内から見た認知不全症を書くつもりだったが、記憶が飛ぶ障害なので、残っているものはとても少ない。だから話はこの障害を知っておられる方にはほとんど既知のことであろう。青色で書いた部分だけは幾分独自の報告だと思っている。認知症と言う言葉は定着しているが意味からすると変なので認知障害とした。
77才となる誕生日の少し前から、靴がすっと履けなくなった。特に夕方に右足がそうなる。右眼の白内障が進んでいるため、夕方の戸外などでは文字が見えなくなるからだと思った。
誕生日直前に元在職した近畿大学に出かけた。大学との縁は切れたが、在職者とはいろいろなつながりがあるからである。例によってくだけた会話をした後、呑みに行くこととなった。緩めていた靴を不器用に履き直し、立ち上がろうとしたがよろめいてしまった。このあたりから記憶が希薄になる。床に倒れる前に同行しようとしていた元同僚や学生に支えられた。皆さんが大学の保健室の人を呼んでくれた。瞳孔などを観察して病院へ行くことを勧められた。元同僚の一人Aさんがタクシーで運んでくれた。このあたりから記憶はとびとびになった。担当医が不在のようで、脳の関係の詳しい診察をうけることを勧められたようだ。帰宅するまで同方面のAさんが送ってくれた。彼はタクシーを勧めたようだが、僕は電車を選んだという。滅多なことではタクシーは使わない習性が身についているからだ。博識のAさんと電車や車に乗ると、パンクからグレン・グールド、ジャイアント馬場からブルーザー・ブロディなど、いつもは話が尽きないのだが、このときは「うん」とか「わからん」ということが多く、まともではあるが、話に拡がりがなかったと言う。
帰宅後は記憶がほとんどない。僕の連れEと長男Sの話では次のようになる。やはり、話しかけると一応応答するが、返事が律儀過ぎたと言う。呑んでもいないが様子が変で気になったが、風呂に入ると主張して入ったらしい。いつもはカラスの行水で冬でも10分程度。だが長いのでEが見に行った。黙ってじっと浸かっているので呼びかけると「何を覗いているんだ」と馬鹿な返事したと言う。上がるとそのまま寝たようだ。
翌朝になっても応答が遅くて平凡すぎるので、EとSがとても不安を覚え、話し合ってどうも頭が変だと言うことになった。脳の医者を調べようということで、Sがネットで調べた。僕が年末に転倒したことをSが覚えていた。そして症状が頭部打撃による慢性硬膜下血腫にぴったり一致することを突き止めた。そこで3箇所ほどの病院を挙げたところ、僕は比較的近隣のS病院を選んだと言う。そこに電話すると「すぐ来れば脳神経外科のスタッフがそろって居る」ということで、あわててタクシーで連れて行くことになった。
僕は最低限の会話はしていたらしい。ただ事柄の順序は分からないが、ズボンが穿きにくかった事と、靴下の左右が気になってまごまごしたような記憶がある。その靴下には左右の区別はないのだが。それを観察していたEは、僕が「靴下を目の前に手で垂らして長い間じーっと見つめていた」と言う。動作がすべて緩慢となっていたが、これが最も異様に見えたことらしい。
病院での診察を受けた記憶はないが後に聞くと、やはり「慢性硬膜下血腫」と言う診断で、頭部打撃などのあと、脳と頭蓋骨の間に血液がじわじわと溜まって脳を圧迫し、認知や歩行の障害をきたすと言う。圧力が増大して脳が別領域にはみ出す脳ヘルニアになると重大な結果をもたらす可能性がある。再発率は1,2割で、それがなければ脳には触らない処置だから、後遺症は少ないのである。だから「治る認知症」と呼ばれるものの一つだそうだ。ただ本式の認知症のきっかけにもなりうるらしい。
症状からして脳梗塞などの可能性もあるから、前の晩に救急を頼むべきだったかもしれないが、こういう処置に長けた病院であり、スタッフのタイミングも良かったので、結果としてはベスト・チョイスだったと思う。
