ほとりの家の柱、屋根は宮城の山からいただいてきた木でできています。我が家がこんなに快適で、幸せに暮らせるのも宮城の森のおかげです。その宮城の森の木を我が家に運んでくださった栗駒木材さんのところで震災ボランティアを必要としている。とのことで宮城に向かいました。
日本の森バイオマスネットワーク http://www.kurimoku.com/blog/
(石巻 北上川河口付近)
現地は目を疑うような風景が次から次へと飛び込んできた。電柱が水の中に立っている。小学校が湖の中にある、、、ここは街だったのだ。対岸の町では家という家の中に泥が入り込み、人々が懸命にかきだしていた。
街が壊滅状態になった南三陸。市街地付近。
地図を頼りに、信号を目印に、、、、と思いながら車を走らせていて絶句した。
信号なんてひとつもない。電柱も、家も、何もかも。道は国道だけが自衛隊の方たちが重機でどかしてくれたようでなんとか車が通れるようになっている。
復興までの道のりは本当に遠い、、、果てしなく続くがれきの山をみて思った。
100m近くも流されてしまった橋。コンクリートの強靭な橋さえも水の力には抗えなかったのだ。そんな景色の中たどりついたのは南三陸町の避難所になっているお寺。
今日はここにペレットストーブとお風呂を設置する。支援物資として届いたテントは10人以上も入れる巨大なもの。とても私一人ではくみたてられない。しかし、気付くと、避難されている方がいつの間にか10人以上も周りにいて、「どうしましょうか?」「てつだいますよ!」と明るい笑顔で立っていた。
びっくりした。なぜ、こんな状況でこんな表情ができるのだろう。
「せーの!」「そーっれ!」とかけ声をあげ、みんなの力でほどなくテントはくみたてられた。テントの中にお風呂を組み立て、設置完了。テントにはしっかり開閉できる窓までついていて、そこから中をみることができる。お風呂だからと思って窓を閉めていると、何人かの方が「それじゃあ、のぞけなくなっちまうじゃねーか 笑」なんてみなで笑っている。こんな時に冗談を言えるなんてすごい。と思った。
「嬉しいねえ。お風呂に入れるなんて。」と女性の方。水はまだ通っていないので、お寺にある井戸からみんなでバケツリレー。若い人も年配の人もバケツをもって走る走る。
こんな時に不謹慎だけど、みんなでわいわい、作業をして、みんなの笑顔をみていたら楽しくなってきてしまった。すぐ眼下にはがれきの家々があるというのに・・・
そこのお寺では、みな優しくてあたたかくて、困っていると誰かがすぐに声をかけてくれてまるでみながひとつの大きな家族のようだった。井戸があって、みなでごはんをつくって、火を囲んで話している。もちろん言い表せない悲しみや不安がきっときっとあるのだろうけど、本当に素敵な人たちだと思った。こちらが支援物資を届けに来たのに、なぜかおにぎりをいただいてしまい、(本当にすみません、、、)顔で見送ってくださった。
きっとこの人たちなら大丈夫。また素敵な町をつくることができると思わされた。
次の日は石巻の雄勝に向かった。栗駒からは車で2時間ほど。
途中の1時間は日常となんら変わらない風景。しかし、海から4キロくらいの場所で突然景色が一変する。穏やかな山並みの間から破壊されつくした町が飛び込んでくる。
川が逆流して家々を流していったことが山裾の竹林の倒れた向きでわかる。
その山の木々の間に船やおきがひっかかっていたり、残った電線には網がぶらぶらとゆれている。海に飛び出た半島の漁村。今日はここの突端にある小学校へ向かった。
小学校では教頭先生が迎えてくれ、昨日と同じようにあっという間に手伝いに集まる人々。1つ10キロもある40袋近くのペレットも、4人で抱えないともてないストーブもあっという間にみんなで運んでくれた。こんなに多くの人が自然に助け合うさまをみたのはいつぶりだろう。
