「私32歳の時離婚したの勿論知ってるよね」
文江は思い切ったように言った。麻友はその言葉を遠い昔も聴いた覚えがある。
文江に促されて喫茶店を出て、文江の実家に宿泊することになった麻友は予約したホテルをキャンセルした。
そして赤赤と空が染まる夕暮れ時には、風通しの良い文江の家の茶の間で寛いでいた。
麻友が過ごした20年の結婚生活がまるで嘘のように、その部屋は変わらない。
それは30年前と変わらぬ文江の実家の中庭の見える茶の間だった。
襖を開けると磨き込んだ廊下があって、その向こうに縁側があって、、、そうだ、その時も文江は台所を背に座っていたっけ。変わってしまったのは、如何にも鷹揚で暖かい印象の文江の両親が最早この世にいない、という事だった。
「どうしたの?」文江が麻友を覗き込んだ。
「忘れたの?あなた離婚した事情を30年前も話してくれたわ。ご主人の大下君は私達の同級生だったからね。私達仲間で囃し立てて、とうとう学生結婚しちゃった」
「そうだったね。私も記憶力が悪くなったもんだ。
結婚って言っても資金が無いもんだから役所に入籍届けに行っただけ。
学生結婚が採用試験の時マイナスに働いて、受ける会社全てXになって、夫は業界新聞の編集部で働く事になった。
私も小さな出版社しか決まらない。
それでも、愛が有れば凌げる、なんて言うのは嘘で、暮らしは厳しいし慣れない家事は重圧だし。辛かった。
それでも私はずっと彼が好きだったけど。彼はひどく焦ってた。
高額な報酬に惹かれて彼が手を出した仕事は違法だった。、、それが明るみに出て、警察に引っ張られる前に離婚しようと言い出したのは彼だった。
もう、辛いなんてもんじゃなかったわ。殆ど悪夢の中で生活してるみたいだった。
その時お金がどんなに大切なものか骨身に染みたのよ。一文無しだったからね」
「若い二人の結婚を大反対してた東京のお兄さんがあなたを直ぐ連れ戻したのよね」
二人は遠い目になった。
浜松駅からローカル列車で行く(文江が車で連れて行ってくれたが)この辺りは驚くほど緑の深い田舎である。
どこかで蝉の声が聞こえた。
「ツクツク法師だね」
「夏の終わりか」と二人同時に呟いて何故かホッとした。
「さっきの話だけど、その頃あなたお勤めしてたよね。その後お家があの大震災で潰れて他の家族の方が全員亡くなった、それからあなた性格がひどく変わったんじゃない?」
「震災が心的外傷となって精神病的発作を起こした。と言うなら精神病とは言えないわ。だからこんなに束縛されずに済むんだけど」
麻友は又黙り込む
気の毒そうに文江は聞いた。
「言いにくいだろうけど教えてよ。あなたの病名は正確には何と言うの?」
「非定型精神病」麻友は思い切った口調で言った。
「えっ、ヒテイケイそんなのあるの?」
「それは早峯が診断した結果つけた病名です」
「つまり統合失調症と躁鬱病の両方の症状を合わせ持つ精神病で、一過性のもので治療によって症状の回復は早いけど、再発するからという事で平常時でも服薬しなきゃならない病気ですって」
「なんだかご大層な病名だけど。今の見かけは繊細そうだけど、昔のあなたって健康そのものに見えたわ。とっても人の言葉に対する反応が早かったけど。だから外向きの仕事に向いてる人かと思ってた」
「私変わってしまったのよね。阪神大震災の後」
「1995年1月17日早朝、あの時私は宝塚市の仁川の家にいた、、」と麻友は忘れられない記憶を辿った。