前回、コンスタンティヌス大帝について書いた。彼を表現した彫像は古代ローマ帝国歴代皇帝たちの中でも、非常に個性豊かで完成度も高い。そして実はこれを参考にしたような彫刻作品が日本に現存している。ひよっとしたらここまでの前置きで、直感的に気付かれた人もいるかもしれない。ではそれが何かというと、今も東京の上野公園で拝見できる、あの有名な「西郷隆盛像」である。作者は高村光雲。幕末の嘉永5年に誕生した彼は近代日本美術史において、仏師かつ彫刻家として偉大な足跡を残した人だ。
ただしこの「西郷隆盛像」、犬の彫像は高村光雲の手になるものではない。彼の弟子で動物の彫刻表現を得意とした後藤貞之による。そして皇居前広場に設置された騎乗姿の「楠公像」も、馬はその後藤貞之が担当している。また高村光雲は仏師であることからその制作技術において木彫こそが、基本であり全てでもあった。つまり大理石から形を掘り起こすようなことはせず、木を掘り刻んだ末に木造の原型を完成させて、この原型から鋳型を作り、そこへ銅を流しこんで出来上がったのが、あの「西郷隆盛像」だ。
実際に上野公園にこの銅像が設置されたのは明治31年、西暦だと1898年で、明治維新以降の近代日本が日清戦争に勝利して数年後のことであった。戦後にはフランスどドイツとロシアから三国干渉があったものの、清国から多額の賠償金を得て、戦勝国として国際的地位が向上していく段階で、そんな帝国主義の欧米列強諸国を見習うようにして大陸進出の足場を築いていく時期に、高村光雲は制作の依頼を、彼自身が教授職を勤める東京美術学校から依頼されている。
ここからは少し高村光雲その人の、職人及び芸術家としての内面に迫ってみたい。先に述べたように光雲は、江戸時代末期にこの世に生まれ、少年期から青年期にかけては幕末動乱期をリアルタイムで生きていたわけだが、その頃から師の高村東雲の元で既に仏師の仕事をしていた。当時の仏教は、朝廷や将軍家といった権威や権力を肯定する儒教の社会通念を補強するような形で、江戸幕府に保護されており、また初代将軍の徳川家康が全ての仏教勢力を武装解除し、法整備により幕府御用達の官僚組織に改変していた。要は寺院をお役所のようなものに変質させてしまったのだ。実際、私たち日本人の大半は人生の終わりには葬式仏教のお世話になるのだが、これは江戸時代以降に寺社が戸籍管理を幕府から委任されていたからである。この為、親の葬儀の準備をする段になって、はじめて実家の仏教の宗派を知ったという話はよく聞く。
高村光雲自身は、仏師という仕事柄、仏に仕える身ではあっても僧籍や宗派には属してはいない。しかしながらだからこそ、宗派の垣根を超えた普遍的な仏教精神を持ち得ていたようだ。またその仕事は直向きに仏像美術に携わる創造作業であった。そして個人では完遂できない、つまり共同作業によって成果物が完成する場合も多く、当然のこと工房に所属していた。彼の師は高村東雲だが、町民出身であった光雲は東雲の姉の養子になり、高村姓を名乗って後継者になっている。ここまでの経緯から考えると、少年時代から工房で職人としての修行を積む過程で、類稀な彫刻家の才能を見出され、世に出るべくして出てきたといえるだろう。
そして黒船が来航したり薩英戦争や下関戦争といった外圧や、尊王攘夷の倒幕運動によって、いよいよ幕府崩壊が目前に迫ってくると、仏教界にも大きな変化が起きる。後ろ盾であった権力が脆弱な状態になったことで、権力に癒着し依存していた要素が剥がれ落ち、皮肉なことに仏教本来の救済力が立ち上がってきたのだ。これは高村光雲自身が当時を振り返って語っていることだが、世の中がひっくり返るような政情不安や、経済不況の渦中でも、仕事が一向に減らなかったらしい。つまり神様仏様に縋らざるを得ない状況から、身分の上下を問わず、拝むべき対象となる仏像の需要は高まっていった。
