静かなる絵
これは日本の安土桃山時代から江戸時代初期にかけて粉骨砕身し画業を大成させた長谷川等伯が、絵師としての理想形を表した言葉である。そしてその理想形は「松林図屏風」の完成により到達したと云っても過言ではない。無論、等伯その人がこの絵を完成させた後に、さらにその先に描きたい何かや何処かを感知したということは大いに有り得る。只、彼が精魂を込めて描いた絵の前で佇む私たち鑑賞者にしてみれば、世俗的な成功だけではなく大きな苦難や悲運にも見舞われた人生の約半世紀を越えた辺りで辿り着いたその希少な美に深い感銘を受けるのは当然だ。さらには絵と暫し対峙する時、私たちは感銘ばかりか、日本水墨画の最高峰とさえ評されるこの絵が、心を打つ慈悲深さを秘めた救済力さえをも内包していることを十二分に認識させられる。
古今東西の芸術家の多くは時の権力に翻弄され疲弊した生涯を送っている。彼らは作品を生み出す為の機会均等を望まざる権力に依拠していた。私は特にこの件については、望まざる権力であったことを強調したい。例えばフランス革命の激動期に活躍したジャック=ルイ・ダヴィッドは彼自身も革命を支持しジャコパン党員として民衆を指導する立場でもあった為に望んだ権力の一員でもあったわけだが、彼の作品はレオナルド・ダ・ヴィンチや長谷川等伯の作品には到底及ばない。彼の最高傑作である「ナポレオンの聖別式と皇妃ジョセフィーヌの戴冠」も圧倒されるのは卓越した技巧の迫力であって、この絵を鑑賞して精神の高揚が得れたとするならば、それは鑑賞する側が英雄礼賛や世俗権力に対する肯定感に捉われているからであろう。この為、重厚長大な「ナポレオンの聖別式と皇妃ジョセフィーヌの戴冠」も有名な馬上のナポレオンの雄姿を描いた「アルプスを越えるナポレオン」とさして印象は変わらない。よって絶望の淵にある人心を救うほどの純粋性とは無縁なのだ。それはむしろ理想とは乖離した現実の支配層たる官が民を洗脳する為に利用する高尚な道具のような存在に近い。
昨今、格差社会という言葉をよく耳にするようになった。ダヴィッドの描いた「ナポレオンの聖別式と皇妃ジョセフィーヌの戴冠」は格差の頂点に佇立するナポレオンへの最大級の賛辞であろう。この絵には極端な格差に対する問題意識は微塵も感じられない。ここで現代社会に生きる私たちは首を傾げることになる。奇しくもフランスの社会学者トマ・ピケティが著書「21世紀の資本」で述べているように、極端な格差の解決策は富裕層から貧困層への資本移動しかないだろう。そしてこの格差社会は現代になって突如現れた問題ではなく、人類の歴史において絶えず引き摺り続けてきた悪癖のようなものである。ピケティが解き明かしたように、20世紀の2度に渡る凄惨を極めた世界大戦で乱暴に資本移動は行われ、戦後に一端は格差社会が是正されたのは事実ではあるにせよ、このような暴力による問題解決は到底承服できるものではない。ましてや地球上に核兵器が山積されている現状では、世界大戦が勃発すれば間違いなくそこには破滅が待っているだけだ。さらに付け加えるならば、核兵器を使用しない通常兵器による戦闘や戦争に対しても、私たちは理性を失わずに否定の審判を堂々と下すべきである。それは大量殺戮の餌食になってしまった人々や、その暴力による圧制から逃れる為に国を捨てざるを得なくなった人々の身を思えば、なおさらそうすべきなのは自明の理だ。
