前回のブログで、少しだけガルシア•マルケスのことを書いた。彼はコロンビアの作家でノーベル文学賞も受賞しているのだが、母国だけではなくラテンアメリカとも称される中南米の激動の歴史を、その独自の幻想的な小説世界に反映させている。そして中南米地域は宗教的にはキリスト教が主流ではあっても、新教のプロテスタントではなく、旧教のカトリックが大多数を占めている国ばかりである。しかもブラジルやカリブ海諸島の一部を除いた国々の公用語はスペイン語の為、アメリカ大陸でポルトガル語が公用語の国はブラジルのみで、カリブ海諸島もフランス語圏や英語圏を除けばあとはスペイン語圏である。
元々の先住民の言語は一見すると、中南米諸国では廃れてしまったようだが、そこは人間もまだまだ捨てたものではない。今回の写真画像は、コスタリカ産の豆を使用したドリップコーヒーである。アキアレスというのは豆を栽培した農園の名前で、興味深いのはこのアキアレスという言葉がスペイン語ではないことだ。「アキアレス」は先住民フエタル族の言葉で「川の間の土地」を意味する。このような先住民の言葉を名前に冠する形式は、意外と世界中で確認できる現象だ。日本でも北海道の地名には、アイヌ語が残っているものが多く、コスタリカを含めた中南米に限らず、アメリカ大陸全体で先住民由来の地名は多い。これはやはり侵略行為に対して、加害者が罪悪感を持っていることの証であり、反省の意味も十二分に込められているのではないか。
このコスタリカのアキアレス農園で栽培されたコーヒー豆の商品、少し割高ではあるものの、私が近畿圏で暮らしている為、ヒロコーヒーという大阪府か兵庫県の店舗に出向いて直に購入している。理由はこの農園の栽培のスキルが非常に高いからだ。ただ個人的にコスタリカのコーヒーは元々好みなので、このブログでも紹介した大阪のスバニョラというカフェで、旬な時期に紹介されている場合、そこで淹れて頂いて飲むコーヒーの方がずっと美味しい。
それはドリップコーヒーは自宅の環境で、自分がセッティングしなければならないから当然だ。要するにその過程では、優れた農園に素晴らしい栽培技術があっても、購入者の段取り次第となる。つまり熱湯の温度とか、注ぐ量や時間も、素人の自分の状況や事情に左右されてしまう。しかしながらそれでも、苦味よりも主張が強いその特徴的な酸味や、後味で感じられる甘味はしつこくなく絶妙なので、コスタリカのコーヒーは飲むことが多い。コーヒーに苦味よりも酸味を求めている人なら、アフリカ大陸のキリマンジャロのコーヒーと、アメリカ大陸のコスタリカのコーヒーを飲み比べると、コーヒーの世界の奥深さや多様性を味わえるだろう。キリマンジャロの酸味はすっきりしていて切れが鋭いが、コスタリカには果実のような甘味が含まれている。
コーヒー豆の発祥の地はアフリカ大陸のエチオピア辺りだが、現代ではもうアメリカ大陸もすっかりコーヒー豆の産地と化してしまった。そのアメリカ大陸も、地球上のその他大多数の地域と同様に、血生臭い愚行の歴史が山積している。15世紀末に大西洋を越えて現れた侵略者たちは、先住民にとっては迷惑至極な疫病神に等しかったが、優れた文明圏とも評されたアステカやインカも農耕を礎とした帝国であり、身分制や貧富の差はやはり厳しかったようだ。また帝国内部で紛争や内戦も起きていた。この為、侵略者たちを圧政からの解放者だと勘違いした被支配層もおり、こうした人々が洗脳されて反体制に転じたこともアステカやインカが崩壊した一因であった。
そしてこの洗脳の過程で効果を発揮したのが、ローマ教皇庁から派遣された宣教師によるキリスト教の布教である。しかしやはりアステカやインカの滅亡の致命的な原因は、数では劣る侵略者側に、戦争の大陸と恐れられたヨーロッパで製造した銃に代表される強力な軍事技術が存在したからであろう。また余りにも遠く離れた場所に住んでいた人間が移動して接近してきた為、感染症による死者数も免疫がない分、甚大であったと思われる。つまり侵略者は武器や宗教だけではなく病気まで運んできたわけだ。
このようにして中南米は旧来の帝国による圧政から、もっと過酷な侵略者に支配された新しい圧政に取って代わられてしまう。しかも16世紀から17世紀にかけて、アメリカ大陸におけるスペイン語圏は、中南米のみならず北米の中西部辺りにまで広がっていく。またポルトガル語圏は広大なアマゾンの森林地帯を占有していった。そして侵略者たちは数世代に渡り植民地を開拓し暴利を貪りながら運営を続けていくのだが、所詮は植民地であり、ヨーロッパのスペイン帝国やポルトガル王国への上納を義務とする傀儡政権であった。
つまり新大陸に君臨した権威や権力の側にも、旧大陸の権威や権力に対するフラストレーションが溜まっていたといえる。ここから明確に把握できるのは、先住民や疲弊したその先住民の人口が減って、アフリカ大陸から奴隷貿易で連れて来られた黒人たち被支配層は、人権無視の状態で酷い重労働を強いられ、搾取の限りを尽くされる絶望的な境遇にあったことだ。つまり悲しいことに、いつの世も最大のフラストレーションは、最底辺で這いつくばっている民衆が溜め込んでいるのが現実である。
