土塊も襤褸も空へ昇り行く:北村虻曳

随想・定型短詩(短歌・俳句・川柳)・写真
2013/11/11開設

ツツジの床柱

2014-02-13 | 随想

<ツツジの床柱>

(見出しの写真は熊本のラフカディオ・ハーンの旧居のものです。床柱は全然違いますが床の間全体は似ている。)

私の育った丹波の家には伝説がある。私の祖父は「電車の運転手になる」と言って出奔した。残った母を引きとって面倒を見、経済的に私の父を育てた人物は、ちょっとした親分といえる大物だったという。因みに、明治はとりわけ人の移動が多く、離婚なども現代より多い時代であったと聞く。

その大物は、しょっちゅう芝居を呼んだりしていたとのことだが、そんなことも知らず家に残っていた破れ三味線、破れ太鼓、鼓などで遊んだ記憶がある。さらにその大物、博打に勝って、一山の木を自由にして良いという権利を手に入れ、それで建てたのが私の育った家である。彼は、綾部と中筋村大島を睨んで直線で結んだところが福知山への最短路となるから、そこに道がつくと考えて家を建てた。これは見事にあたって新道がついた。そこで新道と旧道両方に面した家で何でも屋を営んだ。今でいう小さなスーパーである。

一帯は「イバタグロ」と呼ばれ、夜は恐ろしかったらしい。安場川と街道の交差するところであったから川上から火の玉が流れてくるとか、闇に壁ができて進めない等と言って旅人が避難して来たという。

その家の床柱はグネグネとうねるツツジの柱であった。その博打で権利を得た山から探しだしたものという。太くてこんなツツジは他にはないと言われていた。本当にツツジであっただろうか。自分の記憶ではサルスベリを磨いたもののように見えた。しかしいずれにせよ、あれほど見事にひねくれて妖しく光る床柱は見たことがない。

家はあばら屋となり、床柱は父によって新たな家に移された。さらにその家を私が処分したとき、何かに利用してもらおうと骨董屋と交渉した。しかし彼の言うには、「これは寸法が短くて使えない」とのことであった。昔の家であるから確かに短かった。当時は私も現役バリバリで忙しかったのであとは知らない。家ごと倒されたのであろうか。あれだけの木、勿体ない。お金はともかく、何かに使われておればいいのだがと思う。

私も大物の血を引いておればいいのだが、残念ながら私の祖父は電車に憧れて出て行った頼りない男の方である。父の継いだ財産も戦後インフレで蒸発してしまった。大物の係累も私の知る限りもはや存在してはいない。


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