し遂げた人々の中で、一番頭でっかちだったのは後醍醐天皇だというしかない。
ただそうなったのは、大覚寺統の後醍醐天皇が鎌倉幕府の定める両統迭立の原則、持明院統と大覚寺統が交代で天皇に即位する形だと、譲位後に上皇になって院政を敷くことができなかったことも一因だ。つまり鎌倉幕府に制御された天皇でいると、在位期間も短く、皮肉なことに政務よりも学問に専念できる時間が多かった。この為、後醍醐天皇本人の旺盛な学究心も幸いし、思想や宗教それに文芸さえも幅広くカバーして膨大な学識を得ていたようだ。そして行き詰まっていた鎌倉幕府の体制に代わる新しいビジョンも、彼の頭の中には漠然とではありながら見えていたと思われる。
後醍醐天皇を倒幕の旗頭にした勢力は、社会の底辺の民衆も含めた非御家人と、寺院の僧兵、それに反幕府に変心した公家と御家人である。楠木正成は非御家人であり、足利尊氏や新田義貞のような源氏の血をひく有力な御家人ではなく、北畠親房のような公家でもない。ここは見落とせない点だ。建武の新政において思想的なブレーンになって後醍醐天皇を支えたのは北畠親房だが、経済の分野で社会変革を目指す方向性も後醍醐天皇は持っていた。そして非御家人の楠木正成はそこで意気投合する。その理由は現状の行き詰まった経済を、従来の土地本位よりも貨幣の流通を重視した方向へと変化させることであった。
楠木正成のような非御家人は武士であっても、御家人ほど土地への執着心が強くなかった。ここでいう執着とは郷土愛とは別物である。要は土地を支配してそこから食糧を確保する、土地開発によって利益を得ることへの執着心だ。これは農業を礎とした土地本位の経済観念であり、それは鎌倉幕府が成立する原動力にもなったが、天候に左右される農業に社会が依存し過ぎると、天災に遭遇した時の打撃は悲惨なものになる。そして鎌倉時代にも飢饉や疫病はもとより、巨大地震が幾度か発生していた。それゆえ鎌倉幕府が傾きだしたのは、本当のところその構造自体に問題があり、仮に元寇が無かったとしても、遠からず倒幕で崩壊していたはずである。
いつの世も例外なく、権威や権力は腐敗していく。鎌倉時代末期の執権北条氏とその取巻き連中も、奢れる平家の如き有様であった。そして支配層の贅沢に溺れた腐敗も、重税で搾取される被支配層が支えていた。それゆえ社会の底辺を這いつくばる民衆の労苦は大変なものであったはずだ。それでも鎌倉時代が150年近く続いたのは、幕府の強権的な法整備が機能していたことも考えられるが、最大の要因は庶民階級や非御家人層の逆境でもへこたれなかった底力にあったと思われる。またその底力を生んだのは、平安時代までは鎮護国家に重心を置いていた仏教が民衆の救済を指向しだしたことと、中国大陸から流入してくる貨幣を使用した海外貿易による商業の影響にあった。つまり現世が過酷すぎても、宗教によって魂が救済されれば耐えられる。そして飢餓の大地にあっても、銭があれば衣食住と交換できる。どうやら楠木正成はこうした民衆の心情も含めた生活感覚や意識に、共感や想像を働かせるだけではなく、そこに身を置いてそれを熟知していたようだ。
ここまでを踏まえると、倒幕の流れに身を投じたのは、弱肉強食の構図を否定して、弱者に同情し弱者の側に立つ意志が、楠木正成には明確に存在していたからであろう。これは御家人の鎌倉武士の倫理基準ともいえる御恩と奉公とは明らかに違う。ここが実は楠木正成に対する最大の誤解だ。湊川の戦いの敗戦後、自刃した彼の首級は京で晒し首にされてしまうが、足利尊氏の配慮で一族の元に返されている。その後、観心寺に埋葬されて首塚として祀られた。以降、南北朝の戦乱が収束する迄は、北朝の天皇家の朝敵であり、室町幕府初代将軍足利尊氏を大いに苦しめた逆賊として、楠木正成は汚名を被り続ける。