<戦後の菓子>
我々国民学校2年生は確か2クラスからなっていた。その学年で綾部駅の見学に行った。敗戦の翌々年の1947年あたりであろう。客車に乗っていた進駐軍の兵士が我々にチューインガムをくれた。子供が進駐軍から菓子をもらう風景はよく見られた。
我々はジャンケンで勝ったときの手のグー・チョキ・パー応じて「グリコ」「チョコレート」「パイナップル」と歩数を数えて進む単純な遊びをしていたが、そんな食べ物にお目にかかったことは一切なかった。親は不憫に思っていた形跡があるが、食べたことがないからフラストレーションは感じなかった。でも後年、近い年輩の者で集まると、バナナ食ったときどんなにうまかったかという話だけは一致する。こうした食物は親や先輩から聞いて誰もが名前だけを覚えていたのである。飴玉は存在した気がする。また郡是製糸に勤める人から芋の水飴をもらっていた。かなりアクがあったような気がする。蒸し芋(ふかし芋)の蒸し器の下にたまったアクのようなものさえ、少し甘いので舐めていた。やがて筒状に伸ばしたものを斜めに切り分け粉にくるんだ、いま見る芋飴(注)も登場する。しかし満州から引き揚げてきた従兄弟からキャンディをもらったときは、まったく夢の様な味に驚いた。後で思うとバタースコッチ・キャンディではなかったか。砂糖は貴重品であったから、私の家では柿の皮を干して粉(注)にして甘味料にしていた。親はまたサトウキビを試作したが、山陰の我々の土地では出来栄えが悪かった。
チューインガムは自分たちで調達した。生の小麦や松のヤニを噛むのである。小麦はグルテンを残すのであるがかたまりを口に残すのは易しくはない。私はうまく出来なかった。やがてピンクのすぐ固まるガムも登場(復活?)した。これは大切だから、翌日に備えて噛んだものを枕元において眠るのだ。それが頭髪について取れなくなり鋏で髪を切ったもらったことも有る。しばらくして膨らますことができる風船ガムが現れ、噛む感触も優れていたので固まるガムは取って代わられた。(注)
いろいろと述べたが、要するに我々のまわりには菓子がなく、進駐軍のもたらしたチューインガムは目のくらむような品であったのだ。それは1辺1cmほどの角の丸い正方形の粒ガムであった。その糖衣の輝く白さだけでも類例のない食品だった。初めてだからどの段階でガムであるとわかったのか覚えていない。でもそういうことの了解は早いものだ。それを駅でせしめたのは、体格が良くてハシカイ(注)ワルガキ連中だった。鈍で早生まれの私などは勝負にならず、はなから諦めていた。
ところが担任の先生がそれをすべてマキアゲられた。清先生というその頃まわりで見たこともない颯爽たる都会風の女の先生であった。久美浜出身で額に傷跡を残しておられた。久美浜に多い鎌鼬(かまいたち)にやられなさったのだという噂だった。マキアゲの理由は「イヤシイまねをしてはいけません」と言う意味だろうかと考えた。当時はイヤシさ(注)をたしなめることはいまより頻繁に行われていたから。
学校に戻ると先生はまな板と包丁を持って来られた。マキアゲたチューインガムを、我々が注視する中で細かく切り分け、クラス全員に等分配された。
「皆さんこれからは日本も民主主義の世の中になります。皆で分けあって仲良くしましょう。」
むろん1人に1粒分は無かったがとても印象に残った。後に思い起こすほど心を打たれる。その当時、特に農村で、多数の人の思惑から飛びぬけた行動することは誰にもできない、というより、思いつかないことであっただろう。後に習った制度としての民主主義と異なるが、とてもオリジナルなものがあった。
◎芋飴:これは私の好物である。
本場の鹿児島で見つけ、同行の数人の外国人に食べさしたところ皆「これはどこに売っているんだ」と叫び、みんな買いに走りだしたこともある。それほどうまいのである。腹にも優しい。
一時期100円ショップでも売っていたがすぐ消えた。まあ、100円はひどいよね。いまはなかなか見つからず、日本人の友だちも関心がない。味を知らないのだろう。
◎柿の皮の粉末:いまなら柿の皮をむいてその皮を電子レンジなどで乾燥させてかじると面白い甘さがある。
◎ガムの歴史はネットに多数あるが、業者関係のサイトはチクルとキシリトール以外の化学物質の記述を抑えている。ガムはいわば添加物の塊ではないだろうか。キシリトールを含めて好きではないので私は今はガムをかまない。
◎ハシカイ:「チクチク、ムズムズ」するというような意味もあるが、ここでは「すばしこい」という意味である。
「手に負えない」というニュアンスがある。
◎イヤシさ:見たものを欲しがる、歩きながらものを食べるなどが、イヤシイ行いの代表格である。
高校ではこれに反抗して、友だちを集め行列であぜ道を歩きながら弁当を食ったりした。私の高校は田の中に建っていたのである。
逆に、大学で友人が「天ぷらを食いながら歩こう」と提案したとき、「みっともない」というと「お前は相変わらずプチブル的だ」などとやられたこともある。
いまはアイスクリームを舐めながらキャンパスを歩くのも普通の風景となった。
