伯母夫婦と三人の子が住む家の屋根裏のような二階の部屋が祖母と敏江に充てがわれていた。
まだ50代の祖母は伯母の手伝いで忙しく、敏江はその部屋に閉じこもっているのはかなり苦痛だった。
母屋の隣が木造の町工場で、自由に出入りが出来た。
工場の中では、油の匂いがする機械に向かって若い工員たちは寡黙に働いていた。ちょっと手を滑らせると怪我をする危険性がある。
興味しんしんの敏江が入り込んできても、誰も文句を言うものはなかった。雇い主の親戚だから軽口を叩けなかったのだろう。
工場内に大きなラジオが置かれて、美空ひばりの『りんご追分』が流れていた。
「津軽娘は泣いたとさ 辛い別れを泣いたとさ」哀愁を帯びた歌声は工場内の雰囲気とまるで不似合いだった。
それでも、後年敏江はこの工場を思い出すたびに、深い暗い穴の中から響いているような『りんご追分』の歌声が蘇るのだった。
「敏江ちゃん、可愛いね」
不意の声に振り返ると、背の高い工員が笑いかけた。
谷島という若者で離島から単身上京してきたと言う。
集中する作業が過酷な為に、工員は交代で中休みを取る。多分時間が空いて声をかけたのだろう、敏江もにっこりした顔を見せた。
「敏江ちゃん、ちょっと面白いものがあるから見にこない?」
谷島は敏江の小さな手を引いて、2階に登った。
敏江の住むのと同じような低い天井の部屋に工員たちは寝起きしていた。
散らかった部屋は若い男の臭いでムッとしていた。それを気にもしないで、無邪気にキョロキョロと「面白いもの」を探す敏江の目に雑誌のグラビアが突きつけられた。
目を閉じた裸の女性が猿ぐつわを噛まされて全身を縛られている写真だった。
敏江は雷に打たれた感じだった。
恐怖感に襲われて逃げようとした彼女を谷島は凄い力で抑え込んだ。
いつもの純朴な若者の目と全く違うギラギラした目の光だった。
ひどい目眩が襲って、敏江の頭の中は空白になっていた。
次に気がついた時、ひんやりとした空気が敏江の幼い肌を刺していた。
谷島はしきりに敏江に言い聞かせた。
「こんな事したの言ったら敏江ちゃんが笑われるからね。決して言うんじゃないよ」
(全然覚えてないんだよ、バカ!)と敏江は心の中で呟く。
第一、工員と口を聞くなという祖母の言いつけに背いたのだ。ここに置いてもらえなくなったら、行き場が無い。
幼い心にしっかり刻まれた恐怖が重なる。
その後、敏江は二度と工場内に足を踏み入れなかった。そのアクシデント自体、まるで悪夢のようで、彼女の記憶の外に無理に追い出していたのである。