それが汚名返上となるのは、室町時代末期に正親町天皇が楠氏赦免の綸旨を発令したことであった。ここから逆流現象、つまり楠木正成に対する誤解が始まっていく。それまでとは真逆に、儒教的歴史観に立脚し尊王思想を礎とした忠君愛国の見本として祭り上げられていくのだ。特に江戸時代に天下の副将軍とよばれた水戸光圀が、観心寺の首塚とは別に大々的な公墓を建立してからは、楠木正成への誤解はエスカレートの一途を辿り、明治5年には明治天皇の神社創立の御沙汰により湊川神社が創建される。
朝敵や逆賊呼ばわりされていた人が、南木明神という神号まで与えられてしまったのだから、まさに史上稀に見る誤解の歴史になった。なお一族が亡骸を託した観心寺は弘法大師空海が開祖の真言宗の寺院だが、楠木正成は幼少期よりここで勉学に励んでいたらしい。倒幕を成就させる為の戦いでは、小勢力で大勢力に立ち向かう局面が多かった為、彼が戦術や戦略を巧緻に駆使するゲリラ戦に長けていたのは、観心寺で仏法のみならず兵学も多く学んでいたお陰ではないか。ただ高村光雲の手により生み出された楠木正成の顔には、彼が制作した別の人物の表情が垣間見えてくる。それは何を隠そうあの聖徳太子だ。
高村光雲の手になる聖徳太子像は、複数存在するのだが、壮年期の少し険しい眼差しをした木彫作品の「聖徳太子坐像」には、かなり「楠公像」に近い趣きが漂う。そして髭のない顔の嘆きを秘めた表情で、呟くようにほんの少し開いた口元からは、ある言葉が漏れてきそうだ。
「世間は虚仮なり、唯仏のみ是れ真なり」
この言葉である。鎌倉時代中期以降には、太子信仰が仏教の宗派を問わず、土に水が浸み込むようにして社会全体に広がっていく。法隆寺では空海を聖徳太子の再生として五尊曼荼羅が描かれたほどであった。恐らく楠木正成も太子信仰の洗礼を少なからず受けていたはずである。高村光雲の「聖徳太子坐像」が完成したのは明治44年のことで、日露戦争が終わってから6年の時が過ぎていた。
「楠公像」と「聖徳太子坐像」は日露戦争を挟んで、作者高村光雲の心の変遷を感じとることができる。「楠公像]において、馬上の楠木正成が手綱を締めて、勢いづき逸る馬を鎮めんとする姿は、戦争回避を示唆しているようだ。それでも残念なことに、日露戦争が現実に始まってしまい、約1年半ほどで終わったとはいえ、日露両国共に8万人以上もの戦没者を出した悲惨な実態と現状に対し「聖徳太子坐像」の聖徳太子は座ったまま静かに何かを言おうともしている。それは「何故、こんなことになってしまったのか」そのような問いかけかもしれない。そして「何故、こんなことになってしまったのか」は、「世間は虚仮なり、唯仏のみ是れ真なり」に繋がる。
後醍醐天皇への進言が受理されず、湊川の戦場に向かう楠木正成の心境も恐らく「世間は虚仮なり、唯仏のみ是れ真なり」ではなかったか。後世の軍記物語「太平記」では誤解されたまま、忠義に厚い三徳兼備の武将として描かれているが、楠木正成の人物像には、武将だけではなく民衆に近い素朴な商人や信心深い宗教人としての側面も多分にあったようだ。そして後醍醐天皇にも民衆を感知する視点はあったように思える。なぜなら建武の新政は、後醍醐天皇が企てた倒幕計画が3度目の正直で成功したケースであり、2度目の失敗では島流しの憂き目に遭うのだが、捕縛されるまで山野を着の身着のままで逃げ惑った姿を、他の皇族から王家の恥だと罵られている。しかしこの経験で彼は一瞬でも民衆の視点を知り、その地点にまで下りることができた。多分これがなければ鎌倉幕府を崩壊させる倒幕は有り得なかったであろう。
