この映画は2005年制作のイギリス映画で、監督はブラジル人の社会派、凝ったカメラワークを駆使した映像を撮ることでも定評のあるフェルナンド・メイレレスである。メイレレス監督は前作の「シティ・オブ・ゴッド」でアカデミー監督賞にノミネートされており、この「ナイロビの蜂」ではヒロイン役のレイチェル・ワイズがアカデミー助演女優賞を受賞している。日本で公開されたのは2006年だが、私がベスト10に選んだ映画の中では一番新しい。
まず「ナイロビの蜂」について語る前に「シティ・オブ・ゴッド」について少し触れたい。これはブラジルのリオデジャネイロのスラムを舞台にしたストリートチルドレンによるギャング顔負けの抗争劇である。実話が元になっており、貧困層が暴力を信望し行使することで貧困から抜け出していくが、次第に強固な連帯感も生まれ厳しい掟に縛られた強権的組織になっていく。麻薬商売にも手を染め、警察も癒着している闇ルートから武器を調達したり、銀行強盗までやってのけたりして武装集団が拡大していく様は辟易するほどにエネルギッシュだ。そんな荒み果てたスラムの現実を照射しながら、外部の公権力やマスコミの冷淡さも垣間見せる。この物語に一筋の希望があるとするなら、意中の女性への愛が届かない哀愁漂う青年が地道にカメラマンを目指す姿であろう。事実、彼が撮った写真は抗争を収束させる鍵となる。そして彼は死と隣り合わせのように危険極まりないスラムでも最終的に生き残った。メイレレス監督は暴力に支配されたスラムを描くことで、暴力による問題解決が実に無効で無意味なことであるのかを見事に証明している。只、「シティ・オブ・ゴッド」の映像世界はスラムのストリートチルドレンの地域社会にほぼ限定されており、具体的な社会批判としては物足りない面が感じられなくもない。実際、貧困層とは対極の富裕層の腐敗腐臭の描写は、スラムというレンズを透して見え隠れはするのだが希薄である。恐らくメイレレス監督が「シティ・オブ・ゴッド」における自身の問題意識をさらに深く掘り下げ、やり残したことを昇華させるべく意欲的に取り組んだのが、この「ナイロビの蜂」ではないかと思われる。
「ナイロビの蜂」では「シティ・オブ・ゴッド」から一気に世界が広がる。まず登場人物たちの行動範囲が地球規模である。アフリカとヨーロッパを股にかけて活躍する。レイフ・ファインズ演じる主人公の男性は謙虚で物静かな外交官のイギリス人。この性格設定は「シティ・オブ・ゴッド」に登場したカメラ小僧の青年に少し似ている。カメラ小僧の愛は成就しなかったが、それとは対照的にこの外交官はいとも簡単に愛する女性を手に入れる。お互いが一目惚れとはいえ押しかけ女房のようにずんずん女が迫ってきて、すんなり結婚し妻になってしまうという展開だ。このあたり、妻を演じるレイチェル・ワイズが実にはまり役で魅力的である。男が静で女が動という夫婦。夫は保守的で穏やかな体制側の人間であり、妻は弁護士で医療ボランティアにも熱心に取り組む救援活動家である。月と太陽、光と影のように正反対だが仲睦まじいカップル。ところがこの物語では美しい妻やその妻と過ごす日常的な情景は夫の回想シーンにしか現れない。なぜなら冒頭で夫は妻の謎の死に直面するからだ。妻は救援活動の同僚男性の黒人医師と共に殺害されていた。突然の悲劇。夫は当然のように真相究明にのり出す。殺された状況や周囲の詮索から夫の心に不倫の疑惑まで浮かびはするのだが、心の深奥には妻への不信は微塵も感じられない。それは富も名誉も約束されているエリートの夫が、いつしか共に暮らす日々の中で無意識ではあっても、ひたすら搾取され続ける貧しく弱き人々に対し無限の共感を抱きながら奉仕する人道的で正義感の強い妻から啓蒙されていたからであろう。謎を謎のままにしない為に疾走し続ける夫は静かなる人から行動の人へと変貌していく。体制側から反体制側へと身を転じる。その姿は生前の妻がのりうつったが如きである。つまり現実世界において妻は死人でも、夫の心の中ではまだ死んではいないのだ。アフリカの雄大で美麗な自然が特にそれを感じさせる。妻の魂が空や大地に溶けて夫に絶えず寄り添っているかのようである。