僕の場合は、局所麻酔で「穿頭血腫除去術」と言って、頭蓋に直径1.5cmと1cmの2つの穴を穿ち血腫を除去し洗浄したと言う。血液は一部噴出・流失し、洗浄液で増量もしたが、後日見せていただいた量は350mlほどあったようだ。男子頭蓋容積が1301~1450mlだそうだから大変な圧力である。CT画像では左右前方に茄子のような血腫があり、左がかなり大きい。したがって断面によっては西洋梨のようにへしゃげ、左脳が右脳を押して対象性も崩れている。最近の新しい出血もあるという。思い切り歩き、自転車に乗って転倒したりしている。一旦血腫ができると頭を振ることさえ危険と知って恐怖を覚える。
下でも述べるように、頭部にとって動きは前後の向きは逆だが、自動車事故のむち打ちと同じと見てよいのだろう。どちらかと言うと事故による障害なのだ。
さて手術後だが、僕にはどういうことで手術を受けたのかが全然理解できてはいない。術前に説明は受けていると聞くが、記憶が無いのである。看護師(僕は看護婦という呼び方に慣れてしまっているが)に何かを言われる度に「騙されてはいかん」という気が起こり、内容は覚えてはいないが、何か反論や皮肉が口から出てくるのである。同時に「この鋭いが意地の悪い言葉は、某々なんかがよく口にするのとそっくりだな、あれはこんな気持で吐かれているのか」「俺にも言えるじゃないか」などという妙な考察も行っていた。看護師さんたちはそんな僕に警戒して、Eに「今晩は付き添って泊まってください」と要請したそうである。よほどたちが悪かったのであろう。
局所麻酔の穿頭術で骨をガリガリやられるのはとても嫌なことと聞くが、僕の場合は認知障害でそういう記憶がない。手術のときどう感じたかが一切不明なのである。ということはその事実がなかったことに等しく、場合によっては再手術となるかもしれないのだが、ノウテンキで恐怖が生じない。記憶は人間の大きな要素なのだ(*)。
Eに説明を求め、いただいていた「診療計画書」で上のような状況をのみ込む内に、たちまち冷静さを取り戻した。血腫除去の効果と状況の理解の結果である。EもSも、僕の「脳がまた働き出した」と、とても喜んだ。そう思わすほど状態が悪かったのだ。まだ意識は少しぼやけていたようだが、Eが泊まり込む必要もなくなった。この日か翌日に、今年の花見は生きていてもできないだろうと思って、次のような辞世の句も用意したが無用となった:
★ 死んで咲く花見の色はいかならむ
戻った意識が続くかもわからなかったからである。「死んで花実が咲くものか」という俚言と、西行が自分の死を歌った:
★ ねがはくは花のもとにて春死なむその如月の望月のころ
を踏まえたつもりである。数学の懸案の問題の考察も手術後3日目ぐらいからは始めている。研究者として駆け出しの頃取り組んで跳ね返された問題である。健康でも、数年に1本の論文ぐらいだから、言うまでもなくまだなんの成果もないが。
後日、主治医に「僕はいろいろ失礼なことを申し上げたようですが、すみませんでした」とわびた。主治医からは「あの状態では、意識が混乱し、記憶も無くなるものです」と教えていただいた。
翌日からリハビリの担当者が3人ついて、いろいろ検査とトレーニングを行ってもらった。
一つは認知機能で、言語機能、計算機能、記憶機能などを試された。自覚どおり、元数学教員としては、計算、記憶は弱く図形は強いが、機能は十分回復していた。100ます計算は苦手だが、とても面白いテストもあったが、皆さんがテストを受けるとき慣れてしまってはいけないので明かさない。3日目には成績はさらに向上した。
歩行、バランスも十分だが、右足をよく地面に擦ることが指摘された。転倒の危険があるのだ。これは小脳の問題かと聞いたが、おそらく大脳の問題だと教えていただいた。手足の筋力も自転車に乗っているから年齢の割には強く驚かれた。どの機能も一日経つとさらに上昇した。脳がもとの大きさに膨らんでいくのだろう。一番問題は運動後の血圧上昇である。再出血や、めまいによる転倒の可能性が増えるからである。
もう一つ、主治医に「頭がスッキリとなったのではないですか」と尋ねられて気がついたが、最近左鼻の奥が鈍い痛みがあった。蓄膿症(副鼻腔炎)かなと思っていたが、手術後解消した。血腫の圧力であったのだろうか。