ところが江戸幕府が倒れて明治維新が達成されると、今度は天皇を頂点とした神道を国家宗教に据えた大日本帝国が成立する。これによって幕藩体制で権威や権力を担ってきた仏教組織は、元々古代インド発祥の外来宗教でもあった為に目の敵にされて、日本全国各地で廃仏毀釈運動が発生する。この極端な時流の変化で、仏師の仕事は壊滅的に激減してしまう。要は国家神道以外の宗教は邪教扱いである。しかしそのような逆境においても高村光雲はへこたれず怯むことなく、無心にひたすら創造に専念する。しかも日本古来から伝わる木彫技術だけではなく、文明開花によって海外から伝来した西洋美術にも感化され、従来には無かった新しい写実主義を取り入れた木彫表現による造形美を生み出していった。
そして高村光雲は、西郷隆盛を表現するに際し、間違いなく近代西洋彫刻や古代ギリシャ及びローマ彫刻からも影響を受けたと思われる。特に倒幕と明治維新における中心人物であった西郷隆盛を彫刻化するには、古代ローマ帝国皇帝の風貌は願ってもない参考資料になったはずだ。彫像となったコンスタンティヌス1世と西郷隆盛は、面構えや表情が多少なりとも似ている。この2人は動乱の時代を生きた強力なリーダーであり、実に威風堂々としているのだが、その造形から滲み出てくる何処か人格の奥深い面で共通するのは、野望を捨てた男の清々しさではないか。
軍人皇帝であったコンスタンティヌス1世は最晩年に、サザン朝ペルシャへの大規模な侵攻を計画していたようである。既にキリスト教を古代ローマ帝国領内において公認し、ササン朝ペルシャにもキリスト教は広がりつつあった為、キリスト教を利用した対外侵略に勝算はあったのかもしれない。だが結局それを実行には移さなかった。皮肉にも彼の死後、古代ローマ帝国はササン朝ペルシャへ侵攻するのだが失敗に終わっている。またコンスタンティヌス1世が分割統治から東西を再統一した支配体制も、内乱の勃発と共に再び東西に分離する。
西郷隆盛も明治政府の参議という重臣でありながら、政府内の軋轢から離脱して下野してしまう。その後、不平氏族の反乱が各地で発生する中、西南戦争に首謀者として担ぎあげられるのだが、この高村光雲が制作した彫像は、下野した鹿児島県で素朴に暮らした頃を表現している。まさに野望を捨てた男の姿である。腰の刀を左手が押さえてはいるが、硬く握り締めてはいない。また右手から愛犬の首に繋がっている縄紐は優しげに緩く垂れている。つまりこの愛犬と散歩をしている西郷隆盛に戦意は全く感じられない。
高村光雲が釈迦や菩薩を創造した数多くの作品には、紛う事なき仏教美術の本流を貫く崇高さが如実に現れている。しかし人間や動物を主題とした作品にも、芸術家というより職人気質な彼の素朴な仏教観が感じられるのだ。特に動物を題材にした作品からは、生命への畏敬が滲み出ている。彼の最高傑作とされる「老猿」はその最たるものであろう。そして歴史に翻弄されながらも、歴史を動かした人物を表現した作品にはある種の無常観が漂っているかのようだ。なぜなら光雲の手になる彼らは、楠木正成にしても西郷隆盛にしても敗者である。それも英雄の座から転落した人々であった。しかし、そこには真摯な反戦への共感があるように思える。殺生を否定する。つまり戦争から離れることだ。
残念ながら、この「西郷隆盛像」が完成した数年後に日露戦争が始まり、その後2度の世界大戦を経て、漸く日本には民主的な平和が訪れる。高村光雲が他界するのは1934年であり、第2次世界大戦が始まる5年前だが、70年以上に及ぶ木彫の人生において、幕末動乱から明治維新の激烈な変革期を知っている彼にしてみれば、日本の行末に大きな不安を感じて世を去ったであろうことは想像に難くない。現在この「西郷隆盛像」は、上野の西郷さんの愛称で親しまれているが、そこには英雄崇拝の匂いは無い。作者の高村光雲はこの光景に、きっと草葉の陰から微笑んでいるはずだ。
