緊急事態宣言が解除されたことによって、朝早く起きて校外の自宅から都市の中心へ勤めに出る生活が戻ってきた。ただ以前と比べると大都会の人々の数は明らかに減ったのがわかる。在宅勤務の日々、自然と音楽を聴く時間が増えたように思う。特にバッハのフランス組曲と平均律クラヴィーア曲集をかなり聴き込んだ。演奏はスヴャトスラフ・リヒテルという旧ソ連の偉大なピアニストである。バッハの作品は数多くの著名なピアニストが演奏しているが、私はリヒテルの演奏が一番好きだ。
彼の母親は裕福な家庭出身のロシア人だが、父親は旧ソ連ウクライナ領のドイツ人街に暮らす音楽教師で、この両親は結婚以前からピアノを通して師弟関係にあったようである。ところがスターリンの独裁体制が確立していた第二次世界大戦時に、リヒテルの父親はドイツのスパイの嫌疑をかけられ銃殺刑に処せられる。母子は生き残るが、その後に母親は再婚しスターリンの迫害を逃れて当時の西ドイツへ亡命。リヒテルは幼少期からピアノの才能を見出され、22歳でモスクワ音楽院に入学。1997年に82歳で亡くなる迄、その生涯は常にピアノを抱えた音楽一筋である。
天才芸術家には、親から厳格なスパルタ教育を受けたタイプがいる。モーツァルトやピカソがその典型であるが、リヒテルは天才ピアニストではあっても、そういうタイプではない。両親からの音楽教育も自由奔放な、本人の好きにやらせれば良いという指導であったそうだ。だからほぼ独学である。ところがモスクワ音楽院での彼の恩師ネイガウスは、殆ど教える必要性のない学生だったと述懐している。つまりリヒテルは独学の過程において、強靭に自らを律し、ひたむきに音楽を愛し没入していたのだ。特に平均律クラヴィーア曲集における、打楽器を高速で叩いているようなピアノの超絶技巧は、究極的な鍛錬の賜物だろう。
20世紀の米ソ冷戦の時代における、日本を含めた西側世界では、リヒテルの演奏公演は長く御法度であった。ソ連や共産圏以外への出国が禁止されていたからだ。特にリヒテルの場合、父親がスパイ容疑で殺され、母親も西ドイツで暮らしてしていた為に、ソ連政府は亡命の可能性を危惧していたようである。恐らくリヒテルは国家の至宝クラスの天才ピアニストでありながら、私生活において厳重に政府から監視される日常生活を過ごしていたはずだ。彼自身、「音楽は好きだが、人生は嫌いだ」という投げやりな言葉も残しているが、嘘偽りのない肉声に思える。
1970年に55歳で初来日して以降、リヒテルは親日派で来日コンサートも多かった。私は残念ながらコンサートへ出向き、直に彼の演奏を鑑賞することは出来なかったが、音楽に限らず芸術の優れた面は、作り手と受け手が同じ空間や時間を共有せずとも、感動体験が生まれることである。これは芸術の本質と言い換えても良い。特に文学作品の場合、それは顕著である。このブログでも紹介させて頂いたマルセル・プルーストやハーマン・メルヴィルといった大作家は、現代を生きているわけではない。しかし、私たちは彼らが書き残した言葉から、リアルタイムで本人と向き合わずとも、貴重な助言を貰える。そしてリヒテルは17世紀から18世紀を生きたバッハへ最大級の尊敬の念を持ってピアノを弾いていた。バッハの音楽に対する無限の想像力と共感力を抱きながら。
考えてみれば、コミュニケーションとは直接的、あるいは双方向的なものに限定されない。つまり常に相手と向き合っていなければ、互いに理解し仲良くなれるというものでもない。今、人類が直面しているこのパンデミックは、ある意味でそれを再認識する契機にもなっているようだ。そして多分、文明や人間社会が今後、大きく変化していくのは間違いない。しかもそれは、全く新しいものに遭遇するだけではなく、昔から手の届く処にあった貴重で希少な存在への気づきでもあるだろう。たとえばリヒテルは優れた作曲家ではなくとも、過去の偉大な作曲家が生んだ名曲の数々をピアノで表現することで、音楽という共通の家に時空を超えて故人と暮らしているかのような印象さえ受ける。これは死者とのコミュニケーションと言い換えても良い。そして、私たち人類が全ての民族や国家や人種や宗教をも分け隔てなく包み込んだ共同体だとしたら、そこには死者も含まれているし、20世紀末に他界したリヒテルの演奏が録音された音源をこれから鑑賞する遠い未来の人々も含まれている。
