五、「教会とわたしたち」(382)
5.近代から現代へ(宗教改革とその後)はじめに、近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その21)
12 死体の埋葬が出来ないとしても、それはキリスト信者にとって損失でない。
この事実から、われわれの現在の習慣、すなわち葬儀の世話・墳墓の選択・荘厳な儀式といったものが生じて来る。しかしこれらすべては、死者の助けというよりは、生者への慰めの(前回はここまで) ためである。りっぱな墳墓が不信心な
者にとって役に立たないと同様に、貧弱な墓、あるいは墓のないことすらも、信仰深い者にとっては、何の不利益にもならない。紫布に包まれていた金持ちの場合、多くの召使いたちが公衆のためにりっぱな葬儀を営んだことであろうが、全
身はれものに被われていた貧しい男のために天使が仕えることの方が、神の眼の前にははるかに価値があったのである。天使はこの貧者を大理石の墓へと伴い行かず、アブラハムのふところへと連れ上ったのである(ルカ一六・一九以
下)。
わたしたちが神の国を弁護しようとしている相手の人々は、このような考え方を嘲笑する。しかしながら、埋葬についての思い煩いを彼らの哲学者でさえもまた軽蔑しているではないか。しばしば目にすることながら、祖国のためにまさに死
に赴こうとする全軍は、どこで倒れ・どのような獣にしかばねをえさとされようと案ずることがない。この点について、詩人は巧みに唱っている。だれが墓を必要とするのか天が彼の墓石の役を果たすであろう。~(つづく) (教団出版「神の国」
出村彰訳1968)