ただしこの「西郷隆盛像」、犬の彫像は高村光雲の手になるものではない。彼の弟子で動物の彫刻表現を得意とした後藤貞之による。そして皇居前広場に設置された騎乗姿の「楠公像」も、馬はその後藤貞之が担当している。また高村光雲は仏師であることからその制作技術において木彫こそが、基本であり全てでもあった。つまり大理石から形を掘り起こすようなことはせず、木を掘り刻んだ末に木造の原型を完成させて、この原型から鋳型を作り、そこへ銅を流しこんで出来上がったのが、あの「西郷隆盛像」だ。
実際に上野公園にこの銅像が設置されたのは明治31年、西暦だと1898年で、明治維新以降の近代日本が日清戦争に勝利して数年後のことであった。戦後にはフランスどドイツとロシアから三国干渉があったものの、清国から多額の賠償金を得て、戦勝国として国際的地位が向上していく段階で、そんな帝国主義の欧米列強諸国を見習うようにして大陸進出の足場を築いていく時期に、高村光雲は制作の依頼を、彼自身が教授職を勤める東京美術学校から依頼されている。
ここからは少し高村光雲その人の、職人及び芸術家としての内面に迫ってみたい。先に述べたように光雲は、江戸時代末期にこの世に生まれ、少年期から青年期にかけては幕末動乱期をリアルタイムで生きていたわけだが、その頃から師の高村東雲の元で既に仏師の仕事をしていた。当時の仏教は、朝廷や将軍家といった権威や権力を肯定する儒教の社会通念を補強するような形で、江戸幕府に保護されており、また初代将軍の徳川家康が全ての仏教勢力を武装解除し、法整備により幕府御用達の官僚組織に改変していた。要は寺院をお役所のようなものに変質させてしまったのだ。実際、私たち日本人の大半は人生の終わりには葬式仏教のお世話になるのだが、これは江戸時代以降に寺社が戸籍管理を幕府から委任されていたからである。この為、親の葬儀の準備をする段になって、はじめて実家の仏教の宗派を知ったという話はよく聞く。
高村光雲自身は、仏師という仕事柄、仏に仕える身ではあっても僧籍や宗派には属してはいない。しかしながらだからこそ、宗派の垣根を超えた普遍的な仏教精神を持ち得ていたようだ。またその仕事は直向きに仏像美術に携わる創造作業であった。そして個人では完遂できない、つまり共同作業によって成果物が完成する場合も多く、当然のこと工房に所属していた。彼の師は高村東雲だが、町民出身であった光雲は東雲の姉の養子になり、高村姓を名乗って後継者になっている。ここまでの経緯から考えると、少年時代から工房で職人としての修行を積む過程で、類稀な彫刻家の才能を見出され、世に出るべくして出てきたといえるだろう。
そして黒船が来航したり薩英戦争や下関戦争といった外圧や、尊王攘夷の倒幕運動によって、いよいよ幕府崩壊が目前に迫ってくると、仏教界にも大きな変化が起きる。後ろ盾であった権力が脆弱な状態になったことで、権力に癒着し依存していた要素が剥がれ落ち、皮肉なことに仏教本来の救済力が立ち上がってきたのだ。これは高村光雲自身が当時を振り返って語っていることだが、世の中がひっくり返るような政情不安や、経済不況の渦中でも、仕事が一向に減らなかったらしい。つまり神様仏様に縋らざるを得ない状況から、身分の上下を問わず、拝むべき対象となる仏像の需要は高まっていった。