この映画にもスラムが映し出される。ケニアの首都ナイロビ周辺に存在する巨大なスラム街で、恐るべきことにここには巨悪ともいえる世界的陰謀が埋めいていた。劣悪な医療施設で先進国の大企業たる製薬会社が大規模に治験を行っていたのである。命の尊さとは無縁の安価な人体実験の成立。これは「シティ・オブ・ゴッド」のスラムよりもはるかに始末が悪い。効率性を究極まで推し進めて暴利を貪るという弱肉強食のシステム。アフリカの紛争地域の難民キャンプに空輸で投げ捨てられる救援物資の僅かな薬や食料さえも、この非情で冷徹なシステムの計画に組み込まれているとしか思えない。私たちの世界における富裕な贅沢の享受者が膨大な救いようのない貧困地帯の礎の上にあること。これを告発し露見させることこそが、前作では辿りつけなかったメイレレス監督の最大の意図であろう。そして鑑賞者に対しこうした不条理の否定への共感や自覚を呼び起こす為に、純粋な愛の物語が紡ぎ出されているともいえる。夫が生前の妻の志を継いでそれを成しとげる。つまり権力に屈することなく、国家と多国籍企業が癒着した不正を暴きそれを裁くのだ。夫の回想シーンにおける夫婦の様子からは、妻の救援活動に対する夫の過干渉は感じられない。妻もまたそれを良しとしている。そこから見えてくるのは、妻自身の行動が危険水域に達し、夫を権力から守ろうとする配慮だ。真相に近づくにつれ、夫は妻の自分への深い愛を知る。結末を悲劇と解釈するか、生きている夫が死んだ妻の許へと帰る愛の成就と解釈するかは人それぞれである。
まず「ナイロビの蜂」について語る前に「シティ・オブ・ゴッド」について少し触れたい。これはブラジルのリオデジャネイロのスラムを舞台にしたストリートチルドレンによるギャング顔負けの抗争劇である。実話が元になっており、貧困層が暴力を信望し行使することで貧困から抜け出していくが、次第に強固な連帯感も生まれ厳しい掟に縛られた強権的組織になっていく。麻薬商売にも手を染め、警察も癒着している闇ルートから武器を調達したり、銀行強盗までやってのけたりして武装集団が拡大していく様は辟易するほどにエネルギッシュだ。そんな荒み果てたスラムの現実を照射しながら、外部の公権力やマスコミの冷淡さも垣間見せる。この物語に一筋の希望があるとするなら、意中の女性への愛が届かない哀愁漂う青年が地道にカメラマンを目指す姿であろう。事実、彼が撮った写真は抗争を収束させる鍵となる。そして彼は死と隣り合わせのように危険極まりないスラムでも最終的に生き残った。メイレレス監督は暴力に支配されたスラムを描くことで、暴力による問題解決が実に無効で無意味なことであるのかを見事に証明している。只、「シティ・オブ・ゴッド」の映像世界はスラムのストリートチルドレンの地域社会にほぼ限定されており、具体的な社会批判としては物足りない面が感じられなくもない。実際、貧困層とは対極の富裕層の腐敗腐臭の描写は、スラムというレンズを透して見え隠れはするのだが希薄である。恐らくメイレレス監督が「シティ・オブ・ゴッド」における自身の問題意識をさらに深く掘り下げ、やり残したことを昇華させるべく意欲的に取り組んだのが、この「ナイロビの蜂」ではないかと思われる。
