想:創:SO

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ナイロビの蜂

2016-06-22 16:24:55 | 日記
この映画は2005年制作のイギリス映画で、監督はブラジル人の社会派、凝ったカメラワークを駆使した映像を撮ることでも定評のあるフェルナンド・メイレレスである。メイレレス監督は前作の「シティ・オブ・ゴッド」でアカデミー監督賞にノミネートされており、この「ナイロビの蜂」ではヒロイン役のレイチェル・ワイズがアカデミー助演女優賞を受賞している。日本で公開されたのは2006年だが、私がベスト10に選んだ映画の中では一番新しい。

まず「ナイロビの蜂」について語る前に「シティ・オブ・ゴッド」について少し触れたい。これはブラジルのリオデジャネイロのスラムを舞台にしたストリートチルドレンによるギャング顔負けの抗争劇である。実話が元になっており、貧困層が暴力を信望し行使することで貧困から抜け出していくが、次第に強固な連帯感も生まれ厳しい掟に縛られた強権的組織になっていく。麻薬商売にも手を染め、警察も癒着している闇ルートから武器を調達したり、銀行強盗までやってのけたりして武装集団が拡大していく様は辟易するほどにエネルギッシュだ。そんな荒み果てたスラムの現実を照射しながら、外部の公権力やマスコミの冷淡さも垣間見せる。この物語に一筋の希望があるとするなら、意中の女性への愛が届かない哀愁漂う青年が地道にカメラマンを目指す姿であろう。事実、彼が撮った写真は抗争を収束させる鍵となる。そして彼は死と隣り合わせのように危険極まりないスラムでも最終的に生き残った。メイレレス監督は暴力に支配されたスラムを描くことで、暴力による問題解決が実に無効で無意味なことであるのかを見事に証明している。只、「シティ・オブ・ゴッド」の映像世界はスラムのストリートチルドレンの地域社会にほぼ限定されており、具体的な社会批判としては物足りない面が感じられなくもない。実際、貧困層とは対極の富裕層の腐敗腐臭の描写は、スラムというレンズを透して見え隠れはするのだが希薄である。恐らくメイレレス監督が「シティ・オブ・ゴッド」における自身の問題意識をさらに深く掘り下げ、やり残したことを昇華させるべく意欲的に取り組んだのが、この「ナイロビの蜂」ではないかと思われる。

「ナイロビの蜂」では「シティ・オブ・ゴッド」から一気に世界が広がる。まず登場人物たちの行動範囲が地球規模である。アフリカとヨーロッパを股にかけて活躍する。レイフ・ファインズ演じる主人公の男性は謙虚で物静かな外交官のイギリス人。この性格設定は「シティ・オブ・ゴッド」に登場したカメラ小僧の青年に少し似ている。カメラ小僧の愛は成就しなかったが、それとは対照的にこの外交官はいとも簡単に愛する女性を手に入れる。お互いが一目惚れとはいえ押しかけ女房のようにずんずん女が迫ってきて、すんなり結婚し妻になってしまうという展開だ。このあたり、妻を演じるレイチェル・ワイズが実にはまり役で魅力的である。男が静で女が動という夫婦。夫は保守的で穏やかな体制側の人間であり、妻は弁護士で医療ボランティアにも熱心に取り組む救援活動家である。月と太陽、光と影のように正反対だが仲睦まじいカップル。ところがこの物語では美しい妻やその妻と過ごす日常的な情景は夫の回想シーンにしか現れない。なぜなら冒頭で夫は妻の謎の死に直面するからだ。妻は救援活動の同僚男性の黒人医師と共に殺害されていた。突然の悲劇。夫は当然のように真相究明にのり出す。殺された状況や周囲の詮索から夫の心に不倫の疑惑まで浮かびはするのだが、心の深奥には妻への不信は微塵も感じられない。それは富も名誉も約束されているエリートの夫が、いつしか共に暮らす日々の中で無意識ではあっても、ひたすら搾取され続ける貧しく弱き人々に対し無限の共感を抱きながら奉仕する人道的で正義感の強い妻から啓蒙されていたからであろう。謎を謎のままにしない為に疾走し続ける夫は静かなる人から行動の人へと変貌していく。体制側から反体制側へと身を転じる。その姿は生前の妻がのりうつったが如きである。つまり現実世界において妻は死人でも、夫の心の中ではまだ死んではいないのだ。アフリカの雄大で美麗な自然が特にそれを感じさせる。妻の魂が空や大地に溶けて夫に絶えず寄り添っているかのようである。

