「蜘蛛巣城」の原作はシェイクスピアの四大悲劇「マクベス」である。中世ヨーロッパ世界を日本の戦国時代に置き換えたこの作品を、私は全ての黒澤明監督作品の中から最高傑作にあげたい。黒澤明はさすがに世界のクロサワと称賛されるだけあって、海外の映画監督にも絶大な影響を与え、彼を師と仰ぐ人も大変多いのだが、それは世界文学を日本を舞台にして映画化するというこのスタイルが、高く評価されているともいえよう。実際、シェイクスピアの原作では「マクベス」以外にも「リア王」を「乱」で描いているし、ドストエフスキーの「白痴」やゴーリキーの「どん底」もその手の作品である。無論、その路線だけではなくオリジナルも常に最高水準の出来であり、「七人の侍」や「用心棒」は 逆にハリウッドで西部劇として映画化されているくらいだ。
シェイクスピアは世界文学全集には必ず名を連ねるほど偉大な劇作家である。特に映画化された作品数は群を抜いており、それだけストーリーテラーとして卓越しているわけだ。何よりもまず人間そのものが重厚に描かれているし、人物描写が一筋縄ではいかない。人の心は移ろい、史劇や喜劇や悲劇の物語は生々流転を繰り返し捉えどころがないようで、劇的なクライマックスを迎え行き着くところへと行き着く。サクセスストーリーや予定調和ではないが、独特な緊張を孕み興奮や解放感を呼び起こす。そして人の世の深淵を覗くような心地にさせられるのだ。この「蜘蛛巣城」では、シェイクスピアを西洋の超一級品の食材とするなら、それを黒澤明が見事な日本料理に仕上げているような印象を受ける。我々現代の日本人は古来からの日本文化に一般的には精通していないが為に、この映画を体験すると欧米人並みのカルチャーショックさえ受けるだろう。特に能の様式美が映画全体を通じて顕著に感じられる。従って登場人物の感情が全身の動作で表現されるシーンが多く、この為、映画館でスクリーンに映し出された映像を鑑賞している感覚よりも、舞台で演じられる能を鑑賞しているような錯覚に陥ってしまうほどだ。また原作の「マクベス」に登場する3人の魔女が「蜘蛛巣城」では物の怪の老婆であり、この物の怪というのが、西欧文化が広く伝播した現代世界ではマイナーで珍奇な分、欲に取りつかれた人間の本性を刺激する劇薬として異様な存在感を放っていることも付け加えておきたい。
以上のように黒澤明はシェイクスピアの礎の上で奇術師のような才能を発揮しているのだが、この映画監督の優れた資質は原作の映像化に際し、原作者が最も大切にしている部分、ダイヤの原石のようなその肝を鷲掴みにして、鑑賞者へ提示し問いかける姿勢であろう。その意味で黒澤明とシェイクスピアは一体化している。事実、旧ソ連の巨匠アンドレイ・タルコフスキーもまた黒澤作品を、ドストエフスキーやシェイクスピアに最も接近していると評価しているくらいだ。
主人公の武時を演じるのは三船敏郎である。彼は黒澤作品の常連だが、ここでも世界レベルの質の高い演技をしている。特に権力を手にしてからの暴走ぶりは凄まじく、まさに剥き出しの欲望の権化であり、最期の破滅のシーンも映画史に残る名演である。勇猛な武将の武時と戦友の義明は物の怪の言葉を鵜呑みにする形で主君を裏切り殺すわけだが、物の怪自体は二人の未来を予言し告げただけである。つまり主君殺しの実力行使は人間の意志の産物なのだ。物の怪は、主君の命で謀反を鎮圧した後に森で遭遇した二人にこう告げる。
「武時は北の館の主になり、さらには蜘蛛巣城の城主になる。義明は一の砦の大将になる。その後に義明の息子が蜘蛛巣城の城主になる」