こうしたフラストレーションの蓄積が植民地からの独立戦争という形で爆発するのは、18世紀に北米の独立戦争でアメリカ合衆国が誕生したことと、その動きと連動するようにしてヨーロッパで起きたフランス革命が大きな契機になった。またこの頃になるとアメリカ大陸の植民地の支配者たちも、現地で出生した2世や3世以降が増えてきており、要はこうした人々が自然な流れで、独立戦争を主導していく展開になるのだ。アメリカ合衆国の初代大統領ジョージ•ワシントンも母方の曾祖父がイングランドから入植してきた4代目である。
中南米の植民地の独立は19世紀になってからのことだが、最初の独立は領土の広いブラジルでもメキシコでもなく、黒人奴隷の反乱から拡大したハイチで起きた。ハイチはカリブ海に浮かんだ島だが、スペインやポルトガルと違ってフランスの植民地であった。ある意味でこの独立劇は近代以降の中南米の歴史を象徴している。それは国外の巨大勢力に翻弄されて国内が混乱しまくるというパターンだ。ハイチに限らず、中南米でフランス革命が実質的に大きな影響を及ぼしたのは、革命初期の自由と博愛と平等の精神を掲げた理念よりも、その理念を広げて啓蒙することを名目にして実利を狙ったナポレオン戦争である。軍事的天才ナポレオンが指揮した巨大な戦争で、ポルトガル王国は国土をフランスに征服されて王室が植民地のブラジルに避難し、スペイン帝国も大規模な侵攻を受けて強引な内政干渉さえされている。要はナポレオンのせいで中南米の植民地の親玉たちが弱体化し、独立の機運が高まったのだ。
ハイチの場合、植民地の親玉のフランス王室が革命で倒され、人権宣言まで出した革命政府の力で奴隷解放が実現するかと思いきや、フランス議会が植民地の奴隷制の廃止を宣言するのは、フランス革命が勃発した4年後のことである。そして革命の理念を掲げて、国王が居座るヨーロッパ諸国に大々的な戦争を仕掛けていたナポレオンの治世に、裏切りに遭う形で奴隷制が復活してしまう。結局、紆余曲折を経たハイチの独立は、皇帝に即位し独裁者となったナポレオンのフランス軍に対し反乱軍が勝利することで達成された。近代史において初の黒人の共和国誕生であり、ハイチ革命とよばれ、この偉業はその後にアメリカ合衆国の奴隷解放の見本にもなった。しかしこの新しい共和国政府は残念なことに、建国の父であるジャック1世がナポレオンに似た独裁者へと変貌し、建国2年後に暗殺されて国家は内戦状態に陥ってしまうのだ。
ハイチの独立から数年後、1810年代になるとベネズエラ、パラグアイ、アルゼンチン、チリ、コロンビアがスペインから独立する。1820年代にはポルトガル王室が、ナポレオン戦争の終息したイベリア半島で国家再建を目指しヨーロッパへ舞い戻るとブラジルも独立した。それとほぼ同時期にメキシコ、ペルー、エクアドル、ボリビア、ウルグアイがスペインから独立しているが、興味深いのはグアテマラのスペイン総督府もスペインから独立を宣言し、その2年後に中央連邦アメリカ共和国という形で建国したことである。そしてこの共和国を構成していたのがグアテマラ、エルサルバドル、ニカラグア、ホンジュラス、コスタリカだ。
大西洋の彼方で暴走したナポレオン戦争の煽りを受けるような荒波にもまれながらも、中南米の植民地の国々は独立解放戦線に勝利していくわけだが、共和制国家として独立した後も、教会や地主の勢力が強く貧富の差は解消されなかった。また残念ながら産業の発展も遅れていた為、経済的な窮状を利用して人々を扇動するクーデターが発生したり、独裁政権が誕生するなどして、政情不安の国々が増えていく。つまりまだまだ民主主義への道のりは遠く険しかったといえる。特に北米の南北戦争のような大規模な内戦は無くとも、長期化する悪癖のような内戦に蝕まれていた国も多く、これはやはり海外から遠隔操作される植民地時代が3世紀も続いたことで、旧態依然としたヨーロッパ世界を復元していくような圧政に慣れてしまい、民主主義への移行を阻む傾向が、政治や文化も含めた社会構造に根付いてしまったのではないか。
中南米の近現代史で最も有名な出来事は、米ソ冷戦期における1959年のキューバ革命であろう。このフィデル•カストロやチェ•ゲバラが主導した革命は、アメリカ合衆国の裏庭でもあるカリブ海諸島で勃発した為、世界史的にも衝撃が大きかった。しかも革命の3年後には、ソ連の協力で核兵器の配備さえも計画して実現寸前までいくキューバ危機が発生する。この激動の3年間で、キューバは稀有な存在感を露出して中南米の主役に躍り出たようなものだが、キューバに限らず、中南米諸国は大半がスペイン語圏ではあっても、大なり小なり個々に固有の性質があるようにも思える。それは多分、地理的条件もあろうが、先住民の文化とヨーロッパの文化とアフリカの文化という3つの大きな要素に、その他のオセアニアやアジア、それに大西洋も太平洋も含めた海洋文化が混合して構成されたバランスが、それぞれの国で微妙に違う印象を受けるからだ。
