日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

プロテスタントとカトリック

2016-10-06 10:34:55 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(382)

近代から現代へ(宗教改革とその後)はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その21)

12 死体の埋葬が出来ないとしても、それはキリスト信者にとって損失でない。

この事実から、われわれの現在の習慣、すなわち葬儀の世話・墳墓の選択・荘厳な儀式といったものが生じて来る。しかしこれらすべては、死者の助けというよりは、生者への慰めの(前回はここまで) ためである。りっぱな墳墓が不信心な

者にとって役に立たないと同様に、貧弱な墓、あるいは墓のないことすらも、信仰深い者にとっては、何の不利益にもならない。紫布に包まれていた金持ちの場合、多くの召使いたちが公衆のためにりっぱな葬儀を営んだことであろうが、全

身はれものに被われていた貧しい男のために天使が仕えることの方が、神の眼の前にははるかに価値があったのである。天使はこの貧者を大理石の墓へと伴い行かず、アブラハムのふところへと連れ上ったのである(ルカ一六・一九以

下)。

 わたしたちが神の国を弁護しようとしている相手の人々は、このような考え方を嘲笑する。しかしながら、埋葬についての思い煩いを彼らの哲学者でさえもまた軽蔑しているではないか。しばしば目にすることながら、祖国のためにまさに死

に赴こうとする全軍は、どこで倒れ・どのような獣にしかばねをえさとされようと案ずることがない。この点について、詩人は巧みに唱っている。だれが墓を必要とするのか天が彼の墓石の役を果たすであろう。~(つづく) (教団出版「神の国」

村彰訳1968


聖書研究

2016-10-06 10:32:56 | 大分中央ウィークリー

創世記24章3節である。「天の神、地の神である主にかけて誓いなさい。あなたはわたしの息子の嫁をわたしが今住んでいるカナンの娘から取るのではなく、」という。「今住んでいるカナン」というのであるが、アブラハムは23章で、ヘトの

人々との交渉に見るようにカナンの人々に対していかにも丁重に対応しその言葉にも態度にも謙遜であった。土地を買ったことは、たとえサラの墓に必要な一部分の土地であったとしても彼らと同じ土地に住むことを確認させる。

 

「嫁を~カナンの娘から取るのではなく」と。アブラハムと彼の子孫は決して、彼らカナン人とは同じではなく、同じになってはならなかった。それを、この節は読者に伝えている。この地球上で一つ、神に選ばれた民のユダヤ人は旧約全巻に

通じる異教徒結婚禁止である。異教の中でイエスとの結びつきを切らない信仰を暗示する。

 

4節である。「わたしの一族のいる故郷へ行って、嫁を息子イサクのために連れて来るように。」という。「わたしの一族のいる故郷ヘ」は、原文の言葉(故郷、一族)の逆順序になる。順序どおり「わたしの故郷(国「アーレツ」)へ行って一族(族

「トルドース」から(「から」原語「モ」)」としたほうがよい。アブラハムの胸中にあるのはどこまでも「一族から」である。訳文にその言葉の順序を残すべきである。

 

「嫁を息子イサクのために連れて来るように。」という。嫁を迎えるのはイサクである。ここにはイサクの主体的な嫁への希望が出てこない。本人の気持ちがそこまで進んでいなかったことを現しているようである。従って親であるアブラハムの

信仰指導である。婚姻その時になる前の神の選びの信仰指導で、個人的強制ではない。イサクも少年時代のモリヤの山へ連れて行かれた(22章)ことなどから心得ていた。


牧 会 通 信

2016-10-06 10:06:26 | 大分中央ウィークリー

ダンテの「神曲 地獄」編 第14歌(カッコ内は筆子、その14)  (原 光訳 2000年、沖積舎)

◯その山の中に大きな老人が直立してゐて、背をダミアタ(古代王国の所在地)の方へ向けたまま、鏡を覗くやうにローマを見詰めてゐる。

 その頭は純金で、腕と胸は純銀、それから胯(また)までは銅、

 それから下はすつかり精鉄、右足だけは赤土素焼(原語「テラコツタ」)で、他の足以上にこの足に重みがかかつてゐる。(前回ここまで)                                

◯純金を除いたあらゆる部分に一つの裂け目が走つてゐて、その裂け目からしたたる涙は下で集まり、そこの岩窟を穿ち下つていく。

 その流れはこの地獄に入つて岩から岩へ下り、アケロンテ(既出、冥界を流れる川の、その一、第三歌)、スティヂェ(その二、第七歌)、フレヂェトンテ(その三、第一二歌)となり、この狭い水路を下り、

 つひにはそれ以上下れぬところで、コチト(地獄の底の池)となる、その沼がどんなものか、やがて見て分るだろうから、ここでは言はぬ。」(つづく)

 

◯本日、2016年10月2日は、第四十主日となる。日聖協「聖書愛読こよみ」は「全世界の交わり」という主題。聖書はロマ10章11~13節、その12節。「ユダヤ人とギリシャ人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、~」という。わ

たしたち日本人には結構な話である。日本は世界の東の端に置き去りにされていたが、宣教師たちの艱難辛苦の努力を主なる神が良しとされて、16世紀にはカトリックが、19世紀には改革派が遅ればせながら伝えられました。いま世

界は混沌状態で人は悩んでいる。伝道のとき。

 

◯写真は京都駅、新幹線中央口前。義兄の元帯広伝道所牧師高橋恒男が、先週火曜日(9月27日)早朝二時、心筋虚血症で急逝、享年八四歳、われわれ夫婦は急遽29日、正12時半の葬儀に、遺族として参列。