後醍醐天皇は、京の都を追われ吉野に逃れてから南朝政権を樹立するも、志半ばで約半世紀の生涯を終える。時折、湊川の戦いの件を思い出し、あの時、楠木正成の言う事を聞いていればと後悔していたようだ。彼の末路は、やはり独裁者的なリーダーに相応しい自業自得な終焉であったが、室町幕府が結局あっさりと鎌倉幕府をほぼ踏襲するような武家政権の路線で進みだしたことを考えると、建武の新政の立役者たちが誰一人脱落することなく、南北朝に分離もせず協調して政権運営を続けていたとしたら、中世の日本社会の経済や宗教、それに芸術の分野はかなり違ったものになっていたのではないか。楠木正成への誤解は、21世紀の現代になっても日本が表向きは民主主義の法治国家であるにもかかわらず、内実は緩い全体主義国家のようでもある原因の1つなのかもしれない。
これは高村光雲の言葉である。前回は彼の代表作「西郷隆盛像」に関する話であったが、今回はそこで少し触れた「楠公像」について、それも作者の高村光雲は当然のこと、楠木正成や後醍醐天皇に関しても述べてみたい。この光雲の言葉をそのまま解釈すると「楠公像」における嘘とは、恐らく楠木正成が清廉潔白で過剰なまでの忠臣であったという伝説ではなかろうか。なぜなら、この楠木正成という人物は、単純に忠臣という言葉で説明するには、余りにも深淵で奥深い人間だからだ。そして鎌倉時代末期から室町時代初期を駆け抜けて、絶望的な最期を遂げたその人物像は、様々な誤解に満ちている。彼が日本史上、稀に見る忠臣であったというのもその誤解の1つだ。
ところが楠木正成が偉大な忠臣だという嘘を承知の上で高村光雲が作りあげたことによって、その完成形は本当に完全無欠な忠臣に見えてしまった。だが冷静に考えてみると、これは定説の予備知識があってこそ、そう見えるのだともいえる。事実、私がこの見事な彫像を初めて鑑賞したのは、10代の中学生の時だが、その頭抜けた迫力に驚嘆しても、偉大な忠臣という印象は殆ど受けなかった。しかしだからといって、それとは真逆に下克上を体現した戦国武将のような蛮勇とも無縁である。もう40年以上も昔のことなので記憶を捻り出しながら、ここで文章を書いているのだが、近畿圏に住んでいた私の中学校の修学旅行が首都圏に決まった為に、実物の「楠公像」に巡り会えた幸運には素直に感謝したい。
その修学旅行は残念なことに天候が悪く、富士山も雲や霧に霞んだような景観ばかりで、この「楠公像」もしとしとと降る雨に濡れている姿であった。また当時の私の歴史認識も浅いがゆえに、楠木正成は殆ど未知の人に近かった。しかしながら「楠公像」が皇居前広場に設置されている以上、天皇を守護する武人らしきことくらいは知っていた。それゆえ忠義という主題が、騎馬姿の彫像から鮮烈に伝わってきても良さそうなものだが、やはり何処か何かが違う。それは恐らく高村光雲が定義した、時には嘘でも良いからと制作した結果、その嘘が本当になった芸術作品が、実は嘘と本当という二元論を超えた異次元をも表現できてしまったからではないか。
つまりこの彫像には、忠義という概念では把握しきれない壮絶な凄みが宿っているとしか思えない。高村光雲が「楠公像」を完成させたのは明治30年、あの「西郷隆盛像」が完成する前年だ。しかもこの2つの作品には、歴史的敗者を同時期に創造したという共通点がある。ただ西郷隆盛も鬼籍に入っていたとはいえ、制作時期とほぼ同時代の人間であるのに対し、楠木正成はそこから700年以上もの時を遡り、想像力を働かせなければ中々その正体が見えてこない。この為、高村光雲は制作過程で相当な苦労をしたはずである。しかも楠木正成は彼の死後、中世から現代に至るまで、時の権威や権力にかなり都合良く解釈され、悲劇の英雄として語り継がれ利用されてきた。