ここからはコスタリカの話に絞っていきたい。コスタリカ共和国はアメリカ大陸のほぼ中央に位置し、赤道を挟んだコーヒーベルトの範囲に収まる地域である。要はコーヒーを栽培するには非常に適しているのだ。国土の面積は日本列島でいうと九州と四国を併せた程度であり、スペイン帝国に侵略されるまでは、先住民のアステカ帝国領であった。そして古代の紀元前9世紀頃の遺跡も発見されており、アステカ帝国に属する13世紀までは、神官などの支配層に統治された農耕社会であることがわかっている。こうした歴史的変遷は旧大陸と切り離れてはいても、人類の古代から中世にかけての農耕文明の基本的な道程をコスタリカも歩んでいたようだ。
そして大航海時代以降の中南米で暮らす人々の運命は、侵略者側の意向に大きく左右されていく。スペイン帝国政府におけるアメリカ大陸での最大の欲望の対象は農産物よりも金と銀であり、この頃に金銀を産出しなかった山間盆地のコスタリカは、気候が良く農業に適してはいても余り魅力がなかったらしい。それゆえに帝国主義の強大な権力からの介入は少なかったし、またそもそも中米地域を統括するグアテマラのスペイン総督府からの距離も遠かった。つまり多少なりとも、マシな圧政ではあったのかもしれない。
19世紀に入ると、先に述べた中央連邦アメリカ共和国を構成するコスタリカ州として、その一員になるのだが、この共和国はアメリカ合衆国をモデルにしている。つまり構成員のコスタリカもグアテマラもエルサルバドルもニカラグアもホンジュラスも州として共和国を構成していながら、州そのものの自律性が非常に高く、共和国の国家主権を共有しながらも独立した主体であり、私たちが暮らす日本の都道府県の実態と比べたら、州とはいえ独立した国と定義した方がわかりやすい。
そしてこの中央連邦アメリカ共和国も構成する5つの州が仲良く共存していれば良かったのだが、国家成立の1年後に早々と内戦が発生してしまう。この内戦の構図は、教会や地主の利権を保持したいグアテマラに多かった保守主義勢力と、利権を没収して改革したいエルサルバドルやホンジュラスの自由主義勢力との対立であった。初代大統領は自由主義派で改革路線を進めたのだが、そんな政府に対して保守主義派が猛烈に反発する。この内戦は20年近くも続き、その荒んだ様相は他の中南米諸国の内戦との相似形を感じさせるが、中央連邦アメリカ共和国が崩壊して内戦がやっとこさ終わった後、1848年にコスタリカは独立することになる。
ただ漸く独立に漕ぎ着けたコスタリカ共和国の歴史も、小国ながら苦難の連続であった。まず1850年代に隣国ニカラグアに奴隷制を復活させた好戦的な大統領が登場し、新しい帝国建設の野望さえ抱いて軍拡路線を進めた為、コスタリカを含めた周辺国の連合軍と戦争状態になってしまう。この戦争自体は2年足らずで終焉を迎えたが、人的資源の劣化や経済的損失の爪痕は大きく、回復には3年近くを要した。
その後1860年代にはアメリカ合衆国で南北戦争という暴力的大爆発があった。60万人を超える戦死者を出したこの内戦は北軍が勝利し、アメリカ合衆国政府が南部の巨大資本を呑み込んで、強固で統一的な国内市場の基盤を構築する。そしてその影響は、経済進出という形で中南米諸国にも波及しだすのだ。重工業化が一層促進されて、中南米からの原料や食糧の輸入は増加の一途を辿り、貿易のライバルである他の帝国主義諸国を圧倒していく。
コスタリカでは1870年代にはクーデターで新しい政権が誕生するのだが、皮肉なことにコーヒー産業が発展するのはこの時期からである。そして経済成長と共に新興富裕層が生まれ、彼らが少数で政府を牛耳るほどの力を持ってしまう。そんな非民主的な政権で1890年代にはコスタリカからの輸出の80%をコーヒーが占めるまでになった。このタイミングは注目すべきターニングポイントである。なぜなら時を同じくしてコーヒーの大量生産がアメリカ合衆国で始まっているからだ。これは世界初の成功例で、強力に工業化を進め、真空パックの技術や流通網を発達させて、一般家庭にもコーヒーを普及する道を開いた。アメリカンとよばれる濃さより薄さが特徴のコーヒーの登場である。恐らくアメリカンのコーヒー用に、コスタリカを含めた中南米諸国で産出されたコーヒー豆を、同じアメリカ大陸であることから流通コストも安くて済むアメリカ合衆国が、吸い込むように輸入していたことが容易に想像できる。
