◎ アララギ掲載歌
◎ 短歌研究掲載歌
◎ 歌稿より
・ 採録の記 泉 仁一郎
・ 注 泉 仁一郎
・ 歌集取りまとめの記 北村 虻曳
仁一郎装幀
アララギ昭和42年掲載歌
夕立は遠のき行きてしずくする木立の中を涼風吹きぬ
苛立ちを声に表はし夫は呼ぶ厨に避けて炊ぎて居れば
一教師の非行の責は校長と教頭に及ぶ私学の陣営(1)
ゆきゆきてこの世の涯に行きつかば汝を見ることも有りと思ひき
日の入りて湖の上ゆく納涼船灯かげはゆらぐ水に映りて
我等心通わぬものを水がめに金魚入れつつ涙ぐみゐぬ
目覚時計と天眼鏡を送り来ぬもはやわが子も一人立ちしぬ
今朝活けし菊がにほひゐるわが店にいくたびか立ちわれは商ふ
この庭の山椒の木に育ちたる揚羽蝶今飛び立たむとす
アララギ昭和43年掲載歌
蕎麦殻の枕きしみて眠られず夜半に起き出で水枕作る
老いの日をテレビをつけず些かのことにこだわる夫も吾も老いにき
秋の雲流るる野辺に次々と親しき人を葬り来にけり
未亡人となりたる妻は気前よくあぢさいの剪りてくれたり
ゆきのした繁るを憎みひきをればゆきのしたの花を訪い来る蜂あり
美しき石を売る店並べり那智のお山に杖つき登れば
もんぺをつけし幼な女よわが嫁は戦の日をかく育ちしか
きびしき今朝の冷え思い床にいれば氷を踏みて牛乳屋来りぬ
二十日鼠昨日より来てステンレスの流しを歩く我が行けば逃げ
約束の河原町にて待ちおればフードふかく吾が子寄りて来りぬ
去ると云う言はやすけれど五十過ぎて我が帰る家何処にありや
遅れ来し云ひわけをいひ植木屋は木犀の花枝を気持ちよく剪る
アララギ昭和44年掲載歌
帰り来て今日一日を思いつゝ寝む枕辺に月のさし来る
夫と連れ秋野行かむと手弁当折に詰めをれば雨降り来る
栗あれば柿の実あればわが里の山の色づく秋惜しむなり
短歌研究昭和42年掲載歌
見張る人説明する人微細なるダイヤ取り巻きものものしさよ
沖ノ島に陽は射しいたり海沿いの山も漁村もみな時雨るゝに
人一倍世話を焼かせし末の息と並びて立てば吾は老いたり
春嫁ぐ娘に晴着きせ夫を呼べば炬燵より出てシャッターを切る
刺繍ある黒き羽織とローケツの草履を添えて買い物終わる
短歌研究昭和43年掲載歌
緑濃き高台に人を訪ぬればほほほほと笑いて吾を迎えぬ
感情の起伏はげしきこの夫と三十年添いて来にけり
明治屋の明治年間に建てしと云う小暗き部屋独り座しおり
あらがいつつ憎しみ多く過ぎ来しか夫の寝息聞きしきりにさびし
伝ひ来る振動音を船室の廊下に来けり室戸の沖に(2)
発言の多すぎたりしと帰り来てひとり思ふに悔いのみ多し
短歌研究昭和44年掲載歌
五十にして烈しき表現の短歌好む抑制取れし感情ゆえか
婿殿に瓜二つなる初孫を揺りあやすは頑迷なる夫
くっきりと前方後円墳見えて堺上空の市街地ひらけゆく
桃色の山茶花咲きて繋がれしスピッツはしきりに吠えたてている
街に来れば休日にして放たれし犬吠え来る蒸暑き午後
三合を白く乾きし櫃に移し色よく浸かりし茄子そえて喰む
知事邸などみつけ歩きてゆくりなく戒壇院の前にしいづる
短歌研究昭和45年掲載歌
洞爺湖は深く澄むとも羊蹄の頂は雲惜しみかすか(4)
鼻の上に皺を作りてわれに笑む細きうなじの入院の孫(5)
柊木になかば溶けつつ積もりゆく我庭に舞う二月泡雪
新婚の記念にもらいし掛図絵の尉に似てきし夫の口もと
肘曲げてバランスとるもコード踏み尻餅つきて憮然たる孫(6)
遠くより集い来たりて大本の天王平に眠る人あはれ(7)
喰いさしの蔦の葉片が散りて居ればこの蔦に又虫ひそむらし
雨脚の繁き朝に