しかし楠木正成その人は、英雄になる気なぞ全く無かったはずである。むしろ彼を取り巻く周縁から、鎌倉幕府の支配体制下の中世社会を改善しようと粉骨砕身していたのだから。では一体どのような時代状況に彼がいたのか、それをここで紐解いてみたい。楠木正成の生誕地は河内国、今の大阪府南部あたりで、当然のこと幕府の支配地域であった。そして当時の鎌倉時代末期は、幕府政治が機能不全に陥っており、諸問題が山積していた。端的に述べると鎌倉時代中期に蒙古が襲来した元寇による影響が大きく、要はユーラシア大陸の巨大帝国を撃退しても、その大功の報酬となるべき土地が幕府の管轄には殆ど無かったのだ。
この為に、全国に散らばり守護地頭として領民を支配管理することで幕府を支える御家人の武士階級は、必然的に富が増えずに地盤沈下していく状態にあった。ところがその武士階級は曲がりなりにもまだ社会の上層部であり、重税を含めた最大級の貧窮と苦難を舐めたのは、社会の下層にいる民衆である。一般的に鎌倉武士というと領地や領民を守る為に奮闘する勇猛果敢な肯定的イメージが浸透しているが、現実には躊躇なく殺人を含めた暴力を平然と日常的に行使できる恐ろしい連中でしかなかった。しかも武士の行動原理たる御恩と奉公とは、所領安堵を保証してくれる権威や権力を持った主の為に一所懸命に働くことだ。つまり彼らは弱肉強食の構図を支えており、強者に仕えて思う存分に武力を奮い戦うことを良しとした。
しかしよくよく考えてみると、こうした恐怖の介在する暴力支配は鎌倉幕府という最初の武家政権が成立する以前から、日本社会において常態化していたともいえる。なぜなら平安時代において皇族や貴族が自ら武装化するようなことは殆ど無かったにもかかわらず、彼らは暴力装置として武士を活用し続けていたからだ。つまり支配者が剣を自らの手から捨てても、決して心からも剣を捨てることはしなかった。そしてそれは倒幕と建武の新政の核であった後醍醐天皇とて例外ではない。
後醍醐天皇も楠木正成と同様にかなり誤解多き人物だ。しかし興味深いのは2人の人物評価が、反比例の関係性も有していることである。先に述べたように、楠木正成はその死後、立派な忠臣として賞賛されるような誤解のされ方をしたが、一方の後醍醐天皇は身勝手で横暴な暗君として、歴代の天皇の中では貶められるような誤解が多い。要するに天皇の無謀な命令を受けて憤死した楠木正成の評価が上がると、必然的に後醍醐天皇の評価が下がるわけである。そして後醍醐天皇を頂点とした建武の新政が短期間で失敗に終わり、南北朝時代の戦乱に突入すると、北朝側の天皇を擁立した室町幕府の足利将軍家にとって、南朝側の後醍醐天皇が悪者になるのは実に都合が良かった。
勝算が皆無であった湊川の戦いにおける楠木正成の憤死は、後世に忠義の鑑として伝承されていくわけだが、この上司から無理難題を押し付けられても従順に任務を遂行する犠牲的な部下の忠誠心は、その後の室町幕府や江戸幕府のみならず明治維新以降の大日本帝国政府においても、組織的洗脳の道具として随分と役立ってきた。つまり支配する側が支配される側に対し、楠木正成をそのあるべき姿として絶対的に推奨しているわけである。しかし高村光雲の手になる「楠公像」は、そういった長い歴史の中で培われてきた半ば胡散臭い価値観を、むしろ逆手にとって無効化させているかのようだ。
それは楠木正成が祀られた湊川神社に設置された彫像「大楠公像」と比較するとよく理解できる。こちらは昭和10年に彫刻家の斎藤嘉巌が制作したものだが、騎馬姿という共通点はあるものの、軍国主義の風潮が世相の主流であった昭和初期の空気を如実に反映している。怒髪天の勢いで馬を嘶かせる楠木正成は、まさに戦闘態勢そのものであり、国民の戦意高揚を後押しするような気迫に漲っているのだ。また昭和10年は、既に満州事変が勃発した後で、大日本帝国が中国大陸へ侵攻中であった。そしてその数年後には第2次世界大戦が始まるという時期であり、軍拡路線を突っ走る帝国主義への批判などできない国内で、そんな時代の圧力を受けながら斎藤嘉巌はこの「大楠公像」を完成させたと思われる。
