読書の森

恐怖の逃避行 最終章



意識を取り戻した稀衣の目に最初に映ったのが、白白した天井だった。
「ここは病院かしら?私どれくらい気を失っていたのかしら」

しきりに眠気が襲って稀衣は又ウトウトしてきたが、感触がどうも慣れたベッドの上の感じがする。首を回すとなんと自室に戻って、自分のパジャマを着て横になっていた。

「気がつきました?」スリムな白衣の女性が声をかける。
「私一体どうしたのかしら?どこか骨折したみたいだけど何でここ病院じゃないの」
看護師と見られる女性は訳を説明した。

確かに稀衣の側を大型車が通り抜けたが、幸い自動車事故にならず道路に転んだ打撲傷と骨折だけで済んだ。打ちどころが悪いので安静が必要、かつその時の室内での様子、最近の稀衣の言動から神経科受診が必要となった。整形外科と神経科を併設する病院は満床で受け入れてくれない。取り敢えず医師と看護師が訪問治療を行う事になった。

大したショックもなく、稀衣はこの言葉を聞いていた。何しろ気持ち悪い眠気が盛んに湧いて何でも構わないような気分になっている。
主に固定テープの巻き直し処置と投薬も下の世話も食事も全て看護師と医師が交代で行った。

稀衣にとって、長い長い悪夢を見てるような寝たきりの生活が2か月続いた。どうにかテープが取れても足が動かず、狭い部屋で車椅子の生活を強いられていた。
投薬は依然続いていて、眠気が取れずふらつきやすくて、運動どころでない。

「私このまま廃人になってしまうのかしら」
「いいえ、もうそんな心配はありません」
聞き慣れた声と異なる低い男の声だった。

「えっ、あなた誰ですか?どうしてここに入ってきたの?」
「許可も得ず侵入して、申し訳ないです。実は自分は合鍵を持っているので」

声と共に現れたのは、地味な背広姿の男だった。胡麻塩頭の割には若いらしく、頑丈そうな顔と身体をしていた。
「どこかで見たことある」
「そうです。僕A不動産B支店の社員の若村でございます。その節はありがとうございました」
「でも合鍵は所持出来ない筈でしょう」

その稀衣の言葉に若村はホッとした表情をした。
「良かった。未だ脳は侵されてない」
「当たり前です。人を痴呆老人みたいに言わないでください」

「イヤ、椎木さん、あなたとっても危険な集団に襲われていたのですよ」
「、、」
「あの看護師と医師はニセ者です。あなた骨折なんかじゃないんだ。多分ひどい打撲傷だったんでしょう。そこを痺れ薬と相当に強い眠剤を盛って動けなくしたのです。後でホンモノの医師が診断致しますが」

稀衣はポカンと口を開けてしまった。
「マジ?」



若村は熟慮して稀衣の数々の疑問に答えてくれた。

以前稀衣のパソコンがフリーズしたのは、どうも古いバージョンのまま使用した事だったらしい。

そして、今度の奇怪な出来事や事故の殆どを仕組んだのは、なんとこのマンションを最初に勧めたイケメン営業マンだったのである。
彼は稀衣の他にも顧客の個人情報を利用した事が分かって解雇されていたのだ。

見かけ倒しのこの家は欠陥がある。周りの道は法律上全て他者の所有する私道の為、劣化した時に改修し難い、必要以上の経費がかかる。さらにこのマンションのオーナーが借金を作って、売り飛ばしたもので、修繕工事の予定もない。入居者の殆どは賃貸で借りた。つまり正式な購入者は稀衣一人なのだ。彼女だけ浮いた存在になっている。

何も知らない稀衣をカモにしようとネットに堪能な営業は、稀衣の個人情報のハッキングを繰り返して、彼女がこの家から出るように仕向ける。最終的に又自分が連絡して、ホッとした彼女の得た財産を横取りするつもりだったそうである。

そして契約の際にスペアキーを作っておいてこっそり盗聴マイクを仕掛けた。稀衣の治療に当たったのは彼の仲間である。
稀衣は済んでの事で生ける屍にされかけていた。

「怖い!」事情を聞かされた稀衣は身震いした。

正規の検査の結果、彼女の被害は全身打撲と足首捻挫だけだった事がわかった。稀衣はリハビリ治療を経て自由な行動が出来るようになった。
勿体ないが、縁起の悪いマンションは若村に依頼して売却した。結果的にかなりの損失となったが身の安全には変えられない。今は賃貸マンションで在宅ワークをして落ち着いている。

真相を全て教えてくれた若村は、その後ずっと彼女の相談相手になってくれている。
どう考えても、彼は親切過ぎると稀衣は思う。
悪い下心はないらしい。
とすると「自分に気があるのかも」、そう分かっても彼女は不思議と悪い気はしない。
真面目で仕事が出来て健康的かつ堅実、結婚歴はあるらしいが、花の独身である。

しかし、「なんとなく気分が乗らない」と稀衣は思ってしまう。夢見がちな彼女は現実離れした恋への憧れを捨てられないのだ。


タイムスリップした世界に建ってるような自分の家を再訪してみよう。自分の性格ではとっても狭いその村の風習に馴染む事は出来ないだろうが、先祖の墓もその家の雰囲気も残しておきたいのだ。
それを相談する相手はやはり若村になるのだろうか?

稀衣の考えは又袋小路に入ってしまうのである。




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