先月の28日に経済アナリストでエコノミストの森永卓郎さんが他界されていた。ブログの場ではありますが、衷心よりご冥福をお祈りいたします。
森永さんは1990年代後半辺りからテレビ出演が増え、その漫画に登場しそうなユーモラスな風貌や雰囲気からとても親しみやすく、すっかりお茶の間の人気者にもなっていたようだ。しかしその発言は実のところ、非常に真面目な内容が多く、専門の経済の分野以外でオタク文化を語ったりもしていたが、日本社会や国際情勢の未来を真剣に考えておられた。それは数多くの彼の著作を読めばよく理解できる。
森永さんがタレントのように有名になりだした頃、私は既に社会人であったが、語り口はソフトでも反権力の軸が非常に確りとしており、注目に値する言論人として個人的な記憶に強く留めることになった。そして日本のバブル景気が弾けた後の1990年代後半以降、だらだらと続く平成不況が始まり、失われた20年とも揶揄されたこの時代は20年どころか、元号が平成から令和になっても殆ど回復の目途がたたないまま、もう30年を過ぎようとしている。こうした閉塞した時代状況の中で、世界的に格差社会が進行する絶望的な流れはこの日本でも例外なく顕著になってきた。
森永さんは一昨年に発覚したステージ4の癌に蝕まれてからは、過酷な闘病生活の中でもメディアでの発言や著作によって全力で警鐘を鳴らしていた。その主張に一貫しているのは、政府の経済政策が機能不全に陥っていることへの痛烈な批判だ。そこには弱者切り捨て、弱い者いじめを許さない方向に舵を切るべきだという信念が感じられる。しかしこの森永さんの強い信念は感情論などではなく、政府への具体的な政策の提案でもあった。そしてそれはつまるところ政府から国民への財政出動であろう。要は貧すれば鈍する状態の庶民が貯金に回さざるを得ない程度の少額ではなく、景気が刺激されるほど安心して消費に回せる量のお金をばら撒くべきだということである。
この失われた30年間、小泉内閣の構造改革や、安倍内閣のアベノミクスといった小さな政府による新自由主義や市場原理主義を肯定した路線は、数字の上でGDPが上向く局面はあったにせよ、大多数の国民は幸福になっていない。かつて一億総中流と形容された中間層が没落していき、幸福を実感できたのは少数派の勝ち組だけだ。しかもその勝ち組の中には2世3世の国会議員もいる。要するに人生のスタート地点で恵まれた境遇にいる人々とは裏腹に、負け組の敗者復活戦の機会均等に元々恵まれていない日本という国においては、このお粗末な状況はどう考えても不可解千万かつ不条理である。
森永さんは帰国子女で東大を卒業後は日本専売公社に新卒で入社しており、官僚ではなくともエリートの部類に入る。今のJTである日本専売公社には8年ほど在籍したが、退職後は財閥系の総合研究所へ移籍して暫し研究員を務めた。テレビ出演を始めたのはこの研究員の頃からだと思う。そして21世紀になり企業人から大学教員へ鞍替えすると、執筆活動も本格化し著作も増えていく。そんな物申すタレント森永卓郎が本領を発揮するステージへと移行した。
先月に人生の終点を迎えるまで、全身全霊をかけて真情を発露されていたが、その思想信条やビジョンは全くぶれなかった。それは先にも述べた通り、私たちが生きている社会が弱者切り捨て、弱い者いじめを許さない世界に変わらなければ、人類の未来は暗澹たるものだということ。これに尽きる。そしてこの間違った方向性の軌道修正とは、やはり政・官・財が特権を手放して富を民に還元する道であろう。この軌道修正を実行するのは容易ではないと思われるが、意外と森永さんは若いエリートの人々にそれを期待していたのかもしれない。
特に親ガチャなどではなく、受験戦争を含めた過酷な競争を不断の努力で勝ち抜き、給与待遇や福利厚生にも恵まれたエリートの領域に、やっと最初の一歩を刻んだ社会人1年生あたりに対してである。恐らく本来ならこうした若者は初期段階では高潔な志も持っているはずだ。ところが実際には、彼らの過酷な競争を勝ち抜いて得たスキルは、足の引っ張り合いのような出世競争でそのエネルギーを消費する形に変容してしまう。これは実に滑稽で馬鹿げた展開なのだが、既にエリートの領域にどっぷり浸かっている諸先輩方が、生臭い出世によって富み栄えている現状を目にすれば、その渦に巻き込まれて、世の為に人の為にといった高潔な志は忘却の彼方に消えていくのであろう。