手術後一週間立った頃、MRI(磁気共鳴画像)の検査も受けた。はじめてで、閉所恐怖症はダメとか言われるので、おっかなびっくりだったが、とても面白かった。強烈なノイズであるが、そういうものはノイズ・ミュージックで慣れている。「これ周波数の順を退屈せんように並べているんでしょう」「そうです」、制約はあるがちょっと作曲しているのだ。これの像がきれいなことで退院が決まったようだ。腫瘍や動脈瘤はないし、この年になると増えているはずの脳梗塞もあまり見当たらないので嬉しかった。
元同僚のAさんとダサいダジャレのエキスパートであるTさんが見舞ってくれたとき、僕がダジャレが言えるのを見て、頭は回復してるなということになった。僕が「先生に『毛はまた生えてきますか』と尋ねた」というと、Aさんは「おまえ、そこ初めからねえじゃないか」と言ってくれた。鏡を見るとそのとおりだった。後日、Aさんは研究連絡に来た北海道から九州までの研究者たちも連れてきてくれて驚いた。
さてSの言うとおり、血腫の原因は2ヶ月半前の転倒と推定される。スーパーの駐車場の薄暗がりの中で走りだそうとダッシュしたとき、足元にあった車止めの縁石(**)に引っかかって宙を踊るように転倒したものである。進行した右眼の白内障(***)や左の眼瞼下垂のせいでよく見えなかったこともあるだろう。気絶はしなかったが頭にはかなり衝撃があった。あちこちが痛くて立ち上がれないが、場所が場所なので車の来ないところ転がって避けた。メモによると手足の7箇所に傷があった。皮膚は擦り傷程度であるが、膝と掌はとても痛い。しかし頭部に目に見える傷があったとは記録していない。うまく四肢でショックを受け止め頭を防いだと、いささか得意であった。そのまま買い物をして帰った。手足の傷は、一ヶ月ほどは、物がある角度で当たるとびっくりするほど痛かったから、骨に少し罅が入っているなとは思っていた。
誰でもそうだろうが、外傷としてはこんな怪我は子供の頃に度々経験があることなのである。例えば鍔のない木刀でチャンバラをして親指を打たれたとか、自転車に手綱をつけて乗馬だと称している内にハンドルが反転し、何故かブレーキ・レバーが胸に当たったとか。これは肋骨の中央だから良かったが、外れていれば刺さって人生アウトであったかもしれない。どちらも1年間ほど疼いた。でも愚かさを叱られるから親には一言も言ってはいない。
今回も目立つ外傷ではないから、バンドエイドを貼ったぐらいで、家族には「転んだがたいした怪我はしなかった」ぐらいの報告で済ませた。それだけの報告でも後にSが病気を判断するのに役立ったのだ。僕の骨は細いがとても硬いようだ。骨は折れなくても、老化で脳に隙間が生じており、中身が損傷したのである。
右足を擦るのは、左の血腫が大きいことがあるかもしれない。しかし、靴の摩耗の仕方から見て、自分の元来の歩きグセなのではないかと思う。若い時にいつもやっていた卓球の影響ではないだろうか。右利きのペンホルダーだから右足を引いて構え、球に応じて擦り動かし、左足はドンと踏むからだ。また動き出すとき卓球のようにダッシュする癖がある。この癖も転倒の要因ではなかっただろうか。
こういうことをフェイスブックに書くと、そこの友人である安田公房さんから、とても面白い話を教えていただいた。彼は剣道をやっていたが数年前から卓球をはじめたと言う。そのとき、遠い球は打ちに行こうとしない自分に驚いたと言う。剣道は身に迫る竹刀が重要で、遠くに振られる分には無関心でいいからだ。運動はそんな風に強く身についてしまうということだ。
今後は再発を抑えるために転倒と血圧上昇を避けなければならない。無茶に歩かないことにし、自転車と晩酌はしばらく止める。階段を2段ごとに登るのはともかく、2段ごとに降るなんてことも。辛いことである。退院後1週間のCT検査ではまだ少し出血が続いている。予断を許さない。
ところで病院にはネットに繋がる計算機が使えないことが回復期には辛い。スマホを導入しようと思った。
でも、いろいろなことを忘れて眠りこけているとき、肩を叩かれ眼を開くと見慣れない女の人がニッコリ笑っている。看護師さんが好きなおじさん方の趣味がようやく理解できた。病院生活にもいいところがある。