寒い体育館によりそう人々。壁にはいろいろな係やルールが決められ張られていて、みなが役割をもって暮らしているようだった。
小学校をいったんあとにし、途中の漁村の小さな避難所を回って動くことにした。40人ほどが集まっている避難所をみつけ、足りないものはないか、ストーブは必要か聞いていると、道案内をしてくれるという親子に出会う。
聞けば、このあたりをよく知っていて、私たち以外にも支援物資を配っている人たち(長岡や諏訪の人たちだった。)を案内してくれているらしいのだ。だいたいが道から離れた高台に避難しているため、地元の方の案内がないと小さな単位で避難している場所はわからない。御好意に甘えて他のかたたちと一緒に回らせてもらうことにした。
(石巻 雄勝の避難所) (南三陸の避難所になっている民宿)
津波から逃れるため、津波から逃れた家。ということだから道からはどこもあがったところにあり、みな10人くらいの単位でよりそって避難していた。地震が起きた当時は40人くらいいたところも除除に他の場所に移ったり、家族が迎えに来て減っていったそうだ。
食料はそこそこ届いているが、電気、ガスが足りない。ガソリンもない。という現状。食料も生鮮食品、野菜、お肉、調味料系が欲しいとのことだった。電気がきていないので、電池が助かるとのこと。ランタンもいくつかおいてきた。長靴で逃げてきたから、靴が欲しいといっている方もいた。靴下や下着も喜ばれた。
でもこういった物資は刻一刻と変化していって、場所によっても違うし、たとえば農家などは野菜や米はたくさんあるからいらないと断られたりもする。洋服を欲しがる人はあまりいなかった。状況や時期によってニーズが変わってくるのだと思った。
今回一番心動かされたのは、道案内をしてくれた二人の親子。よくよく聞くとなんと被災者だということ。同じボランティアか何かかと思っていた私はがーんと放心状態に。お名前を聴かせてくださいと言うと、名刺を渡してくれ「とはいえ、もう家も会社も流されちまって、電話もかけても通じね~んだけどな~。」と笑っている。
そんな状態なのに、親子で、笑顔で、物資を配るために、地元のひとたちのために動いて、よそものの私たちのために道を案内してくれていたなんて、、、なんてすごい人たちなんだろう。家も会社も、、、なんてそんな不安な状態で、なぜ笑顔で人助けができるのだろう。「おれっちじゃなきゃ、わからないだろう?こんあたりは入り組んでるからなあ。」と。
いくつか避難所を回ったあと初めにその親子と出会った避難所に戻り、ストーブを設置した。5時少し前。夕暮れが迫ってきており、避難所ではちょうど夕ご飯の時間だった。「なに~まず食べてってくださいよ~。」と食事をふるまおうとしてくれる人たち。「ここはね~最高にいいところなんだよ~。あったかくってさ~。魚もうまくって。」と笑顔で話す人。「なにか欲しいものはありませんか?」と聞くと「ん~。嫁さんが欲しいなあ。(大笑)」とここでも笑顔、笑顔。本当に明るい。つらい気持ちを押し殺しているのだろうけど、生まれ育ったこの街が大好きだという気持ち、みなで頑張っていこうという気持ちが本当にひしひしと伝わってきた。
ストーブに赤々と炎がゆらめく。
「火をみると、心まであったかくなるねえ。」としみじみいってくれたおばあちゃん。ボランティアに入った4日間朝から晩まで動いていたけど、みんなの笑顔、「ありがとう」の言葉、助け合う姿、素敵な人たちとの出会いに疲れを感じない日々でした。
そして、人のつながり、井戸や薪、昔からあるもの、大切にしなければいけないもの。何があってもかわらないもの、そんなことに気づかされた時でした。
気持ちがまだ整理できていなくて、文章がめちゃくちゃですが、忘れたくなくて書きとめました。長い長い支援が必要だと思います。私自身の日々の生活も大事にしつつ、できること、これからも探していきたいと思います。そして、いつの日か、またあの場所で元気なみなに会いに行きたいな。。。。