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読書の森

新宿らんぶる その3

冴木夫妻がその後どうなったか美波は知らない。
何故なら、彼女は冴木の妻が怒鳴り込んだ翌日事務所に辞表を出して即受理されたからである。
依願退職という形であるが、所長は特別にその後1か月の有給休暇を出してくれた。

1年も勤務していないし、きちんと退職金も出てないが、名目上の休暇内で彼女は次の職場を見つけることが出来た。

小さな出版社の編集者の仕事である。
学生時代からの望みを叶えたと言えるが、取材先で名刺を出しても知らん顔される程の無名の出版社だ。

「ウチはあからさまなゴシップネタを出すわけでもない、思想的に極端な訳でもない、格調の高い固定客に人気がある」これが創業者で社長兼編集長、黒木の決まり文句だ。
黒木が親の遺産で興した出版業で、道楽のようなものだった。社員も彼の好みで採っている、と美波は後から気づいた。
しかし、下衆な根性が一片も感じられない、世渡り下手の黒木編集長が美波は好きだった。

政治、社会、文化、芸能一般の記事を任された編集部員三人、いずれも変わり者で、後は掃除婦も兼ねた事務のおばさんとアルバイトと編集長の黒木、が代々木にある古い貸ビルを根城にして、日々悪戦苦闘して記事を作っている。

給料は低いし、仕事はキツイし、年頃の男との縁はますます遠くなるし、と心の中でグチりながらもここ程自由な居場所は他に無いと、美波は今日迄働いている。



「以上ですけど」
美波は、最前からブスッとした顔のままの横山に言った。

「僕、別に先輩の苦い職場体験を何もかも話してくれと言ってませんけど」
「あら、なあに?今日ここに誘ったのは横山君の方だよ。それで久しぶりに会う気になったのに、席にに着いたなり黙ってるから、場がもたないと思って、、」
「そんな事喋ってほしかった訳じゃないです」
「あなたって見かけと正反対でスッゴイ我儘!」
「先輩こそ!」
「何よ!」

膨れっ面になってから美波はハッとした。
(そうだ。この男、どうして急に電話かけて来たんだろう。しかも3年ぶりに)
三年前も新宿で横山と会った、と美波は思い出す。それも偶然に、だった。

「横山!横山君じゃないの?」
「そうです」
驚いた顔もせずその時彼は答えた。
「ずっと気がついてました」
「気がつかないでごめんなさい。忙しいし暑いし、ぼうっとしていて」
「先輩、近眼ですからね」
「そう、コンタクトが合わなくて」
(何を言わせるのだろう)とムッとして美波は睨んだ。
「お互いにこんな事言ってる場合ではないですね」
(当たり前よ。仕事中です)
「じゃあね」と頭に来た美波は立ち去ろうとする、と。
「先輩、電話番号教えてください」
美波の前にメモ用紙とボールペンがヌッと差し出された。

「デタラメ書いたらどうするのよ」
「先輩は絶対ウソをつかない人だから」
又、あの目だ。と美波は思う。学生時代もそうだった。
横山卓はそれだけが取り柄のように澄んだ綺麗な目をしていた。
この目で真っ直ぐ見つめられると美波は何故かたじろぐものがあった。
図々しいなあと呆れながら苦笑してメモ用紙に携帯の番号を記した。
「歪んじゃったけど」
「いえ全然。よく分かる字です」
卓はニコッと微笑むと「じゃあ」と手を振って雑踏に消えた
あまりのあっけなさに呆れて美波は佇んでいた。

三年前の事を思い出して、一人笑いを浮かべた美波を見て、卓は優しい表情になった。
子供みたいな顔する男だ、と美波は思う。一つしか違わないのに、横山って全然幼稚なんだから、、。

美波は又追憶に耽った。
あれは自分が三年の冬休み前の飲み会の帰り道だった。
横山卓が美波にとって特別な相手になったのは。
彼は彼女の初キスの相手だったから。

美波がしたたかに飲んでしまった時、心配だから送って行くという横山と一緒だった。
彼女はふらふら歩きながら、夜空を眺めた。
暗い空で冴えた色の月が煌々と辺りを照らしてる。
「今夜のお月様綺麗ね❣️」
と卓を見上げる。

卓はひどく真面目な顔をして黙っていた。
次の瞬間、強い力で美波を抱きしめて、唇を押し当てたのである。
一瞬美波は何が起きたかわからなかった。
次にこれが接吻というものか、と冷めた頭で考えてしまった。

冷たい表情になった美波を見て卓は慌ててぎごちなく謝った。
「すみません、失礼な事してしまって」
「あの、初めてなので。びっくりしたら酔いが醒めたのですよ」
「僕も初めてなので、焦って」
「嘘!」
悪事でも働いたかのように恐縮している卓を見ていると美波はやたらと腹が立った。
私が好きだからキスしたんなら許せるのだ、出来ればもっと長く抱いてて欲しい(なんて口が裂けても言えない)。弾みでキスしたみたいな卓の言い草が相当頭に来てた。

ロマンチックな気分は一変して、しらけた表情の二人はそれぞれの寝ぐらに戻った。
後で美波が部員名簿を見たところ、卓の下宿は美波の住むアパートと目と鼻の先にあって、ベンチのある公園を挟んでいるだけだった。

それから火がつけられたように心が収まらずに美波は休みの日に卓の下宿を訪ねた。
しかしそこに卓は居なかった。早々に別の場所に引っ越したと言う。尋ねた同じアパートの女が面白そうに美波をじろじろ見るので屈辱感が襲った。









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