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読書の森

千代 最終章

真由の頓狂な声に、幽霊の千代はクックと笑い出した。
昔の女の人だからお上品に口を手で覆って笑っている。
「幽霊って笑うんですか?」
「いやあね、又笑っちゃうじゃないの。死の真相と言っただけで死因が違うとは言っておりません。ホントにあなた早とちりですね」

「やっぱり幽霊も笑うのか」としつこく真由は呟く。
なにしろ幽霊と話すなど、当たり前だが初めてで驚天動地の出来事だからである。

そんな彼女にお構いなく、千代は抑えたトーンでゆっくりと自死に至る経緯を語った。



昭和17年、千代が満20歳の初頭は日本軍がマニラやシンガポールを占領した時である。
河村商店も景気が良く皆忙しくて、家族の誰も千代の恋に気づいていなかった。そんな世の中の動きにお構いなく、彼女は生まれて初めての恋、たった一人のかけがえのない人、に熱病にかかったような状態だった。
周囲の反対が逆効果となって、未知の世界に彼女を走らせた。

彼女は夫となる陽造がどれほどの人か、男の性がどんなものか、全く無知だった。少女小説の筋書きと現実と混同していた向きがある。

千代は、慣れぬ家の、慣れぬ新婚生活に疲れ、妻とは夫に従って家事をしてれば良いもの、と言うわけでない事を思い知らされた。
「奥様はお姑さんも小姑さんも居なくて本当にお幸せですよ。お美しくていらっしゃるので、、美人は得ですわね」
古くからいる女中は丁寧な言葉遣いでチクチク千代を虐めた。
千代が近くの郵便局に遣いに出るだけで、町内の人の目に違和感を感じた。
チラチラ千代を眺め、薄笑いを浮かべ頷き合うその目が「へえ、実の親に背いて駆け落ちした酒屋の娘ってあの人?虫も殺さぬ顔して男を夢中にさせてああ言うのを悪女と言うのね。時田の坊ちゃん骨抜きだってさ。どう言うふうなんだろ?」
「何が?」
「だから、、」
下卑た笑いを浮かべてお喋りする女たちに、千代はあれほど嫌悪していた継母の方がマシだと思ってしまう。

香夜の意地悪も俗人ぶりもこれほど下品では無かった。時田家は町内一の大家であるが、この街は千代の実家と生活ぶりがかなり異なるようだった。

以後千代は昼間は外に出る事をせず、黄昏時に用を済ませるようになった。その外出も絶えてしまったのは陽造が外出を一切禁止したからである。
町内の噂は別の意味で陽造を刺激した。千代を偏愛していた新婚の夫は新妻が若い男の目に止まるのをひどく嫌悪した。
故に外向きの仕事は一切女中任せにしてしまった。
それでは内の仕事と、台所仕事も細々とした家事も慣れぬ千代がオタオタする間に、周りがさっさと片付けてしまう。帳簿付けは間違えると大変と、又夫が禁じた。

「自分はただ夜の営みのためにだけあるのか?それでは女郎と同じだ」
彼女はただ惨めになるだけだった。

打ち萎れた千代の憂鬱に輪をかけたのが、夫の弟、泰の存在である。



千代から見て泰の精神は全く異常とは言えなかった。
むしろ陽造よりも遥かに優秀な頭脳と優れた能力を持っていると思えた。

その街は東京市(戦前の23区の呼び方)を離れているが、都会に出る機会はある。都会の学校に進学して街中で仕事をすれば出世の機会はいくらでもあろうに、何故泰はそうしないのだろう。

それは二人の母の病いと深く関連しているのだった。狭い町内で彼女の鬱の病いを知らぬものはない。
父親正がこれを逆に利用したのだ。息子の徴兵を回避した。即ちこの病いに罹っているかも知れない息子が兵役に服せばお国に迷惑だと言う事である。

兄弟の母は夫に馴染めなかった、そして別に好きな男ができたのである、これを夫、正が気鬱の病いと世間を偽っていた。

この戦いが終われば、死に至る危険性は少ない、その時気鬱の病いと息子が全く関係ないと、又町内に喧伝すればそれで済む、と正は考えていた。
このいい加減で大雑把な性格を陽造はそのまま受け継いでいたようである。


しかし、外見は酷似していても泰は違う。
次男故に店は長子のものである。
ワンマンで粗雑な父親のやり口は彼にとって耐えられ無いものがあった。

実母の一件で女一般に対して強い不信の念を持っていた彼は事もあろうに、突然現れたこの義姉に一目惚れしてしまったのである。
外回りに忙しい夫も仕事一筋の義父も迂闊なことに泰の気持ちに全く無関心だった。
ただ、千代だけが気づいていた。

当時千代と同い年の泰は心身ともに健康な男だった。
それが格別為す事もなく家に篭っていたから鬱屈がたまる。
遅い恋だが生まれて初めての恋の相手が兄の嫁という残酷な事態に泰がとった行動は嫁いびり(!)だった。

彼は気になって仕方ない千代の仕草一つ一つにイチャモンをつけて、千代の沈む姿を見て隠微な喜びを感じていた。
夜間、離れの便所に行く振りをして夫婦の寝所をこっそり覗いた。

これを肌で感じたのは千代一人である。
彼女にとって、恐怖と嫌悪の日々が続き、いつか泰が自分を襲ってくるのではないか、と言う妄想にかられた。
と言って金目のもの全ては夫に管理され、行動の自由がない、何の顔して実家に戻れば良いのか、どうにも身動き取れない中で、彼女の「死にたい」病いが発症した。

そして9月の雨の夜に、かねて用意していた母の形見の着物を身につけて千代は死出の旅に出たのである。


真由は呆然として思いもかけなかった経緯を聞いていた。

話終えた千代は長いため息をついた。
「やっと話せた。これで成仏できそう。
ではさようなら」
とスッと立ち上がった。

「待ってください。そんなの無いでしょ。自分の好きなだけ話してもう終わりなんて。ひどいよ。とっても辛かったと思うけど、私にはどうしようもないじゃない」
「真由にどうしてもらおうなんて全然考えて無いわよ。ただ話したかっただけ」

「ウッソ!」
みるみる、幽霊の千代の姿が薄くなってあっという間に闇に溶けてしまった。
呆然とするだけの真由に強烈な眠気が襲ってやがて彼女は深い眠りに落ちた。

「あれは幻だったのか」後に真由は何回も問い返すがそれは今となっては確かめようもなかった。
ただ自分に千代と言うおばがいて、おばが自分の真実を伝えたかっただけだ、と思う事にしていた。

「真実は表面に見える事象だけでは決して掴め無いものがある」それが真由の掴んだものである。

幾星霜を超え、コロナ禍を経て、今真由はある雑誌社のベテラン編集者として働く。斜陽となった業界で今も真由が働き続ける原動力をあの「千代」が与えてくれた、と思っている。





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