「いいえ、脳死状態の女性の腕です。心停止する前に交換します」
「まさか」
桜井は恐ろしいものを見る目付になった。
園部の目は水の様に平静である。
今、近くのビルから飛び降り自殺しようとした若い女性がいる。
脳にひどい損傷を受け、心臓の動きも鈍い。
そして、彼女の腕の長さも太さも形状も、すらりとして百合そっくりである。
家族の許可は貰ってある。
「血液型とか、体質とか合わなかったら拒否反応が起きるのではないのですか?」
園部は謎めいた笑いを浮かべた。
心の中で思う。
試行段階の手術である。
臓器を取り換えるよりはるかに難しいが、これが可能になれば社会的生命を保つ助けになろう。
桜井には安全な手術である事を分かりやすく説明し、同意を得て、百合の腕は蘇った。
まるで、あの事件は無かった如くに。
ビルから飛び降りた一つの命がひっそりと閉じたのも無かった如くに。
しかし、百合の歌は蘇らなかった。
不思議な事に、あの高く澄んだ声に濁りが出てきた。
同じ調子で歌っても、輝く声のオーラがまるで無い。
魅力の無い歌声に百合自身が見切りを付けた。
桜井と百合は故郷の地方都市に帰って、結婚した。
貯めた金で小さな酒場を作った。
歌の上手い女将がいると評判の店になった。
園部は何もかも知っている。
自殺者は百合を刺そうとした若い女性である。
警備員に抑えられた手をすり抜け、逃げ回った末に、劇場のビルから飛び降りた。
篠田香織、28歳。歌手志望だった。
オーディションの時、風邪を引いた。
同じ学校に通っていた百合に軽い気持ちで代役を頼んだ。
どうせ百合は落ちるだろうが、一応実績だけ作っておこうと頼んだのだ。
桜井、百合、香織、ジャズコンサートで知り合った年の違う仲間だった。
桜井22歳、百合20歳、香織が18歳、集まると飲んで騒いで歌った。
中で香織だけがプロを目指していたのだ。
香織にとって不幸な事に、オーディションに合格した百合は本気になった。
桜井がそれをサポートした。
とんとん拍子で百合の歌はヒットし、もはや手の届かぬ所に行ってしまった。
香織の声は百合よりやや低いが非常に声質が似ている。
同じような歌手は二人と要らない訳だ。
香織は身を持ち崩し、夜の世界で働くようになった。
人生に疲れ果てた或る晩、カラオケスナックで百合の歌が流れた。
「あの日を忘れない」
そう、女の子たちがキャッキャと笑い転げたあの日は、夢の様に過ぎ去ってしまった。
貧しくても明日があったのに、まるで天国と地獄のようにお互いの立場は隔たりが出来た。
私の青春を奪ったのは百合だ。
酔った香織に浮かんだ思いは消えない。
今頃になって突然激しい殺意が佳織を襲った。
百合の公演予定をネットで知り、知人から入手した毒をナイフに塗り、百合を襲った。
白い大きなマスクで顔を覆った犯人が香織だと、百合も桜井も知らない。
事情を知った関係者は事件のもみ消しにかかったから、真相は漏れることがなかった。
「しかし」園部は思う。
「発声器官に影響するような手術ではなかったはずだが」
百合の透き通るような声を奪ったのは、香織の魂だったのかもしれない。
ぶるっと園部は首を振り、再び論文を読み始めた。
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