一方、高村光雲の場合も、明治時代後半の日露戦争開戦の足音が聞こえてきそうな頃に、この「楠公像」を制作していたわけだが、全体主義に近い時勢の影響はさほど感じられない。兜を被った楠木正成の表情は、非常に抑制されており激情とは程遠く、作者高村光雲自身は、隠岐島に流されていた後醍醐天皇が倒幕のほぼ成功した都へ帰還する途上、それを迎えに行く楠木正成の姿を創造したのだと語っている。だが、この彫像はそのような歴史の1ページだけで完結しているようには到底思えない。むしろ楠木正成の全てが、この厳粛な佇まいに凝縮されている感さえある。つまりこの楠木正成の彫像からは、あの湊川の戦いの情景さえもが、蜃気楼のように見えてくるからだ。もしこれが人生最期の戦場へ向かう直前の姿だとしたら、100%の敗北を覚悟し、その上で自らを憐れむことを拒絶する強靭な意志が感じられる。ここで心に切迫してくるのは、高村光雲が楠木正成を通して死生観を表現することにも成功していることだ。そしてその気高さや潔さは、意外にも主君の為に殉ずるという儒教的精神とはやはり異なる。
なぜなら、楠木正成は湊川の戦いに出向く前に後醍醐天皇へ、足利尊氏の大軍との不利な決戦を避けるよう諭していたからだ。むしろ戦うならば一端は、京の都から軍需物資ごと比叡山へ撤退し、都を空っぽにして侵入してきた敵の大軍を兵量攻めにする策を進言している。しかもそれだけではない、足利尊氏との和睦さえ提案しているほどだ。ここから推測できるのは、後醍醐天皇と楠木正成は、帝と臣下という強固な主従関係において、実のところ後醍醐天皇という人物がワンマンでありながら、聞く耳もそれなりに持っていたということである。それを象徴するように、鎌倉幕府を倒し建武の新政を担った重臣の面々は、楠木正成に限らず北畠親房と顕家の親子、それに新田義貞などが、かなり批判的な意見を上奏していた。特に楠木正成は民を苦しめない善政の必要性を説き、北畠顕家は鎌倉幕府の時代よりも圧倒的に税を軽減するよう要請している。
つまり後醍醐天皇は政策決定が独断的でも、臣下の声を完全に無視するタイプではなかった。そこは大きな誤解である。無論、かなり頑固なワンマン路線であったことは否定できない。実際、綸旨を頻発している辺りは、現代においても大統領令を乱発するような大統領がほぼ独裁者なのを見れば明らかだ。また政治手腕もかなり怪しいもので、倒幕の立役者でもあった息子の護良親王が反抗してきたら幽閉した末に見殺しにしている。恐らく人事面、要するに人を動かす点において、情が薄く冷徹な上に不器用で頓珍漢だったのではないか。そしてそんな彼の性格や資質は政治家よりも学者に近い。それゆえ建武の新政を成し遂げた人々の中で、一番頭でっかちだったのは後醍醐天皇だというしかない。
ただそうなったのは、大覚寺統の後醍醐天皇が鎌倉幕府の定める両統迭立の原則、持明院統と大覚寺統が交代で天皇に即位する形だと、譲位後に上皇になって院政を敷くことができなかったことも一因だ。つまり鎌倉幕府に制御された天皇でいると、在位期間も短く、皮肉なことに政務よりも学問に専念できる時間が多かった。この為、後醍醐天皇本人の旺盛な学究心も幸いし、思想や宗教それに文芸さえも幅広くカバーして膨大な学識を得ていたようだ。そして行き詰まっていた鎌倉幕府の体制に代わる新しいビジョンも、彼の頭の中には漠然とではありながら見えていたと思われる。