上で卓球の話しを教示いただいた安田さんには、記録「脳卒中体験を語る」も教えていただいた。脳卒中を起こした脳科学者の素晴らしい、また貴重な報告である。
注
(*): ネットによると毎日記憶がリセットされるという例は映画化されたようだ。また小川洋子「博士の愛した数式」と同様に5分で記憶が消える子供の例もある。7秒しか持たないと言う例も。大変だが、その瞬間瞬間を幸せに生きていると言う例もある。
(**): 縁石事故:自動車や自転車の乗り上げ事故がよく話題になるが、歩行者にもとても危険である。駐車場では車やガード・パイプには注意を払うが、地味な縁石は薄暗がりで見えにくい。僕がしたたかに転倒した後も、スマホを覗きながら急ぎ足の人が見事にひっくり返るのを見た。病院の同室やフェイスブックの友人にも縁石で転倒したと言う人がいる。
(***):このところガンの再発発見のために、CTスキャンをよく受け、その度に視力が落ちた気がする。造影剤の影響を疑っているが、そのような副作用の報告は少ないのだが。
片目だけ進行したことはまったく素人考えだが、次のように考えている。昨年、左眼の強膜下出血と言って白目のところに出血し、眼科に行ったことがある。「外傷です。何かで突いたでしょう」と言われてよく考えると、庭の灌木で手や顔をチクチクと刺したことを思い出した。そのときに刺したのであろう。あろうことか眼には気づかなかったのだ。よる年と、尿路結石とか腸閉塞のような激痛を度々経験していることで鈍感になり、小さな痛みには注意を払わなくなっているのだ。強膜下出血は大事無く治癒した。しかしその通院中の10日間ほどの間に、右眼視力がひどく低下したのだ。その間に別の病院でCTスキャンを受けてた。だからの時の造影剤を疑っている。左眼には強膜下出血の消炎のために目薬を注していたから、守られたのだと推測である。右眼は目薬に守られなかったのだと。
77才となる誕生日の少し前から、靴がすっと履けなくなった。特に夕方に右足がそうなる。右眼の白内障が進んでいるため、夕方の戸外などでは文字が見えなくなるからだと思った。
誕生日直前に元在職した近畿大学に出かけた。大学との縁は切れたが、在職者とはいろいろなつながりがあるからである。例によってくだけた会話をした後、呑みに行くこととなった。緩めていた靴を不器用に履き直し、立ち上がろうとしたがよろめいてしまった。このあたりから記憶が希薄になる。床に倒れる前に同行しようとしていた元同僚や学生に支えられた。皆さんが大学の保健室の人を呼んでくれた。瞳孔などを観察して病院へ行くことを勧められた。元同僚の一人Aさんがタクシーで運んでくれた。このあたりから記憶はとびとびになった。担当医が不在のようで、脳の関係の詳しい診察をうけることを勧められたようだ。帰宅するまで同方面のAさんが送ってくれた。彼はタクシーを勧めたようだが、僕は電車を選んだという。滅多なことではタクシーは使わない習性が身についているからだ。博識のAさんと電車や車に乗ると、パンクからグレン・グールド、ジャイアント馬場からブルーザー・ブロディなど、いつもは話が尽きないのだが、このときは「うん」とか「わからん」ということが多く、まともではあるが、話に拡がりがなかったと言う。
帰宅後は記憶がほとんどない。僕の連れEと長男Sの話では次のようになる。やはり、話しかけると一応応答するが、返事が律儀過ぎたと言う。呑んでもいないが様子が変で気になったが、風呂に入ると主張して入ったらしい。いつもはカラスの行水で冬でも10分程度。だが長いのでEが見に行った。黙ってじっと浸かっているので呼びかけると「何を覗いているんだ」と馬鹿な返事したと言う。上がるとそのまま寝たようだ。
