読書の森

里見清一 『医の中の蛙』



久しぶりに週刊誌を購入した。
寂しくなったのは、ページ数も含めて全て薄手になったことだ。
紙の本のが後退し、思い切った記事の書けない時代になっているのだろう。

その中で、著者里見清一はかなり際どい話をしている。
著者は日赤の医師で、著書は多数ある。
社会現象を通して現代の病老死を探っていく内容なのだ。

今回のお題は「念仏派と密教派」である。
親鸞は決して「南無阿弥陀仏」と唱えればと必ず極楽往生出来ると言った訳ではない。
「念仏で本当に浄土へ行けるのか、地獄行になるのか、私は何も知らない。ただ自分は念仏の他に修行を重ねることは出来ないからひたすら唱えるだけだ。どうせ死後の行く先は分からないから考えるな」
と指示したわけだ。
これを都合よく「何も考えずに念仏を唱えていれば極楽往生できる」とう解釈が広まったのだ。
すなわち、思考停止したまま、行く末を楽観視する場合が大勢を占める。
その方が圧倒的に楽だから、大衆を集める事が出来る。

それでは物足りない「考えてこそ人間」だというポリシーから密教が生まれた。



ここで、このエッセイの趣旨を間違えないで欲しい。
宗教自体の善悪を論じている訳ではない。
念仏や祈りを否定しているのでもない。
要は、思考形態の在り方について一石を投じているのだ。
大いなる神の意志に任せる心境に疑問を投げかけているのだ。

当面の生活に不必要であれば、自分と無縁に思える時事問題を考えない人は多いし、その危険性を警告すれば、「余計なお世話」と白い目で見られることだろう。

「地獄か極楽か」は「生きるか死ぬか」という考え方に通じる。
いわばオールオアナッシングで単純過ぎる。

永遠に若さを保ったり生き続ける事など不可能である。
同様にピンピンコロリで死ぬ確率は極めて低い。
誰もが病や老いを避けられない。
これは他の誰も引き受けてくれない。
だからこそ、対処法は考えておきたい。

例えば、尊厳死についてどう選ぶかは、医者の手にかかっているのではない。
本人か家族が決める事なのだ。

私たちが生きるこの世は、地獄でも極楽でもない。
この世で、自分の生きる道を決める場合に、頭が停止状態だとかなり困るのではないか?

読んでいただき心から感謝です。ポツンと押してもらえばもっと感謝です❣️

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