リヒテルはバッハの音楽に関し、表現が難しく苦手だとも述べているが、これは聴き手を思いやり、自らに厳しすぎるほどの謙虚な完璧主義者ゆえに言えることであろう。元来、バッハの音楽はキリスト教色が強い。それも当然で、なぜならば17世紀の神聖ローマ帝国領内で現ドイツ中部地方出身のバッハ自身は教会音楽家として仕事をしていた人物であり、作曲だけでなく聖歌隊の合唱や管弦楽の指揮者を務めてもいる。この為、バッハの宗教観はプロテスタントのルター派の流れを汲んでいた。ただバッハは教会という宗教組織に属してはいても、彼の創造した音楽にはキリスト教を地盤にしながら、信仰上の枠を越えて異教徒にも親和的に訴求する音の響きや旋律があった。リヒテルもそこを深く理解していたように思われる。それゆえ、喜んでは鳴き、悲しんでは鳴くピアノの音は何処か感傷的だ。教条的ではない崇高さ、庶民性の中に潜む深遠さとでも云えば良いか。またバッハの音楽は、ジャズやロック、それに西洋以外の民俗音楽にさえアレンジされてしまうほど親しみのあるメロディも多い。この辺りはバッハ以降の時代を生きたモーツァルトにも似ている。
リヒテルが50代で完成させた平均律クラヴィーア曲集は、驚嘆するほどの完全無欠な演奏技術は勿論のこと、奏でるピアノの一音一音に丁寧な慈しみも込められた心に迫る名演である。そして70代での演奏が収められたフランス組曲では、年老いて超絶技巧が不可能になった分、バッハの音楽をより内省的に突き詰めている。特にフランス組曲の第二番ハ短調は、人間社会の身近な日常が自然や宇宙とも繋がっているような親密さに満ち溢れた癒される音空間だ。そこには穏やかな家庭的雰囲気さえも漂う。
以下のアドレスから、リヒテルが演奏した平均律クラヴィーア曲集の第1巻が視聴できます。
https://m.youtube.com/watch?v=4Wt1eO1T0TE
彼の母親は裕福な家庭出身のロシア人だが、父親は旧ソ連ウクライナ領のドイツ人街に暮らす音楽教師で、この両親は結婚以前からピアノを通して師弟関係にあったようである。ところがスターリンの独裁体制が確立していた第二次世界大戦時に、リヒテルの父親はドイツのスパイの嫌疑をかけられ銃殺刑に処せられる。母子は生き残るが、その後に母親は再婚しスターリンの迫害を逃れて当時の西ドイツへ亡命。リヒテルは幼少期からピアノの才能を見出され、22歳でモスクワ音楽院に入学。1997年に82歳で亡くなる迄、その生涯は常にピアノを抱えた音楽一筋である。
天才芸術家には、親から厳格なスパルタ教育を受けたタイプがいる。モーツァルトやピカソがその典型であるが、リヒテルは天才ピアニストではあっても、そういうタイプではない。両親からの音楽教育も自由奔放な、本人の好きにやらせれば良いという指導であったそうだ。だからほぼ独学である。ところがモスクワ音楽院での彼の恩師ネイガウスは、殆ど教える必要性のない学生だったと述懐している。つまりリヒテルは独学の過程において、強靭に自らを律し、ひたむきに音楽を愛し没入していたのだ。特に平均律クラヴィーア曲集における、打楽器を高速で叩いているようなピアノの超絶技巧は、究極的な鍛錬の賜物だろう。
20世紀の米ソ冷戦の時代における、日本を含めた西側世界では、リヒテルの演奏公演は長く御法度であった。ソ連や共産圏以外への出国が禁止されていたからだ。特にリヒテルの場合、父親がスパイ容疑で殺され、母親も西ドイツで暮らしてしていた為に、ソ連政府は亡命の可能性を危惧していたようである。恐らくリヒテルは国家の至宝クラスの天才ピアニストでありながら、私生活において厳重に政府から監視される日常生活を過ごしていたはずだ。彼自身、「音楽は好きだが、人生は嫌いだ」という投げやりな言葉も残しているが、嘘偽りのない肉声に思える。