雨降れば花弁つぼめしチューリップ色さまざまにぬれつつ揺るる (掲載時不詳)
歌稿より
紫蘇の実をしごけば染まる指先よ送る子あれば精込めて煮ん
見なれたる名もなき山並み高くも白夜めき見ゆ今宵名月
仲麻麿を泣かせし月よお身はいつも泣かせるばかりいにしえも今も
十六夜も又晴れたれば庭の木々葉形も徴く照りぬれるなり
秋めく日もったいなしと我食うを子等うとみいぬややすえし飯
ある日には涙溢れて抱きしめし秘蔵の娘を
注 泉 仁一郎
① 勤めていた高等学校である教師が脅迫事件を起こし、ぼくが突然教
頭を辞したときのものらしい。
② 二人で四国旅行の帰り、高知-大阪の船中吟。
③ 二人で九州阿蘇に旅したときのものならん。
④ 二人で東北、北海道に行った時か。
⑤ 孫が娘に抱かれて面会室に出て来てあった時か。
⑥ 孫が鳥ヶ坪の家でぼくの枕元のラジオをいじりによく来た。
⑦ 田野の山のこの墓地には二人で何回となく散歩したナ。
(全国から参じた大本教信者の墓地・虻曳注)
⑧ 次男が手術を終え、東京の会社へ帰った朝のこと。ぼくも憶えている。
泉正子短歌採録の記 泉 仁一郎 昭和60年正月
正子が短歌をやっていたのをぼくは全く知らなかった。時たま、旅行先などで即席の歌をぼくに披露したり、女専時代に習ったのか、万葉の秀歌を話したりしたことはあった。しかし取り組んでいるとは思っていなかった。脩藏も知らなかったという。なぜそんなに内緒にしていたのか理由はわからない。押し入れから「短歌研究」、「アララギ」などが三、四十冊出てきた。普段あまり歌の話しをしないので、そんなものを購読していたのかとちょっと驚いた。そしてそれらの投稿欄をなにげなく見ていて、綾部、泉 和子(正子の別名)として掲載されているので本当に驚いた。だいぶ熱心にやっていたのだと分かった。和子の生活にこんな一面があった証としてそれらを採録する。
☆ 看とる母看とられし息も世を去りぬ京大病院まなうら去らず 仁一郎
歌集取りまとめの記 北村 虻曳 平成二十九年四月
これらの歌は私の母が残していったものを父がまとめたものである。父 仁一郎は御しがたい性格であったため、母は大変苦労して亡くなった。死後父はそのことをたいそう悔み、償いの一つとして和綴じの冊子としてまとめたものである。
母の短歌で私の記憶にあるのは、朝日歌壇の前川 佐美雄氏に選ばれた数首である。たとえば、よど号ハイジャックについては怒り、「・・・悪猿のごとく群れて乗っ取る」と詠んだ歌や、中庭にはびこるゼニゴケを憎み熱湯で退治する歌など。残念ながら正確な形を覚えてはいない。父母の死後、短歌に力を入れ始めた私にとっても、前川佐美雄は重要な歌人である。その佐美雄に選ばれた歌は母の代表歌とすべきものであろうから、今回発見できなかったことも残念である。
これらの歌は、歌誌等には、おそらく「泉 和子」の名前で出ているであろう。元来「正子」であったが、嫁いできた近所に同性同名になる人が居られたので和子としていた。ここでは本人が親にもらったと言って、より好んでいた正子とする。なお仁一郎の言う脩藏とは北村 虻曳の本名である。 (2017・4・20)
(前川 佐美雄:1954年から1988年まで朝日歌壇の選者)
☆ 旅止まぬ老いたる母に会えずして長距離バスは続きて発ちぬ (虻曳『模型の雲』)
☆ 密林の羊歯の葉陰はちちははのすまひたまひしわうごんの淵 (同上)
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