翌朝になっても応答が遅くて平凡すぎるので、EとSがとても不安を覚え、話し合ってどうも頭が変だと言うことになった。脳の医者を調べようということで、Sがネットで調べた。僕が年末に転倒したことをSが覚えていた。そして症状が頭部打撃による慢性硬膜下血腫にぴったり一致することを突き止めた。そこで3箇所ほどの病院を挙げたところ、僕は比較的近隣のS病院を選んだと言う。そこに電話すると「すぐ来れば脳神経外科のスタッフがそろって居る」ということで、あわててタクシーで連れて行くことになった。
僕は最低限の会話はしていたらしい。ただ事柄の順序は分からないが、ズボンが穿きにくかった事と、靴下の左右が気になってまごまごしたような記憶がある。その靴下には左右の区別はないのだが。それを観察していたEは、僕が「靴下を目の前に手で垂らして長い間じーっと見つめていた」と言う。動作がすべて緩慢となっていたが、これが最も異様に見えたことらしい。
病院での診察を受けた記憶はないが後に聞くと、やはり「慢性硬膜下血腫」と言う診断で、頭部打撃などのあと、脳と頭蓋骨の間に血液がじわじわと溜まって脳を圧迫し、認知や歩行の障害をきたすと言う。圧力が増大して脳が別領域にはみ出す脳ヘルニアになると重大な結果をもたらす可能性がある。再発率は1,2割で、それがなければ脳には触らない処置だから、後遺症は少ないのである。だから「治る認知症」と呼ばれるものの一つだそうだ。ただ本式の認知症のきっかけにもなりうるらしい。
症状からして脳梗塞などの可能性もあるから、前の晩に救急を頼むべきだったかもしれないが、こういう処置に長けた病院であり、スタッフのタイミングも良かったので、結果としてはベスト・チョイスだったと思う。
僕の場合は、局所麻酔で「穿頭血腫除去術」と言って、頭蓋に直径1.5cmと1cmの2つの穴を穿ち血腫を除去し洗浄したと言う。血液は一部噴出・流失し、洗浄液で増量もしたが、後日見せていただいた量は350mlほどあったようだ。男子頭蓋容積が1301~1450mlだそうだから大変な圧力である。CT画像では左右前方に茄子のような血腫があり、左がかなり大きい。したがって断面によっては西洋梨のようにへしゃげ、左脳が右脳を押して対象性も崩れている。最近の新しい出血もあるという。思い切り歩き、自転車に乗って転倒したりしている。一旦血腫ができると頭を振ることさえ危険と知って恐怖を覚える。
下でも述べるように、頭部にとって動きは前後の向きは逆だが、自動車事故のむち打ちと同じと見てよいのだろう。どちらかと言うと事故による障害なのだ。
さて手術後だが、僕にはどういうことで手術を受けたのかが全然理解できてはいない。術前に説明は受けていると聞くが、記憶が無いのである。看護師(僕は看護婦という呼び方に慣れてしまっているが)に何かを言われる度に「騙されてはいかん」という気が起こり、内容は覚えてはいないが、何か反論や皮肉が口から出てくるのである。同時に「この鋭いが意地の悪い言葉は、某々なんかがよく口にするのとそっくりだな、あれはこんな気持で吐かれているのか」「俺にも言えるじゃないか」などという妙な考察も行っていた。看護師さんたちはそんな僕に警戒して、Eに「今晩は付き添って泊まってください」と要請したそうである。よほどたちが悪かったのであろう。
局所麻酔の穿頭術で骨をガリガリやられるのはとても嫌なことと聞くが、僕の場合は認知障害でそういう記憶がない。手術のときどう感じたかが一切不明なのである。ということはその事実がなかったことに等しく、場合によっては再手術となるかもしれないのだが、ノウテンキで恐怖が生じない。記憶は人間の大きな要素なのだ(*)。
Eに説明を求め、いただいていた「診療計画書」で上のような状況をのみ込む内に、たちまち冷静さを取り戻した。血腫除去の効果と状況の理解の結果である。EもSも、僕の「脳がまた働き出した」と、とても喜んだ。そう思わすほど状態が悪かったのだ。まだ意識は少しぼやけていたようだが、Eが泊まり込む必要もなくなった。この日か翌日に、今年の花見は生きていてもできないだろうと思って、次のような辞世の句も用意したが無用となった:
★ 死んで咲く花見の色はいかならむ
戻った意識が続くかもわからなかったからである。「死んで花実が咲くものか」という俚言と、西行が自分の死を歌った:
★ ねがはくは花のもとにて春死なむその如月の望月のころ
を踏まえたつもりである。数学の懸案の問題の考察も手術後3日目ぐらいからは始めている。研究者として駆け出しの頃取り組んで跳ね返された問題である。健康でも、数年に1本の論文ぐらいだから、言うまでもなくまだなんの成果もないが。
後日、主治医に「僕はいろいろ失礼なことを申し上げたようですが、すみませんでした」とわびた。主治医からは「あの状態では、意識が混乱し、記憶も無くなるものです」と教えていただいた。
翌日からリハビリの担当者が3人ついて、いろいろ検査とトレーニングを行ってもらった。
一つは認知機能で、言語機能、計算機能、記憶機能などを試された。自覚どおり、元数学教員としては、計算、記憶は弱く図形は強いが、機能は十分回復していた。100ます計算は苦手だが、とても面白いテストもあったが、皆さんがテストを受けるとき慣れてしまってはいけないので明かさない。3日目には成績はさらに向上した。
歩行、バランスも十分だが、右足をよく地面に擦ることが指摘された。転倒の危険があるのだ。これは小脳の問題かと聞いたが、おそらく大脳の問題だと教えていただいた。手足の筋力も自転車に乗っているから年齢の割には強く驚かれた。どの機能も一日経つとさらに上昇した。脳がもとの大きさに膨らんでいくのだろう。一番問題は運動後の血圧上昇である。再出血や、めまいによる転倒の可能性が増えるからである。
もう一つ、主治医に「頭がスッキリとなったのではないですか」と尋ねられて気がついたが、最近左鼻の奥が鈍い痛みがあった。蓄膿症(副鼻腔炎)かなと思っていたが、手術後解消した。血腫の圧力であったのだろうか。
手術後一週間立った頃、MRI(磁気共鳴画像)の検査も受けた。はじめてで、閉所恐怖症はダメとか言われるので、おっかなびっくりだったが、とても面白かった。強烈なノイズであるが、そういうものはノイズ・ミュージックで慣れている。「これ周波数の順を退屈せんように並べているんでしょう」「そうです」、制約はあるがちょっと作曲しているのだ。これの像がきれいなことで退院が決まったようだ。腫瘍や動脈瘤はないし、この年になると増えているはずの脳梗塞もあまり見当たらないので嬉しかった。
元同僚のAさんとダサいダジャレのエキスパートであるTさんが見舞ってくれたとき、僕がダジャレが言えるのを見て、頭は回復してるなということになった。僕が「先生に『毛はまた生えてきますか』と尋ねた」というと、Aさんは「おまえ、そこ初めからねえじゃないか」と言ってくれた。鏡を見るとそのとおりだった。後日、Aさんは研究連絡に来た北海道から九州までの研究者たちも連れてきてくれて驚いた。
さてSの言うとおり、血腫の原因は2ヶ月半前の転倒と推定される。スーパーの駐車場の薄暗がりの中で走りだそうとダッシュしたとき、足元にあった車止めの縁石(**)に引っかかって宙を踊るように転倒したものである。進行した右眼の白内障(***)や左の眼瞼下垂のせいでよく見えなかったこともあるだろう。気絶はしなかったが頭にはかなり衝撃があった。あちこちが痛くて立ち上がれないが、場所が場所なので車の来ないところ転がって避けた。メモによると手足の7箇所に傷があった。皮膚は擦り傷程度であるが、膝と掌はとても痛い。しかし頭部に目に見える傷があったとは記録していない。うまく四肢でショックを受け止め頭を防いだと、いささか得意であった。そのまま買い物をして帰った。手足の傷は、一ヶ月ほどは、物がある角度で当たるとびっくりするほど痛かったから、骨に少し罅が入っているなとは思っていた。
誰でもそうだろうが、外傷としてはこんな怪我は子供の頃に度々経験があることなのである。例えば鍔のない木刀でチャンバラをして親指を打たれたとか、自転車に手綱をつけて乗馬だと称している内にハンドルが反転し、何故かブレーキ・レバーが胸に当たったとか。これは肋骨の中央だから良かったが、外れていれば刺さって人生アウトであったかもしれない。どちらも1年間ほど疼いた。でも愚かさを叱られるから親には一言も言ってはいない。