「ナイロビの蜂」では「シティ・オブ・ゴッド」から一気に世界が広がる。まず登場人物たちの行動範囲が地球規模である。アフリカとヨーロッパを股にかけて活躍する。レイフ・ファインズ演じる主人公の男性は謙虚で物静かな外交官のイギリス人。この性格設定は「シティ・オブ・ゴッド」に登場したカメラ小僧の青年に少し似ている。カメラ小僧の愛は成就しなかったが、それとは対照的にこの外交官はいとも簡単に愛する女性を手に入れる。お互いが一目惚れとはいえ押しかけ女房のようにずんずん女が迫ってきて、すんなり結婚し妻になってしまうという展開だ。このあたり、妻を演じるレイチェル・ワイズが実にはまり役で魅力的である。男が静で女が動という夫婦。夫は保守的で穏やかな体制側の人間であり、妻は弁護士で医療ボランティアにも熱心に取り組む救援活動家である。月と太陽、光と影のように正反対だが仲睦まじいカップル。ところがこの物語では美しい妻やその妻と過ごす日常的な情景は夫の回想シーンにしか現れない。なぜなら冒頭で夫は妻の謎の死に直面するからだ。妻は救援活動の同僚男性の黒人医師と共に殺害されていた。突然の悲劇。夫は当然のように真相究明にのり出す。殺された状況や周囲の詮索から夫の心に不倫の疑惑まで浮かびはするのだが、心の深奥には妻への不信は微塵も感じられない。それは富も名誉も約束されているエリートの夫が、いつしか共に暮らす日々の中で無意識ではあっても、ひたすら搾取され続ける貧しく弱き人々に対し無限の共感を抱きながら奉仕する人道的で正義感の強い妻から啓蒙されていたからであろう。謎を謎のままにしない為に疾走し続ける夫は静かなる人から行動の人へと変貌していく。体制側から反体制側へと身を転じる。その姿は生前の妻がのりうつったが如きである。つまり現実世界において妻は死人でも、夫の心の中ではまだ死んではいないのだ。アフリカの雄大で美麗な自然が特にそれを感じさせる。妻の魂が空や大地に溶けて夫に絶えず寄り添っているかのようである。
この映画にもスラムが映し出される。ケニアの首都ナイロビ周辺に存在する巨大なスラム街で、恐るべきことにここには巨悪ともいえる世界的陰謀が埋めいていた。劣悪な医療施設で先進国の大企業たる製薬会社が大規模に治験を行っていたのである。命の尊さとは無縁の安価な人体実験の成立。これは「シティ・オブ・ゴッド」のスラムよりもはるかに始末が悪い。効率性を究極まで推し進めて暴利を貪るという弱肉強食のシステム。アフリカの紛争地域の難民キャンプに空輸で投げ捨てられる救援物資の僅かな薬や食料さえも、この非情で冷徹なシステムの計画に組み込まれているとしか思えない。私たちの世界における富裕な贅沢の享受者が膨大な救いようのない貧困地帯の礎の上にあること。これを告発し露見させることこそが、前作では辿りつけなかったメイレレス監督の最大の意図であろう。そして鑑賞者に対しこうした不条理の否定への共感や自覚を呼び起こす為に、純粋な愛の物語が紡ぎ出されているともいえる。夫が生前の妻の志を継いでそれを成しとげる。つまり権力に屈することなく、国家と多国籍企業が癒着した不正を暴きそれを裁くのだ。夫の回想シーンにおける夫婦の様子からは、妻の救援活動に対する夫の過干渉は感じられない。妻もまたそれを良しとしている。そこから見えてくるのは、妻自身の行動が危険水域に達し、夫を権力から守ろうとする配慮だ。真相に近づくにつれ、夫は妻の自分への深い愛を知る。結末を悲劇と解釈するか、生きている夫が死んだ妻の許へと帰る愛の成就と解釈するかは人それぞれである。