謀反人を誅した功績として、武時は北の館の主に任じられ、義明は一の砦の大将に任じられる。ここでなんと物の怪の予言が当たってしまうわけだ。重要なのは蜘蛛巣城の城主の地位が安定していないことである。それで同じ釜の飯を食った仲の武時と義明は、義明の息子が成人した後に蜘蛛巣城の城主の座を武時から譲り受けるという盟約を交わす。ところが欲が絡むと男の友情も砂上の楼閣の如し。特に武時の妻は粘着的に権力に固執し主君殺しの時から武時を裏で操り、ここでも義明を死に至らしめる。武時は酒宴の席に現れた義明の亡霊に恐怖し、自らの命令に従って義明を葬った兵士を刺し殺す。この時の武時が手を下す殺害シーンはリアルで痛ましく、友を死に追いやった自らの罪業を他者に擦り付けているようでもあり、錯乱する恐怖心を鎮める為に武器を振り回しているようでもある。主君も友も裏切り掌握した権力を不動にせんとする武時はこのように浅ましく悪辣な醜態を曝す。と同時に武時には決して後戻りできない暗黒の牢獄に自らの魂を封じ込めてしまったような悲哀が漂っている。このような人間の描き方こそ、シェイクスピアと黒澤明の真骨頂であろう。仮に戦国時代に天下統一を目指した織田信長や豊臣秀吉や徳川家康を主人公に据え、黒澤明が映画を撮ったとしても英雄礼賛の物語には成り得ない。史実として信長は弟を殺し、秀吉は甥を切腹に追いやり、家康は妻子を見殺しにした。所詮、権力者というものはそういうものなのである。権力を奪取する、権力を維持する、その為には何でもできるのだ。現代の私達の民主主義社会においてさえ、権力を重視し権力の座に君臨する者は、人を殺さないまでも人間の尊厳を破壊するような言動を平気で行う。しかし人々の多くが、権力に肯定的な価値観を見出しているのもまた事実である。権力が秩序を維持できると安易に信用したり、権力者に憧れ英雄と見なし、疑うことをせず強固に支持し、その後ろを従順についていく。かつてのヒトラーも国民から選挙で選ばれた独裁者であった。本来ならば法は権力を監視し権力から民を守れるはずなのだが、その法の網の目からも権力欲に取りつかれた狡猾な亡者は巧みに抜け出せるということか。ならば真に嘆かわしくも悲しいことだと云わねばならない。
権力を得る為に努力したり、権力を行使することに喜びを見出したり、といった権力を目的とした人生は虚しい。シェイクスピアの「マクベス」や黒澤明の「蜘蛛巣城」は私達にそれを教えてくれる。
シェイクスピアは世界文学全集には必ず名を連ねるほど偉大な劇作家である。特に映画化された作品数は群を抜いており、それだけストーリーテラーとして卓越しているわけだ。何よりもまず人間そのものが重厚に描かれているし、人物描写が一筋縄ではいかない。人の心は移ろい、史劇や喜劇や悲劇の物語は生々流転を繰り返し捉えどころがないようで、劇的なクライマックスを迎え行き着くところへと行き着く。サクセスストーリーや予定調和ではないが、独特な緊張を孕み興奮や解放感を呼び起こす。そして人の世の深淵を覗くような心地にさせられるのだ。この「蜘蛛巣城」では、シェイクスピアを西洋の超一級品の食材とするなら、それを黒澤明が見事な日本料理に仕上げているような印象を受ける。我々現代の日本人は古来からの日本文化に一般的には精通していないが為に、この映画を体験すると欧米人並みのカルチャーショックさえ受けるだろう。特に能の様式美が映画全体を通じて顕著に感じられる。従って登場人物の感情が全身の動作で表現されるシーンが多く、この為、映画館でスクリーンに映し出された映像を鑑賞している感覚よりも、舞台で演じられる能を鑑賞しているような錯覚に陥ってしまうほどだ。また原作の「マクベス」に登場する3人の魔女が「蜘蛛巣城」では物の怪の老婆であり、この物の怪というのが、西欧文化が広く伝播した現代世界ではマイナーで珍奇な分、欲に取りつかれた人間の本性を刺激する劇薬として異様な存在感を放っていることも付け加えておきたい。