我々国民学校2年生は確か2クラスからなっていた。その学年で綾部駅の見学に行った。敗戦の翌々年の1947年あたりであろう。客車に乗っていた進駐軍の兵士が我々にチューインガムをくれた。子供が進駐軍から菓子をもらう風景はよく見られた。
我々はジャンケンで勝ったときの手のグー・チョキ・パー応じて「グリコ」「チョコレート」「パイナップル」と歩数を数えて進む単純な遊びをしていたが、そんな食べ物にお目にかかったことは一切なかった。親は不憫に思っていた形跡があるが、食べたことがないからフラストレーションは感じなかった。でも後年、近い年輩の者で集まると、バナナ食ったときどんなにうまかったかという話だけは一致する。こうした食物は親や先輩から聞いて誰もが名前だけを覚えていたのである。飴玉は存在した気がする。また郡是製糸に勤める人から芋の水飴をもらっていた。かなりアクがあったような気がする。蒸し芋(ふかし芋)の蒸し器の下にたまったアクのようなものさえ、少し甘いので舐めていた。やがて筒状に伸ばしたものを斜めに切り分け粉にくるんだ、いま見る芋飴(注)も登場する。しかし満州から引き揚げてきた従兄弟からキャンディをもらったときは、まったく夢の様な味に驚いた。後で思うとバタースコッチ・キャンディではなかったか。砂糖は貴重品であったから、私の家では柿の皮を干して粉(注)にして甘味料にしていた。親はまたサトウキビを試作したが、山陰の我々の土地では出来栄えが悪かった。
チューインガムは自分たちで調達した。生の小麦や松のヤニを噛むのである。小麦はグルテンを残すのであるがかたまりを口に残すのは易しくはない。私はうまく出来なかった。やがてピンクのすぐ固まるガムも登場(復活?)した。これは大切だから、翌日に備えて噛んだものを枕元において眠るのだ。それが頭髪について取れなくなり鋏で髪を切ったもらったことも有る。しばらくして膨らますことができる風船ガムが現れ、噛む感触も優れていたので固まるガムは取って代わられた。(注)
いろいろと述べたが、要するに我々のまわりには菓子がなく、進駐軍のもたらしたチューインガムは目のくらむような品であったのだ。それは1辺1cmほどの角の丸い正方形の粒ガムであった。その糖衣の輝く白さだけでも類例のない食品だった。初めてだからどの段階でガムであるとわかったのか覚えていない。でもそういうことの了解は早いものだ。それを駅でせしめたのは、体格が良くてハシカイ(注)ワルガキ連中だった。鈍で早生まれの私などは勝負にならず、はなから諦めていた。
ところが担任の先生がそれをすべてマキアゲられた。清先生というその頃まわりで見たこともない颯爽たる都会風の女の先生であった。久美浜出身で額に傷跡を残しておられた。久美浜に多い鎌鼬(かまいたち)にやられなさったのだという噂だった。マキアゲの理由は「イヤシイまねをしてはいけません」と言う意味だろうかと考えた。当時はイヤシさ(注)をたしなめることはいまより頻繁に行われていたから。
学校に戻ると先生はまな板と包丁を持って来られた。マキアゲたチューインガムを、我々が注視する中で細かく切り分け、クラス全員に等分配された。
「皆さんこれからは日本も民主主義の世の中になります。皆で分けあって仲良くしましょう。」
むろん1人に1粒分は無かったがとても印象に残った。後に思い起こすほど心を打たれる。その当時、特に農村で、多数の人の思惑から飛びぬけた行動することは誰にもできない、というより、思いつかないことであっただろう。後に習った制度としての民主主義と異なるが、とてもオリジナルなものがあった。
◎芋飴:これは私の好物である。
本場の鹿児島で見つけ、同行の数人の外国人に食べさしたところ皆「これはどこに売っているんだ」と叫び、みんな買いに走りだしたこともある。それほどうまいのである。腹にも優しい。
一時期100円ショップでも売っていたがすぐ消えた。まあ、100円はひどいよね。いまはなかなか見つからず、日本人の友だちも関心がない。味を知らないのだろう。
◎柿の皮の粉末:いまなら柿の皮をむいてその皮を電子レンジなどで乾燥させてかじると面白い甘さがある。
◎ガムの歴史はネットに多数あるが、業者関係のサイトはチクルとキシリトール以外の化学物質の記述を抑えている。ガムはいわば添加物の塊ではないだろうか。キシリトールを含めて好きではないので私は今はガムをかまない。
◎ハシカイ:「チクチク、ムズムズ」するというような意味もあるが、ここでは「すばしこい」という意味である。
「手に負えない」というニュアンスがある。
◎イヤシさ:見たものを欲しがる、歩きながらものを食べるなどが、イヤシイ行いの代表格である。
高校ではこれに反抗して、友だちを集め行列であぜ道を歩きながら弁当を食ったりした。私の高校は田の中に建っていたのである。
逆に、大学で友人が「天ぷらを食いながら歩こう」と提案したとき、「みっともない」というと「お前は相変わらずプチブル的だ」などとやられたこともある。
いまはアイスクリームを舐めながらキャンパスを歩くのも普通の風景となった。
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