後醍醐天皇を倒幕の旗頭にした勢力は、社会の底辺の民衆も含めた非御家人と、寺院の僧兵、それに反幕府に変心した公家と御家人である。楠木正成は非御家人であり、足利尊氏や新田義貞のような源氏の血をひく有力な御家人ではなく、北畠親房のような公家でもない。ここは見落とせない点だ。建武の新政において思想的なブレーンになって後醍醐天皇を支えたのは北畠親房だが、経済の分野で社会変革を目指す方向性も後醍醐天皇は持っていた。そして非御家人の楠木正成はそこで意気投合する。その理由は現状の行き詰まった経済を、従来の土地本位よりも貨幣の流通を重視した方向へと変化させることであった。
楠木正成のような非御家人は武士であっても、御家人ほど土地への執着心が強くなかった。ここでいう執着とは郷土愛とは別物である。要は土地を支配してそこから食糧を確保する、土地開発によって利益を得ることへの執着心だ。これは農業を礎とした土地本位の経済観念であり、それは鎌倉幕府が成立する原動力にもなったが、天候に左右される農業に社会が依存し過ぎると、天災に遭遇した時の打撃は悲惨なものになる。そして鎌倉時代にも飢饉や疫病はもとより、巨大地震が幾度か発生していた。それゆえ鎌倉幕府が傾きだしたのは、本当のところその構造自体に問題があり、仮に元寇が無かったとしても、遠からず倒幕で崩壊していたはずである。
いつの世も例外なく、権威や権力は腐敗していく。鎌倉時代末期の執権北条氏とその取巻き連中も、奢れる平家の如き有様であった。そして支配層の贅沢に溺れた腐敗も、重税で搾取される被支配層が支えていた。それゆえ社会の底辺を這いつくばる民衆の労苦は大変なものであったはずだ。それでも鎌倉時代が150年近く続いたのは、幕府の強権的な法整備が機能していたことも考えられるが、最大の要因は庶民階級や非御家人層の逆境でもへこたれなかった底力にあったと思われる。またその底力を生んだのは、平安時代までは鎮護国家に重心を置いていた仏教が民衆の救済を指向しだしたことと、中国大陸から流入してくる貨幣を使用した海外貿易による商業の影響にあった。つまり現世が過酷すぎても、宗教によって魂が救済されれば耐えられる。そして飢餓の大地にあっても、銭があれば衣食住と交換できる。どうやら楠木正成はこうした民衆の心情も含めた生活感覚や意識に、共感や想像を働かせるだけではなく、そこに身を置いてそれを熟知していたようだ。
ここまでを踏まえると、倒幕の流れに身を投じたのは、弱肉強食の構図を否定して、弱者に同情し弱者の側に立つ意志が、楠木正成には明確に存在していたからであろう。これは御家人の鎌倉武士の倫理基準ともいえる御恩と奉公とは明らかに違う。ここが実は楠木正成に対する最大の誤解だ。湊川の戦いの敗戦後、自刃した彼の首級は京で晒し首にされてしまうが、足利尊氏の配慮で一族の元に返されている。その後、観心寺に埋葬されて首塚として祀られた。以降、南北朝の戦乱が収束する迄は、北朝の天皇家の朝敵であり、室町幕府初代将軍足利尊氏を大いに苦しめた逆賊として、楠木正成は汚名を被り続ける。それが汚名返上となるのは、室町時代末期に正親町天皇が楠氏赦免の綸旨を発令したことであった。ここから逆流現象、つまり楠木正成に対する誤解が始まっていく。それまでとは真逆に、儒教的歴史観に立脚し尊王思想を礎とした忠君愛国の見本として祭り上げられていくのだ。特に江戸時代に天下の副将軍とよばれた水戸光圀が、観心寺の首塚とは別に大々的な公墓を建立してからは、楠木正成への誤解はエスカレートの一途を辿り、明治5年には明治天皇の神社創立の御沙汰により湊川神社が創建される。
