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市電廃止の経緯

2023-11-12 07:57:24 | ニュース
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市電廃止の経緯
 京都の観光公害は依然として解決されていない。この状況を受けて、インターネット上には「京都市電を廃止したのは間違いだった」などの意見が出ている。

 京都市電が全廃されたのは1978(昭和53)年だ。総延長68.8kmという日本最大の路面電車網を持っていた。存廃議論が本格化したのは、1965年の京都市の交通事業審議会の答申以降である。この答申では、京都市の将来的な交通体系として

「高速鉄道とバスへの移行が望ましい」
とされている。審議会がこの答申に至った理由は
・交通渋滞が路面電車の定時性を低下させていた
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・ドーナツ化現象が起こっていた
ことのふたつである。

 1960年時点、京都市の人口は市電外周外が約65万人であるのに対し、外周内は約64万人で、外側の方が人口が多かった。そのため、路面電車より、郊外に高速地下鉄を建設し、バス路線を拡大した方が効率的だと判断されたのだ。

 都市化による交通渋滞やドーナツ化現象は、どの都市でも見られる。そのようななかで、円滑な人の移動のために公共交通をどう整備するかは、議論と合意形成の問題である。筆者(昼間たかし、ルポライター)が収集したデータからは、京都市は明確な都市計画や公共交通改革を検討することなく、場当たり的な施策を繰り返してきたように見える。

廃止を巡る党派抗争

 例えば、前述の審議会答申が出された直後の1965(昭和40)年12月、軌道内における自動車の通行が解禁された。答申は、都市の将来像として地下鉄を中心とした交通体系を提案している。

 そこには、「軌道内への自動車通行を認めるべき」とはどこにも書かれていない。にもかかわらず、軌道内通行を解禁したのは、自動車の通行をスムーズにすることだけが目的だった。当然、路面電車は定時運行ができなくなり、乗客は減り、赤字が拡大した。

 公共交通としての価値を下げる措置がとられたのは、歴代の京都市長が常に政争の渦中にあったからだと思われる。このことは、都市交通研究者の戸田千速氏の論文「京都市におけるLRT(次世代路面型電車)導入を巡る諸問題と提言」(『エリア山口』第37号)でも、次のように指摘されている。

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「旧京都市電の存廃を巡る議論においては政党間の代理戦争という側面もあり、京都市と廃止運動側の間で、例えば外周線だけでも存続させるといった妥協策が図られることもなく、結局、市電は1978年に全廃に追い込まれた」

 ここで述べられている代理戦争の一例として、富井清市長の存廃を巡る論争がある。富井は1967年に社会党と共産党の支持を得て当選した。

 選挙では市電存続を前提とした再建案を打ち出したが、市議会では少数与党だったため、地下鉄推進の自民党と激しく対立。富井は同年9月市議会に再建案を提出したが、自民党とこれに同調した公明、民社が反対し、共産党も大企業に協力金を要求して反対に回り、否決された。

 窮地に追い込まれた富井は、11月市議会に市電全廃と地下鉄推進を前提とした再建案を提出し、ついに可決にこぎつけた。1970年には、市電の早期撤去と職員給与の引き上げを柱とする再建案を巡って、再び共産党と対立した。

 こうした政争に嫌気が差したのか、富井は1971年の市長選には出馬せず、1期で辞職した。後任の舩橋求己(もとき)は、初当選時に社会党と共産党の支援を受けたが、任期中に政党間の対立が激化し、2期目以降は自民党、民社党、公明党の共同支援体制で再選を果たした。

十分に検討されなかった存廃
『京都市電物語』(画像:京都新聞社)© Merkmal 提供
 市長と市議会が政争に明け暮れるなか、市電の存廃は十分に検討されなかった。廃止を前に「京都新聞」が連載した「京都市電物語」には、その経緯が詳述されている。

「交通政策をたたかわすよりも、市長の政治姿勢の追及などにいそがしく、肝心の交通政策がお留守の感もある。どうして、議員さんは交通問題が苦手なのだろうか」(『京都市電物語』京都新聞社、2008年)