私たち人類は文明を目覚ましく進歩させ、特に20世紀以降の革新的な科学技術の発展により、その進歩の速度はひたすらエスカレートし続けているわけだが、地球の支配者のように振舞ってきた私たちは、今一度謙虚にその足元を見つめるべきだろう。そして人類の進歩や科学技術の発展という目覚ましい変化を遂げた外の世界だけではなく、心という内面にもっと光を当てるべきなのだ。その意味では、AIの登場に私は希望的観測を抱いている。なぜなら、それは科学技術が人間の心という深淵な内向宇宙に新しい切り口で誠実に向き合うきっかけになっているように思えるからだ。今やAIはレンブラント作品の膨大なデータを解析し、模倣の表現技術に至っては人間の手になる贋作を超えた観さえもある。しかしそこにはレンブラント本人の生涯から反映される魂や信念の抽出は感じられない。確かに画面上で無数に交錯するレンブラントの筆触には彼の純粋な思いが込められているとはいえ、それをコンピュータで画像解析しても、デジタル処理の結果として出てきた答えはレンブラントの心の内奥には届かないだろう。ここまでの話を踏まえると、AIによる社会貢献で最も期待がもてるのは、芸術の分野ではなく実は政治なのではないか。人類の歴史において最大の不条理は戦乱と搾取だと思われる。政治の暴走から生じる戦乱と搾取の横行はこの世界を間違いなく不幸にしている。そして政治の暴走とは為政者の行動以前にその意思決定をする心に原因があり、そこを暴走しないよう制御できる仕組みをAIに任せれば最早、政治家は人間社会に必要ないのかもしれない。只、先に述べたダヴィッドのように権力に依存し、ナポレオンに熱狂する民衆を鼓舞するような芸術作品を生み出す芸術家が存在する限り、多くの人々は暴走する政治家を英雄のように崇め、栄光と繁栄が約束された未来を盲信し盲目的に追従していく。これは真に残念なことだと云わねばなるまい。
レオナルドや等伯が生きた時代は、洋の東西こそ違え中世から近世へ時代が転換していく時期であり、当然の如くまだ民主主義的な世の中ではなかった。それゆえ、日常的に自由にモノが言えて権力に異議申し立てが可能な社会とは違う。例えばレオナルドより年下で彼と同時代を生き、彼よりも長命だったミケランジェロは世紀の傑作「最後の審判」を制作する際に、必要経費はローマ教皇から完成後に支払うという条件で仕事に取り掛からされ、家賃もまともに払えず借金をしていたというほどだ。ところが彼らの手になる作品には厳しい管理と統制の下で生み出されたものであっても、そうした不条理を跳ね返す超越した輝きと強さがある。
等伯に話を戻せば、彼は時の権力者たる豊臣秀吉が喜びそうな派手で艶やかな作品も多く残してはいるが、「松林図屏風」には研ぎ澄まされた痛切なメッセージが込められているように思えてならない。それは戦国の世の膨大な犠牲者への鎮魂である。この松林の風景は、横に長い襖絵として完成しているが、大和絵の伝統である松林という素材に、雪舟が明に渡り学んだ中国古来の水墨画の縦に長い山水における遠景のみの風景に内在する神秘性を合成させ、そこには一種独特な雰囲気が漂う。山水の空間は画面上部の空遠、下部の平遠、そして中央の深遠により構成されており、この深遠にこそ絵師の心象が高い純度で映されている。等伯の「松林図屏風」には山水の空遠と深遠と平遠が重なり合い溶け合ったような趣きがあるが、空気遠近法により墨の濃淡と林立する木の大小により、鑑賞者は奥へ奥へと吸い込まれていく心地にさせられる。この慎ましやかで渋い林の中の木の一本一本は、静的な植物だけではなく動物をも含めた全ての生命の象徴であるかのようだ。そして霧と霞に包まれ徐々に透明になっていく空間の奥には生を終えた先の穏やかな来世が待っているように思われる。そこは神仏の世界であり、霧と霞こそが木の一本一本を優しく包む込むように触れてくる神仏の手や指なのだ。ここには戦国期に悲惨な死を遂げた無尽蔵の人々への哀悼が込められている。と同時に戦意のような荒ぶる心を鎮める静けさに満ちている。等伯自身はこの絵を制作中に息子を亡くす不幸に襲われており、また権力の頂点に座す豊臣秀吉が対外侵略である文禄の役を行った時期とも重なる。太閤たる秀吉がこの絵をどう評価したのかは藪の中だが、恐らく千利休の詫び寂びの世界を嫌っていた秀吉の心には響くものは何も無かったのかもしれない。しかしこの静かなる絵から、不戦のメッセージを秀吉が謙虚に受け取っていたとしたら、再度の大陸出兵である慶長の役や豊臣氏の崩壊は防げたのではないか。