20世紀に入ると人類は2度の世界大戦を経験して凄惨な地獄を見たが、アメリカ大陸は世界大戦の戦場には殆どならなかった。しかし世界大戦の戦禍から遠く離れてはいても、また植民地時代から決別した独立国家の時代になってはいても、政権を掌握しているのは大地主や資本家、それに軍人たちであり、国民が民主主義社会に生きていたとは言い難い。そしてアメリカ合衆国の国益の拡大に寄与することで利権を手にする独裁的な軍事政権が増えていく。この為、革命思想に活路を見出す勢力も生まれて、戦後の米ソが露骨に東西対立した冷戦時代になるとキューバのように革命を実現したケースも出てきた。しかし概ね、中南米諸国は米ソという2つの超大国に翻弄されて疲弊するのが現実であり、この流れで国内も右派と左派に分断して抗争し、内戦状態になってしまうわけだが、コスタリカの場合は少し事情が違っていた。
コスタリカも第2次世界大戦が終わるまでは、他の中南米諸国と同様に、クーデターによる政権交代や隣国パナマとの戦争、さらに世界恐慌でコーヒー価格も低落し経済不況に陥ると、ファシズムに傾倒した右派政権が誕生したかと思えば、その数年後には左派の社会民主主義政権が誕生するという、かなり慌ただしく混乱した時代が続いた。しかし1948年の内戦を転機にして大きく社会が変化する。これは小国の歴史の1ページではあっても、人類の歴史において端倪すべからざる出来事であったかもしれない。
1948年は第2次世界大戦が終わってから3年の月日が経過している。そして広島と長崎に原子爆弾を投下された敗戦国の日本で、日本国憲法が成立し公布されたのが終戦翌年の1946年、さらにその翌年1947年に日本国憲法は施行される。ここで日本国憲法を取り上げたのは、実はコスタリカの憲法が、平和を希求するコンセプトにおいて、日本国憲法と十二分に共有できる内容だからだ。
1948年にコスタリカでは大統領選挙があった。結果は野党の候補が勝利したのだが、これに対して与党が選挙結果に無効の判断を下し、軍隊まで動員して反対勢力を鎮圧しようとした。これで内戦が勃発する。この内戦は6週間で野党側の反政府軍が勝利して終結するのだが、数千人規模の戦死者を出したことから、その悲惨な結果に対し、国民全体に真摯な反戦意識が生まれた。また第2次世界大戦後から数年しか経過しておらず、世界中の殆ど全ての人間に、もう戦争は沢山だ、真平御免だという反戦感情が脈々と息衝いていたはずである。そしてコスタリカの人々は、20世紀の記憶だけではなく、大航海時代以降に戦乱や搾取に塗れた数世紀に渡る悲しい歴史を踏まえた上で、今そこにある内戦の惨禍を直視し、戦争反対の意志と永久平和への願いを抱かざるを得なかった。
「恒常的制度としての軍隊を禁止する。公共秩序の監視と維持のためには必要な警察隊を置く」
これはコスタリカ憲法の第12条に明記されている文言で、内戦の翌年1949年に制定された。日本国憲法の第9条と殆ど同じ内容である。
この平和憲法を携えてからの、日本とコスタリカの国際政治における、政府の対応にはかなりの差があったようだ。特にコスタリカの場合、日本よりも切迫して戦争に巻き込まれる危険と背中合わせだったにもかかわらず、平和憲法の理念を盾にして危機を乗り切った。海外派兵をしないことを明確に宣言しているし、30年も続いた中米紛争の渦中においても、1980年代にアメリカ合衆国大統領ロナルド•レーガンから再軍備を要請されてさえ「積極的•永世•非武装中立」の宣言を出して断っている。しかも2001年には12月1日が「軍隊廃止デー」に定められた。コスタリカは戦争が問題解決の手段だと信じている国々に囲まれた状態でも、断固として戦争に参加せずに紛争を解決する姿勢を貫いているのだ。また軍隊が廃止されたことで、軍事予算を社会福祉に充てている。
日本は世界で唯一の被爆国なのだし、本来ならば、人類の命運を握る世界中の政治家たちに対し、反戦や軍縮といった真摯なメッセージを最大級に届けることができるはずである。今年のG7が被爆地の広島で開催されたことは画期的ではあったが、要人たちを広島や長崎に招くまでもなく、国際外交の場で国防において軍備が本当に必要なのかどうかを問いかけるべきであろう。なぜなら第2次世界大戦で敗北した大日本帝国は軍備に依存し、国民生活を犠牲にしてまで軍拡を続けた軍事大国であった。また日本は被害者としての歴史的事実だけではなく、それと同時に加害者としての歴史的事実も潔く、明確に表明して伝えることが必要だ。それが無ければやはり説得力も弱い。
ここで少し切り口を変えて、日本とコスタリカの比較をしてみたい。国連機関に持続可能性開発ソリューションネットワークというものが存在するのだが、この機関では世界幸福度調査を実施して、その結果から世界各国の幸福度がランキングで表されている。幸福度は目には見えないものだが、アンケート形式により回答者から、自分自身の幸福度が0から10までの数値のどの段階にあるのかを答えてもらう形式で、そこで明らかになった数値に、GDP、社会保障、健康寿命、人生の選択における自由度、他者への寛容さ、国への信頼度の6つの項目を加味して判断する。