 当時、京都市の廃止方針には市民から疑問の声が上がり、交通局の公社化などの再建策や、市街地の外周部を運行する外周線の存続など、縮小路線の検討などが提案された。

 1976(昭和51)年1月、交通事業審議会は全廃、一部存続、完全存続の意見を中間報告として示すにとどまり、決定には至らなかった。ところが3月、舩橋市長は突然、市電の全廃を発表した。この決定は審議会のメンバーに諮られることなく行われた。

「全廃声明を翌朝の新聞で、初めて知ったある委員は絶句。その後の委員会では一方的な市のやり方に批判が集中する。「まだ審議途中なのに。事前連絡がないのは、審議会無視だ」」(同)
このように、十分な議論もないまま市電が全廃された経緯もあってか、京都市では早くからLRTによる路面電車の復活が検討されていた。

 1997年10月12日付『朝日新聞』朝刊によると、同年12月に京都で開催される気候変動枠組み条約第3回締結国会議を背景に、19年前に廃止された市電を復活させようという動きが活発化していた。

計画が具体化しなかったワケ

 この時期には京都市もLRT導入に向けて積極的な姿勢を示している。2005(平成17)年、京都市はLRTを推進する「新しい公共交通システム調査報告書」を公表した。この報告書に基づき、2007年にはLRTに代わるバスの運行に関する交通規制の実証実験が今出川通りで行われた。
 しかし、この実験以降、LRT導入に向けた動きは停滞したままになっている。京都市のウェブサイトでは、2007年前後の資料が最新情報として掲載されたままであり、それ以降の進展は見受けられない。
 計画が具体化しなかった理由は、ズバリ
「財源」
である。LRTの推進派はフランスから輸入された「交通権」の概念を援用し、税金を活用して公共交通を運営・維持することの重要性を提言していた。しかし、この考え方が広く受け入れられなかった。これについては、前述の戸田氏の論文に詳しい記述がある。

「欧米と異なり、わが国では公共交通は利用者負担/税負担によって運営されるべきとの認識が一般化していない。(中略)国民の間で「地方公営企業や三セク会社は財政赤字を増大させる非効率的な存在」という認識が一般化してしまっている。このような状況下では、LRTの経営主体が京都市の直営や三セク会社では、LRTの経営主体が京都市の直営や三セク会社ではLRT建設について市民の合意を取り付けることは至難の業だろう」
 1990年代以降、数々の都市がLRT導入を志向しながらも、実際に計画を実現させた例は
・富山市
・宇都宮市
に限られる。この事実は、新しい公共交通システムへの投資に対する市民の理解を広く得ることの難しさを示している。
宇都宮LRTが支持されたワケ
宇都宮市のLRT(画像:写真AC)© Merkmal 提供
 新たにLRTを導入した宇都宮市でも、事業実現の過程では反対が多く、何度も計画が頓挫しかけている。

 先日、江戸川大学社会学部の大塚良治教授が当媒体に寄稿した「宇都宮LRTの反対派代表、西側延伸認可で「行政訴訟を検討」と発言! 開業2か月も依然立ちはだかる“3つの課題”を考える」(2023年10月31日配信)にもあるように、開業した現在でもなお解決すべき課題は多いのだ。

 宇都宮市のLRTは、これからの高齢化社会における利用しやすい公共交通システムのあり方を明確にすることで実現した。単にLRTの路線を新設するのではない。LRTの一部の停留所がターミナル機能を持つトランジットセンターとなり、LRT路線を中心に路線バス、地域交通、デマンドタクシーなどの公共交通網が構築される交通システムが明確に示された。実際の建設期間よりも、ビジョンを明確にし、市民の理解を求めることに多くの時間が費やされた。
 対照的に、京都市の場合は議論がそれほど深まっていない。どのような路線が必要なのか、市バスの路線網をどのように変えていくのか、といった問題提起にとどまっている段階だ。つまり、LRTの導入が渋滞緩和にもつながるかどうかは、まだ明確になっていないのである。
明確なビジョンがない京都市
富山市のLRT(画像:写真AC)© Merkmal 提供
 京都市で早くからLRTが構想されながら宙に浮いたままになっている理由は明らかだ。富山市も宇都宮市も、首長がリーダーシップを発揮した。また、将来の都市計画にLRTがふさわしいと判断するまで議論を重ねたからこそ、実現に至ったのである。
 これに対して京都市は、市電廃止は失敗だったといわれるものの、巨費を投じてLRTを推進する決断をする人材に恵まれていない。
 将来の交通体系を明確に提示してLRTを実現した宇都宮市に比べ、京都市には明確なビジョンがない。その一例が洛西(らくせい)ニュータウンの交通網整備だ。このニュータウンは1970年代に京都市が開発した。