1970年に55歳で初来日して以降、リヒテルは親日派で来日コンサートも多かった。私は残念ながらコンサートへ出向き、直に彼の演奏を鑑賞することは出来なかったが、音楽に限らず芸術の優れた面は、作り手と受け手が同じ空間や時間を共有せずとも、感動体験が生まれることである。これは芸術の本質と言い換えても良い。特に文学作品の場合、それは顕著である。このブログでも紹介させて頂いたマルセル・プルーストやハーマン・メルヴィルといった大作家は、現代を生きているわけではない。しかし、私たちは彼らが書き残した言葉から、リアルタイムで本人と向き合わずとも、貴重な助言を貰える。そしてリヒテルは17世紀から18世紀を生きたバッハへ最大級の尊敬の念を持ってピアノを弾いていた。バッハの音楽に対する無限の想像力と共感力を抱きながら。
考えてみれば、コミュニケーションとは直接的、あるいは双方向的なものに限定されない。つまり常に相手と向き合っていなければ、互いに理解し仲良くなれるというものでもない。今、人類が直面しているこのパンデミックは、ある意味でそれを再認識する契機にもなっているようだ。そして多分、文明や人間社会が今後、大きく変化していくのは間違いない。しかもそれは、全く新しいものに遭遇するだけではなく、昔から手の届く処にあった貴重で希少な存在への気づきでもあるだろう。たとえばリヒテルは優れた作曲家ではなくとも、過去の偉大な作曲家が生んだ名曲の数々をピアノで表現することで、音楽という共通の家に時空を超えて故人と暮らしているかのような印象さえ受ける。これは死者とのコミュニケーションと言い換えても良い。そして、私たち人類が全ての民族や国家や人種や宗教をも分け隔てなく包み込んだ共同体だとしたら、そこには死者も含まれているし、20世紀末に他界したリヒテルの演奏が録音された音源をこれから鑑賞する遠い未来の人々も含まれている。
リヒテルはバッハの音楽に関し、表現が難しく苦手だとも述べているが、これは聴き手を思いやり、自らに厳しすぎるほどの謙虚な完璧主義者ゆえに言えることであろう。元来、バッハの音楽はキリスト教色が強い。それも当然で、なぜならば17世紀の神聖ローマ帝国領内で現ドイツ中部地方出身のバッハ自身は教会音楽家として仕事をしていた人物であり、作曲だけでなく聖歌隊の合唱や管弦楽の指揮者を務めてもいる。この為、バッハの宗教観はプロテスタントのルター派の流れを汲んでいた。ただバッハは教会という宗教組織に属してはいても、彼の創造した音楽にはキリスト教を地盤にしながら、信仰上の枠を越えて異教徒にも親和的に訴求する音の響きや旋律があった。リヒテルもそこを深く理解していたように思われる。それゆえ、喜んでは鳴き、悲しんでは鳴くピアノの音は何処か感傷的だ。教条的ではない崇高さ、庶民性の中に潜む深遠さとでも云えば良いか。またバッハの音楽は、ジャズやロック、それに西洋以外の民俗音楽にさえアレンジされてしまうほど親しみのあるメロディも多い。この辺りはバッハ以降の時代を生きたモーツァルトにも似ている。
リヒテルが50代で完成させた平均律クラヴィーア曲集は、驚嘆するほどの完全無欠な演奏技術は勿論のこと、奏でるピアノの一音一音に丁寧な慈しみも込められた心に迫る名演である。そして70代での演奏が収められたフランス組曲では、年老いて超絶技巧が不可能になった分、バッハの音楽をより内省的に突き詰めている。特にフランス組曲の第二番ハ短調は、人間社会の身近な日常が自然や宇宙とも繋がっているような親密さに満ち溢れた癒される音空間だ。そこには穏やかな家庭的雰囲気さえも漂う。
以下のアドレスから、リヒテルが演奏した平均律クラヴィーア曲集の第1巻が視聴できます。
https://m.youtube.com/watch?v=4Wt1eO1T0TE