土塊も襤褸も空へ昇り行く:北村虻曳

随想・定型短詩(短歌・俳句・川柳)・写真
2013/11/11開設

60余年前の吉祥寺

2015-05-15 | 随想
<60余年前の吉祥寺>              (写真は記事に関係ありません)

私は丹波出身であるが、小学校高学年は東京は吉祥寺で暮らした。70年台にはフーテンの集まる街となり、「ジョージ」と呼ばれたという。またその後はおしゃれで暮らしやすい街と言われるようになったらしい。しかし私の暮らしたのはそのはるか以前の1950年代である。いろいろなことがすっかり変わったので自分の記憶のためのメモである。オチも何もないとりとめもない話だ。

[時代背景]
少し(私から見た)世相のおさらいをしておく。
私の生まれは、戦前に紀元2600年と言われた西暦1940年である。1950年に豊島園に、1951年に吉祥寺に移転した。移転する少し前の1949年に隣町で三鷹事件が起きている。移転後の1952年には「血のメーデー事件」というデモ隊と警官隊の大衝突が皇居前広場で起こっている。前者は長じてから知ったし、後者については12歳であった私には、学生がたくさん参加していると言われたことだけが印象に残っている。また家に火炎瓶を持ったデモ隊が来たら「玄関の上り框(注1)にちゃぶ台を立てて防ぐといいのだろうか」と考えた程度だ。私の家にデモ隊が来るはずがないのに。
高学年では朝鮮戦争がおこり、吉祥寺駅には銀色に輝くロケットのようなものを林立させた貨車が見られた。小原爆と言われたナパーム弾である。おそらく近くの立川基地に運ばれるものであっただろう。友人のお母さんが米兵の愛人であったりした。立川に住む担任は、世界第2次世界大戦戦中の実経験であるが、人の土手っ腹に大きな穴を開ける米軍のグラマン戦闘機の機銃掃射の話をしていた。
その「朝鮮戦争特需」の末端と言ってもいいだろうか、僕たちは小遣い稼ぎに金属集めをやった。そこら辺から金属片を集めて屑屋に売るのである。銅は鉄よりもはるかに高い値がつき、通ぶって「アカ」と呼んでいた。友達とは「仁川上陸作戦」などについて論評・論戦をしていた。みんなが韓国(大韓民国)・国連軍の肩を持つので、私は北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)・中国軍の肩を持っていた(注2)。日本の敗戦後の復興はこの隣国の戦争で稼ぐことができたからだとは、周知の定説である。

[原っぱ]
私の家の横には広い空き地「原っぱ」があった。いま GoogleMap で見当をつけると45m×25mほどであっただろうか。
そこで軟式テニス・ボールと木や竹の棒による三角ベース野球Sケンと呼ばれる格闘的ゲーム、チャンバラ、胴馬、相撲、木登り、凧揚げ、コマ回しなどあらゆる遊びを行っていた。泥棒ごっこあるいは探偵ごっこでは原っぱを飛び出し、近所の家の屋敷を駆け抜けて走るのである。当時私の家の近所ではそうした子供に寛容であった。大人でも近道などの理由で隣家の敷地を通行することがよく行われていた。田舎の丹波では見られない風習である。
私は原っぱの面する通りに属する10人足らずの小学生からなるグループに属して遊んでいた。ただ、一人の高校生が混じっていた。あるとき別の通りのグループが俺達に使わせろと申し入れてきた。私のあずかり知らぬレベルの話し合いで、双方の代表が決闘して勝ったほうが独占することになったらしい。向こうからは小学でもトップクラスの喧嘩の強いのが出て、こちらからは件の高校生が出た。当然体格の差でこちらが勝ち、使用権は守られた。単純な話であるが、子どもの世界の権力・秩序はそんなふうに成り立っていた。女の子はほとんど加わらず、その代わり学年は完全に混じっていた。
やがて原っぱにも家が建つことになったのだが、それを聞いて子供一同が地主のところへ、原っぱ存続の陳情に行ったこともある。むろん良い返事はいただけなかった。しかし私の記憶には、原っぱが家に取って代わられた風景はない。建設をしばらく遅らせていただいたのだろうか。GoogleEarth を見ると今は家で埋まっている。当然だ。