以上のように黒澤明はシェイクスピアの礎の上で奇術師のような才能を発揮しているのだが、この映画監督の優れた資質は原作の映像化に際し、原作者が最も大切にしている部分、ダイヤの原石のようなその肝を鷲掴みにして、鑑賞者へ提示し問いかける姿勢であろう。その意味で黒澤明とシェイクスピアは一体化している。事実、旧ソ連の巨匠アンドレイ・タルコフスキーもまた黒澤作品を、ドストエフスキーやシェイクスピアに最も接近していると評価しているくらいだ。
主人公の武時を演じるのは三船敏郎である。彼は黒澤作品の常連だが、ここでも世界レベルの質の高い演技をしている。特に権力を手にしてからの暴走ぶりは凄まじく、まさに剥き出しの欲望の権化であり、最期の破滅のシーンも映画史に残る名演である。勇猛な武将の武時と戦友の義明は物の怪の言葉を鵜呑みにする形で主君を裏切り殺すわけだが、物の怪自体は二人の未来を予言し告げただけである。つまり主君殺しの実力行使は人間の意志の産物なのだ。物の怪は、主君の命で謀反を鎮圧した後に森で遭遇した二人にこう告げる。
「武時は北の館の主になり、さらには蜘蛛巣城の城主になる。義明は一の砦の大将になる。その後に義明の息子が蜘蛛巣城の城主になる」
謀反人を誅した功績として、武時は北の館の主に任じられ、義明は一の砦の大将に任じられる。ここでなんと物の怪の予言が当たってしまうわけだ。重要なのは蜘蛛巣城の城主の地位が安定していないことである。それで同じ釜の飯を食った仲の武時と義明は、義明の息子が成人した後に蜘蛛巣城の城主の座を武時から譲り受けるという盟約を交わす。ところが欲が絡むと男の友情も砂上の楼閣の如し。特に武時の妻は粘着的に権力に固執し主君殺しの時から武時を裏で操り、ここでも義明を死に至らしめる。武時は酒宴の席に現れた義明の亡霊に恐怖し、自らの命令に従って義明を葬った兵士を刺し殺す。この時の武時が手を下す殺害シーンはリアルで痛ましく、友を死に追いやった自らの罪業を他者に擦り付けているようでもあり、錯乱する恐怖心を鎮める為に武器を振り回しているようでもある。主君も友も裏切り掌握した権力を不動にせんとする武時はこのように浅ましく悪辣な醜態を曝す。と同時に武時には決して後戻りできない暗黒の牢獄に自らの魂を封じ込めてしまったような悲哀が漂っている。このような人間の描き方こそ、シェイクスピアと黒澤明の真骨頂であろう。仮に戦国時代に天下統一を目指した織田信長や豊臣秀吉や徳川家康を主人公に据え、黒澤明が映画を撮ったとしても英雄礼賛の物語には成り得ない。史実として信長は弟を殺し、秀吉は甥を切腹に追いやり、家康は妻子を見殺しにした。所詮、権力者というものはそういうものなのである。権力を奪取する、権力を維持する、その為には何でもできるのだ。現代の私達の民主主義社会においてさえ、権力を重視し権力の座に君臨する者は、人を殺さないまでも人間の尊厳を破壊するような言動を平気で行う。しかし人々の多くが、権力に肯定的な価値観を見出しているのもまた事実である。権力が秩序を維持できると安易に信用したり、権力者に憧れ英雄と見なし、疑うことをせず強固に支持し、その後ろを従順についていく。かつてのヒトラーも国民から選挙で選ばれた独裁者であった。本来ならば法は権力を監視し権力から民を守れるはずなのだが、その法の網の目からも権力欲に取りつかれた狡猾な亡者は巧みに抜け出せるということか。ならば真に嘆かわしくも悲しいことだと云わねばならない。
権力を得る為に努力したり、権力を行使することに喜びを見出したり、といった権力を目的とした人生は虚しい。シェイクスピアの「マクベス」や黒澤明の「蜘蛛巣城」は私達にそれを教えてくれる。