土塊も襤褸も空へ昇り行く:北村虻曳

随想・定型短詩(短歌・俳句・川柳)・写真
2013/11/11開設

中学時代

2015-02-10 | 随想
<中学時代>

武蔵野市立第三小学校を卒業する前に、最難関の東京教育大学附属中学に挑戦するように仰せつかった。距離があるのでその小学校から合格の前例がないが、それを何とか切り崩したいということであったようだ。
母に付き添われて受験して帰るとぼやかれた。
「朝、受験生のうちであんただけが校庭に張った氷の上で滑っていた。」
「質問がありますかと言われたら、みんな黙っているのにあんただけが何回も繰り返して質問した。」
「社会常識の質問に対しても、あんたの答えを聞くとまるで非常識だ。」
と言うわけで、この付属中からはまったくお呼びでなかった。

そこで通常通り、武蔵野市立第三中学校に進んだが、そこで何とも言えぬ絶望感を感じた。
◎ 学校と自宅から1km(?)以上離れるときは必ず保護者同伴で。
◎ 外出は制帽を着用のこと。◎ ・・・時以降の外出は禁止。
◎ 予習・復習は・・・
等々、小学校とは打って変わっていろいろな規則が提示されたからである。

しかしそれも3ヶ月ほどで、終わった。父が会社の不振で首になって失業していたのだが、一家の生まれ故郷の綾部に帰ることになったのだ。一家の絶望であったが、綾部市立綾部中学校は天国であった。

この中学校は昔、市の助役をやっていた父も力を入れて作ったものである。私が小学3年の頃であろうか、父は英語教師出身であったから、舞鶴の進駐軍に陳情にいってブルドーザーという未聞の工作車両を演習と言うことで提供してもらった。父が松茸狩りで米兵を接待したり、綾部並松の「綾部大橋(旧大橋:写真は新大橋から旧大橋を見たもの)がブルドーザーの重量に耐えうるか」などと思案していたことを覚えている。やがて綾部の市街の背後の四つ尾山に張り出した明智平に連日轟音が鳴り響き整地がなされた。
念のために付け加えると、私が父を誇りに思っているのではない。異常なかんしゃく持ちで、職場や家庭を始終嵐にたたき込んでいた。13個の職業を歴任していることからも性格の想像もつくだろう。とくに失業中は地獄の家庭であった。

転校入学した中学校への登校路として、明智平の北の斜面に取り付けられた階段は悪い夢に見るような急勾配で手摺もなく、雪の凍りついたときに降るのは本当に危険であった。回り道もあったが、まだるっこしいのと格好をつけることもあってこの危険な階段を選ぶ者が多かった。普段は自転車を担いで上り下りする剛の者さえいた。後年見に行くとさすがに通行禁止となっていた。
学校の裏の崖は柔らかい岩で出来ていたからはがして手製石器を作って遊んだ。昼休みはしばしば四つ尾山へ登り、昼休み終了のベルを聞いて駆け下りるようなこともした。学校が塀などで囲まれていないから開けっぴろげなのである。
開けっぴろげと言えば、北東の窓はガラスはほとんど割れて無く、吹きさらし。床は所々破損してギザギザの穴まで空いていた。落ちれば当然大事だろうが、皆走り回っていてもそんなドジは見たことがない。

私は小学校の頃から結核で運動をやってなかった。低学年のとき親が葬式の思案をするほど命の危ない病気を重ね、体力の落ちたところで感染したのである。暴れてはいけないと言われていたが、昼間は我慢できずどうしても暴れてしまう。だから夜になるいつもこれで終わりかと思った。小学生の頃の夜は、いつも死の恐怖や悪夢との戦いであったのだ。古来この病気は想像力をはぐくむものとされ、たとえば田中恭吉の版画を検索して見ていただけば雰囲気を理解いただけると思う。
しかし幸運にも、親が給料を何度もはたいてストレプトマイシンを購入してくれた。よく効くと言われた密輸品で、父が貿易会社にいたから入手できたらしい。中学では次第に元気がつき、体育は休みながら、昼休みは荒れた廊下でもっぱら格闘に精を出していた。

この中学は管理が緩いのでいろいろ自由がきく。私は机を部屋の片方に寄せて掃いたり拭いたりする掃除は面倒で、あるときは「便所掃除が回ってきたら俺一人でやるから、他のときはやらん」と宣言していた。皆よろこんで受け入れた。
家は極貧状態であったから、ぼろぼろの上靴は履かずトイレも裸足で行っていたこともある。コンクリートの濡れてないところを探して歩き、小便をするのは少し苦労であった。
裸足のつま先で板の上を走るとすごいスピードが出るのであるが、あるときいっそう貧しいがすばらしい頭脳を持った尊敬する友人と衝突して、彼の前歯を欠けさせてしまった。どちらも金がないので治療は無し。それから彼の前歯を見るたびに心が痛んだが何も出来なかった。ぶつかった私の頬にも長く痛みが残り、長じてからも酒などを飲むとそこが赤く浮き出してくるのであった。

部活は図書部に入っていたが、よくあるおとなしい少年の集まりではなく、私以外はボーイスカウトなどをやっている行動派であった。部室では机を積んで天井を押して回って、持ち上がる板を見つけ、天井裏への通路を発見した。電気配線をくぐり、またぎ、他の教室への通路も開発した。あるとき天井裏から通気口越しに裁縫室を覗くと女子学生が集められて神妙に話を聞かされていた。どうもケッタクソの悪い話のようで早々に退散した。
後に禅宗の坊主を引き継ぐことになる某は「面白いものを見せてやる。ついてこい」と言って、テニス部の部室に案内し、板壁の風呂敷を払うとちゃちなどんでん返しが作られていた。無理してそれを潜り、暗闇をたどっていって、「ここや」と言った。隙間から別の部室が見えた。女子バスケの部室とのこと。そういうのも苦手でこれまた早々に退散した。
妹の話では体育館で集会中、天井のテックスを踏み破ってズデーンと落ちてきたオッチョコチョイもいるそうな。怪我はなかったそうである。これはまたもう一つ別の通路である。

3年生になると学年のイチビリ、ワルの半分以上が私のクラスに集中した。どの先生が現れても誰かが冗談を言い、野次り、他の者がわざとらしくいつまでも笑い続け、授業にならない。学級崩壊の先駆けである。バカな私も尻馬に乗っていた。
他のクラスの前では、そこの連中が廊下の両側に座り、通りかかるヤツの足に足を絡めて通らさない。そんな足は踏んで駆け抜けたが。
1年生6人相手の相撲も廊下で流行った。中学の体格差は大きいから6人でよいのである。

かくして管理がほとんど無い中学校で、健康を獲得し、知恵もつけ、多くの悪友を獲得した。裏街道に進んだ悪友二人は早くに消されてしまったようだが。
学級崩壊のときの先生方には申し訳ないが、私には無二の中学校であった。私はいまだ、後に出会う各種の付属中高出身者には及びもつかぬ、役に立たぬガキであるが、学校については本当に幸運な時代と場所に恵まれたと思っている。

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