[A1ライトプレーン]
上で述べたように、原っぱでは実に多くの種類の遊びを行ったが、自分で面白く親にも嫌がられない上等な遊びはA1ライトプレーンである。
竹ひごに薄い紙を貼って翼とし、軽い角材にそって垂らしたゴムでプロペラを回す模型飛行機の人気モデルである。ロウソクの熱で竹ひごを翼型に曲げ、それにリブを引っ掛けて曲面をなすように紙を貼る。接着はセメダインCが決定版であった。(これを知るまでは、家庭における強力接着剤は飯粒であった。たしか、「外米」は接着力が弱かった。)
A1ライトプレーン制作は不器用な私のような小学生にも可能であり、しかもとてもよく飛ぶ。遊ぶうちに、ゴムを強く張ってスピードを出すより、長いゴムをたるませてゆっくり長時間飛ばすことが面白くなってくる。重心の位置や主翼・尾翼のひねり方など力学的な感覚が身につく。ゴムを巻いていくうちにこぶが連なって全体がこぶの連なりとなり、更に巻いていくと二段目のこぶが出来てまた広がっていく。これのきちんと記述はあるのだろうか。今調べてみると、一段目のこぶは三浦公亮氏によって記述されている。
その後、A1は少し単純なので、頑張ってグライダーの模型を作った。おぼろな記憶では翼のみならず胴もリブ付きで箱形に紙を貼る凝ったものであった。苦労して作ったかいがあって、水平より少し下を向けて放つとまっすぐ美しく長距離飛んだ。もうA1なんか卒業だ、と思って数回飛ばすうちに、翼の一端が電柱にあたった。「トゥン」というような優雅な衝突音をたてて、一瞬でバラバラに分解した。あまりにも見事な分解で、A1だけでなく模型飛行機一切を卒業することになった。
今はA1ライトプレーンはネットオークションにも出るようである。設計者は木村秀政氏である。一読をすすめる。

[トンボ釣り]
家の前には広い畑が広がっていた。そこに何が植えられていたかの記憶がないのだが、100mほど離れて農家があった。そこの庭になるクルミが珍しくて、辛抱できず庭に転がっている実を失敬したことがある。緑に覆われたボール、それがクルミということは本で知っていたのであろうが、それ以前に実物にお目にかかった覚えはなかった。
もう少し遠く、武蔵野市立第三中学校の南には広い田があった。田と言ったが水田ではなかった。陸稲であったか麦であったかどちらかわからない、関心がなかったから。そこではよくトンボ釣りを行った。30cmほどの糸の両端に小石をくくりつけ、糸の中央を持って空に放つのである。すると空中遊泳中のトンボが虫と勘違いして近寄り、糸に絡まれて落下する。この糸を括りつけることができる小石を見つけるが大変であった。一番いいのは空気銃(注3)の鉛弾で、小さくて重く、糸をくくるのに都合のいいくびれがついていた。これにかかるトンボはオス、メスのギンヤンマで、それぞれ「ギン」、「チャン」と呼ばれていた。住宅地の一角には栗林もあって、クワガタやカブトを取ることさえできた。

[神田川・アサクサプール]
ときどき、数人連れ立って井の頭公園や善福寺池に出かけた。井の頭池の流出口には放棄されたプールがあって「アサクサプール」と呼ばれていた。浅くて小便臭いという命名である。そこを下って行くのが神田川であるとは今知った。そこには多数のアヒルがいて昼間は放し飼いされていた。
私達の一番の狙いはザリガニ釣りであった。スルメを糸で結わえ、糸の他端を棒にくくりつけて川や池につけるのである。川の縁に隠れていたアメリカザリガニがその匂い(水の中で匂いと言っていいのだろうか?)に誘われて現れる。そしてそのはさみでスルメを掴んだところを網でしゃくう(注4)のである。
採って帰った夜は、バケツをカチャカチャ言わせ、赤くて大きな奴はしばしば脱走したものである。翌日に探すと廊下の隅でゴミにまみれて隠れたりしていた。我々も彼らの分布を広げる一助になっていたのかもしれない。


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注1:あがりがまち、あがりかばち:玄関から上がるところの横木。

注2:実際この頃は、李承晩の独裁の韓国に比べて、北朝鮮の社会建設の方がよく見えた。韓国では詩人や文化人がスパイ容疑などで逮捕され拷問された。そうしたことはその後も続く。金大中の誘拐・殺害未遂を見てもわかるであろう。しかし北朝鮮については、ビルマ(現ミャンマー)のラングーン(現ヤンゴン)での全斗煥暗殺未遂事件など無法な行為や、千里馬の運動が見えてくるうちに愛想が尽きた。全斗煥大統領夫妻はかろうじて難を逃れたのだが。一方韓国の学生・民衆の抵抗と金大中の大統領就任で国家のイメージを明るく逆転させた。それに比べると、今はまた少し陰りを感じるのだが。

注3:空気銃と言うのは、スズメなど小鳥を捕獲するのに使われるもので、威力は大したことないと思う。が、一度脅されて突きつけられた時は本当に怖かった。

注4:この「しゃくう」という言葉、関西では聞いた覚えがないが「杓う」と書くようである。それで思い出したが、東京の小学校で「溝にはまった」というとまわりが大騒ぎになった。「北村君、スケベェ」。関西では想像もつかないが「はまる」の用法はとても限定されていて、少なくとも当時は人前では出せない言葉のようであった。東京弁で「どぶに落っこちた」というべきであったのだ。

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