朝敵や逆賊呼ばわりされていた人が、南木明神という神号まで与えられてしまったのだから、まさに史上稀に見る誤解の歴史になった。なお一族が亡骸を託した観心寺は弘法大師空海が開祖の真言宗の寺院だが、楠木正成は幼少期よりここで勉学に励んでいたらしい。倒幕を成就させる為の戦いでは、小勢力で大勢力に立ち向かう局面が多かった為、彼が戦術や戦略を巧緻に駆使するゲリラ戦に長けていたのは、観心寺で仏法のみならず兵学も多く学んでいたお陰ではないか。ただ高村光雲の手により生み出された楠木正成の顔には、彼が制作した別の人物の表情が垣間見えてくる。それは何を隠そうあの聖徳太子だ。
高村光雲の手になる聖徳太子像は、複数存在するのだが、壮年期の少し険しい眼差しをした木彫作品の「聖徳太子坐像」には、かなり「楠公像」に近い趣きが漂う。そして髭のない顔の嘆きを秘めた表情で、呟くようにほんの少し開いた口元からは、ある言葉が漏れてきそうだ。
「世間は虚仮なり、唯仏のみ是れ真なり」
この言葉である。鎌倉時代中期以降には、太子信仰が仏教の宗派を問わず、土に水が浸み込むようにして社会全体に広がっていく。法隆寺では空海を聖徳太子の再生として五尊曼荼羅が描かれたほどであった。恐らく楠木正成も太子信仰の洗礼を少なからず受けていたはずである。高村光雲の「聖徳太子坐像」が完成したのは明治44年のことで、日露戦争が終わってから6年の時が過ぎていた。
「楠公像」と「聖徳太子坐像」は日露戦争を挟んで、作者高村光雲の心の変遷を感じとることができる。「楠公像]において、馬上の楠木正成が手綱を締めて、勢いづき逸る馬を鎮めんとする姿は、戦争回避を示唆しているようだ。それでも残念なことに、日露戦争が現実に始まってしまい、約1年半ほどで終わったとはいえ、日露両国共に8万人以上もの戦没者を出した悲惨な実態と現状に対し「聖徳太子坐像」の聖徳太子は座ったまま静かに何かを言おうともしている。それは「何故、こんなことになってしまったのか」そのような問いかけかもしれない。そして「何故、こんなことになってしまったのか」は、「世間は虚仮なり、唯仏のみ是れ真なり」に繋がる。
後醍醐天皇への進言が受理されず、湊川の戦場に向かう楠木正成の心境も恐らく「世間は虚仮なり、唯仏のみ是れ真なり」ではなかったか。後世の軍記物語「太平記」では誤解されたまま、忠義に厚い三徳兼備の武将として描かれているが、楠木正成の人物像には、武将だけではなく民衆に近い素朴な商人や信心深い宗教人としての側面も多分にあったようだ。そして後醍醐天皇にも民衆を感知する視点はあったように思える。なぜなら建武の新政は、後醍醐天皇が企てた倒幕計画が3度目の正直で成功したケースであり、2度目の失敗では島流しの憂き目に遭うのだが、捕縛されるまで山野を着の身着のままで逃げ惑った姿を、他の皇族から王家の恥だと罵られている。しかしこの経験で彼は一瞬でも民衆の視点を知り、その地点にまで下りることができた。多分これがなければ鎌倉幕府を崩壊させる倒幕は有り得なかったであろう。
後醍醐天皇は、京の都を追われ吉野に逃れてから南朝政権を樹立するも、志半ばで約半世紀の生涯を終える。時折、湊川の戦いの件を思い出し、あの時、楠木正成の言う事を聞いていればと後悔していたようだ。彼の末路は、やはり独裁者的なリーダーに相応しい自業自得な終焉であったが、室町幕府が結局あっさりと鎌倉幕府をほぼ踏襲するような武家政権の路線で進みだしたことを考えると、建武の新政の立役者たちが誰一人脱落することなく、南北朝に分離もせず協調して政権運営を続けていたとしたら、中世の日本社会の経済や宗教、それに芸術の分野はかなり違ったものになっていたのではないか。楠木正成への誤解は、21世紀の現代になっても日本が表向きは民主主義の法治国家であるにもかかわらず、内実は緩い全体主義国家のようでもある原因の1つなのかもしれない。