今年公開された最新のランキングでは、コスタリカは23位で中南米諸国の中では最上位である。一方、日本はというと47位でG7の参加国の中では最下位である。対照的な結果といえるが、アンケートの対象国が137カ国なので、それを踏まえると日本が幸福な国なのかどうかは怪しいところだ。この際、日本政府はコスタリカを見習って、軍事予算を削減してその分を社会福祉に充当してみてはどうか。コスタリカのコーヒーを飲みながら、ふとそんなことを希望観測的に考えてみた。
元々の先住民の言語は一見すると、中南米諸国では廃れてしまったようだが、そこは人間もまだまだ捨てたものではない。今回の写真画像は、コスタリカ産の豆を使用したドリップコーヒーである。アキアレスというのは豆を栽培した農園の名前で、興味深いのはこのアキアレスという言葉がスペイン語ではないことだ。「アキアレス」は先住民フエタル族の言葉で「川の間の土地」を意味する。このような先住民の言葉を名前に冠する形式は、意外と世界中で確認できる現象だ。日本でも北海道の地名には、アイヌ語が残っているものが多く、コスタリカを含めた中南米に限らず、アメリカ大陸全体で先住民由来の地名は多い。これはやはり侵略行為に対して、加害者が罪悪感を持っていることの証であり、反省の意味も十二分に込められているのではないか。
このコスタリカのアキアレス農園で栽培されたコーヒー豆の商品、少し割高ではあるものの、私が近畿圏で暮らしている為、ヒロコーヒーという大阪府か兵庫県の店舗に出向いて直に購入している。理由はこの農園の栽培のスキルが非常に高いからだ。ただ個人的にコスタリカのコーヒーは元々好みなので、このブログでも紹介した大阪のスバニョラというカフェで、旬な時期に紹介されている場合、そこで淹れて頂いて飲むコーヒーの方がずっと美味しい。
それはドリップコーヒーは自宅の環境で、自分がセッティングしなければならないから当然だ。要するにその過程では、優れた農園に素晴らしい栽培技術があっても、購入者の段取り次第となる。つまり熱湯の温度とか、注ぐ量や時間も、素人の自分の状況や事情に左右されてしまう。しかしながらそれでも、苦味よりも主張が強いその特徴的な酸味や、後味で感じられる甘味はしつこくなく絶妙なので、コスタリカのコーヒーは飲むことが多い。コーヒーに苦味よりも酸味を求めている人なら、アフリカ大陸のキリマンジャロのコーヒーと、アメリカ大陸のコスタリカのコーヒーを飲み比べると、コーヒーの世界の奥深さや多様性を味わえるだろう。キリマンジャロの酸味はすっきりしていて切れが鋭いが、コスタリカには果実のような甘味が含まれている。
コーヒー豆の発祥の地はアフリカ大陸のエチオピア辺りだが、現代ではもうアメリカ大陸もすっかりコーヒー豆の産地と化してしまった。そのアメリカ大陸も、地球上のその他大多数の地域と同様に、血生臭い愚行の歴史が山積している。15世紀末に大西洋を越えて現れた侵略者たちは、先住民にとっては迷惑至極な疫病神に等しかったが、優れた文明圏とも評されたアステカやインカも農耕を礎とした帝国であり、身分制や貧富の差はやはり厳しかったようだ。また帝国内部で紛争や内戦も起きていた。この為、侵略者たちを圧政からの解放者だと勘違いした被支配層もおり、こうした人々が洗脳されて反体制に転じたこともアステカやインカが崩壊した一因であった。
そしてこの洗脳の過程で効果を発揮したのが、ローマ教皇庁から派遣された宣教師によるキリスト教の布教である。しかしやはりアステカやインカの滅亡の致命的な原因は、数では劣る侵略者側に、戦争の大陸と恐れられたヨーロッパで製造した銃に代表される強力な軍事技術が存在したからであろう。また余りにも遠く離れた場所に住んでいた人間が移動して接近してきた為、感染症による死者数も免疫がない分、甚大であったと思われる。つまり侵略者は武器や宗教だけではなく病気まで運んできたわけだ。
このようにして中南米は旧来の帝国による圧政から、もっと過酷な侵略者に支配された新しい圧政に取って代わられてしまう。しかも16世紀から17世紀にかけて、アメリカ大陸におけるスペイン語圏は、中南米のみならず北米の中西部辺りにまで広がっていく。またポルトガル語圏は広大なアマゾンの森林地帯を占有していった。そして侵略者たちは数世代に渡り植民地を開拓し暴利を貪りながら運営を続けていくのだが、所詮は植民地であり、ヨーロッパのスペイン帝国やポルトガル王国への上納を義務とする傀儡政権であった。
つまり新大陸に君臨した権威や権力の側にも、旧大陸の権威や権力に対するフラストレーションが溜まっていたといえる。ここから明確に把握できるのは、先住民や疲弊したその先住民の人口が減って、アフリカ大陸から奴隷貿易で連れて来られた黒人たち被支配層は、人権無視の状態で酷い重労働を強いられ、搾取の限りを尽くされる絶望的な境遇にあったことだ。つまり悲しいことに、いつの世も最大のフラストレーションは、最底辺で這いつくばっている民衆が溜め込んでいるのが現実である。
