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読書の森

見えない鎖 その3

つまり夫は遊び相手に子供を孕ませて失敗したとしか思ってなかったらしい。それ相当の慰謝料を払って女は引っ込んだ形になった。
「それが悔しい。奥さんになる方を恨んでいないが、一言ホントの事を伝えたくて」
と唇の端を歪めてその女は言った。
その瞬間の麻友は「この女は悟さんに振られた腹いせを私にぶつけて出鱈目言ってるんだ」と思った。

しかし、20年の時を経て未だ処女妻でいる麻友はその女の言葉は本当だったのだと思う。
夫は変だ。普通の人間の情が働いていないみたいだ。
勿論精神病ではない、しかし隠れサイコパスではないか?
他の人間を自分がコントロールする愚かさを分かっているから、その自分の異常性を他では隠して、病気の妻をペットか人形のように可愛がってリモートコントロールする事で心の均衡を保っているのではないか?

この夫の保護下で、麻友は淑やかな院長夫人の仮面を被っているのに疲れ果てていた。

とうとう彼女は大学時代からの友人、余文江に手紙で連絡を取った。
文江は故郷の浜松でレストランを開いている。
手紙では麻友の家庭には何一つ触れることがなかった。
街中で流行病が蔓延していた(これってフィクションなのでフコロナじゃないですよ)のを利用したのである。
「海に近く空気が綺麗な場所でしばらく静養したい、長期滞在出来るところが無いですか?」と言う内容だった。
現在独身の世話好きな文江の事だから、「こちらにいらっしゃい」と言うに決まってる。
どこから見ても立派な女社長の彼女がそう言えばいかな夫でも浜松行きを許可してくれるだろう、と言う目論見だった。

誰に見られても不審を抱かせる手紙では無い筈だった。
しかし、、、

妻の行動を忠実なお手伝いさんに見張らせていた夫が、ポストに手紙を投函したのを知って、驚くべき行動をとったのだ。メール中心でプライベートな手紙の少なくなった今日である。地域の有力者である夫は郵便局に依頼して、保護者として妻の私信の宛先を確認したのである。
つまり近隣一帯に彼女が精神病歴があるということを知らせていたのだった。

世間知らずの麻友は長い長い間それを知らずにいた。彼女に街中で応対する人はいかにも慇懃無礼な応対だったが、院長夫人だから煙たいのだ、仕方ないと受け止めていた。

この哀れな人形妻の現実を既に文江は見抜いていたらしい。




文江から電話が来た。
「至急いらっしゃいよ。ただし誰にもホントのこと言っちゃダメよ」
あとはその方法と待ち合わせ場所の詳しい指示だった。

そして、、麻友のプチ家出は成功した。
ともあれ親友の家に二、三日泊まるだけの話だから。

「だからさ、そんな美味しい立場を手放す事はないよ!つまりあなたが離婚を言い出さない限り経済的に困る事は絶対ないからね」文江のあまりにあけすけな声が響いた。麻友は「バカにしてる」と心で思いながら苦笑いして頷く。
ウイークデーの午後、地方都市の時代を間違えたようにレトロな喫茶店の客は少ない。
それでも周りに聞こえはないかと麻友は辺りを見回した。

しかし、店の空気はそよとも動かない。文江が地元のスーパーで購入した中年向きのワンピースを着込むと、そのまま暗い店内に溶け込んでしまうようだった。
どこから見ても地元の主婦同士の気のおけないお喋りにしか見えないらしい。その声に驚いて二人を見る客も店員もいない。

その店が、この地域ではとびきり質の良い焙煎コーヒーを出そうが、この不景気なご時世では他より高くつけば人が集まらないらしい。
「梓」は定年退職した夫婦が開いた店だと言う。ただし病みがちなオーナーが店に出る事もなく、雇われ店長の男とアルバイトの女の子でやってる気楽な店だと文江が誘った。


文江は麻友が全く健康だった頃から何もかも打ち明けられる一番の友達である。




文江は離婚歴がある。離婚後大阪のアパレル会社に再就職して管理職となった後、浜松に移住して潰れかけたレストランの経営者として立て直しに成功している。



学生時代は五分五分だった関係が、今は文江に麻友が一方的に頼っている形だ。

「つまりあなたは頭は良いけど心の弱い精神病の患者としてしか存在していないのが一番嫌なんでしょう?」
麻友は大きく目を見張った。
「よく分かってくれたわね。その通りなのよ! 人間という感じがしないの」

「実験動物みたいって感じなの?」
麻友は頷いた。

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