「たい願望」と「ない願望」

2009-07-10 20:54:42 | 大きなこと
人間の欲望はこの二つに分かれると思う。


「たい願望」とは文字通り、~になりたい、こういうことがしたい、という、いわばプラス思考の願望。一方で「ない願望」は、これもその通りだが、~したくない、避けたい、なりたくない、という、いわばマイナス思考の願望。

人間の願望のほとんどは、前者に当てはまると思う。子供の時の夢というのは「サッカー選手になりたい」とか「お花屋さんになりたい」というものだし、われわれが経験した受験でも多くの人は「○○高校に行きたい/そこでこんなことをしたい」「△△大学に入りたい/こんなことを勉強したい」と思ってきたはずだ。


それはそれで、なるほど、積極性のようなものが感じられていいとおもう。


それでは逆に、「ない願望」というのは本当にマイナス思考なのだろうか?と思うのである。


先ほどと同じような例にあてはめると、まず、子供の時にそのようなことはそれほど思わないと思うのだが、しいて言えば「仕事ばかりして子供の面倒をみない親にはなりたくない」といったものがあるのではないだろうか。また受験においては、「浪人したくない/私立には行きたくない(お金の面で)」というようなものが該当すると思う。

なるほど、確かに「ない願望」というのは、どちらかというと現実を直視したうえでこうせざるをえない、という半強制的な要素が絡んでいる。逃避願望、とでもいいかえるべきだろうか。前者の例では「こんな風にはなりたくない」という逃避、後者の例では現実と夢との妥協のようなものがうかがい知れる。

しかし、それでは本当に「ない願望」というのは好ましくないものなのだろうか?どうもそれが引っ掛かるのである。いや、むしろ逆の効果を持っているのではないか、と考える。


極端な例を示す。

野球で、自分のチームが0-6くらいの大差で負けているとする。9回2アウト、あと一人で試合は終わる。

そこで打席に向かう時に、打者はこう考えてみるのである、「最後の打者にはなりたくない」、と。

これは典型的な「ない願望」である。文章の最後に示されている。

しかし、こう考えることによって、もしかしたら奇跡が起こるかもしれない。起こるかどうかは別にして、「チームが勝ちたい」と願うより「アウトになりたくない」と考えたほうが、チームにはプラスに作用すると思えるのだ。すなわちすべての打者がそういう風に考えると、一人、また一人と打順が続いてあわよくばサヨナラ勝ち、ということも、100パーセントあり得ない、とはいえないだろう。


すなわち、「ない願望」というのは、より現実的な願望だと思えるのだ。「チームが勝ちたい」というよりも、「アウトになりたくない」というほうが、現実的なセリフだと思わないだろうか?


今までずっと思ってきたのだが、自分も「たい願望」より「ない願望」を持ってきた人間である。殊更最近はそう思う。将来の夢を聞かれても「日本で働きたくない」「自分の興味のない分野にはつきたくない」といった願望のほうが早く口を突いて出るのである。もちろん「こんな職種に就きたい」というものもあるが、それよりもこれらの「ない願望」のほうが強いと思うのだ。他にも「こんな大人にはなりたくない」「こんな人間にはなりたくない」など、そうする考えることによって自分を高みに上げる、なおしてゆこう、という気になるのである。「たい願望」だと具体的にどのようにしていいか分からず、また現実味が起こらずに、机上の空論で終わってしまいそうなのだが、「ない願望」では実行してみよう、という気になれる。こうしたくないのならばこういう風にするべきか、などと考えられる。



最近はよく「夢がない」「目標が分からない」「就きたい仕事がない」とよく聞かれるが、そういう時にはこの「ない願望」を思い出してみるのはどうだろう。「たい願望」がないだけであって、むしろ「ない願望」はたくさん出てくる、ということがあるかもしれない。そうすることによって少しでも良い方向に進むと思うのだ。

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