今回も目立つ外傷ではないから、バンドエイドを貼ったぐらいで、家族には「転んだがたいした怪我はしなかった」ぐらいの報告で済ませた。それだけの報告でも後にSが病気を判断するのに役立ったのだ。僕の骨は細いがとても硬いようだ。骨は折れなくても、老化で脳に隙間が生じており、中身が損傷したのである。
右足を擦るのは、左の血腫が大きいことがあるかもしれない。しかし、靴の摩耗の仕方から見て、自分の元来の歩きグセなのではないかと思う。若い時にいつもやっていた卓球の影響ではないだろうか。右利きのペンホルダーだから右足を引いて構え、球に応じて擦り動かし、左足はドンと踏むからだ。また動き出すとき卓球のようにダッシュする癖がある。この癖も転倒の要因ではなかっただろうか。
こういうことをフェイスブックに書くと、そこの友人である安田公房さんから、とても面白い話を教えていただいた。彼は剣道をやっていたが数年前から卓球をはじめたと言う。そのとき、遠い球は打ちに行こうとしない自分に驚いたと言う。剣道は身に迫る竹刀が重要で、遠くに振られる分には無関心でいいからだ。運動はそんな風に強く身についてしまうということだ。
今後は再発を抑えるために転倒と血圧上昇を避けなければならない。無茶に歩かないことにし、自転車と晩酌はしばらく止める。階段を2段ごとに登るのはともかく、2段ごとに降るなんてことも。辛いことである。退院後1週間のCT検査ではまだ少し出血が続いている。予断を許さない。
ところで病院にはネットに繋がる計算機が使えないことが回復期には辛い。スマホを導入しようと思った。
でも、いろいろなことを忘れて眠りこけているとき、肩を叩かれ眼を開くと見慣れない女の人がニッコリ笑っている。看護師さんが好きなおじさん方の趣味がようやく理解できた。病院生活にもいいところがある。
上で卓球の話しを教示いただいた安田さんには、記録「脳卒中体験を語る」も教えていただいた。脳卒中を起こした脳科学者の素晴らしい、また貴重な報告である。
注
(*): ネットによると毎日記憶がリセットされるという例は映画化されたようだ。また小川洋子「博士の愛した数式」と同様に5分で記憶が消える子供の例もある。7秒しか持たないと言う例も。大変だが、その瞬間瞬間を幸せに生きていると言う例もある。
(**): 縁石事故:自動車や自転車の乗り上げ事故がよく話題になるが、歩行者にもとても危険である。駐車場では車やガード・パイプには注意を払うが、地味な縁石は薄暗がりで見えにくい。僕がしたたかに転倒した後も、スマホを覗きながら急ぎ足の人が見事にひっくり返るのを見た。病院の同室やフェイスブックの友人にも縁石で転倒したと言う人がいる。
(***):このところガンの再発発見のために、CTスキャンをよく受け、その度に視力が落ちた気がする。造影剤の影響を疑っているが、そのような副作用の報告は少ないのだが。
片目だけ進行したことはまったく素人考えだが、次のように考えている。昨年、左眼の強膜下出血と言って白目のところに出血し、眼科に行ったことがある。「外傷です。何かで突いたでしょう」と言われてよく考えると、庭の灌木で手や顔をチクチクと刺したことを思い出した。そのときに刺したのであろう。あろうことか眼には気づかなかったのだ。よる年と、尿路結石とか腸閉塞のような激痛を度々経験していることで鈍感になり、小さな痛みには注意を払わなくなっているのだ。強膜下出血は大事無く治癒した。しかしその通院中の10日間ほどの間に、右眼視力がひどく低下したのだ。その間に別の病院でCTスキャンを受けてた。だからの時の造影剤を疑っている。左眼には強膜下出血の消炎のために目薬を注していたから、守られたのだと推測である。右眼は目薬に守られなかったのだと。
私の知っている先生はバイタリティーのあるいつもお元気な方ですが、やはり生身の体であることにはかわりありません。十分にご自愛お願いいたします。
ところで近大もすごいことになっていますね:
http://kindaipicks.com/#1490622125069
http://illnesscollege.com/?p=566