この映画にもスラムが映し出される。ケニアの首都ナイロビ周辺に存在する巨大なスラム街で、恐るべきことにここには巨悪ともいえる世界的陰謀が埋めいていた。劣悪な医療施設で先進国の大企業たる製薬会社が大規模に治験を行っていたのである。命の尊さとは無縁の安価な人体実験の成立。これは「シティ・オブ・ゴッド」のスラムよりもはるかに始末が悪い。効率性を究極まで推し進めて暴利を貪るという弱肉強食のシステム。アフリカの紛争地域の難民キャンプに空輸で投げ捨てられる救援物資の僅かな薬や食料さえも、この非情で冷徹なシステムの計画に組み込まれているとしか思えない。私たちの世界における富裕な贅沢の享受者が膨大な救いようのない貧困地帯の礎の上にあること。これを告発し露見させることこそが、前作では辿りつけなかったメイレレス監督の最大の意図であろう。そして鑑賞者に対しこうした不条理の否定への共感や自覚を呼び起こす為に、純粋な愛の物語が紡ぎ出されているともいえる。夫が生前の妻の志を継いでそれを成しとげる。つまり権力に屈することなく、国家と多国籍企業が癒着した不正を暴きそれを裁くのだ。夫の回想シーンにおける夫婦の様子からは、妻の救援活動に対する夫の過干渉は感じられない。妻もまたそれを良しとしている。そこから見えてくるのは、妻自身の行動が危険水域に達し、夫を権力から守ろうとする配慮だ。真相に近づくにつれ、夫は妻の自分への深い愛を知る。結末を悲劇と解釈するか、生きている夫が死んだ妻の許へと帰る愛の成就と解釈するかは人それぞれである。
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フルメタル・ジャケット

2016-06-11 11:14:47 | 日記
ベトナム戦争を題材にした数多くの映画の中でも、この「フルメタル・ジャケット」は特異な作品である。監督は「2001年宇宙の旅」や「時計仕掛けのオレンジ」を世に出した鬼才スタンリー・キューブリック。

キューブリックその人が非常に個性が強く異能の映画人としても有名だが、それはベトナム戦争の映画の大半が東南アジアで撮影しているにも関わらず、この「フルメタル・ジャケット」がイギリスで熱帯のセットを利用し撮影されたことでもわかる。多分、キューブリックの意図はベトナム戦争は単なるモチーフで、主題はモチーフの奥にあるのだと想像できる。そうした仕掛けがやはりキューブリックならではだ。たとえば「地獄の黙示録」、「ディア・ハンター」、「プラトーン」は戦場の撮影現場が東南アジアだし、この3つの名作をCG技術のない時代にセットでやったとしたら失敗しただろう。またこの3作はベトナム戦争を否定的に描いており戦場の英雄などは存在しない。「プラトーン」の場合には監督オリバー・ストーンがベトナム帰還兵であり、監督自身の実体験が色濃く反映されている。「ディア・ハンター」はどちらかといえば、小市民だったアメリカ兵が戦争に巻き込まれた犠牲者として描かれている側面が強い。「地獄の黙示録」は戦争の混沌と狂気を執拗に舐めるように大迫力で描いている。この3作を視聴した後に戦争を肯定的に捉えられる感想を抱く人はまずいないだろう。

では「フルメタル・ジャケット」はどうなのか?この映画も同様に戦争を否定的に描いている。ゆえに戦場の英雄は不在。しかし他の3作よりもずっと奥が深く異質だ。この映画は前半と後半で明確に時間と空間が大きく変化する。前半は若者が兵士になる為の過酷な訓練の過程であり、後半は実際の戦場での兵士の行動だ。まず前半に訓練生を徹底的にしごく軍曹が登場。単なる鬼軍曹ではなく人間を支配する組織における巧緻な統治能力をも有する。情け容赦なく下劣な言葉で罵り体罰も敢行し、パワーハラスメントのオンパレードを繰り広げる。ただし罵倒する言葉が殆ど下ネタのギャグで、これがなかったら映画を鑑賞する者には前半の映像は耐え難いものになっただろう。この前半でキューブリックの意図が見えてくる。彼は相当に深く掘り下げて戦争を考察し、戦争を動かす組織、その組織に適応した人間に疑念の目を向けている。こうした視点は前述の3作にも感じられなくはないが、映画の主人公には希薄である。むしろ主人公は良心をもった語り部に近い。ここが重要である。戦争映画の主人公に善意や良心や正気が存在するからこそ、戦争が悲劇や惨禍に溢れた一大叙事詩と化してしまうからだ。