 当時、京都市はまだ建設されていなかった地下鉄東西線が洛西ニュータウンを通って、長岡京駅まで建設されるとしていた。それを信じて多くの住民が移り住んだ。しかし、東西線は2008(平成20)年の最終延伸以来、凍結されたままだ。2011年以降、京都市の基本計画から延伸構想の記述が消え、2021年には西京区の基本計画からも消えている。
 2020年の市長選挙で門川大作市長は、これに変わるものとして「地下鉄東西線~洛西~長岡京市を新交通システムなどで結ぶ構想」を公約として掲げている。
 市長選挙からすでに3年が経過しているが、この構想が具体的にどのようなものなのかは示されていない。
立ちはだかる財政難
京都市(画像:写真AC)© Merkmal 提供
 京都市でLRT建設が進まないもうひとつの理由は、京都市の財政難だ。2022年度決算で京都市は22年ぶりに黒字を計上したが、その額は77億円にすぎなかった。1990年代まで、京都市は地下鉄、立体交差、梅小路公園、京都コンサートホールなどの都市インフラ整備を加速させた。
 これらの多くは、1994(平成6)年から1998年にかけて発行された総額5000億円の市債によって賄われた。さらに、東西線の利用者数の伸び悩みを補うために市債を活用する方針がとられ、2017年までに967億円分が発行された。見通しの甘い公共事業が実施された結果、市はその補填を余儀なくされているのだ。

 京都市は財政再建のため、二条城や動物園などの公共施設の値上げや、敬老パスの条件引き締めに乗り出した。一方、2021年に159億円をかけて改修された市役所は、その豪華な設備が批判されている。現在でも、京都市は自治体破綻に等しい財政再建団体転落の危機があるとうわさされ、一度は断念した古都税(寺社からの課税)を求める声もある。
 新線が実現した宇都宮市でも、市の財政が心配されていた。京都市の場合はさらに深刻だ。つまり、いまLRTを建設するということは、市が破綻寸前であり、赤字を解消するために新たに積極的な投資をしなければならないことを意味する。
 それは容易ではない。こうした事情から、京都市のLRT計画は、導入・整備計画の策定を目指していると報じられた2012年以降、まったく動かなくなってしまった。少なくとも財政的な見通しが立たなければ、京都の公共交通の状況は少しも変わりそうにない。
市電廃止は歴史的な失策

 結局のところ、京都市電の廃止は歴史的な失策だった。その理由をまとめると次のようになる。

 第一に、京都市電は嵯峨・嵐山地区を除くほとんどの主要観光地を網羅しており、存続していれば現在の混雑を緩和する手段になっていたはずである。市電廃止後、京都市の渋滞問題は解決していない。現在でも渋滞は深刻で、路線によってはバスの定時運行が困難なところもある。この点で、自動車の軌道内通行を禁止して、市電路線を守るべきだった。

 また、市電に代わって整備された地下鉄も、路線数が少ないために十分な代替交通手段とはいえなかった。結局、多くの地域では市電が廃止された後、バスが主な公共交通手段となっている。

 特に、地下鉄が環状に建設できない現状を考えると、少なくとも環状線である市電外周線(九条通~西大路通~北大路通~東大路通)は存続させるべきだった。存続か廃止かだけが議論になり、十分な検討がなされなかったことは、改めて反省すべき点である。

「市電の復活」ともいえるLRTの実現も、京都市にとっては難しい。それでも、せめて渋滞区間では、バス専用レーンの確保で定時運行の確保が可能だと思うが、皆さんはどうお考えか。