こうしたフラストレーションの蓄積が植民地からの独立戦争という形で爆発するのは、18世紀に北米の独立戦争でアメリカ合衆国が誕生したことと、その動きと連動するようにしてヨーロッパで起きたフランス革命が大きな契機になった。またこの頃になるとアメリカ大陸の植民地の支配者たちも、現地で出生した2世や3世以降が増えてきており、要はこうした人々が自然な流れで、独立戦争を主導していく展開になるのだ。アメリカ合衆国の初代大統領ジョージ•ワシントンも母方の曾祖父がイングランドから入植してきた4代目である。
中南米の植民地の独立は19世紀になってからのことだが、最初の独立は領土の広いブラジルでもメキシコでもなく、黒人奴隷の反乱から拡大したハイチで起きた。ハイチはカリブ海に浮かんだ島だが、スペインやポルトガルと違ってフランスの植民地であった。ある意味でこの独立劇は近代以降の中南米の歴史を象徴している。それは国外の巨大勢力に翻弄されて国内が混乱しまくるというパターンだ。ハイチに限らず、中南米でフランス革命が実質的に大きな影響を及ぼしたのは、革命初期の自由と博愛と平等の精神を掲げた理念よりも、その理念を広げて啓蒙することを名目にして実利を狙ったナポレオン戦争である。軍事的天才ナポレオンが指揮した巨大な戦争で、ポルトガル王国は国土をフランスに征服されて王室が植民地のブラジルに避難し、スペイン帝国も大規模な侵攻を受けて強引な内政干渉さえされている。要はナポレオンのせいで中南米の植民地の親玉たちが弱体化し、独立の機運が高まったのだ。
ハイチの場合、植民地の親玉のフランス王室が革命で倒され、人権宣言まで出した革命政府の力で奴隷解放が実現するかと思いきや、フランス議会が植民地の奴隷制の廃止を宣言するのは、フランス革命が勃発した4年後のことである。そして革命の理念を掲げて、国王が居座るヨーロッパ諸国に大々的な戦争を仕掛けていたナポレオンの治世に、裏切りに遭う形で奴隷制が復活してしまう。結局、紆余曲折を経たハイチの独立は、皇帝に即位し独裁者となったナポレオンのフランス軍に対し反乱軍が勝利することで達成された。近代史において初の黒人の共和国誕生であり、ハイチ革命とよばれ、この偉業はその後にアメリカ合衆国の奴隷解放の見本にもなった。しかしこの新しい共和国政府は残念なことに、建国の父であるジャック1世がナポレオンに似た独裁者へと変貌し、建国2年後に暗殺されて国家は内戦状態に陥ってしまうのだ。
ハイチの独立から数年後、1810年代になるとベネズエラ、パラグアイ、アルゼンチン、チリ、コロンビアがスペインから独立する。1820年代にはポルトガル王室が、ナポレオン戦争の終息したイベリア半島で国家再建を目指しヨーロッパへ舞い戻るとブラジルも独立した。それとほぼ同時期にメキシコ、ペルー、エクアドル、ボリビア、ウルグアイがスペインから独立しているが、興味深いのはグアテマラのスペイン総督府もスペインから独立を宣言し、その2年後に中央連邦アメリカ共和国という形で建国したことである。そしてこの共和国を構成していたのがグアテマラ、エルサルバドル、ニカラグア、ホンジュラス、コスタリカだ。
大西洋の彼方で暴走したナポレオン戦争の煽りを受けるような荒波にもまれながらも、中南米の植民地の国々は独立解放戦線に勝利していくわけだが、共和制国家として独立した後も、教会や地主の勢力が強く貧富の差は解消されなかった。また残念ながら産業の発展も遅れていた為、経済的な窮状を利用して人々を扇動するクーデターが発生したり、独裁政権が誕生するなどして、政情不安の国々が増えていく。つまりまだまだ民主主義への道のりは遠く険しかったといえる。特に北米の南北戦争のような大規模な内戦は無くとも、長期化する悪癖のような内戦に蝕まれていた国も多く、これはやはり海外から遠隔操作される植民地時代が3世紀も続いたことで、旧態依然としたヨーロッパ世界を復元していくような圧政に慣れてしまい、民主主義への移行を阻む傾向が、政治や文化も含めた社会構造に根付いてしまったのではないか。
中南米の近現代史で最も有名な出来事は、米ソ冷戦期における1959年のキューバ革命であろう。このフィデル•カストロやチェ•ゲバラが主導した革命は、アメリカ合衆国の裏庭でもあるカリブ海諸島で勃発した為、世界史的にも衝撃が大きかった。しかも革命の3年後には、ソ連の協力で核兵器の配備さえも計画して実現寸前までいくキューバ危機が発生する。この激動の3年間で、キューバは稀有な存在感を露出して中南米の主役に躍り出たようなものだが、キューバに限らず、中南米諸国は大半がスペイン語圏ではあっても、大なり小なり個々に固有の性質があるようにも思える。それは多分、地理的条件もあろうが、先住民の文化とヨーロッパの文化とアフリカの文化という3つの大きな要素に、その他のオセアニアやアジア、それに大西洋も太平洋も含めた海洋文化が混合して構成されたバランスが、それぞれの国で微妙に違う印象を受けるからだ。
