白馬岳(2,932m) ((3)のつづき)
山頂は雲に覆われて、遠くの山は何も分かりませんでしたが、空に突き出たくらいに浮遊感のある場所でした。
円盤のような大きな標石だけが重厚です。後で知ったことですが、この大きな標石は人力で運ばれたものと分かってとても驚きました。
「~ 白馬岳山頂にある風景指示盤の、ひびが入った石の支柱に「読売新聞社寄贈」の文字が刻まれている。日付は昭和15年だ。 ~」
(『新・強力伝』加藤芳樹(『岳人』2018年8月号(ネイチュアエンタープライズ)))
雑誌には、強力の小見山正さんが、大きな標石を白馬岳に運んでいる写真が載っていました。「このサイズであれば、50貫どころではなさそうだ。」とも書いてあります。標石は2回以上に分けて運ばれたようです。ただでさえ大変なのに、2往復以上もしなければならなかったわけです。
1貫は3.75kgと分かりました。写真では、足もとは雪道に見えました。
ともかく、ものすごい力で運ばれたものが、70年以上経っても風雪に耐えて残っています。
「~ 新田次郎は、昭和7年夏から12年の冬まで、富士山頂観測所に勤務していた。かの単独行者、加藤文太郎と出会ったのもそのころの出来事だ。新田は、昭和38年7月17日付けの読売新聞に寄稿した「強力とヘリコプター」に、一緒に観測所に勤務していた小見山の思い出を書いている。
「私が富士山に行っておったころ特にすぐれた強力が二人いた。一人は御殿場口の小見山正君でこの人は三十貫(約一一二㌔)近いエンジンボデーをひとりで担ぎ上げた人である。力強いだけでなく、話もじょうずだし、どんなに仕事に疲れても、その日の日記はかかさず書いていた。観測所に勤めていたころも、その誠実は働きぶりと人柄で所員たちに深く愛されていた。 ~」
(『新・強力伝』加藤芳樹(『岳人』2018年8月号))
待っていても雲は取れそうにないので、眺望は明日の楽しみにして、今日の宿・白馬山荘に向かいました。
山頂直下に建つ、明治38年に開業した白馬山荘は、日本で最も大きな山小屋です。宿泊棟とは別に「スカイテラス」があり、コーヒーやワインでくつろげます。
一瞬雲が晴れるとあわてて外に出て、また中に戻っての繰り返しでした。スカイテラスはとても大きいので、外へ中へ移動する人も多かったです。
翌日の朝はとてもよく晴れました。空は少し霞んで、剱岳と立山がおぼろげに見えていました。白馬鑓にかかっていた雲はすぐなくなりました。
朝食の後、2,812mの杓子岳へ寄り道しました。登山道は、いったん2,600m近くまで下ります。振り返ると、白馬山荘はとても横に長い山小屋でした。とても急な斜面に雪が残り、小さなくぼ地のような場所にテントの花が咲いています。その横は、もう一つの山小屋、白馬岳頂上宿舎です。
杓子岳の頂上へは砂礫の道をジグザグに登ります。
北アルプスの山小屋でホットケーキを食す。
(登頂:2013年9月下旬) (つづく)