ところが江戸幕府が倒れて明治維新が達成されると、今度は天皇を頂点とした神道を国家宗教に据えた大日本帝国が成立する。これによって幕藩体制で権威や権力を担ってきた仏教組織は、元々古代インド発祥の外来宗教でもあった為に目の敵にされて、日本全国各地で廃仏毀釈運動が発生する。この極端な時流の変化で、仏師の仕事は壊滅的に激減してしまう。要は国家神道以外の宗教は邪教扱いである。しかしそのような逆境においても高村光雲はへこたれず怯むことなく、無心にひたすら創造に専念する。しかも日本古来から伝わる木彫技術だけではなく、文明開花によって海外から伝来した西洋美術にも感化され、従来には無かった新しい写実主義を取り入れた木彫表現による造形美を生み出していった。
そして高村光雲は、西郷隆盛を表現するに際し、間違いなく近代西洋彫刻や古代ギリシャ及びローマ彫刻からも影響を受けたと思われる。特に倒幕と明治維新における中心人物であった西郷隆盛を彫刻化するには、古代ローマ帝国皇帝の風貌は願ってもない参考資料になったはずだ。彫像となったコンスタンティヌス1世と西郷隆盛は、面構えや表情が多少なりとも似ている。この2人は動乱の時代を生きた強力なリーダーであり、実に威風堂々としているのだが、その造形から滲み出てくる何処か人格の奥深い面で共通するのは、野望を捨てた男の清々しさではないか。
軍人皇帝であったコンスタンティヌス1世は最晩年に、サザン朝ペルシャへの大規模な侵攻を計画していたようである。既にキリスト教を古代ローマ帝国領内において公認し、ササン朝ペルシャにもキリスト教は広がりつつあった為、キリスト教を利用した対外侵略に勝算はあったのかもしれない。だが結局それを実行には移さなかった。皮肉にも彼の死後、古代ローマ帝国はササン朝ペルシャへ侵攻するのだが失敗に終わっている。またコンスタンティヌス1世が分割統治から東西を再統一した支配体制も、内乱の勃発と共に再び東西に分離する。
西郷隆盛も明治政府の参議という重臣でありながら、政府内の軋轢から離脱して下野してしまう。その後、不平氏族の反乱が各地で発生する中、西南戦争に首謀者として担ぎあげられるのだが、この高村光雲が制作した彫像は、下野した鹿児島県で素朴に暮らした頃を表現している。まさに野望を捨てた男の姿である。腰の刀を左手が押さえてはいるが、硬く握り締めてはいない。また右手から愛犬の首に繋がっている縄紐は優しげに緩く垂れている。つまりこの愛犬と散歩をしている西郷隆盛に戦意は全く感じられない。
高村光雲が釈迦や菩薩を創造した数多くの作品には、紛う事なき仏教美術の本流を貫く崇高さが如実に現れている。しかし人間や動物を主題とした作品にも、芸術家というより職人気質な彼の素朴な仏教観が感じられるのだ。特に動物を題材にした作品からは、生命への畏敬が滲み出ている。彼の最高傑作とされる「老猿」はその最たるものであろう。そして歴史に翻弄されながらも、歴史を動かした人物を表現した作品にはある種の無常観が漂っているかのようだ。なぜなら光雲の手になる彼らは、楠木正成にしても西郷隆盛にしても敗者である。それも英雄の座から転落した人々であった。しかし、そこには真摯な反戦への共感があるように思える。殺生を否定する。つまり戦争から離れることだ。
残念ながら、この「西郷隆盛像」が完成した数年後に日露戦争が始まり、その後2度の世界大戦を経て、漸く日本には民主的な平和が訪れる。高村光雲が他界するのは1934年であり、第2次世界大戦が始まる5年前だが、70年以上に及ぶ木彫の人生において、幕末動乱から明治維新の激烈な変革期を知っている彼にしてみれば、日本の行末に大きな不安を感じて世を去ったであろうことは想像に難くない。現在この「西郷隆盛像」は、上野の西郷さんの愛称で親しまれているが、そこには英雄崇拝の匂いは無い。作者の高村光雲はこの光景に、きっと草葉の陰から微笑んでいるはずだ。