ここからはコスタリカの話に絞っていきたい。コスタリカ共和国はアメリカ大陸のほぼ中央に位置し、赤道を挟んだコーヒーベルトの範囲に収まる地域である。要はコーヒーを栽培するには非常に適しているのだ。国土の面積は日本列島でいうと九州と四国を併せた程度であり、スペイン帝国に侵略されるまでは、先住民のアステカ帝国領であった。そして古代の紀元前9世紀頃の遺跡も発見されており、アステカ帝国に属する13世紀までは、神官などの支配層に統治された農耕社会であることがわかっている。こうした歴史的変遷は旧大陸と切り離れてはいても、人類の古代から中世にかけての農耕文明の基本的な道程をコスタリカも歩んでいたようだ。
そして大航海時代以降の中南米で暮らす人々の運命は、侵略者側の意向に大きく左右されていく。スペイン帝国政府におけるアメリカ大陸での最大の欲望の対象は農産物よりも金と銀であり、この頃に金銀を産出しなかった山間盆地のコスタリカは、気候が良く農業に適してはいても余り魅力がなかったらしい。それゆえに帝国主義の強大な権力からの介入は少なかったし、またそもそも中米地域を統括するグアテマラのスペイン総督府からの距離も遠かった。つまり多少なりとも、マシな圧政ではあったのかもしれない。
19世紀に入ると、先に述べた中央連邦アメリカ共和国を構成するコスタリカ州として、その一員になるのだが、この共和国はアメリカ合衆国をモデルにしている。つまり構成員のコスタリカもグアテマラもエルサルバドルもニカラグアもホンジュラスも州として共和国を構成していながら、州そのものの自律性が非常に高く、共和国の国家主権を共有しながらも独立した主体であり、私たちが暮らす日本の都道府県の実態と比べたら、州とはいえ独立した国と定義した方がわかりやすい。
そしてこの中央連邦アメリカ共和国も構成する5つの州が仲良く共存していれば良かったのだが、国家成立の1年後に早々と内戦が発生してしまう。この内戦の構図は、教会や地主の利権を保持したいグアテマラに多かった保守主義勢力と、利権を没収して改革したいエルサルバドルやホンジュラスの自由主義勢力との対立であった。初代大統領は自由主義派で改革路線を進めたのだが、そんな政府に対して保守主義派が猛烈に反発する。この内戦は20年近くも続き、その荒んだ様相は他の中南米諸国の内戦との相似形を感じさせるが、中央連邦アメリカ共和国が崩壊して内戦がやっとこさ終わった後、1848年にコスタリカは独立することになる。
ただ漸く独立に漕ぎ着けたコスタリカ共和国の歴史も、小国ながら苦難の連続であった。まず1850年代に隣国ニカラグアに奴隷制を復活させた好戦的な大統領が登場し、新しい帝国建設の野望さえ抱いて軍拡路線を進めた為、コスタリカを含めた周辺国の連合軍と戦争状態になってしまう。この戦争自体は2年足らずで終焉を迎えたが、人的資源の劣化や経済的損失の爪痕は大きく、回復には3年近くを要した。
その後1860年代にはアメリカ合衆国で南北戦争という暴力的大爆発があった。60万人を超える戦死者を出したこの内戦は北軍が勝利し、アメリカ合衆国政府が南部の巨大資本を呑み込んで、強固で統一的な国内市場の基盤を構築する。そしてその影響は、経済進出という形で中南米諸国にも波及しだすのだ。重工業化が一層促進されて、中南米からの原料や食糧の輸入は増加の一途を辿り、貿易のライバルである他の帝国主義諸国を圧倒していく。
コスタリカでは1870年代にはクーデターで新しい政権が誕生するのだが、皮肉なことにコーヒー産業が発展するのはこの時期からである。そして経済成長と共に新興富裕層が生まれ、彼らが少数で政府を牛耳るほどの力を持ってしまう。そんな非民主的な政権で1890年代にはコスタリカからの輸出の80%をコーヒーが占めるまでになった。このタイミングは注目すべきターニングポイントである。なぜなら時を同じくしてコーヒーの大量生産がアメリカ合衆国で始まっているからだ。これは世界初の成功例で、強力に工業化を進め、真空パックの技術や流通網を発達させて、一般家庭にもコーヒーを普及する道を開いた。アメリカンとよばれる濃さより薄さが特徴のコーヒーの登場である。恐らくアメリカンのコーヒー用に、コスタリカを含めた中南米諸国で産出されたコーヒー豆を、同じアメリカ大陸であることから流通コストも安くて済むアメリカ合衆国が、吸い込むように輸入していたことが容易に想像できる。
20世紀に入ると人類は2度の世界大戦を経験して凄惨な地獄を見たが、アメリカ大陸は世界大戦の戦場には殆どならなかった。しかし世界大戦の戦禍から遠く離れてはいても、また植民地時代から決別した独立国家の時代になってはいても、政権を掌握しているのは大地主や資本家、それに軍人たちであり、国民が民主主義社会に生きていたとは言い難い。そしてアメリカ合衆国の国益の拡大に寄与することで利権を手にする独裁的な軍事政権が増えていく。この為、革命思想に活路を見出す勢力も生まれて、戦後の米ソが露骨に東西対立した冷戦時代になるとキューバのように革命を実現したケースも出てきた。しかし概ね、中南米諸国は米ソという2つの超大国に翻弄されて疲弊するのが現実であり、この流れで国内も右派と左派に分断して抗争し、内戦状態になってしまうわけだが、コスタリカの場合は少し事情が違っていた。