ところが「フルメタル・ジャケット」では全ての登場人物が、戦争という怪物によって精神を病む。そして前半の戦場へ赴く前の訓練の段階、若者の正気が狂気へと変質する様相を丹念に描いたことで、キューブリックはそれ迄の戦争映画にはなかった新しいメッセージを発している。それは、戦争を無くすには戦争を起こすメカニズムから疑えということである。単なる反戦では戦争は無くならない。それでは既にどこかで起きてしまった戦争を終結させることはできても、戦争そのものを無にすることはできないからだ。そもそも戦争を発生させることなく、完全な無にするには、きっと私たち人類の文明そのものを根底から改変させる必要があるのだ。そこがキューブリックの卓見であろう。

この映画には軍隊内部における陰湿な虐めも描写されているが、こういう嫌悪感を伴った卑しい現状は、意外と戦争とは殆ど無縁の私たちの身近な社会にもあるものだ。学校や職場でも頻度こそ違え、そこには多くの不条理が存在する。日本社会だと村八分という概念が非常にわかりやすい。要は集団内部での異端視された個人の排撃や削除である。恐らく戦争の始まりは日常生活の人々の心の中で、ひっそりと戦争のような不条理が生まれてしまうことだ。それは敵をつくり敵を滅ぼす戦争を容認し肯定する心であろう。そんな心をもった為政者は暴力による問題解決を躊躇しないし、そうした政策を支持する人民も心はその為政者と同じである。「フルメタル・ジャケット」に登場した若者たちも海兵隊に志願した段階で心の中に戦争が棲んでしまったともいえる。このようなメッセージは、「ディア・ハンター」、「地獄の黙示録」、「プラトーン」の映像からは感じられない。

映画の後半、つまり戦場の光景には衝撃的な切迫したシーンが多い。ヘリから眼下のベトナム農民を淡々と無差別に射撃し殺戮する冷酷な兵士の姿。小隊長の小石が落ちるが如くあっけなくも悲痛な戦死による部隊の焦燥と混乱。狙った獲物を必殺の技術で仕留める強靭で精巧な敵スナイパーからの攻撃。真綿で首を絞められるように敵に追い詰められ、戦場の恐怖が頂点に達した時に露わになったスナイパーの正体に驚愕する兵士たち。

映画のラストで、闇夜の中を歩行する兵士たちは、ディズニーのミッキーマウスの歌を朴訥と歌う。ミッキーマウスはアメリカ文化を良心的に象徴するキャラクターだ。正義感が強く、優しく陽気で礼儀正しいがルーズな面もある。そしてミッキーマウスを生み出したディズニーが創造する物語のコンセプトは、「自然との共生」、「異文化間の相互理解」、「信念を貫くことの大切さ」である。この最後の演出で、キューブリックが戦争を起こす人類に絶望しながらも、決して希望を捨ててはいないことがわかる。この映画を鑑賞すると私には夢物語ではなく、いつか遠い未来に人類が戦争を完全に放棄する日が来ることを、キューブリックが確信しているようにさえ思えるのだ。

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独断と偏見の映画ベスト10

2016-06-07 15:34:11 | 日記
CATVに加入してからというもの、映画を録画する機会が増えた。過去に鑑賞した思い出の名作も含め、録画したDVDは積み上がり結構な体積を有している。リヴィングの棚には未視聴のものと視聴済のものが収まり、視聴済でとりあえず暫くはもう縁がないだろうという映画は、めったに開けることのない箱の中に格納されている。というわけで今回は、個人的な趣味で集積された映画群から、独断と偏見に満ちた映画のベスト10を上げてみた。その際、同じ監督の作品からは1作のみ選ぶという選考基準にしました。

1. 「惑星ソラリス」(アンドレイ・タルコフスキー 監督作品)
2. 「近松物語」 (溝口健二 監督作品)
3. 「去年マリエンバートで」(アラン・レネ 監督作品)
4. 「ルードウィヒ」(ルキノ・ヴィスコンティ 監督作品)
5. 「見出された時」(ラウル・ルイス 監督作品)
6. 「ガンジー」 (リチャード・アッテンポロー 監督作品)
7. 「蜘蛛巣城」 (黒澤明 監督作品)
8. 「シックスセンス」(ナイト・シャラマン 監督作品)
9. 「ナイロビの蜂」(フェルナンド・メイレレス 監督作品)
10. 「フルメタル・ジャケット」(スタンリー・キューブリック 監督作品)

こうして10作選んでみると、我ながらかなり個人的な趣味の世界でしかないということを痛感する。映画といえば冒険活劇は定番である筈なのに、それっぽいのは7位の「蜘蛛巣城」と10位の「フルメタル・ジャケット」の2作しかない。只、これをベスト30くらいに広げればかなり内容もバラエティーに富んでくるだろう。「ゴッド・ファーザー」や「アラビアのロレンス」も当然ランクインしてくるからだ。
次回は、まず10位となった「フルメタル・ジャケット」を。


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