あれから20年がたちました。
早いものです。
もう20年もたつなんて。
今も忘れません。
あの暗闇で振り回された時のこと。
もちろん被災地の中心地に比べたら
まだまだ弱い揺れでしたが
脳裏に刻まれたあの短くも長い時間は忘れません。
当時、私は豊中市にる古い団地に住んでいました。
大阪府内で一番震災の被害が出たのは豊中市でした。
そんな中でも私の家は、
震災の被害が多く出た兵庫県伊丹市に比較的近い場所にあり、
駅舎が倒壊して有名なった阪急伊丹駅へは
クルマで20分も掛からないような場所にありました。
仕事で早起きの予定だった私は、
目覚まし時計が鳴る前に「フッ」と目が覚めた事に、
布団の中で不満を感じていました。
まだ、もう少し寝れるのに…
そう思った瞬間。
聞いたことの無いような地響きと細かな揺れが
始まりました。
地震だ。
続いて、何が起きたか理解できない揺れがきました。
暗闇の中で振り回される。
布団から飛び起きたつもりでしたが
立てなかった。
膝を突いて襖に手を突いて耐えた。
当時、狭い団地で二人暮しだった母親が
声にならない奇声を発しながら
隣の部屋からはって逃げてきた。
硬い何かに突き上げられ振り回される感覚。
次々と倒れる家財。
割れるガラスの音。
途方も無く長く感じました。
呼吸も忘れて耐えた。
本当に恐かった。
揺れが収まると同時に
やってきた静寂。
誰もが息を飲んだままの瞬間。
町中がとても静かでした。
今から思えば、目覚ましが鳴る前に起きたのは
何かの知らせだったのかもしれません。
電気の点かない部屋の中の足下には、
本棚のガラスや様々なものが散乱し
身動きが取れない。
玄関も靴箱が塞いで外には出れなかった。
辺りが明るくなるまで
どうやって過ごしたかはあまり覚えていない。
ただ、机の上に置いておいたメガネを
いろいろな物が散乱した床にはいつくばって
必死に探していたのは覚えている。
結局、メガネは強烈な揺れで
何度も開いたり閉じたりした
引き出しの中に滑り込んでいた。
停電は長く続いた。
いきなりトイレの水を流す方法に困った。
生まれて初めてバケツを持って給水車に並んだ。
近所の酒屋さんが皆に水を分けてくれた。
何日も何日も、一日中、
街からサイレンの音が途切れることがなかった。
連絡が取れなくなって心配していた仕事仲間の女性が
震災から2日後、大きなリックを担いで会社に現れた。
神戸に住んでいた彼女は、
一晩中、線路の上を歩いて大阪の会社まで
歩いてやってきた。
会社に仕事で使っていたカセットコンロがあったことを
知っていた彼女は、
それを歩いて取りに来たのだ。
当時、大阪でも震災から数時間後には枯渇していた
ペットボトルやカセットボンベを皆でありったけかき集め、
リックに詰め込んで持たせた。
彼女は笑いながら重いリックを背負って
また電車の通らなくなった線路の上を歩いて帰っていった。
彼女とはそれ以来会っていない。
バイクに緊急物資を積んで運ぶボランティアをした。
震災の中心地に入った時の記憶は忘れない。
市内では、震災日から何日も経った後でも
どうしようもなく立ち尽くす人を沢山見た。
帰りの国道には、行きに追い抜いた地方ナンバーの
消防車が同じ場所でサイレンを鳴らしたまま
渋滞に捕まったままだった。
神戸の街は完全に止まっていた。
物資を持って颯爽と乗り込んだが、
途方もない現実の前に
自分の無力さを感じながら帰った。
軽い地震でも頭と背中に汗が噴出す感覚に慣れるのに
数年掛かった。
今の会社の同僚で、
当時神戸に住んでいた彼は
私と同じくらいの年齢なのに、
結局2度マンションを買う羽目になった。
近所の猪名川に架かる軍港橋横の広大な空き地に
何十メートルもの高さにまでうず高く積み上げられた瓦礫が
すっかりなくなるまでには、何年もの月日が掛かった。
あんな恐怖と不安は二度とごめんだ。
私の中では、忘れたくても忘れられない記憶。
書ききれない記憶。
20年経った記憶。