コスタリカも第2次世界大戦が終わるまでは、他の中南米諸国と同様に、クーデターによる政権交代や隣国パナマとの戦争、さらに世界恐慌でコーヒー価格も低落し経済不況に陥ると、ファシズムに傾倒した右派政権が誕生したかと思えば、その数年後には左派の社会民主主義政権が誕生するという、かなり慌ただしく混乱した時代が続いた。しかし1948年の内戦を転機にして大きく社会が変化する。これは小国の歴史の1ページではあっても、人類の歴史において端倪すべからざる出来事であったかもしれない。
1948年は第2次世界大戦が終わってから3年の月日が経過している。そして広島と長崎に原子爆弾を投下された敗戦国の日本で、日本国憲法が成立し公布されたのが終戦翌年の1946年、さらにその翌年1947年に日本国憲法は施行される。ここで日本国憲法を取り上げたのは、実はコスタリカの憲法が、平和を希求するコンセプトにおいて、日本国憲法と十二分に共有できる内容だからだ。
1948年にコスタリカでは大統領選挙があった。結果は野党の候補が勝利したのだが、これに対して与党が選挙結果に無効の判断を下し、軍隊まで動員して反対勢力を鎮圧しようとした。これで内戦が勃発する。この内戦は6週間で野党側の反政府軍が勝利して終結するのだが、数千人規模の戦死者を出したことから、その悲惨な結果に対し、国民全体に真摯な反戦意識が生まれた。また第2次世界大戦後から数年しか経過しておらず、世界中の殆ど全ての人間に、もう戦争は沢山だ、真平御免だという反戦感情が脈々と息衝いていたはずである。そしてコスタリカの人々は、20世紀の記憶だけではなく、大航海時代以降に戦乱や搾取に塗れた数世紀に渡る悲しい歴史を踏まえた上で、今そこにある内戦の惨禍を直視し、戦争反対の意志と永久平和への願いを抱かざるを得なかった。
「恒常的制度としての軍隊を禁止する。公共秩序の監視と維持のためには必要な警察隊を置く」
これはコスタリカ憲法の第12条に明記されている文言で、内戦の翌年1949年に制定された。日本国憲法の第9条と殆ど同じ内容である。
この平和憲法を携えてからの、日本とコスタリカの国際政治における、政府の対応にはかなりの差があったようだ。特にコスタリカの場合、日本よりも切迫して戦争に巻き込まれる危険と背中合わせだったにもかかわらず、平和憲法の理念を盾にして危機を乗り切った。海外派兵をしないことを明確に宣言しているし、30年も続いた中米紛争の渦中においても、1980年代にアメリカ合衆国大統領ロナルド•レーガンから再軍備を要請されてさえ「積極的•永世•非武装中立」の宣言を出して断っている。しかも2001年には12月1日が「軍隊廃止デー」に定められた。コスタリカは戦争が問題解決の手段だと信じている国々に囲まれた状態でも、断固として戦争に参加せずに紛争を解決する姿勢を貫いているのだ。また軍隊が廃止されたことで、軍事予算を社会福祉に充てている。
日本は世界で唯一の被爆国なのだし、本来ならば、人類の命運を握る世界中の政治家たちに対し、反戦や軍縮といった真摯なメッセージを最大級に届けることができるはずである。今年のG7が被爆地の広島で開催されたことは画期的ではあったが、要人たちを広島や長崎に招くまでもなく、国際外交の場で国防において軍備が本当に必要なのかどうかを問いかけるべきであろう。なぜなら第2次世界大戦で敗北した大日本帝国は軍備に依存し、国民生活を犠牲にしてまで軍拡を続けた軍事大国であった。また日本は被害者としての歴史的事実だけではなく、それと同時に加害者としての歴史的事実も潔く、明確に表明して伝えることが必要だ。それが無ければやはり説得力も弱い。
ここで少し切り口を変えて、日本とコスタリカの比較をしてみたい。国連機関に持続可能性開発ソリューションネットワークというものが存在するのだが、この機関では世界幸福度調査を実施して、その結果から世界各国の幸福度がランキングで表されている。幸福度は目には見えないものだが、アンケート形式により回答者から、自分自身の幸福度が0から10までの数値のどの段階にあるのかを答えてもらう形式で、そこで明らかになった数値に、GDP、社会保障、健康寿命、人生の選択における自由度、他者への寛容さ、国への信頼度の6つの項目を加味して判断する。
今年公開された最新のランキングでは、コスタリカは23位で中南米諸国の中では最上位である。一方、日本はというと47位でG7の参加国の中では最下位である。対照的な結果といえるが、アンケートの対象国が137カ国なので、それを踏まえると日本が幸福な国なのかどうかは怪しいところだ。この際、日本政府はコスタリカを見習って、軍事予算を削減してその分を社会福祉に充当してみてはどうか。コスタリカのコーヒーを飲みながら、ふとそんなことを希望観測的に考えてみた。