これは日本の安土桃山時代から江戸時代初期にかけて粉骨砕身し画業を大成させた長谷川等伯が、絵師としての理想形を表した言葉である。そしてその理想形は「松林図屏風」の完成により到達したと云っても過言ではない。無論、等伯その人がこの絵を完成させた後に、さらにその先に描きたい何かや何処かを感知したということは大いに有り得る。只、彼が精魂を込めて描いた絵の前で佇む私たち鑑賞者にしてみれば、世俗的な成功だけではなく大きな苦難や悲運にも見舞われた人生の約半世紀を越えた辺りで辿り着いたその希少な美に深い感銘を受けるのは当然だ。さらには絵と暫し対峙する時、私たちは感銘ばかりか、日本水墨画の最高峰とさえ評されるこの絵が、心を打つ慈悲深さを秘めた救済力さえをも内包していることを十二分に認識させられる。
古今東西の芸術家の多くは時の権力に翻弄され疲弊した生涯を送っている。彼らは作品を生み出す為の機会均等を望まざる権力に依拠していた。私は特にこの件については、望まざる権力であったことを強調したい。例えばフランス革命の激動期に活躍したジャック=ルイ・ダヴィッドは彼自身も革命を支持しジャコパン党員として民衆を指導する立場でもあった為に望んだ権力の一員でもあったわけだが、彼の作品はレオナルド・ダ・ヴィンチや長谷川等伯の作品には到底及ばない。彼の最高傑作である「ナポレオンの聖別式と皇妃ジョセフィーヌの戴冠」も圧倒されるのは卓越した技巧の迫力であって、この絵を鑑賞して精神の高揚が得れたとするならば、それは鑑賞する側が英雄礼賛や世俗権力に対する肯定感に捉われているからであろう。この為、重厚長大な「ナポレオンの聖別式と皇妃ジョセフィーヌの戴冠」も有名な馬上のナポレオンの雄姿を描いた「アルプスを越えるナポレオン」とさして印象は変わらない。よって絶望の淵にある人心を救うほどの純粋性とは無縁なのだ。それはむしろ理想とは乖離した現実の支配層たる官が民を洗脳する為に利用する高尚な道具のような存在に近い。
昨今、格差社会という言葉をよく耳にするようになった。ダヴィッドの描いた「ナポレオンの聖別式と皇妃ジョセフィーヌの戴冠」は格差の頂点に佇立するナポレオンへの最大級の賛辞であろう。この絵には極端な格差に対する問題意識は微塵も感じられない。ここで現代社会に生きる私たちは首を傾げることになる。奇しくもフランスの社会学者トマ・ピケティが著書「21世紀の資本」で述べているように、極端な格差の解決策は富裕層から貧困層への資本移動しかないだろう。そしてこの格差社会は現代になって突如現れた問題ではなく、人類の歴史において絶えず引き摺り続けてきた悪癖のようなものである。ピケティが解き明かしたように、20世紀の2度に渡る凄惨を極めた世界大戦で乱暴に資本移動は行われ、戦後に一端は格差社会が是正されたのは事実ではあるにせよ、このような暴力による問題解決は到底承服できるものではない。ましてや地球上に核兵器が山積されている現状では、世界大戦が勃発すれば間違いなくそこには破滅が待っているだけだ。さらに付け加えるならば、核兵器を使用しない通常兵器による戦闘や戦争に対しても、私たちは理性を失わずに否定の審判を堂々と下すべきである。それは大量殺戮の餌食になってしまった人々や、その暴力による圧制から逃れる為に国を捨てざるを得なくなった人々の身を思えば、なおさらそうすべきなのは自明の理だ。