多分、エリートからドロップアウトした森永さんは、自分のように外へ出てしまうのではなく、中に残って内部改革を進める人々が増えていくことに大きな期待を寄せていたのかもしれない。無論、彼の著書に触れた全ての読者に健全な変化を期待していたのは当然だとしても。そして他界から1箇月がまだ経過していない現在、図書館で森永卓郎の本を借りようとすると、大半が貸出中でしかも予約待ちになっている事実に唖然とさせられるが、これはそれだけ森永さんの言葉には説得力があり、本を読んだ人々の行動にもその影響力が発揮されるという証明でもあろう。
死期を悟った森永さんは、日本の今の国政のトップに立つ石破茂首相へ具体的な政策提言もされていた。それは経済政策における地方創生にはベーシックインカムの導入がベストだという提案である。確かにベーシックインカムは全ての対象者に分け隔てなく一定金額を定期的に支給する社会保障制度であり、大都市圏より所得が低く貧しい地方の人々の生活の質を改善するには優れた選択肢だ。
政府は今年度の地方創生交付金の倍増を掲げているが、地方創生の方向性は2014年の第2次安倍内閣でも実現しており、ここでも地域創生というスローガンで交付金を出していたが、国や地方自治体のプロジェクトに民間企業が受託者として参加して資金の交付を受けるケースが多かった。結果は10年以上経過しても地方と都市部の所得格差は是正できておらず、残念ながら実を結んでいない。これはやはりベーシックインカムのように対象者の1人1人へ、政府がお金を配る形になっていなかったからであろう。
ベーシックインカムの制度を完全導入した国は世界にまだ存在していない。しかしこの制度は全ての国民が衣食住において最低限の生活を営むことを保証することがその目的とされている。このビジョンは日本国憲法における3つの原則、国民主権と基本的人権の尊重と平和主義の、基本的人権の尊重に等しい。現段階の具体例としてはベーシックインカムを実験的に導入した国は、フィンランドとインドとカナダとオランダ、それにアメリカ合衆国だ。
興味深いのはカナダでオンタリオ州の貧困層4000人のみ対象に実施したケースで、これは州議会の選挙による政権交代で3年間しか実現しなかったが、実験時における対象者の貧困層は仕事を辞めずに健康状態も改善したという調査結果がでている。
またアメリカ合衆国はイリノイ州のシカゴ議会で2011年に議決し、低所得の5000世帯を対象に毎月500ドルを1年間のベーシックインカムプログラムとして実験的に支給したし、アラスカ州では州から産出する原油収入の25%をアラスカ恒久基金として積み立てて、対象者を全ての州民とし、毎年1000ドル以上1500ドル以下の範囲の配当金を支給している。つまりアラスカは厳寒の地で人口密度も低過ぎて住み易い環境ではないが、貧困の境遇から脱出するには格好の移住先なのかもしれない。
日本の場合、ベーシックインカムを導入するには労働市場と社会福祉やその財源の確保を含めた制度設計の整備をしてから踏み切るべきだと思うが、恐らく森永さんが捉えた財源とは、日銀による通貨発行益は勿論のこと、政・官・財が特権によって蓄積した富であろう。たとえば20世紀からずっと問題視されている天下りは、官民の癒着による予算や許認可の権限の乱用や、過剰な補助金という税金の無駄遣いから発生する暴利の構図だ。また10%の消費税を含めて過去最高に達した税収は国民に還元されなければ惨い搾取でしかない。
こうした暴利や重税というナンセンスを削除していけば財源は確保できるということではないか。また現在の日本社会の物価高に賃上げが追い付かない労働市場と、年金だけでは生活できない社会福祉の実態は、正直お先真っ暗の典型である。その意味でも政府は地方創生に限らず、ベーシックインカムの制度を真剣に検討するべきなのだ。
幸いにも森永さんのラストメッセージはこれからまだ受け取ることができる。今月も来月も新しい本が出版されるからだ。もう故人になられてしまったが、以下の著作から真摯な言葉と向き合う機会はまだ残されている。
・発言禁止 誰も書かなかったメディアの闇 2025/02/27
・日本人「総奴隷化」計画1985-2029 アナタの財布を狙う「国家の野望」 2025/03/01
・森永卓郎流「生き抜く技術」--31のラストメッセージ 2025/03/03
・この国でそれでも生きていく人たちへ 2025/03/06