私たち人類は文明を目覚ましく進歩させ、特に20世紀以降の革新的な科学技術の発展により、その進歩の速度はひたすらエスカレートし続けているわけだが、地球の支配者のように振舞ってきた私たちは、今一度謙虚にその足元を見つめるべきだろう。そして人類の進歩や科学技術の発展という目覚ましい変化を遂げた外の世界だけではなく、心という内面にもっと光を当てるべきなのだ。その意味では、AIの登場に私は希望的観測を抱いている。なぜなら、それは科学技術が人間の心という深淵な内向宇宙に新しい切り口で誠実に向き合うきっかけになっているように思えるからだ。今やAIはレンブラント作品の膨大なデータを解析し、模倣の表現技術に至っては人間の手になる贋作を超えた観さえもある。しかしそこにはレンブラント本人の生涯から反映される魂や信念の抽出は感じられない。確かに画面上で無数に交錯するレンブラントの筆触には彼の純粋な思いが込められているとはいえ、それをコンピュータで画像解析しても、デジタル処理の結果として出てきた答えはレンブラントの心の内奥には届かないだろう。ここまでの話を踏まえると、AIによる社会貢献で最も期待がもてるのは、芸術の分野ではなく実は政治なのではないか。人類の歴史において最大の不条理は戦乱と搾取だと思われる。政治の暴走から生じる戦乱と搾取の横行はこの世界を間違いなく不幸にしている。そして政治の暴走とは為政者の行動以前にその意思決定をする心に原因があり、そこを暴走しないよう制御できる仕組みをAIに任せれば最早、政治家は人間社会に必要ないのかもしれない。只、先に述べたダヴィッドのように権力に依存し、ナポレオンに熱狂する民衆を鼓舞するような芸術作品を生み出す芸術家が存在する限り、多くの人々は暴走する政治家を英雄のように崇め、栄光と繁栄が約束された未来を盲信し盲目的に追従していく。これは真に残念なことだと云わねばなるまい。
レオナルドや等伯が生きた時代は、洋の東西こそ違え中世から近世へ時代が転換していく時期であり、当然の如くまだ民主主義的な世の中ではなかった。それゆえ、日常的に自由にモノが言えて権力に異議申し立てが可能な社会とは違う。例えばレオナルドより年下で彼と同時代を生き、彼よりも長命だったミケランジェロは世紀の傑作「最後の審判」を制作する際に、必要経費はローマ教皇から完成後に支払うという条件で仕事に取り掛からされ、家賃もまともに払えず借金をしていたというほどだ。ところが彼らの手になる作品には厳しい管理と統制の下で生み出されたものであっても、そうした不条理を跳ね返す超越した輝きと強さがある。
等伯に話を戻せば、彼は時の権力者たる豊臣秀吉が喜びそうな派手で艶やかな作品も多く残してはいるが、「松林図屏風」には研ぎ澄まされた痛切なメッセージが込められているように思えてならない。それは戦国の世の膨大な犠牲者への鎮魂である。この松林の風景は、横に長い襖絵として完成しているが、大和絵の伝統である松林という素材に、雪舟が明に渡り学んだ中国古来の水墨画の縦に長い山水における遠景のみの風景に内在する神秘性を合成させ、そこには一種独特な雰囲気が漂う。山水の空間は画面上部の空遠、下部の平遠、そして中央の深遠により構成されており、この深遠にこそ絵師の心象が高い純度で映されている。等伯の「松林図屏風」には山水の空遠と深遠と平遠が重なり合い溶け合ったような趣きがあるが、空気遠近法により墨の濃淡と林立する木の大小により、鑑賞者は奥へ奥へと吸い込まれていく心地にさせられる。この慎ましやかで渋い林の中の木の一本一本は、静的な植物だけではなく動物をも含めた全ての生命の象徴であるかのようだ。そして霧と霞に包まれ徐々に透明になっていく空間の奥には生を終えた先の穏やかな来世が待っているように思われる。そこは神仏の世界であり、霧と霞こそが木の一本一本を優しく包む込むように触れてくる神仏の手や指なのだ。ここには戦国期に悲惨な死を遂げた無尽蔵の人々への哀悼が込められている。と同時に戦意のような荒ぶる心を鎮める静けさに満ちている。等伯自身はこの絵を制作中に息子を亡くす不幸に襲われており、また権力の頂点に座す豊臣秀吉が対外侵略である文禄の役を行った時期とも重なる。太閤たる秀吉がこの絵をどう評価したのかは藪の中だが、恐らく千利休の詫び寂びの世界を嫌っていた秀吉の心には響くものは何も無かったのかもしれない。しかしこの静かなる絵から、不戦のメッセージを秀吉が謙虚に受け取っていたとしたら、再度の大陸出兵である慶長の役や豊臣氏の崩壊は防げたのではないか。